蛍火の主張
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夏。四季の中で好き嫌いがキッパリ分かれる季節。一軒家の2階の1室で大の字になっている少女、中村千夏は特にこの季節が大嫌いだ。テレビをつければ海、山、テーマパークなど…この季節が大好きな人たちが楽しそうにしている光景や、熱中症に気をつけろという注意喚起。うんざりするほどの暑さを毎年飽きもせず更新し続ける夏の何がいいのか理解できない。ただでさえ蒸し暑いのに、それに加えてより暑さを感じさせる鳴き声を放つ大量のセミに、苛立ちと不快感を増加させる蚊。その上大量の課題に、委員の仕事をしに休みでありながら学校に行くなんてイカれているとしか思えない。
「千夏ー!今日学校行く日なんじゃないのー?」
「わかってるー」
リビングから母が急かす声にイラッとしながら、重たい体をゆっくり起こす。
千夏。夏由来の名前に誕生日が7月8日。千夏という言葉自体に明るいや行動的という意味があり、千夏の苦手なことが名前の意味になっていることを知った小学校入学前日には何とも言えない気持ちになったものだ。
今年に至ってはこんなに暑い日に長期休暇中に馬鹿みたいに外に出て、委員の仕事をするために登校しなければならないなんて。夏休みは毎年さっさと課題を片付けて、冷房の効いた部屋で屍のようにじっとする予定が委員のクジのせいでキャンセルする羽目になった。部活動に勤しむ人や労働している人に比べればなんてことはないのだが、そんなことは千夏には何の関係ない。なぜなら自分は高校生で、うちの学校は帰宅部が許可されている。そうでなくとも休みの間は学校に来る必要のない部活や委員だってある。つまりは自分の運のなさを恨むしかないのだ。
とはいえ、どれだけ恨み言を連ねようとも無駄に真面目なこの性格がサボることは許さないのだ。大きなため息をつき、のそのそと1階へと降りる。完全に長時間冷房に当たっていたせいで体調がすこぶる悪いが、そんなことを言っていたら夏の間ずっと横になっていなければいけない。いくら怠け者の千夏でもそれは流石に偲びなかった。腐っても花の女子高校生。太りたくないという意識は持っている。
体が大きな岩にでもなったのかと思うほど重たい。鼻歌を歌いながら洗面台を占拠している姉の美雨を軽く押し退け、並んで歯ブラシを手に取った。
「おはー」
「…おはよ」
花でも飛んでいるのかと錯覚するほど機嫌の良い美雨をちらりと横目で覗き見る。
_今日はデートか。
別にエリート社会人の彼氏なんてこれっぽちも羨ましくなんてないけれど、デート帰りに惚気か愚痴しか喋らないのは本当に勘弁してほしい。そう思いながら歯磨き粉を手に取り歯ブラシに塗りつける。ブシュッという鈍い空気が抜ける音がしたと思ったら、肝心の中身は普段使っている半分の量もない。
「あ、さっき使い切っちゃってたか」
「いやわかるでしょ、なんで誤魔化してんの」
「まだイケると思って空気だけ入れといた」
「もー何してんのー…」
間抜けな顔をしながらマスカラを塗る美雨をジロリと睨みつけてから足元の屑カゴに空の歯磨き粉を捨てる。ガコンッと軽い音がなる。「メンゴー」と全く心のこもっていない謝罪に苛立ちを募らせながら、新しいものを取り出す。彼女にいくら怒ったところで意味はないことはこの17年間で十分に学んだ。しかしこのだらしない姉に彼氏がいて私は独り身という構図はいささか腑に落ちない。きっと世の中、偉大な学者先生でも分からないことがたくさんあるのだろう。
いつもの習慣で口に歯ブラシを突っ込んでキッチンに行く。トースターに4枚切りの食パンを1枚入れ、ダイヤルを3の数字まで回す。シャカシャカと手を動かしながら、ぼーっとキッチンからリビングにいる母の志津子と一緒に天気予報を眺めていた。
「今日午後から雨降るみたいね。ちゃんと傘持って行きなよ」
「んー?早めに帰ってくるし大丈夫でしょー」
荷物になる傘はできるだけ持っていきたくない。
「いいから持って行きなさい」
