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タイトル未定2025/09/28 12:26

一筋の涙が、頬をついと流れた。


それをぐいと手でぬぐうと、たよりは閉じていた目をふっと開いた。

気がつけば全身でぐっしょりと汗をかいていた。

見上げてみると、頭上に広がる空はどこまでも青く、遠く四方の奥まで澄んでいる。

「ふっ」

と大きく息を吐き、たよりは上半身を起こした。

丘の上から見下ろすと、村一面に小麦畑が広がっている。

村の中央を流れる小川のそこここに点在する小屋には、大きな水車が設けられ、苔を生やしたそれは今日もゆっくりと回っている。

道々には刈り取ったばかりの小麦を運ぶ村人の姿が見える。

互いに声をかけあい、ときに立ち止まり世間話でもしているようだ。

にぎわう町のほうから村を南北に貫いている大通りは、南の端のどんづまりで西念寺にぶつかる。

たよりは、この西念寺に従事する農民の子であった。

西念寺は、ここ常陸国にあって、一等大きな寺である。

寺が所有する土地は広大で、その多くが農地であり、多くの農民が傘下にあり生活を共にしている。

「今日はどんなお話が聞けるかしら」

そうひとりごつと、たよりはすっくと起き上がり、寺に続く一番の近道を早足で歩き始めた。

季節は夏。

見上げると数羽のとんびが、はるか上空を旋回している。


「おお、たよりじゃないか」

寺の門を掃除していた初老の男がそう声をかけたのは、それから四半時してからのことであった。

早足で歩き続けてきたたよりは、あがる息を整えて、男にぱっと笑顔を向ける。

「あら新造さん、今日も精が出るのね。いつも同じことをしていてよく飽きないわね」

「ああ、ごあいさつだね」

新造と呼ばれた男は、いささかむっとして手に持っていた竹ぼうきを握りなおす。

たよりがいつも一言多いのは、村中の誰もが知るところである。

一言多いだけでなく、たよりの言葉には常に棘がついてまわる。

今更誰もそれを咎めはしないが、棘のある言葉をぶつけられた当の本人は苦々しく思う。

自然と口数の少なくなる相手を見て、いつもたよりは得意気であった。

「新造さんはずいぶん年をとっているみたいだけれど、何歳になるの?」

話題がぽんぽんと飛ぶのも、たよりの癖である。

「ああ、もう四十になるよ。たよりはいくつになるんだ」

新造は慣れたふうである。

「私?私は今年で十六よ。もう大人なんだから」

ははぁ、それが言いたかったのだなと、新造は当たりをつける。

「そうか、たよりはもう十六か。大きくなったなぁ」

「でしょでしょ、何か、お祝いをくれてもいいのよ」

新造はそう言われて目をぱちくりさせた。

二の句を継げないでいる新造を見て、たよりは肩を落とす。

「冗談だったら。新造さんたら真に受けないでよ」

あははと笑いながら、たよりは門をくぐっていった。

残された新造は、どっと疲れたふうで、しばらく首をめぐらせた後で、再び竹ぼうきを動かしはじめた。

頭上には、かんかんと照り付ける太陽が真上に登り、昼の時刻を告げていた。


西念寺のお堂の縁側に、ひとりの僧侶が座っている。

年のころは三十後半。

あぐらをかき、腹の前に大きな琵琶をひとつ、かかえている。

昼げを終えたばかりの彼は、今は入念に、その琵琶の手入れをしていた。

安仁あんにんさん」

名を呼ばれ、彼――安仁は、顔をあげて辺りに目をやる。

しかし、その目に映るものはない。

安仁の目は生まれつき見えない。

聞いた話によれば、哀れに思ったのか、手にあまったのか、安仁が歩きもしないうちに、母は安仁を近くの寺へと預けたという。

預けたとは体がいいが、母はその後二度と安仁の前に姿を現しはしなかった。

安仁は、そんな母を幼い頃は恨み半分、恋しさ半分で求めはしたが、大人になりその思いも薄らぎ、今は平家物語を携え全国各地を旅してまわっているのであった。

そんな安仁に、小走りに近づいてくる者がいる。

ははぁ、と、安仁は当たりをつけた。

「たよりですね」

足元が近くでぴたりとやむ。

「すごい!なんで分かるの?こないだから百発百中じゃない。ねぇねぇ、どうして足音だけで私だって分かったの?」

たよりは矢継ぎ早に安仁に尋ねる。

「勘ですよ。琵琶法師の、勘。ふふ」

「へぇ。目が見えないって言っても、あまり苦労は無いのね」

たよりの言葉は、ここでもひとりの琵琶法師の心に小さく傷をつける。

「今日はお休みですか」

安仁は、その心の内を表に出すまいと、即座に話題を変えた。

「ううん、お父さんには、畑はいいから今日は寺の手伝いをしなさいって言われたの。だから何か手伝うこと無いかなって探してるの」

仕事なら探さなくとも、その辺の小坊主に聞けば山ほどあるはずである。

たよりは単純に、手伝いをさぼっておしゃべりをしたいのだと、安仁は当たりをつけた。

「では、私の相手をしてください」

「いいわよ。お寺のお客人の相手だから、これも立派なお手伝いよね。何をするの?」

「たよりは、何か私に聞きたいことはありませんか?」

尋ねられて、たよりは間髪入れずに答えた。

「あるある!たとえば今この国の中央で何が起こっているの、とか!ね、ね、知っていたら教えてよ!」

「ええいいですよ、私の知っている限りであれば」

たよりをなだめるように、安仁は語り始めた。

「西の端で起こった先の大戦では、海のむこうから攻めてきた連中を追い返すので精一杯だったために、褒美となる土地が侍たちに与えられませんでした。このことは知っていますか?」

