恋の端も碇草
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千夏と別れた後、木島哲は自分の言動が信じられらなかった。いくら気になる女の子に会いたいからって夏休みに用もないのに学校に行くなんてどうかしている。合唱部の伴奏だと?自分が発した言葉だが、嘘をつくにしたってもっと他にあっただろうと思わず呆れてしまう。それが本当ならもっと朝早く家を出ないと完全に遅刻だし、通学中の千夏と会うわけがない。
確かに哲はたまに合唱部の伴奏者が体調を崩してヘルプに入ることもあるが、今回は頼まれていない。なぜこんなすぐにバレるような嘘をついたのか自分でも分からないが、とにかく自分のポーカーフェイスに拍手を送りたい。勝手に委員の日付と千夏の乗るであろうバスの時間に合わせるなんて、ストーカーで訴えられても仕方がない。本当に今日の自分はどうかしていた。最近の哲はぼーっとする時が多いがてっきり五月病の一種だろうと思って気にしなかったが、今後も今日みたいなことがあってはそうもいかなくなってくる。
そういえば体が勝手に千夏の方へ向くようになったのはいつからだろう。いくら千夏が好きだからと言って、哲はこんなストーカーじみた行動は取らない。取れないと言ってもいいくらいで、好きな子ができてもいつも告白できずに気づけばその子は別の誰かと付き合っていたなんてことはザラにある。
…立ち止まってじっくり考えてみても頭の中が霧が掛ったように思い出せない。こうなってしまっては考えるのをやめて素直に兄が千夏と同じクラスと委員である事に心底感謝しよう。そして今後正当な理由づけができる環境と彼女の性格と行動範囲をよく知っている自分に危機感を持った方がよさそうだ。警察のお世話になるわけにはいかない。哲と啓介は双子でも一卵性双生児で、万が一片方が警察の世話になるようなことにでもなればもう片方にとんでもなく迷惑がかかる。
この黒いものをどう解消するべきか、哲にとって大きな課題になりそうだ。半年前までは自分がこんなに馬鹿になるとは思いもしなかった。
恋愛観の変化のせいなのだろうか、最近の恭子の行動は哲を心底苛立たせる。彼氏がいるのに異性の友人である自分や啓介と積極的に近付くのは誠実とは思えない。少し前まで恭子の彼氏がどう思おうが、どうでもよかったのに妙に同情するようになった。
彼氏の方は頭では分かっていても良い気持ちではないだろうだなんて、こんなことを考えるのはいつもならば啓介の方だ。だから啓介に直接言わず、哲にしか話さないことが多かったのに最近になって哲まで啓介のようなことを言うようになったから恭子の方も苛立って喧嘩が増えた。恭子の頭では千夏が原因になっているらしく、それがまた喧嘩をヒートアップさせた。
少しはマシになっていたのに思い出したせいで、苛々しながら音楽室前の窓からグラウンドを眺めていると、友人の樫野斗真と目があった。彼は今年インターハイを控えて猛練習している。裏表のない斗真の姿を見て少し頭が冷えた。
「あれ!?哲ー!何してんのー!?補修!?」
手を上げて返事を返したが、グラウンドから大声で叫ぶ彼は即座に顧問にしばかれていた。「またなー!!」と言って練習に戻っていく。素直で裏表のないところが斗真のいいところだが、今はあんな大声で叫ばれてはマズい。すぐにでもどこかに移動しなければ、なんて考える間も無く音楽室の扉がガラリと開いた。
合唱部の顧問で哲の担任の藤井朋子が斗真の大声を聞きつけて様子を見に出てきたようだ。怪訝な顔をしている。
「あら哲くんじゃない」
「はは、こんにちは…」
「夏休みなのに珍しい。あなた、帰宅部でしょう?補修でこんなところにいるわけないわねぇ。委員会に所属しているわけでもないし…うちに何か御用かしら?」