嫌そうな顔をする千夏を歯牙にも掛けず、志津子はリビングに置いてある手提げカバンに折り畳み傘を突っ込む。ほかにも勝手にタオルや水筒も入れている。
「ほら、これに入れてるからちゃんと持っていくのよ。お昼は購買かコンビニでいいわね?」
「…はーい」
ありがたいと感じる一方でこんなに世話を焼く必要はない。千夏はもう17歳で、あと1年で成人する。親ならば自立を促すべきなのでは?と思ったのも束の間、ふと職業病みたいに長年の子育ての癖かもしれないと閃いてしまった。美雨とは4つ歳が離れているから、彼女は20年以上も子育てしている。自身はどうか分からないが確実に美雨は手のかかる子供だったに違いない。
「何よ、その目は」
「別に…」
普段の美雨を思い出し、つい同情的な目で見てしまっていたらしい。余計なことを口走る前に素直に志津子の用意した鞄を持って、洗面所に行った。口を濯ぐついでに顔も洗い終わって、鏡を見ると美雨がちょうどキメ顔で化粧の出来をチェックしている。次はヘアセットをするだろうから、退けと言われる前に自分の部屋に退散する。
自室のカーテンレースに掛けてあるスカートに除菌スプレーをかけ、持ち物をチェックする。委員の仕事と言ったってうちの図書委員は結構暇だ。やることと言ったら図書室カードの確認と本の管理、部屋の掃除くらい。そんなに本の入れ替わりは激しくないし、掃除だって帰りに掃除機をかけるくらいだ。案外要領よくすればすぐに終わってしまう。先生たちから夏休みの課題をする許可ももらっているし、せっかくなら少しでも多く消費したい。
ゆっくりと時間いっぱい使って身支度を整える。そのせいか時計を見ると、もういい時間になっていた。荷物は一つにまとめたい派なので、母から渡されたカバンの中身と準備していた課題をスクールバッグに突っ込むが、鞄は歪み綺麗に入らない。折り畳み傘が引っかかっている。なぜいつも急いでいる時に限ってうまくいかないのか。イライラしながら雑に整理してファスナーをしめ、ドタドタと階段を駆け降りる。
「おかあさーん!食べる時間ないからパン食べといてー」
「じゃあ私が食べる!」
美雨の声を無視して急いで玄関を開けた。
□
冷房で冷えた体がジワジワと外気で温められていく。セミは忙しなく鳴き始めているし、湿度と相まってより暑い。体にまとわりつく空気に心底不快感を感じながら、それでも走る。急がないとバスが行ってしまう。図書委員のペアはしっかりしていて大変助かるのだが、なにせ細かい人だから1分でも遅れると絶対に嫌味を言われる。そもそも遅刻をしなければいいだけの話なので何も言い返せないのが何とも憎らしい。
なんとか間に合ったバスに慌てて乗り込む。夏休みということもあって人は少ない。タオルで噴き出る汗を拭き、息を整えながら入り口付近の2人席に1人で座る。一息ついて少し冷房の下で涼んだら、カバンの中から読書感想文用に選んだ本を取り出した。適当に父の部屋にあった本の中から選んだのだが思いのほか面白い。
両親は読書家で、大学のサークルで意気投合したらしい。昔から家には大量の本が所狭しと壁一面に並んでいる。どれも難しそうな内容で私も美雨も小さい頃は読書に対して軽い抵抗感を持ち続けていた。朝の読書の時間で仕方なく読んだとしてもせいぜい担任が教室に置いている簡単な児童書くらいなもんだ。小学生まではそれで乗り切ることができたのだが、中学に上がってからはそうはいかなかった。読書に対する嫌悪感よりも、思春期特有の謎の羞恥心やプライドが優った。中学生になったのだから児童書を読むのはカッコ悪いとでも思ったのだろうか。挿絵が全くない細かい字の羅列をぼーっとなぞっていた。案外、内容がすんなり頭に入ってきて読書が嫌いなのではなく両親と趣味が違うだけだったと知ったのは大きな発見だった。
「中村さん」
私を呼ぶ声に顔を上げる。そこには同級生の木島哲がこちらを向いていた。彼は千夏の図書委員のペアである木島啓介の双子の弟だ。
「おはよう。隣座っていい?」
「おはよう」
