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桜花爛漫

大きな桜の木が風にゆれ、木にもたれている私の目の前にピンクの絨毯を作り出す。海から吹き抜ける風は、少し湿気を含み、頬を撫でる。その光景を眺めながら、小さく、そして速く呼吸を繰り返す。胸は、呼吸をするたび小さく上下し、激痛が体をかけぬける。

 この激痛を感じると思う。この痛みが私の生を意味し、痛みが感じなくなれば私はこの世から消えるだろうという真実を。

 すでに霞みかけた目で、足元においてあるアルバムに目をむける。そこには、この場所にたどり着くまでに撮り貯めた、この一年間の軌跡が刻まれている。

「この一年・・・・・・ たくさんのことがあったなぁ。でも、私の選択はあってたのかなぁ。由衣ちゃん」

 最初のページには、学校の先生時代に撮った、生徒たちとの思い出の写真やイベントのときの写真が貼られている。その中でも一番多いのが、由衣ちゃんとの写真だ。

「由衣ちゃん、元気にしているかな。もう一度会いたいよ。なんて……」

 目を閉じ、そのときのことを思い出す。すると、暗闇の中から、フラッシュバックするかのように次々に思い出が蘇ってくる。

 まず思い出したのは、この旅にでるきっかけのこと。始まりを思い出す。


 窓を開けると、そこには、桜の木々が咲き乱れ、その花びらたちにより、地面には、白い雪が、隙間無くひき詰められている。

「桜は、いつ見てもきれい。花見でも行きたい気分」

 桜の花を愛でながら校庭に目を向けると、体育の授業だろうか、生徒たちがサッカーの試合をしている。

―ピッピッピッ―

 時計のアラームが教室中に響き渡る。先程、私がセットしたものだ。

「それじゃ、小テストはここまで。一番後ろの席の人は、自分の答案を裏にして、前に回してくれる? 次の人は、その答案の上に自分のを重ねてね」

 テストが終了したこともあり、生徒たちは、先程のテスト問題の解答を、友達同士で聞きあっている。

「はいはい、まだ、授業は終わっていませんよ。静かに」

『は~い』

 生徒たちの元気な声を聞きつつ、腕時計に目を向けると、授業終了五分前を示している。答案用紙を全て回収終える頃には、授業終了のチャイムが学校中に響き渡る。

「本日の授業はここまで。引き続きホームルームを始めます。本日の連絡事項は…… 特にありません。それじゃ、みんな、気をつけて帰るように」

『先生、さようなら』

 放課後になると、生徒たちは、教室に残って、友達同士でお喋りをしたり、終了の合図とともに、校庭へ駆けて行ったりと、皆、思い思いに過ごしている。

 職員室にむかって歩いていると、帰り支度を済ませた生徒から声をかけられる。

あおいちゃん、さようなら」

「はい、さようなら。車に気をつけて帰るんだよ」

 生徒たちは、私のことを親しみ込めて、名前の『えにし あおい』の『葵』をとって、『葵ちゃん』と呼んでくれる。本来なら、ここで、怒らなくてはいけないところ。でも、本心は、名前で呼んでくれることに、私自身、とっても大好きなのだ。

 そんなことを思いつつ、職員室に戻ると、給湯室で入れてきたコーヒーを片手に、席に着く。

「お疲れ、葵」

 声の方に椅子ごとむけると、濃いブラウンの髪をかきあげながら、気だるそうに近づいてくる女性の姿があった。

「お疲れ様、由衣ちゃん」

 目の前にいるのが、『たちばな 由衣ゆい』ちゃん。私と同じ、この学校の先生で、担当科目は、科学。四年生の担任をしている。ちなみに私は、三年生の担任で、担当科目は、社会。この学校は、先生たちの負担を減らすため、科目の担当制をとっている。校内でも由衣ちゃんは、生徒から人気があり、スポーツも万能で、幼馴染としては、鼻が高い。

「葵、学校終わったら、行くよ」

「えっ、行くってどこに?」

 呆れたようにため息をつく由衣ちゃん。

「あんたね、今日は、学校が終わったら、二人で花見に行くって約束したでしょう。忘れたの?」

「そうだったっけ?」

「そうなの! まったく、あんたは、昔から見たり、書いたりしたことは忘れないけど、聞いたことは、よく忘れるね」

「うん。メモとかに書き留めておくんだけど、違うことを始めてしまうと、忘れちゃって」

このことでよく由衣ちゃんから注意されているのだが、なかなか直らない。

「まぁいいわ。それで、葵。あんた、今日はもう終わり?」

「うん、さっきの小テストの採点は、家でもできるから。今日は、もう終わりだけど、今から行くの?」

 職員室にかかっている時計に目をやると、時刻は、十六時半。今から夜桜というには、まだ早い時間だ。

「何言ってるの。お酒やおつまみを買っていくんだから。それに、早く場所とりしとかないと、いい場所とられるでしょう」

「二人きっりで、お酒飲むの? でも、私、車だし」

「関係ない。夜桜見に行くのに、お酒飲まないでどうするの。あんたバカ?」

 由衣ちゃんは、根っからのお酒好き。それも強いのなんのって。彼女が酔ったところを一度も見たことがない。二日酔いもしないほど。ちなみに私は、まったくお酒が飲めない。ビール一缶で、泥酔してしまうほど。だから、あんまり、由衣ちゃんとお酒を飲みには行きたくない。行くといつも無理矢理飲まされるからだ。でも、誘われると、断れないのは、彼女の人望によるのかもしれない。