普段はいい先生なのだが、味方じゃなくなると的確に嫌なところをついてくる。担任であるが故に、哲が積極的に学校に来るタイプではないことをよく知っている。苦笑いをしながら誤魔化していると、何かを勘付いたかのようにニヤリと笑う。なぜだか彼女の表情といつかの斗真の顔が重なって見えて、すごく嫌な予感がした。
「…やめてください」
「まだ何も言ってないわよ」
そうはいっても楽しそうな表情が垣間見得ている。
「まあいいわ。暇してるなら練習見ていく?」
「…はい」
「ふふ、一つ貸しね」
「…くっそが…」
「聞こえてるわよ。汚い言葉遣いはやめなさい」
朋子は、いつもニコニコ愛想よく、かつ何事にも退屈そうなこの年老いた若人を心配していた。だが恋愛に右往左往し、人並みに悩む姿を見て少し安堵した。
「はい、すみません…」
哲はどうせやることもないし、担任に変な目で見続けられるのは耐えられそうにないため、結果的に本当に合唱部の手伝いをすることになった。
うちの学校の合唱部はなかなかの強豪で上位常連高校の一つで金賞を取ることも珍しくない。千夏は知らない様子だったが、校舎の入り口には誇らしげにいろんな部活の優勝トロフィーや表彰状が並んでおり、その中でも合唱部は数ある部活の中で一番数が多い。
うちの校生でなくとも、少し考えたら合唱部の練習がこんな中途半端な時間から始まるわけがないと分かるはずだ。そのおかげで自分の嘘もバレずに済んだのだが、そんなことも棚に上げて千夏が周りに興味がなさすぎることに口を出したくなった。
■
千夏と出会ったのは今年の春頃。第一印象は嫌な奴だった。哲はこんな短期間で印象が変わる人物は初めてだった。
その日は今とは違い、朋子に頼まれて合唱部の昼練の手伝いにきていた。音楽室と図書室は近くの教室で、合唱部の恭子に誘われて、啓介のところに遊びに行くことになった。哲も恭子も勉強など自分からするなんてとんでもないというタイプで、授業や課題で必要な資料を探す時以外に図書室に行くことなんてない。対して啓介は真面目、と言うよりも知識欲が強く、静かな場所を好む人間だ。おそらく兄弟でもなければ絶対に哲とは接点がないような正反対の性格をしている。啓介は図書委員をすると聞いても何の不思議もなく特に興味もなかった。だが生憎、幼馴染の恭子はそうではなかった。そして恭子は一度言い出すと駄々をこねて面倒だから渋々ついて行った。
部屋に入った時最初に目に入ったのは啓介ではなく、同級生の千夏だった。2年連続で啓介と同じクラスで、たまに学校ですれ違ったり、クラスメイトの会話で出てくるため顔と名前は知っていたがまともに話したことはなかった。
「あれ?啓介がいると思ったんだけど。サボりかな?」
恭子はちらちらと千夏を見ながら哲に話しかけた。恭子は特に同性に対して人見知りが激しく、おそらく千夏に聞こえるように言っているが、千夏は完全に聞こえないふりをしているのかこちらを見もしない。
「それはないと思うけど。別のところにいるんじゃない?」
無視されたと感じたのか、凹んでいる恭子を励ますつもりで返事を返す。もちろん啓介に限ってサボりなどあり得ない。
我関せずといった態度で黙々と仕事をしている千夏に話しかけた。
「中村さん、お疲れ様。啓介に会いにきたんだけど、どこにいるか分かる?」
ゆっくりと顔を上げ、少し迷惑そうな表情を浮かべる彼女に思わず苦笑する。業務外のことをしたくない気持ちはわからなくはないが、もう少し隠す努力をしてほしい。それにいくら話したことがないとはいえ、同級生にその表情はどうかと思う。こっちだって嬉しくてニコニコしているわけじゃない。