他にも席が空いているだろうに、と思いチラリと周りを見渡すといつの間にか席は埋まっていた。知らない人の隣に座るよりも知り合いの方がいいか。
「…どうぞ」
「ありがとう」
返事を返した後すぐに本に視線を戻す。
□
中村千夏。彼女は同級生の間でちょっとした有名人だった。別に問題を起こしたりするわけではない。ただ彼女の扱い方を知っている人間が少ないだけだと思うが、高校生にしては少し大人びている印象が強い。
彼女に話しかければまるで往来の友人だったかのように気軽に話せるのに、いざ親しい友人のように接すると突然見えない壁のようなものにぶち当たる。かと思えば、困っていれば手を貸してくれる優しさも感じる場面も多く見かけた。好き嫌い関係なく人と関われるところは、哲の尊敬してやまない自信の片割れとの共通点だと思った。
特別成績が優秀と言うわけでもないし、容姿は華やかな感じでもない。そんなに目立つような人ではないがいつの間にか目で追っていることが多い。それは哲だけが感じているわけではなく、友人の樫野斗真も同意見だった。
「なになに、お前も気になってんの?」
「うるさいな。ただちょっとどんな人か聞いただけだろ」
斗真が陸上部の練習が終わった後、哲の家で課題をしていた時のことだった。ふとした事で斗真が小学生から千夏と同じ学校だということが分かった。
「あいつ結構モテるんだよなー」
「!…へぇ」
「ひひひ、聞きたいか?」
面白がる斗真に、気恥ずかしさを隠せない哲は顔を逸らす。
「…いい」
「えー?ほんとにー?」
葛藤している哲を一通り揶揄い終わったのか「でも…」と言葉を続ける。思わず前屈みになっていたがそんなのはもうどうでもいい。
「好きバレは絶対に避けた方がいい!」
「え?」
「気がする」
完全に遊ばれている。
「めっちゃ好きじゃん」
「うるっさい、揶揄うな!」
「へへ、ごめんごめん。お前が恋バナなんて珍しいからさ」
ケタケタと楽しそうに笑い転げる斗真の両頬を腹いせに目一杯摘んでやった。もうこうなってしまっては課題どころではない。2人とも手を止め、一旦恋バナに花を咲かせることにした。
「でもでも、実際中村はさ、恋愛とかにあんまり興味ないんだよ。俺らのことも男じゃなくて人間として見てるてきな?まあそこがいいところでもあるんだけど。冗談抜きで好きバレしたら避けられる可能性あるよ。そう言う奴いたもん。高橋って奴」
「誰だよ高橋」
「中学の同級生」
「知らないよー」
正直認めたくはないが、斗真の言うことには心当たりがあった。男の哲に対しても女子に対する態度と変わらずに接してくる。それが居心地が良くもあり、物足りなさも感じる時がある。
「…ひひひ、で・も!最近はちょっと違う!」
「はぁ?なんだよ」
「最近ネェちゃんに彼氏が出来たらしい」
「へぇ、お姉さんがいるんだ。でもそれになんの関係があるのさ」
「わかんないだろ。身内に恋人が出来るんだぞ?俺なんか従兄弟に彼女出来たって聞いただけでもくそー!ってなるのに」
「ふーん、そういうもんかな」
「そうだって。まあお前かっこいいし背も高いし、頑張ったらイケるんじゃねーの」
「ぐ…褒めても何も出ないよ」
「頭は微妙だけどな!」
「一言余計だ!」
斗真の頭を撫でくりまわし、心がむず痒いのを隠す。斗真のストレートに人を褒めるところは何度聞いても慣れない。
2人とも気持ちが落ち着いたところで課題を再開させた。
□
戯曲というものをはじめて目にしたのは小学生の頃。これも今読んでいるものと同様に父の部屋に置いてあったのを勝手に拝借したのだが、捲って数秒でそっと閉じた記憶がある。文字数こそ少ないが、全てセリフ調で書かれている上に、耳馴染みのない言葉遣いで翻訳されたこの書物は、当時の千夏にとってはただの文字の羅列にすぎなかった。が、今は自分の頭の中に作品が混ざっていくようなこの感覚が少しクセになる。まるで自分が秀才のように感じてとても気分がいい。
しばらくすると哲はこちらに声をかけてきた。もうすぐ目的地に着くらしい。礼を言って本をしまい、定期券を持って降りる準備をした。