「それじゃ、先に行っているから。早く来てね」

「えっ、ちょっと、待ってよ。私も行くから」

 慌てて彼女の後を追う。車はしかたなく、学校の駐車場に置いていくしかなかった。

 学校を出ると、すでに夕闇に包まれ、校庭でクラブ活動をしていた生徒たちも、帰宅の準備を始めてる。


 コンビニで、お酒やおつまみを購入した後、学校近くの公園へ。公園には、多くのサラリーマンや友達、恋人とともに来ている学生の姿が、すでに宴会を始めているらしく、花より団子の状態だ。でも、桜の木々は、ライトアップされ、そこに映る花びらは、少し色っぽい。

「すごい人だね。場所あいてるかな?」

 二人で、きょろきょろと空いているところを探していると、ベンチを見つける。殆どの人たちは、桜の下にブルーシートを広げ、宴会をしているらしく、ベンチは殆ど空いていた。

 ベンチに座ると、二人の間に、買ってきたおつまみを広げる。由衣ちゃんの片手には、すでに缶ビールが握られている。私は、カクテルだ。

『かんぱ~い』

 いざ飲み始めると、由衣ちゃんのピッチが早いのなんのって、私が、半分飲んだ頃には、すでに三缶目に突入していた。

「よく飲むね、由衣ちゃんは」

「こんな綺麗な桜が目の前にあるっていうのに、それをつまみに飲まないなんて、桜に失礼だ」

 その言葉につられ、桜に目を向けると、風に揺れる桜の花びらが、まるでダンスを踊っているように、この空間を包み込む。

「もう、三年かぁ、私たちが、小学校の先生になって」

「そうだね、早いね」

「まさか、あんたが学校の先生になるなんてね。まぁ、そういう私もなんだけど」

「うん、子どもの頃からの夢だったから、それに……」

 学校の先生になるのは子供の頃からの夢だった。昔から小さい子どもが大好きで、幼稚園や保育園の先生でもよかったのだが、どうも音楽が苦手で、ピアノなんて弾くことすらできない。そうなると、選択肢は限られてくる。でも、それだけではない。私には、十歳ちかく歳の離れた姉がいた。名前は『えにし あかね』。私が五歳になったころ、心臓の病気で、二十歳という若さで亡くなっている。その姉の夢が学校の先生だったのだ。だから、今、学校の先生をしているのは、姉の夢でもある。

「お姉ちゃんの夢でもあったから……」

「そっか~、茜姉ちゃんが亡くなって、二十年かぁ。そういえば、恋人もいたよね。名前は……」

黒曜こくよう つばささん。今は月読島つくよみでお医者さんをしているはずだよ」

 その後、学校のこと、生徒たちや先生たちのこと。自分たちの中に溜まっている鬱憤やストレスを全て吐き出すかのように、喋りまくる。気がづくと、すでに腕時計の針は、十一時を示している。

「もうこんな時間かぁ。そろそろ、おひらきにしようか」

「そうだね、明日も学校はあるわけだし」

「はぁ~ 明日が休みだったらいいのになぁ」

 ベンチの上に散らかした飲み物やおつまみの残骸を、袋に詰め込んでいると、胸に痛みが走る。

「うん? どうした、葵」

「ううん、なんでもない。早く片付けよ」

 その痛みは、すぐに引いたため、片付けを再開。そのまま、公園で由衣ちゃんと別れ、明日、どうやって、学校へ出勤しようかと考えていた。


 夜桜見物から数ヶ月が過ぎ、木々の葉っぱの色も深い緑に変わる。地面からは、何年もの間、地中で我慢に我慢を重ね、やっとの思いで、地上に出てきたセミたちが己を誇示するかのように、けたたましく鳴いている。

 季節は夏。学校は、夏休みの真っ只中。生徒たちは、夏を満喫中。でも、私たち先生は、そうはいかない。いくら学校が休みだからといって、休んでいるわけにはいかないのだ。二学期のカリキュラムを作成したり、教育委員会が開催している勉強会に参加したりと、様々な行事ある。

 そして、現在、私は炎天下の中、プールで監視員をしている。この暑さの中、なぜ、こんなことをしなければいけないのかと愚痴を言いたいのだが、学校の決まりで、夏休みの期間中、数回、監視員をしなければならない決まりなのだ。

「あついぃぃぃ。私もプールに入っちゃまずいかな」

 プールサイドは、太陽からの熱光線で、目玉焼きが焼けるんじゃないかと思えるぐらい熱い。しばらく、まわっただけで、監視台に戻る。

「はい、縁先生。冷たいお茶でもいかが」

 そう言って、お茶を差し出してくれたのは、生徒たちのお母さん。このプールの監視業務は、先生たちだけでなく、PTAのお母さんたちも協力してくれている。ただ、お母さんたちは、午前と午後で交代で対応している。