「木島くんは今返却された分をしまいにいってくれてるので、少し待ってもらえればすぐに戻ってくると思い…ます」
3年の先輩もいるのに気づき、言葉遣いに迷いが生じている。恭子がいなければ、ため息やもういい?という言葉がすぐにでも口から出てきそうだ。
「そっか。じゃあここで待っててもいい?」
「ここは_」
「ここは入り口付近だから待つんだったらもう少し中に入ってくれ」
後ろから啓介の声がして振り向くと、何しに来たんだという表情で立っていた。
「それから恭子。人聞きの悪いことを言うんじゃないよ」
「あ、聞こえてた?ごめんね。そ、そうだ!なんか手伝おうか?」
_する気もないのに誤魔化すために手伝いなんて言い出してる。啓介はきっと断るだろう。そしていつもの小言。
「もう少しで終わるから手伝いは結構。こっちのことより恭子、君は自分の心配をした方が良い。智子さんが今年受験生なのに君の成績が芳しくないと嘆いていたよ」
「げ、またママが告げ口したの?最悪なんだけど…」
「僕もこんなこと言いたくはないんだけどね。学生の本分は勉強なんだし、最低限はしておきな」
「ふぁーい…」
智子さんとは恭子の母親で哲達も幼少期から世話になっている人。勉強嫌いの恭子を心配して啓介に恭子の勉強を見てくれるようによく頼んでいた。哲は一つしか違わないとはいえ、自分の子どもよりも年下の子に頼むのはどうなんだろうとずっと思っている。
「中村さん悪いね。まあ見たらわかると思うけど僕の兄弟と、こっちは幼馴染の恭子だ。僕を冷やかしに来ただけだろうから気にしないでくれ」
「うん、わかってる」
「!そうか。じゃあ昼休みもそろそろ終わるし、僕らも片付けて戻ろうか」
「やっとかー…」
千夏は長いこと同じ姿勢でいたのか、グーッと伸びをする。
「あ、なんなら先帰る?あと少しだし私やっとくよ」
「いいよ、2人は気にしないで。どうせ部活の帰りに寄っただけだから」
啓介は哲達に帰れと目配せをする。
「冷たいなー、俺たちも混ぜてよー」
「アキ、お前暇なだけだろ」
「うん」
呆れた顔で哲を睨みつける啓介を千夏は珍しそうに見つめる。啓介は哲と恭子以外に仲のいいと言える人はあまりいない。基本的に啓介は変なレッテルを貼られがちで、あまり友人と呼べる人間が多くない。故に砕けた態度で話す啓介が珍しいのだろう。哲はそう解釈した。
「木島くん」
「「何?」」
「あ、違う違う。こっちの木島くん」
2人とも木島なのでもちろん両方返事をする。本当は千夏が啓介のことを呼んだことはわかっていたが、退屈で誰でもいいからダル絡みしたい気分だった。
「あと机周り片付けるくらいだから先戻っていいよ」
「…意外だな、君が気遣いをするなんて。本当は追い出したいだけなんじゃないのか?」
「まあそうだよ」
「君ねぇ…」
全く取り繕わない千夏の態度に哲も恭子も思わず笑ってしまう。おそらく千夏は1人が好きなタイプだから、賑やかな今のこの空間が居心地が悪いのだろう。だが哲はこんなに毛嫌いされる謂れはない。哲は理不尽なことに敏感で、どっかの法典の目には目を歯には歯をという思想は結構好きだった。
哲の悪い癖だ。啓介と恭子が怪訝な顔をする。流石に付き合いの長い2人はすぐに察知した。
「哲やめな。いいよ、先に戻ろう。ごめんね、えぇっと」
「中村千夏です、呼び方はお好きにどうぞ」
「そう、千夏ちゃん。仕事の邪魔してごめんね。もう私たち帰るから」
恭子は咄嗟に哲を止め、手を引いて帰ろうとするが微動だにしない。啓介は呆れるだけで特に何も言わない。いつもなら啓介も恭子と一緒に哲を止めているが、今回に関しては千夏にはいい薬になるだろうと考えていた。
「手伝ってあげる。皆でやった方が早く帰れるでしょ?」