「さっきの、課題用のやつ?」
「うん。家にあったやつ。勝手に持って来ちゃった」
「そっか」
バスが止まり、扉が開いたので2人で降りる。
「ありがとうございました」
先に進んだ哲は運転手に礼を言って降りて行った。礼儀正しい彼と違って、千夏は軽く頭を下げるだけ。理由はわからないが知らない人に対して声に出して礼を言うことになんとなく気恥ずかしさがあった。これも思春期特有のものなのだろうか、それとも自分の性格なのだろうか。思春期最中にある自分ではどちらなのか判断するのは難しい。
「何読んでたの?俺まだ決めてないんだよね」
先に行けばいいのに哲は律儀に待っていた。これは一緒に行く流れのやつだが、千夏はこの瞬間が本当に苦手だ。なぜちょっと挨拶をしたら一緒に行動するという合図のようになるのか。
カバンにしまう直前に聞かれたため、さっと本の表紙を見せる。悪魔が描かれた暗い表紙にすぐに興味を失うかと思われたが意外と知っていたようだ。まあ有名な作品だから、知っていても不思議ではないが、何となく哲のようないわゆる陽キャはこういうものは読まないと思っていた。
「これ。パパの趣味なんだよねー。賞に応募する気はないし」
「あぁ、それ結構面白いよね。どうしようかなー、戯曲もありだな…」
「読んだことあるの?」
_こう言うのが好みなら是非うちの父と会って欲しい。きっと気が合うだろう。
「うん、1部だけだけど。うちの爺さんが舞台とか大好きで、小さい時からいろんな本とか演劇とか聞かせられてたんだ。俺が好きなのは少ないんだけど。それは悪くなかったな」
「へえ、じゃあ美術館とかオーケストラとか…」
「付き合いでね。爺さん、趣味友いないんだって」
自分の好みではないのかと少しガッカリしながらも嬉しく感じていた。千夏はこの話題に関して返事を濁さず他人と話したことがなかった。彼の祖父が父によく似たタイプのようだ。
これはあくまで例えばの話だが、本人は芸術系の学校に通っていないし、見る専門だし自分から話しかけるのが苦手だから共通の趣味を持つ仲間を作るのが難しい。でも誰か語り合える人が欲しい。それならばと、将来的に好きになるかもしれない可能性にかけて自分に近しい存在である孫を幼い頃から英才教育を施していたというパターンでは?もしかしたら楽器など習い事も色々やらされている可能性だってあるかもと、勝手に哲に対する偏見が膨らんでいく。
「中村さん?どうかした?」
「あ。いや、私もパパの付き合いでよく行くからびっくりして」
「え!まじ!?びっくりなんだけど!」
「ほんとに。どっかで会ってたかもねー」
まさか同級生に似たような境遇の人がいるとは思わなかった。この話題は一歩間違えると自慢だと捉える人がいるため、いつも話題をそらしていた。その代償というべきか、今まで幼少期の懐かしい話というのが誰ともしたことがない。別に不満などないが、なんとももどかしい気分だった。
父の晴彦は美術や音楽、母の志津子は歴史、特に戦国時代の話を嬉々として話し、それ関連の書物以外だと2人の仕事関連の資料しか家にはない。幼少期なんて忙しい身なのにも関わらず、わざわざ自分達で絵本や紙芝居を作って読み聞かされていた。千夏は両親が楽しそうならいいかと思って大人しく付き合っていたのだが、最近になってそれが間違いだったと気づく。
美雨は話を聞かず、逃げていたからこそ2人も諦めて美雨が5歳になる頃にはやめていたそうだ。反対にニコニコと話を聞いていた千夏は素質があると思って、今でも隙あらば推し語りを始める。今でも覚えているが、千夏が10歳になってすぐの夏休みの日に、毎年家族4人で見にいく演劇を美雨だけあまりにも嫌がるため父方の祖父母の家に預けられたことがあった。美雨の勝ち誇ったような表情も相まって、仲間から裏切られたような気持ちになったのが忘れられない。
晴彦は特にオーケストラや演劇が好きで、志津子とのデートでよく行きたがるのだが、志津子は性格的に自分の好きなタイトルしか付き合ってくれず、そう言う時は千夏の出番だった。千夏は出不精で趣味もなく、普段から特に用事がない上に先にチケットを購入してしまっているがゆえに断りずらい。ちなみに志津子は歴女仲間がいるのでその辺は勝手にしてくれている。