「有難うございます。いただきます」

 ゴクゴクと喉を鳴らして、飲むお茶は、若干だが体温を下げる。

「先生も大変ね。この暑い中、一日、プールの監視していなくちゃいけないなんて」

「いえいえ、これも仕事ですし、子供たちの安全のためですから」

 そんな感じで世間話をしていると、慌ててこちらに駆けてくる生徒の姿が。

「先生! 大変だ。誰かが溺れてる!」

 場所を尋ねる前に、プールに目を向けると、プールの真ん中あたりで水飛沫が上がっている。それを見た瞬間、考えるよりも先に体が動き、プールに飛び込んでいた。

「大丈夫、落ち着いて、すぐ助けてあげるから」

「ゴボ、先、生。助…… ガハッ、けて」

 まずは落ち着かせることが最優先事項。そうしなければ、こちらも溺れてしまう。生徒の脇から手をすくい上げるように入れて、少しでも安心させるように抱きしめる。それと同時に少しでも呼吸しやすいようにしてあげる。しばらくすると、落ち着いてきたのか、力が弱まる。すぐさま、生徒を仰向けにし、首を上からヘットロックするように抱え込み、プールサイドまで連れて行く。

「すみません…… この子をお願いします」

「わかったわ、先生も早く」

 お母さんたちの手を掴もうと、手を伸ばすが、力が入らない。どうやら、さっき生徒を助けたとき、水を飲んだことと、夏の炎天下で体力が大幅に削られたことにより、相手の手を掴む力さえ残っていないようだ。

「先生! 誰か早く来て。縁先生が。救急車」

 薄れゆく意識の中、生徒を助けられたことだけが、せめてもの救い。


 目を覚ますと、そこは白が支配する空間。天井・壁、全てが真っ白。始め、学校の保健室かと思ったが、保健室にしては、設備が豪華。ここは、どこだろう。

「起きた? 葵」

 声のする方へ目を向けると、椅子に座っている由衣ちゃんの姿があった。

「由衣ちゃん? 私は、どうしてここに」

「あんた、学校のプールで生徒を助けた後、そのまま意識失ったんだよ。覚えてないの?」

 まだ少し頭はボーとしていて、殆ど機能していない。でも、少しずつだが、その時のことを思い出してくる。

「そうか…… 私、あの子を助けた後、溺れたんだ。そういえば、由衣ちゃん。あの子は、無事?」

「大丈夫よ。あなたと一緒に救急車で、この『聖十字マリア総合病院』に運んだから」

「そう、よかった」

「あんたも大丈夫みたいだ―」

 全てを言い終わる前に由衣ちゃんの言葉が止まる。どうしたのかと思っていると、顔を少し赤くして、わらわらと震えだしている。どうやら、怒っているみたいだ。

「この! エロジジイ。いつも、いつも、性懲りもなく」

 由衣ちゃんは後ろにいた人に向かって、後ろ回し蹴りを放つ。その蹴りは、見事に相手の顔側面にヒット。そのまま壁に激突する。

「みっ、見事…… しかし、良い形をした尻じゃわい。ふふふふっ」

 壁にめり込んだまま、不適な笑みをうかべているのは、この病院の医者である『もり 眞次しんじ』先生その人。この病院で、心臓外科の先生である。腕は日本でも屈指の名医であるのだが、年齢が六十歳を過ぎたのにもかかわらず、非常に若い女の子が大好きで、病院の看護士や入院患者にセクハラをしている。どうして、訴えられないのか不思議でならない。ちなみに、私の両親が交通事故で亡くなったときと姉を診てくれていたのも、この先生である。

「森先生。前に、もう一回同じことしたら、どうなるか言ってありましたよね。今度という今度は許さない。黄泉の川を渡らせてあげる。覚悟はいいかしら」

「駄目! それ以上やったら、先生死んじゃうよ」

「そうじゃ、そうじゃ。そんなんだから、嫁の貰い手もいないんじゃ」

 いつも間にか、私のベッド横にまわっていた森先生。その手が、私の服の中に。

「きゃぁぁぁ~、何すんのよ!」

 森先生の顔めがけて、スナップを利かせた裏拳が顔にめり込む。

「がはっ、葵ちゃんも…… 見事なり」

 血の海に沈む森先生。まったく油断も隙もないとはこのことだ。

「まったく、いい加減にして下さいね、先生。次、同じことしたら、今以上に酷いですから」

「わかった、わかった。冗談じゃよ。縁ちゃん」

 鼻と左耳に包帯を巻いた状態で、土下座でもしようばかりの勢いで謝っている森先生を見ていると、なぜだか許したくなってくる。これも先生の人徳なのだろうか。

「それで、先生。葵の容態はどうなの? 見た感じ大丈夫そうに見えるけど」

「そうじゃな…… 大丈夫と言えば大丈夫なんじゃが……」

「はっきりしない言い方だね。詳しく言いなさいよ」

「由衣ちゃん、落ち着いて」

 森先生は、この場で話してしまってもいいものかと悩んでいる様子。どうやら、由衣ちゃんには、聞かれたくない話のようだ。でも、私は、目で「由衣ちゃんにも聞いてほしい」という思いを込めて、サインを送る。

「わかった、話そう…… 今回の一件で、体に何か影響が出ることは無い。でも、体の精密検査をした結果、心臓に少し異常がある。詳しくは、もう少し調べてみないことにはわからんが」