「うん、なんとなく。お寺の人たちが噂してるのを聞いたことがある」

「そうですか。当然、褒美をもらえなかった侍たちは、働き損だということで怒ります。しかしその怒りを向ける先が無い。そこをついたのが、時の天皇です。私が聞いた話では、侍たちのその不満を集めるようにして、時の天皇が戦を始めたということです」

たよりの目が、らんらんと光った。

無論、その光は安仁の目には映らない。

「へぇ!時の天皇ともなると、声をあげるだけで人が集まるのね。いいなぁ」

たよりのそんな言葉に、安仁は思わずふふっと笑みをこぼす。

そこへ、一人の女が声をかけてきた。

「ごめんください、『平家物語』の弾き語りの時間は、もうそろそろかしら」

見ると、そこにはいつもこの時間になると現れる、美映みばえと呼ばれている女の姿があった。

年の頃は三十。

背後を見ると、十を過ぎたと思われる少年を率いている。

たよりが村の者に聞いた噂によれば、一太郎という名の美映の息子ということである。

「あら、おばさん、今日も来たの」

『おばさん』と言う時に、たよりは一層の力をこめた。

たよりはとても自然に、言葉に棘を持たせる。

それはこういったなんでもないやり取りの中でも発揮されるのであった。

「あら、たよりさん、お日柄もよく」

傷んだ髪の毛を首の後ろで一つに束ねた美映は、これまた傷んだ皮膚を隠そうともせず、に満面の笑みをたよりに返した。

たよりはその顔を見て、小さく「薄気味悪っ」とつぶやいた。

美映は、安仁と一言、二言会話を交わすと、弾き語りの時間までまだ時があるからと、息子を連れてお堂へと入って行った。

安仁がこの西念寺に客として招かれたのは、ひとえに、今流行している『平家物語』の弾き語りを披露するためであった。

安仁は、午前と午後と、夕げの席の、一日に三度、寺のお堂で弾き語りをするのであった。

午後の部を待ちわびて、また、畑仕事の合間の休みもかねて、気の早い村人は、ぞろぞろと境内に集まりつつある。

「ちょっと、たよりちゃん、あんまりあの女と口をきかない方がいいわよ。卑しい身分のくせに弾き語りが聞きたいだなんて、ずいぶんと面の皮が厚いこと」

その場に集りくる人々に聞こえるように、事の顛末を見ていた初老の女性が声高にたよりに向かいそのように言った。

なんだか面白くないたよりは、「わかってるって」といら立ち気に返すと、安仁に挨拶をし、ひとり西念寺を後にした。

しばらくし、西念寺のお堂では、安仁による『平家物語』が朗々と謡いあげられるのであった。


たよりは市場へとおもむいた。

なんのことはない、お堂で『平家物語』を聞くのも、はじめの頃は物珍しかったものの、すぐに飽きて足が遠のいてしまったのだった。

近頃、市では、各地からもたらされた品が商人たちにより、簡易な小屋に並べられ売られていた。

昔は、市といえば月に数度開かれたそうだが、たよりが知る限り、この地の市は毎日開かれている。

「おじさん、今日は何がおすすめなの」

見知った顔をみつけて、たよりは親しみを込めて声をかけた。

「ああ、たよりか。なんだ、畑仕事は休みなのか?今はこの伊勢は志摩の組木細工がいいぞ」

見ると、たよりの両の掌におさまる小さな木製の細工が、十も二十も並べられている。

「へぇ」

見たこともない細工に、たよりは目をらんらんと輝かせるのであった。


その伊勢は志摩、その地に、火花という領主がいる。

年のころは既に、老人といっていい。

彼女は今、ほかでもない、組木細工を作る職人たちを前にしていた。

「皆、ご苦労である。今ひととき手を休め、この酒を共にしてもらいたい。これは私からのねぎらいの品である」

場内からおお、と声があがる。

職人たちは、ありがたい、と言いながら酒を口にする。

「今後はひのもとじゅうに、この組木細工を広めてみせよう。これからは商いの時代じゃ。皆、海を渡り、ひろく国中に広まるがいい」

火花は皆を前にそう言い放った。

「もう、母上もお年なのだから、少しは控えていただきたいものだが」

火花の両脇をかためる息子たちは、互いに顔を見合わせながら苦笑いである。

「いざ!」

そんな声を意に介さず、いまひとたび、火花は一同を鼓舞するのであった。


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