バレエやバイオリン、ピアノなんかを習わされなかっただけマシだと言えようか。いやそれに関しては一芸としてできた方が良い気がしないでもない。
「確かに。小さい頃なんてほんとに頻繁に行ってたから、ないとは言い切れないかも」
哲も千夏もこの話ができる相手がいるとは思わなかったのか、少し瞳孔が開いている。
「ほんとは断りたいんだけど、楽しそうな顔を見ると断りづらくてね」
「分っかる、うちのパパもすごいウキウキで誘ってくるんだよね。すでにチケットを手に持っているときもあるし」
「そう!そうなんだよ。せめてタイトルくらい選びたいんだけど、連れていってもらってる手前言い出しづらいし。バレエなんか特に眠くなってしまうものが多くて_「アキ!」
唐突に彼を呼ぶ女性の声がする。前を見るとうち学校のマドンナ、3年生の山下恭子が鬼のような形相でこちらを睨んでいる。
「げ…」
いつも仏のような哲が心底嫌そうな表情をしている。こう言う状況を見たことがある。確か美雨の彼氏が家にきた時だ。美雨がたまたま出かけていて、私が彼と話していた時に同じような状況になったことがある。あの時は本当に大変だった。
_は!これはまさか
「またその子!?」
_2人は付き合って…お、ん?また?
「関係ないだろ」
「今日くらい私を優先してくれてもいいじゃない!」
「なんで俺が?啓介が散々忠告してあげてたのに、聞かなかったお前が悪いんじゃないか。それに俺だってお前の彼氏に悪いってなんども言っただろ?」
「それは…翔太にだって2人とは何の関係もないって言ってたし…」
哲の初めて見る表情や言葉遣いが予想外で面白い。哲と啓介は一卵性の双子で同じ顔をしているのだが、哲は普段にこやかで啓介は近寄り難い雰囲気を纏っていた。でも、今の哲は啓介よりも冷たい瞳をしているように見えた。
千夏は自分はいない方が良いと思い、先に学校に行こうとしたが、恭子の無言の圧に負けて大人しく2人の会話を聞くことにした。
しばらく千夏は恭子と哲の会話を聞いていて、ふと自分も誰かの彼女になる可能性があることや勘違いされる可能性があるということを思い出す。全く男女の意識がなかった千夏は少し焦りを感じた。勘違いでよそのカップルを仲違い、最悪別れさせる状況を自分が作るなんて真平御免だ。聞いている限りこの2人はただの友人なのだろうが、まさに男女のいざこざによる修羅場の真っ只中。どうしようかと思いながらも少しこの状況を楽しんでしまっている自分もいる。
恭子は哲と言い合いをしたかと思ったら、キッと千夏の方を睨みつけさっさと1人で校門を潜った。美人は怒ると怖いとはこのことかと感心してしまう。3年生の彼女がこの時期に学校に要があるとするならば職員室か図書室にある自習スペースだ。できることなら職員室であってくれと願うばかりである。
「はぁ…ごめんね中村さん。気にしないで」
「いえ、こちらこそ」
「?どういう意味?」
「なんかちょっとワクワクしちゃって。久々の修羅場だったわ」
「修羅場ってほどじゃないと思うけど…まあ不快じゃなかったならよかった。俺たちも行こうか」
「そうだね」
ふと、先ほどの哲をみて思ったことがある。彼の兄、啓介はどうしたのだろう。千夏と一緒に委員の仕事をするのは兄の方だ。
「ねぇ、兄の方はどうしたの?」
「啓介?」
「うん」
「先に行ってると思うよ。もう教室着いてるんじゃないかな。俺朝弱いからよく置いていかれるんだよね」
_わかる。私もよく美雨に置いていかれた。
「へえ、意外。ちなみに木島くんはなんの用事で学校行くの?」
「んー…合唱部の手伝いかな」
「合唱部って夏休み練習あるんだ」
「うん、コンクール近いからね。でも俺は伴奏だし、来ちゃったら結構楽だよ」
やはりピアノが弾けるのかと妙な納得感。しかし、いくら伴奏とはいえ部活の練習はもっと早いはずだ。部活とかポジションによって違うのだろうかと考えていると、後からある言葉が耳に入ってくる。