「それって、ヤバイ病気なの先生! 葵は大丈夫なの!」

「落ち着け、まだはっきりしたことはわからん。詳しく調べてみないことには…… それで、縁ちゃん、悪いんだが、後一週間、入院してくれんか。検査入院ということで」

「わかりました、よろしくお願いします」

「葵……」

 由衣ちゃんに着替えを持ってきてもらうように頼んだ後、学校に一週間入院することを伝える。その際に、同僚の先生たちから、いろいろ激励を言われたが、あまり覚えていない。心の中にあったのは、不安のみ。

 いざ、検査入院をしてみると驚いたことがある。それは、この聖十字マリア総合病院は、昨今の医師不足のなか産婦人科や小児科にも医師が常駐しており、救急対応もしている総合病院であるということ。特に外科が有名で県外からも多くの患者さんが来ている。そして、終身医療も行っており、県外に大きな施設を持っている。


 病室にいても他にやることがなく、そんな感じで病院内を探索しながら、数日が過ぎた。

 検査結果は、心臓に異常があった。でも、それ以外のことはまったくといっていいほど、何もわからなかった。病名も原因も。

「それで、先生。私は、どうしたらいいのですか」

「検査結果を見ても、異常があるのはわかっているんだがな。まぁ、しばらく通院してもらいながら診ていくしかないだろう。今のところ普通に生活する分には問題ないと思う」

「そうですか。わかりました。先生、これからよろしくお願いします」

 病室に戻り、荷物をまとめ、病院をあとにするが、不安だけはいっこうに消えない。そのためか、家に帰っても何も手につかず、途方にくれる。しばらく、そのまま膝を抱えていると、携帯電話の着信が、静寂が支配していた部屋に鳴り響く。

「おっ、今家?」

「うん、由衣ちゃんは、学校?」

「そうだよ、もうじき二学期が始まるからね。その準備…… それで、検査結果は」

「うん、わからないんだって。今までに発症例がない病気みたい。治療法もないみたいで、森先生も困ってた」

「大丈夫?」

「うん…… 何とか」

「何暗い声出してんのよ。もっと―」

「簡単に言わないで! 私が今、どういう気持ちでいるのかも知らないくせに!」

 今まで、こんなふうに由衣ちゃんに怒ったことなんてなかった。ただ、自分の中にある負の感情を相手にぶつけるような怒り方は。そのせいか、しばらく沈黙が訪れる。

「うん、私はあんたじゃないから、その気持ちはわからない。でもね、葵。たとえ世界中で何が起きようとも、私はあんたのそばにいる。だから、決して一人じゃない。言いたいこと全部言いな、全て聞いてあげるから。あんたが抱えている重石、半分渡しな」

「由衣ちゃん…… ごめんね、私…… うわぁぁぁぁぁ~ん」

「うん、泣きたいときには泣け。怒りたいときには怒る。嬉しいときには喜ぶ。それが人間ってもんよ」

 その言葉に救われる思いがした。本当に私は一人じゃないんだって実感できる。だから、私は、今まで感じていた不安やら何やら全てをぶつけた。由衣ちゃんは何も言わずに、聞いてくれている。

「どう? すっきりした?」

「うん…… ごめん、取り乱しちゃって。それとありがとうね」

「いいの、いいの。私にはこれぐらいしか出来ないから。それで、葵。あんた、明日は学校へ来るんでしょう?」

「うん、行くつもり。学校側にも話しておかないといけないから」

「わかった、でも、無理はしないこと。何かあったら私に相談しなさい。いい?」

「うん、ありがとうね、由衣ちゃん」

 いつの間にか、体を覆っていた不安な感情は消え去っていた。

 本当に由衣ちゃんは、すごい。私は、自分のことばかりで、まったく見えていなかった。私は一人じゃなかった。だから、ひとまず、頑張っていこうと思う。どこまでいけるかわからないけど。

 そんな感じのことを考えていると、睡魔が襲ってくる。それに身を任せるかのように眠りにつく。


 退院して、一週間が過ぎたある日、校長先生に呼び出された。

「失礼します」

 校長室に入ると、すでに校長先生の他に、教頭先生、学年主任の先生が待っていた。

「ごめんなさいね、急に呼び出したりして」

「いえ、大丈夫ですが、今日は一体……」

「あなたの体のことは、病院の森先生とあなたの同僚の橘先生から聞いています。通院なさっているらしいけど、大丈夫?」

「はい、検査結果もそんなに悪くないみたいで、今のところは。ただ、どうなるかは」

 その答えに、先生方は押し黙る。その重苦しい雰囲気に、解雇の二文字が頭をよぎる。

「そこで相談なんだけど―」

「私は、クビですか!」

「落ち着きなさい。誰があなたを解雇すると言いました。先生方と相談したんだけどね。今の状態じゃ、あなたの体にかかる負担は相当なものだと思うの。だから、臨時講師として働いてくれないかしら」

「それは、どういう意味ですか」

「本来なら、学校を辞めてもらって、治療に専念してほしい。でも、そのことであなたの病気に悪影響が出ては本末転倒。それに、あなたみたいな優秀な先生を手放すのも、学校にとって、損失になる。だから、臨時講師として働いてほしいの。その方が、時間に余裕が出来るし、負担も減ると思うから」

