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第1話 「今日も、上手くいかなかったな……」

 朝は、泥のような沈黙とともに訪れた。


 目覚まし時計は役目を果たしていたはずだが、その電子音は福田幸みゆきの意識の底まで届くことなく、ただ空気を震わせただけだった。

 スマートフォンのアラームも、いつの間にか沈黙を守っている。

 原因など不明だ。ただ、今の幸にとって、それはどうでもいい瑣末な事象に過ぎなかった。


「あ、またやっちゃった……」


 寝ぼけた顔で天井のシミを眺め、彼女は呟いた。その声は乾いていて、感情の色彩が抜け落ちている。

 むしろ、この失敗という名の日常が繰り返されたことへの、奇妙な納得感さえ漂っていた。


 スマートフォンを手に取ると、07:42という数字が冷ややかに光っていた。

 仕事開始の08:30まで、残り48分。

 勤務先までの電車と徒歩の道のり、身支度にかかる時間。それらを頭の中で足し算するまでもなく、遅刻という確定した未来が、重たい石のように胃の腑に落ちた。


「どうして、いつもこうなっちゃうんだろう……」


 その言葉は、もう誰にも届かない。ベッドから這い出し、機械的に支度を始める。

 鏡に映った自分の顔は、相変わらず能面のように何も感じていないようだった。


---


 勤務先の事務所のドアを開けたのは、09:05。


 上司の伊藤部長は、幸が入室した瞬間に顔を上げた。眉間に刻まれた深い皺、一直線に引き結ばれた口元。その表情は、毎週のように繰り返される儀式の一部だ。


「福田。またか……」


「申し訳ありません」


「時間は守れよ」


 返答を待たずに、伊藤部長は再び資料に視線を落とした。

 幸は小さく頷き、自分の席へと足を運ぶ。背後で、ペンがカタンと机に置かれる音がした。それは溜息のようでもあり、諦めのようでもあった。どちらにせよ、幸の心にはさざ波ひとつ立たなかった。


 机に向かうと、同期の山田が書類を置きながら声をかけてきた。


「また遅刻?」


「今月4回目かな……」


「え、今月ってまだ半ばじゃん」


 山田の声には、からかいも呆れも含まれていない。ただ事実を淡々と確認しているだけだ。それが、何よりも鋭く胸を刺す。


 昼休み前、山田が再び声をかけてきた。


「今夜、気分転換に飲みに行く? すぐそこに新しくできた居酒屋、評判いいらしいよ」


「ありがとうございます。でも、遠慮しておきます」


「そっか。なんか理由でもあるの?」


「先週財布を落としちゃって……」


 山田は小さく笑った。その笑みが励ましなのか、同情なのか、それとも単なる愛想笑いなのか。幸には、それを判別する気力さえ残っていなかった。


---


 退勤は18:30。遅刻した分の負債を返すように、少し遅くまで残った。自分が招いた結果だから、仕方がない。そう自分に言い聞かせる。


 帰宅後、幸はスマートフォンを充電器に繋ごうとした。だが、何度試しても、ランプは暗いままだった。

 いつの間に壊れたのだろう。記憶を手繰り寄せようとしても、霧がかかったように思い出せない。思い出せないことに、もう意味などないのかもしれない。

 ついこの間買ったばかりなのに。幸は携帯を机の片隅に放り投げた。カランと乾いた音が、部屋の静寂に吸い込まれた。


 就寝前に、家計簿を開いた。


 先週買った本、月初めに購入した服……。今考えてみると、どちらも必要なかった。

 それは一時の衝動であり、心の隙間を埋めようとした私の弱さの残骸だった。

 数字の羅列を眺めながら、幸は静かにため息をついた。


「今日も、上手くいかなかったな……」


 その言葉は、もう自分を傷つけない。擦り切れるほど繰り返した、慣れきった呪文だ。

 ノートを閉じ、ベッドに身を沈める。


 特に仕事が苦痛だ。

 技術職を希望したものの、不慣れな営業職に配属されたこともあり、心の火は燻ったままだ。

 転属願いを出してはいるが、その紙切れ一枚で運命が変わるとは思えなかった。


 明日も、同じような灰色の日が来るのだろうか。

 幸は、まだ見ぬ未来の日々まで放棄するように、重たい瞼を閉じた。

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