「ちょっと待って、兄がすでに着いてるって言った?」
自分で質問しておいて、何て間抜けなんだ。その返事を後回しに朝置いていかれるということに共感して気を取られるなんて。
「うん、誰かに捕まってなければだけど」
「くっそまた小言言われるかも…」
慌てて腕時計で時間を確認して、間に合いそうだったので胸を撫で下ろした。
「よし、いける」
小言が多いと文句を言っても、別に啓介を嫌っているわけではない。むしろ好印象まである。雰囲気だけで見ると少し近寄り難いが、千夏だけでなく他の人に対して理不尽に怒ったり感情的になったところも見たことがないし、違う人間を理解しようとする姿勢が実に好ましい。ただ木島啓介という人間は千夏の最も近しい人間、中村美雨とは完全に真逆の人間でどう接すれば良いのか模索しているところだ。
「啓介、中村さんにも小言言うんだ?」
「それはもう」
「うちの兄がごめんね」
「ああ全然気にしないで。むしろありがたいと思ってるしー。だらしない私が悪いからね。ただ言い返せないのが悔しいだけ」
「…そっか、それはよかった」
そんなことを話しているとあっという間に3階まで着いた。図書室と音楽室は中階段を登って左右に分かれる。だから哲とはここでお別れだ。
「じゃあ、部活頑張ってね」
「ありがとう。中村さんも委員の仕事ありがとね、頑張って」
「うん」
ガラガラと教室の扉を開けると先ほど別れた哲と全く同じ容姿の人間がこちらを見る。彼らと出会って初めの頃はまるでドッペルゲンガーにでも合ったような気になっていた。
彼の視界に入ると何か悪いことをしていないか、何故か自分の行動を誰かに確認したくなる。
「…おはようございまーす」
木島啓介だ。思わず小声になってしまう。遅刻はしていないはずだが念の為壁にかけてある時計を見る。
「おはよう。ギリギリ間に合ったね」
「うっす。お疲れ様です」
危なかった。あと2分遅ければ遅刻だ。
「ギリギリを目指してきているのであればやめた方がいいと思うよ。いくら夏休みでも朝は急いでいる人が多いから普段よりも衝突事故が発生しやすい」
「それはそうなんだけどね……善処します」
「うん」
まるで母のような小言が続く前にさっさと彼の隣に行き、机の下の籠に荷物を置く。正直、恭子の襲撃がなければもっと早く着いていたがそんなことは啓介には関係のないことだ。変に言い訳をするよりも素直に謝った方がこの場は円滑に進む。
先生と生徒からのリクエスト購入した本が届いていたようで、啓介は中身のチェックをもうすでにし始めている。千夏はチェック済みの本とまだ終わっていない本のジャンルを軽く確認した。更新された赤本や広辞苑、それから最近賞を取った小説など数はたくさんではないが、すでに場所が埋まっているところのジャンルがほとんど。本専用の台車を持って、啓介に本棚の空きを作ってくると伝えると仕事を変わってくれた。こう言うところは本当にありがたい。本の整理はかなりの重労働で、一般的な女子ほどの筋肉もない千夏には正直きつい。
意外にもこの2人は沈黙が苦にならないペアで、しかも2人とも仕事は真面目にやるタイプであるため図書委員をするにあたって最適だった。他のグループの時はもう少し話してもいい雰囲気があるのだが、この2人が担当の時の図書室は息遣いにまで気を使うほどの緊張感が漂った。
とはいえ啓介は時々、千夏を苦手に感じる瞬間があった。他の同級生と比べてもかなり話しやすいのだが、いざ距離を縮めようとすると、とたんにNOを突きつけられる。それも拒絶に感じるほどに。啓介にはそんな経験はなかったため最初はかなり戸惑った。第一印象が素直で話しやすいだけにこのギャップは大変心にくるものがある。
彼女の懐に入ろうと試みる者は当然多いが、思う以上にその壁は厚い。教師や同級生たちはそのガードの硬さに嫌われていると勘違いするものも少なくない。
啓介の場合は、彼女にはその距離感が必要なのかと仮定し、深く踏み込もうとすることをやめてみた。それによって何かが変わったことはなかったが、自分の心は軽くなった。