 先生方の心遣いに涙が出てくる。本当に、ここの学校の先生になってよかったと思う。

「有難うございます…… 謹んでお受けいたします。どうかよろしくお願いいたします」

 こうして、通常勤務から臨時講師へと変わった。でも、勤務内容は、殆ど変化しないが、病気のことがあるため、それを優先させてくれることに。給与も通常勤務のときと、さほど変化はしないらしい。本当に感謝してもしたりない。今の私に出来ることは、病気を治して、通常勤務に早く戻ること。それが、まわりの人たちにとって、一番の「ありがとう」になるはずだから。


 臨時講師になって、数ヶ月が過ぎ、その影響かどうかわからないが、胸の痛みを感じる回数はかなり減った。まわりの景色も夏の暑さが和らぎ、外で己を誇示していたセミたちの声も、いつのまにか聞こえなくなっている。そのかわり、夜になると鈴虫やコウロギが爽やかな演奏を奏でている。

 そして、秋といえば、食欲の秋・芸術の秋・読書の秋・スポーツの秋と、様々な秋がある。今日は、スポーツの秋の定番、体育祭が開催されている。

 今、行われている体育祭は、全校児童が赤組と白組に分かれて、五十メートル走・球入れ・球転がし・組体操と様々な競技で争い、点数を競っていくが、今、かなりの学校で、競わせる行為自体を禁止している体育祭が多い。でも、この学校は、そんなことしない。なぜなら、競わない体育祭は面白くないからだ。

「頑張れぇぇぇ、みんな」

 今、二番目を走っている生徒は、私が担任をしているクラスの子。いつもは検査や診察のため自分が担当している授業が終わると、すぐ病院へ行かなくてはならないので、ほとんど学校の子どもたちと会話らしいコミュニケーションをとることさえできていない。だから、今までの思いをぶつけるように声を出す。

 その思いが通じたのか、二番目を走っていた男の子が、ゴール手前で逆転し、一着でゴール。

「やったぁぁ。みんなすごい」

 バックネットに掲げられた点数版に目を向けると、白組三百点・赤組二百八十点と接戦。組の分かれ方は、偶数学年は白組、奇数学年は赤組。担任をしていない先生たちは、赤組・白組にくじで分かれる。

「続きまして、先生方による対抗リレーを行いたいと思います。エントリーされている先生方は、入場門にお集まり下さい」

 実況放送に促されて、入場門に集まり始める先生たち。私もこの競技にエントリーしているので入場門に行かなくては。本来、病気の一件があるため、参加しないほうがいいと言われているのだが、自分も何かしたいとごり押しで、この競技だけ参加させてもらった。

「葵、あんまり無理しちゃだめだからね」

「うん、ありがとうね由衣ちゃん。でも、アンカーだから、頑張らないと」

「なら、あんたに回る前にケリをつけてあげる」

「やれるもんなら、やってみなさい。必ず私たち赤組が勝つ」

 いざリレーが始まると、抜く抜かれのデットヒート。白組が半周ほどの差をつけたと思ったら、赤組が一気に抜き返す。その展開に、応援している生徒たちも熱が入る。

「先生、頑張れぇぇぇ」

「負けるな、そこだ、いけぇぇぇぇ」

 生徒たちの声におされ、順番を待っている先生たちの顔も引き締まる。

 赤組がリードして、バトンが私の手に。体に残っている全ての力を出し切るように、地面を蹴り、走り出す。

「縁先生! ガンバ」

 一周四百メートルのトラックをアンカーは一周しなければならない。いざ走り始めて、二百メートルほどで、後ろから、白組のアンカーの足音が聞こえてくる。

 負けてなるものかと思いで、一気に加速するが、胸に鋭い痛みが走る。そのため、転びそうになるのをなんとか持ちこたえ、ゴールを目指す。

「葵ぃぃぃ、がんばれぇぇぇぇ~」

 由衣ちゃんの声が耳に届く。敵チームなのに応援してくれる幼馴染の声に答えるかのように、さらに加速する。このまま負けることだけはしたくない。

 いざ、ゴールしてみると、後ろを走っていた白組の先生とは、十メートルほど離れていた。

「私っ、はぁはぁはぁ、かっ、勝ったの?」

 勝ったことで安心したのか、走りきったことで体力を使い果たしたのか、わからないが一瞬、クラッと意識が途切れる。

「葵! 大丈夫?」

 そんな私を抱きしめてくれたのは、やっぱり由衣ちゃんだった。その抱きしめ方は、まるで母親に抱きしめられているかのように優しい。

「由衣ちゃん…… 私、勝ったんだよね?」

「うん、悔しいけど、あんたの勝ちよ」

 肩を貸してもらい、救護室へ向かうが、足に力が入らない。それどころか、意識もぼやけてはっきりしない。

「葵、大丈夫? 誰か、救急車!」

 意識を失った私は、そのまま病院へ。あとから聞かされたことだが、体育祭の勝者は、赤組になった。それだけでも、あそこで無理して頑張ったかいがあったというもの。


 体育祭が終了して、数週間の月日が流れた。私は相変わらず、病院にいる。本来なら、意識が回復したら、すぐにでも退院することができると思っていたのだが、どうやら、私の病気は、相当悪い方向へ進行しているらしい。そのため、臨時講師も辞めることになった。