わざとだろうと言うほど嫌な顔をする千夏がとても愉快だ。自然に口角が上がる。
「聞いてなかった?図書室に用事がないなら_」
「中村さん、諦めた方がいい。こうなった哲は簡単には引かないんだ」
「啓介?」
いつもと様子の違う啓介に恭子は戸惑っている。
「…分かった」
哲は、意外とあっさりと了承する千夏が面白くない。
「じゃあ何したらいい?」
哲はあえて啓介に聞かず、千夏に話しかける。哲は嫌がらせのつもりなのに千夏は好きにしてくれと言うように淡々と指示をしていく。段々と嫌がらせで話しかけてやろうと思っているのに、言われたことが終わったタイミングで次々と指示を出していくのでこちらから話しかける隙がない。しかも先輩だからなのか、恭子には椅子を持ってきて「少し待っていてください」なんて言う始末。恭子も言われた通り座って待っている。
千夏の意外な一面に啓介も予想外だったようで、哲と目を合わせた。
「はい、終わり。先輩、お待たせしました」
「あ、ううん」
「じゃあ私帰るから、お疲れ〜」
気づけば片付けは終わり、千夏は飄々と教室に戻っていった。
「…啓介。もしかしてあの子、ちょっと変わってるだけ?」
「いいや。こんなことを言うのはどうかと思うが、だいぶ変だと思う」
「止めてよー、俺変なスイッチ入ってたじゃん」
「私止めたよ?」
「あぁーそうだった」
思えば千夏は誰かと一緒にいるところもよく見るが、いろんな人と話しており特定の誰かと常に一緒というのは見たことがない。教室にいると女子たちの会話の中で彼女の名前はよく出てくる。どんな話をしていたかまでは思い出せないが気持ちのいい話ではなかったような気がする。
哲は嫌いな人間が多い。特に気遣いのできない人は嫌い。自分本位な人間も嫌い。人を簡単に決めつける人間なんて一番嫌い。なはずなのに、自分自身がそうなっていたようで悔しい。別に勝負なんてしていなかったのに、何だか千夏負けたような気がしてならない。まるで心の中を覗かれて、挙句馬鹿にされたような気になる。
「哲、そう気にするな。彼女は難しい人だから」
「…」
啓介の背中に頭突きをして込み上がる悔しさをぶつける。
「わかったわかった。分かったから頭突きをやめろ」
「無理〜…」
■
「はい!じゃあ一旦休憩にしましょう。13時にはみんなちゃんと戻ってくるのよ」
合唱部の午前中の練習が終わり、音楽室を出る。朋子は普段から少し早めに休憩時間をとってくれることで人気がある。学生からの支持なんてちょっとしたことが多いが、休み時間を使ってまで勝手に授業を伸ばす先生もいるのだから彼らと比べて人気があるのは当然といえば当然だ。
自分が伴奏をしていない間はもう1人の伴奏者の楽譜を捲るくらいしかやることがないので片付けるものなんて何もない。合唱部の人たちが片づけているのをぼーっと眺めながら、随分と懐かしいと言うか、恥ずかしいことを思い出していた。たった半年で人の印象はガラッと変わるものだなと思っていたら右側から熱い視線を感じる。
朋子が自分の手首をトントンと軽く叩きながらこちらを見ていた。これは早くしろと言う合図で、この場合はおそらく早く行きなさいという意味だ。バレたのは分かっていたが改めてこう言うアクションをするのは本当にやめて欲しい。
しかし他の生徒達にバレる前に、彼女の言う通りさっさと教室を出た方が良いのは明らかだ。少し暑くなった顔を覚ましながら教室を後にする。
「…あ〜…もう最悪…」
今すぐに啓介に話してスッキリしたいのに、今啓介のそばには一番聞かれたくない人物がいるからそれは無理だ。
後ろから合唱部の生徒達と思われる人の気配がする。このまま立ち止まっているのは不自然だし、とりあえず啓介と千夏の元へ向かった。