黙々と新書にブックカバーフィルムと貸し出し用のカードケースを貼る作業をしていた千夏は手を止める。あまり急いで仕事をしても午後の仕事がなくなってしまう。
グーッと伸びをしたついでに、啓介の姿を目で探す。本棚に挟まれながら、どうやって場所を開けようか考えている姿を見つけそこまで歩み寄る。
「木島くん、午前の分はこれでいいんじゃない?」
「ん?あぁ、早く課題に手をつけたいんだね」
「うん」
啓介は千夏の思考を正確に理解し、時計を確認する。
「いいよ。チェックリストは半分以上埋まっているし、残りは午後からにしようか」
途中の仕事たちは邪魔にならない程度に片付ける。本当は自習スペースを使いたいが、入り口から離れた位置にあり、半個室になっているせいで今は図書委員は使えない。誰か来た時に応対できなくなるからだ。成績優秀な啓介のとなりで課題をするのは少々気恥ずかしいが仕方ない。大嫌いな物理と数学からさっさと終わらそうと黙々と課題をこなす千夏の隣で、長い足を組んでゆったりと読書を楽しむ啓介。まるで家庭教師と生徒のようだ。
実際のところ千夏が集中力を切らして手が止まっている時は指摘してくるが、問題に躓いてうんうん唸っている時は特に助け舟を出してくれるわけはない。ちらりとこちらを一瞥するだけで特に勉強を教えるなどはしてくれないのが何とも憎らしい。
□
ある程度課題を消費できたところに、哲が入ってきた。
「2人共お疲れ様。もうお昼だけど休憩にしない?」
「哲?……あぁ、分かった分かった」
仲のいい兄弟だなと思いながら時計を見る。針はちょうど真上よりも少し左側を指していた。哲は少し早めに切り上げてきたようだ。
「中村さんも一緒に休憩にしようか。お昼は持ってきてる?」
「ううん、今日はコンビニで済まそうかと」
「そう。哲は?」
「忘れちゃった」
「じゃあ2人で行ってきな。僕はお弁当持ってきてるから、食堂で先に食べてるよ」
「え、1人で食堂で食べるの?それなら一緒に行こうよ。それか私が木島くんの分も買ってくるよ」
流石にあの広い食堂で一人飯は寂しすぎる。教室ならまだマシだけど夏休み期間中は空いていないし、食堂と購買も職員は休みだ。
「それはダメ。にしてもややこしいね。どっちも木島だし下の名前で呼んでよ」
「えーじゃあ木島弟君」
すごい微妙な顔で返されたが千夏的には下の名前で呼ぶのは遠慮したい。この2人、というか特に哲の方は女子生徒から人気があって、いわゆるカースト上位に属する人だ。余計なことに巻き込まれたくなかった。一番人気というわけではないが、何もしなくても目立つ双子と仲がいいと思われてはコミュ力お化けの他の1軍達に絡まれる可能性がある。千夏の目立たずひっそりという今年の目標が早くも半ばで達成不可能になってしまう。ただでさえ教師達に目をつけられているのに。
「一旦保留にしようか」
「呼び方は君の好きにしてくれ。僕は部活で来ている友人に混ぜてもらうから、さっさと2人で行ってくるか哲が2人分買って来るか選んでくれ」
「木島兄くんに友達いたんだ」
「…好きにしてくれと言った手前悪いが、その呼び方はやめてくれ」
_残念、兄の方もお気に召さないようだ。
「それはそうと、この時間早く行かないと店が混んでくるよ」
「確かに」
「木島弟くん、なるべく早く帰ってこよっか。流石にぼっち飯をさせるわけにはいかない」
「そうだね。あと普通に名前で良くない?」
「えー」
「はぁ…全く何が気に入らないんだ。まぁとにかく早く行ってきな。哲は分かってるな?」
「ごめんって、ありがと。あとでお礼するね」
なんのお礼かは知らないが、とにかく千夏は鞄を持っていかなければならない。が、欲張って課題を持ってきたせいで鞄が重い。鞄を置いていた場所に今度は課題をできるだけ置いていく。
「ずいぶん持ってきてたんだね」
「欲張りました」
どう考えても今日1日でそんなに終わるわけないだろうと言う2人の痛い視線を感じながら、急いで準備をする。
「お待たせ。よし!行こう」