「葵、来たよ」

 声の方へ顔だけ向けると、スーツを着た由衣ちゃんの姿があった。

「お土産、持ってきた。あとから一緒に食べよう。それと、生徒たちから、これ預かってきた」

 由衣ちゃんから渡されたのは、数枚の色紙。そこには、かつて私が担任をしていた生徒たちや違うクラスの子たち、そして、同僚の先生たちの想いがたくさんこもった寄せ書き。

 それを見ると、涙が溢れてくる。本当に私は、みんなから愛されているということが、あらためて実感することができたから。

「何泣いてるのよ。はやく体治して、旅行とか行くんだからね」

「うん…… うん…… わかってる。ありがとう」

 泣き終わるまで、待ってくれている由衣ちゃん。すると、もう一人、誰かが病室に入ってくる。

「おっ、橘ちゃんも来ておったのか」

「出たな、エロジジィ。葵に何もしてないでしょうね。何かしたら、ただじゃ、おかないからね」

「信用ないのう、まったく。自分の患者に手を出す医者がどこにおる?」

「ここにいるから、心配してるんでしょう」

「本当に酷い話じゃ、のう、縁ちゃん」

 そこで話を振られても、答えようがない。どちらかといえば由衣ちゃんの方を味方したいんだけど。

「葵が困ってるでしょう…… それで、も・り先生。何か用事があったんじゃないんですか」

「棘がある言い方だな。まぁいい、何、少し様子を見に来ただけじゃ。ずいぶん元気そうで安心したがな」

「私、退院できるんですか」

「すまんの、縁ちゃん。もう少し、入院してもらうことになる。まだ、君の病気について、ほとんどわかっとらん状況だからな」

「そうですか…… 先生、どうかよろしくお願いします」

「わしに任せておきなさい」

 そうは言うものの森先生の顔からは、不安は消えていない。その顔を見れば、私の病気がどれほど深刻で難しいものだということが、はっきりわかる。

「何、暗い顔してんのよ。大丈夫だって、私が言うんだから間違いない」

 こういうときに、こんなことを言われると本当は怒るもの。でも、由衣ちゃんの笑顔を見ていると、本当に助かるんじゃないかと思えてしまうのは、不思議だ。

「わしは、これで失礼する。またな、橘ちゃん、縁ちゃん」

 気を使ってくれたのか、病室を出て行く森先生。その後、私たちは、由衣ちゃんが持ってきてくれた林檎を食べたり、雑談をしたりと、楽しいひとときを過ごす。


 入院生活が始まって、早くも三ヶ月が過ぎた。私は、相変わらず、病室のベットから外の景色を眺めている。外の風景も秋の紅葉から冬の装いに変化しつつある。外で合唱していた虫たちも冬支度に忙しいのか、あまり姿を見せない。

「来たよ~ 葵」

 毎日のように顔をだしてくれる由衣ちゃん。彼女のその姿勢には、嬉しいのだが、時々苦しくもある。

「毎日じゃなくてもいいって言ってるのに」

「何言ってるの。私が好きで来てるんだから、あんたが気にすることじゃないの」

 本人にここまで言われてしまったら、これ以上は何も言うことができない。それに、由衣ちゃんは頑固だから、一度言い出したら聞かない性格。

 そんな感じで、楽しい時間を過ごしていると、森先生が入ってくる。

「毎日、来ておるみたいじゃな。橘ちゃん」

「うん、私に出来ることなんて、これぐらいだから」

「いや、普通、ここまで出来る子は、そうはいない。感心、感心」

「それで、先生。今日は何か御用ですか。検査や診察なら、午前中に終わったと思うんですけど」

「何、ちょっとな……」

 森先生から発せられる重たい空気を察したのか、由衣ちゃんが病室を出て行こうとする。

「由衣ちゃんもここにいて。先生もいいですよね」

「縁ちゃんがいいと言うなら、かまわないが」

「お願いします」

 森先生は、静かに語り始めた。私の病気のこと、これからのことを。

 私の病気は、心臓の病気であるということ以外、まったくわからなかったらしい。でも、何回かに及ぶ検査の末、心臓が日々、一ミリメートルの千分の一、すなわち一マイクロメートルづつ縮小しているという。これがこのまま進行してしまうと、心臓が消滅してしまう恐れがある。その影響で、私の命の寿命は一年弱だという。

「嘘よね、先生。葵があと一年しか生きられないなんて。ねぇっ、嘘よね、先生!」

「こんなこと、嘘で言えるかっ」

「何とかならないの、手術するとか、移植するとか、方法はないの?」

「はっきり言って、縁ちゃんの病気は、治療法もどうして発症したのかも、まったくわからんのじゃ。そんな状態で移植手術をしたら、どんな影響が出るか」

「でも!」

「橘ちゃん、わかってくれ。わしだって、子どもの頃から知っている縁ちゃんを助けたい。そのために、わしは全力を尽くすつもりだ。だから、諦めずに頑張ってほしい」

「葵も何か言ってよ!」

 二人の会話をまるで他人事のように聞いている私がいる。本来なら、ここで、森先生や由衣ちゃんに喚き散らしたりするところなのだが、まるでそういう気分になれない。ただただ、冷静に今の状況を把握している。壊れた人形のように……

「葵? 大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。私、あと一年しか生きれないんだ・・・・・・」

「すまん、縁ちゃん。それでな、君にはこの病院が運営している『マリアの家』という施設に移ってもらう。そこは、新たな治療法が見つかるまで患者さんたちにリラックスしてもらうための施設なんだ」

「簡単に言えば、私をここに置いておいても、次に入院する患者さんに迷惑がかかるということですか」

「いやっ、そういうわけでは」

「いいんですよ、先生。私はいつから移ればいいんですか」

 その後、詳しい話と移転手続きを済ませると、森先生は申し訳なさそうに、病室を出て行った。

「葵、あんた……」

「由衣ちゃん、ごめんね。それで、もうお見舞いに来なくてもいいよ」

「そういうわけにはいかないよ。あんたを一人っきりにできるわけがない」

「ありがとうね。でも、私、色々と考える時間がほしいから。それに、由衣ちゃんに見せたくないもん、私の嫌な部分。だから、一生のお願い。もう来ないで」

「そう言われちゃ、何も言えないよ・・・・・・」

「ごめんね、由衣ちゃん」

「謝らないの。私は、あんたが死ぬなんて思ってないから」

 気持ちの整理をつけたいということで由衣ちゃんには帰ってもらった。いざ、病室で一人っきりになると、不安や死の恐怖が体を支配する。ガタガタと震える体をなんとか落ち着かせようと自分で自分を抱きしめる。

「死にたくないよ…… 誰か助けて」


 真っ赤に染まった木々の色が、白に塗りつぶされ、忙しなく動いていた虫たちや動物たちも眠りにつき、季節の中で一番静かな冬の到来。

 元いた病院から、この『マリアの家』に来て、一週間が過ぎた。このマリアの家は、県外の山奥にあり、新たな治療法を待っている患者さんたちが入院している所。ここへ行く為には、自家用車を使うか、一日に五本しかない専用のバスを使用するしかない。もし、歩いていくとなると約三時間ちかくかかる。特に夜道の場合は、外灯すらないので、まず無理であろうと思う。

 ただ、ここへ来てわかったことがある。それは、私は一年後に死ぬということ。この施設に入院している人たちのなかで、この施設から無事退院できた人は稀だからである。そんな感じで、施設や人たちを見ていると、これからの自分の人生をあらためて考えさせられる。

 次の日、気晴らしに外へと出てみる。この施設は、病院にいたときに比べて、比較的自由に外へ出られる。入院している患者さんたちに、あまりストレスを与えないためだろうが、このまま、どこかへ消えてしまっても、誰にもわからないかもって思える。

 パジャマ姿で、山道を歩きながら、まわりの景色に目を向ける。そこには、春から秋にかけて、懸命に葉を伸ばし、生きてきた木々。それが冬となり、その葉も次の命へバトンタッチをするために、その役目を終え、ゆらゆらと舞っている。その下からは、新しい命の芽が顔を出していた。

「私も、この思いを、私のことを誰かに伝えられるのかな……」

 そこから一時間ぐらい歩いただろうか。少しひらけた場所に出る。そこは、麓の街を眼下に捉えることが出来る場所。そこから景色を見ていると、私が見ている風景というのは、こんなにもちっぽけで、それ以外の場所には、一体どんな光景が広がっているのだろうか。そんな簡単なことさえ、私は知らない。

 ふと、昔のことを思い出した。私は、子供の頃から学校の先生になるという夢以外に、自分が生まれ育った、この日本という国を見てまわるという夢が。でも、今の体ではそれは叶わない。ただ、このまま死を待つだけの人生を歩んでいきたくないという自分もいる。なら、どうするか。昔の偉い人はこう言う。「人生は一度きり。悔いが残っては意味がない」と。だから、私は、残りの人生、悔いが残らないようにしたいと思う。

 夜の定期健診を終えると、この施設は、消灯までの時間、かなり自由に行動することができる。だから、私は、すぐさま行動に移す。この施設は、民間の施設にしては、かなりの設備規模で、常にお医者さんが常駐し、薬局も完備されている。だから、まずは薬局へと向かう。ナースステーションとは違い、扉には鍵は掛かっておらず、中には誰もいない。

 中に侵入すると、ときたま夜中に外へ出るために用意してもらったペンライトの光だけを頼りに薬の棚を一つ、一つチェックしていく。私の病気は、前例がないため、特定の薬というのはない。だから、森先生が、これが効くのではないかと用意してくれた薬を数種類、飲むことになっている。

 十分ぐらい経っただろうか。ようやく目当ての薬を見つける。なぜ、大量の薬の中から、目当ての薬を見つけることが出来たのかというと、私には、小さい頃から一つの特技がある。それは、一度見たもの、書いたものは決して忘れないという能力。俗にいう『瞬間記憶能力』といわれるもの。テスト勉強のとき以外、活用する機会がなかった能力だったけど、ここにきて感謝する。写真のように鮮明に残っている薬の名前と、形状を思い出しながら、必要な薬を集めていく。量にして一年分。

 それら全てを集め終えると、袋に入れ、窓から外へ出す。部屋から出たときに、そんなものを持っていたら怪しまれるからだ。

 全ての作業を終え、細心の注意を払いながら部屋を出る。病室に戻ると、部屋の鍵を掛け、パジャマから私服へと着替える。鞄に携帯電話・財布・車のキー・家から持ってきていた服を詰め込み、電気を消して、窓から外へ。

 あれだけの薬が薬局からなくなっていれば、今日中か明日中にはばれる。だから、今日中か明日の早朝までには、自分のマンションの駐車場まで行かなくてはならない。本来なら、麓の街に出て、電車に乗ればいいのだが、それでは、いずれお金も底を尽く。それに、私は、日本を回るとき、愛車と決めているから。そのためにも自分の車を取りに行かなくてはならない。

 薬局の窓の下で薬を回収し、持ってきたペンライトの光だけを頼りに、懸命に山道を下る。

 その山道は、黒一色。まるで、自分が死んでいるのか、生きているのかさえわからないと錯覚させるほどの闇。月でも出ていればましなのだが、こんな日に限って、夜空は雲に覆われ、光さえ届かない。その状況が、私の判断が正しかったのかと決意を鈍らせる。

 そんな感じで、三時間近く歩くと、ぽつぽつと人工の明かりが目についてくる。その明かりは、心の中にあった不安や恐怖というものを少し和らげてくれるから不思議だ。

 家に着く頃には、既に東の方が明るくなり始めていた。

「早く、車持ってこないと」

 施設を抜け出して、既に四時間近く経っている。多分だが、施設の職員さんたちにも、抜け出したことは、ばれている。それに警察に連絡されたりしたら、面倒だ。

 そのため、急いで駐車場に向かうと、そこには一人の女性の姿があった。

「由衣ちゃん……」

「やっぱり来たか…… 葵、さっき病院の森先生から、連絡があってね。で、あんた、施設抜け出して、どこ行く気?」

「今から、日本中を見てこようと思うの。命の続く限り」

「正気! あんた、自分の体の状態わかってる?」

「うん、このまま、目を閉じて、耳を塞いで、口をつぐんで、死を待つだけに生きていくのは嫌。だから、そこをどいて、由衣ちゃん」

「いや! 私は、あんたに生きていてほしい! それがどれほど過酷なことなのかはわかっている。でも、わたしは……」

 泣きじゃくる由衣ちゃんを優しく包み込む。

「ありがとうね、由衣ちゃん。私、由衣ちゃんと親友でよかった。こうやって私のために泣いてくれるもん。でもね、私は、それでも行く。残りの人生を無駄にしないためにも」

「だったら、私も―」

「駄目、由衣ちゃんにこれ以上、迷惑かけられない」

 私のその言葉にそれ以上何も言ってこない由衣ちゃん。ただ、胸の中で泣くばかり。そんな由衣ちゃんの姿に、私は、一人じゃないということを改めて実感することができる。

 しばらく経つと、どうやら落ち着いたらしく、離れる由衣ちゃん。

「ありがとうね、葵。まさか、引止めに来た私が、慰められると思ってもいなかったわ。もう、私は、あんたを止めたりしない。だから、好きな所でも、どこでも行きなさい」

「由衣ちゃん……」

「でもね、葵。私は、あんたが生きてここへ戻ってくると信じてる。だから、これ持ってって。そして、帰ってきたら、私に返しなさい」

 そう言って、渡してきたのは、写真。そこに写っていたのは。

「これって、私たちが小学校の先生になった記念に旅行先で撮った写真だっけ、たしか、場所は……」

月読島つくよみじま。桜で有名な場所で、私が行きたいって言って、二人で行ったところ」

「そうそう、たしか、あのときは……」

 それからしばらく二人で、当時のことや学校で起こったことなど、様々なことを話した。もう二度と出会うことができなかったときに後悔しないように。

「それじゃ、由衣ちゃん。私行くね」

「うん、さよならは言わない。いってらっしゃい、葵」

 車に乗り、キーを回すと、マフラーから轟音とともにエンジンがかかる。首にかけた由衣ちゃんから写真とともに貰ったペンダントをぎゅっと握る。ペンダントの中には、さっき話していた時に由衣ちゃんが加工してくれたさっきの写真が入っている。

 車を発進させ、ふとミラーを見ると、手を振ってくれている由衣ちゃんの姿があった。だから、私は、それに答えるように、腕を突き出し、右手の親指を天高く突き上げる。

「葵ぃぃぃぃ、必ず、帰ってきなさいよぉぉぉぉ」

 こうして、始まった命をかけた旅。はっきり言ってどこへ行こうか、まったく当てがない。でも、それでいいと思う。ただ、後悔だけは残さないようにしなくては。


鼻に何かの感触を感じ目を覚ます。のっていたのは一枚の桜の花びら。手で掴もうとすると、ひらひら舞い、アルバムの上に。

「由衣ちゃん…… 私、この一年、頑張ったよ…… 約束守りたかったな…… あのメッセージ、見てくれたかな……」

 吹き抜ける風が、地面に落ちた桜の花びらを再び、空へと舞い上げる。桜たちは数秒のダンスを躍り、また地上へと戻る。


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