3. 14歳と18歳②
新しくきた花嫁はちょっと変わった人だった。噂によると義父である大旦那様としょっちゅう喧嘩しているらしい。だがそれ以外は誰に対しても人当たりが良く、使用人からは概ね評判は良かった。
ある日俺は執事に呼ばれた。小間使いが執事に呼ばれるなんてまずない。首になるのかと思い恐る恐る呼ばれた部屋に行くと、執事はため息をついていった。
「これから毎週日曜日、教会に行って勉強して来い。」
「勉強? 俺が?」
「そうだ・・・字やら計算やらを奥様が教えて下さるそうだ。」
よく分からず首を傾げると執事が続けた。
「奥様はこの領地の平民に学を授けてくださるそうだ・・・誰も参加しないのは聞こえが悪い。ちゃんと行けよ。」
それだけ聞くと俺は部屋を追い出された。字やら計算やらが俺に必要なんだろうか。この家は使用人全員に護身術を教えてくれる。それは大いに役に立つと思うが、勉強ねぇ・・・だが命令とあれば行かない訳にもいかない。
その後使用人同士の話から、新しい奥様が大旦那様の反対を押し切って始めたことだとわかった。
「奥様は領民のことを考えてなさるおつもりなのに、ドーナー家からは一切金銭はださないそうよ。ケチねぇ。」
サンドラさんは一人で憤慨していた。だが自分が参加するのは恐れ多くて無理らしい。
結局内容はよく分からないまま日曜日の教会に行くと、奥様と兄弟のオトウトとミカがいた。他に集まっていたのは10人もおらず、半分はどこかで見たことがある屋敷の関係者で、残り半分はその辺からかき集めたであろう子どもだった。その内比較的歳をとっている半分には奥様が算数を教えることになった。残りの俺とミカを含めた5人はオトウトから文字を教わることになった。
よくわからないまま新しい黒板を渡され、字の説明を受ける。オトウトは丁寧に一つ一つ字を教えてくれた。知ってる字や見たことある字もあるが、だいたいはおかしな線にしか見えない。隣に座っているミカと顔を見合わせる。ミカは今雑貨屋の店員だが、アダール様の妻を近く見たいと参加していた。まだ諦められないらしい。
ぼんやりと聞いていると急にオトウトが俺の前に立った。
「君の名前は?」
「・・・ダリッチ」
「ダリッチね・・・ここら辺じゃ珍しい名前だね。」
オトウトはそう言いながら俺の黒板を手に取りさらさらと書いた。
「これが君の名の綴りだよ。ダリッチ。」
優しい声で言われて黒板が返ってくる。不思議な文字が書かれていた。これが、俺の名前・・・
オトウトはその後も次々と参加者の名前をそれぞれの黒板に書いていった。
「今日は自分の名前を書けるようになろう。書けるようになったら友達の名前や家族の名前も書いてみよう。綴りは私が教えるから。」
みんな嬉しそうにクスクスと笑いあいながら何度も何度も黒板に自分の名前を書いた。
「先生! あたし妹の名前書きたい!」
「俺も!」
「あたしはお母さんの名前がいい!」
騒ぐ子供たちにオトウトは一人ずつ丁寧に教えていった。よくばったミカは黒板一杯に見本を書いてもらい、家に持って帰りたいと喚いた。
「・・・紙はないのかな。」
オトウトがポツリと呟いた言葉にイラっとした。
「そんな高いもんあるわけねえだろ。この黒板だっていくらすると思ってんだ。」
俺の言葉にオトウトは驚いた顔をした。ついでに奥様が自費でこの教室を開いていることを伝えると、必ず補填すると言いだした。
「金持ちはかっけーな。俺と年変わらねぇのにポンポン金出せんだな。」
「君はだいぶ年下だろう?」
「4つしか変わらないよ。」
「まだ子供じゃないか。」
「あんただって子供だろう!?」
「18才は子供じゃない。」
離れた所で別のグループを教えていた奥様が飛んできて怒られた。
「ダリッチ、大人しくできないなら摘まみだすわよ。」
謝ると奥様は俺の頭を撫でて元の場所に戻っていった。奥様が俺の名前を憶えてくれていたこと、頭を撫でられたこともなんだか嬉しかった。こんなに優しい奥様なのにドーナー家の人間は金は出さないし、仕方なく結婚したとかいうし・・・ろくでもない奴らだ。
他の子に字を教えているオトウトを黒板越しにじっと睨んでみた。気付いているのかいないのか、オトウトはこっちを見ようともしなかった。
それから毎週日曜日は教会に通うようになった。文字を覚え、読み方の規則性を覚えると一通りの文も読めるようになる。ほとんどの奴はその時点で来なくなったが、俺は通い続けた。
最初は俺のように頼まれてきていた人間も多かったが、徐々に教室は評判を呼び字や数字に興味がある奴らもが集まるようになっていた。しばらくすると俺は教わる方から徐々に教える方へシフトして行った。奥様に頼まれたからだ。奥様は前から俺のことを知っていたらしい。
「だってあなた・・・前に植木に水を撒こうとして屋敷の前をびしゃびしゃにしてた子でしょ?」
奥様は笑いながら言った。この日は平日で俺は屋敷の門から厨房まで野菜を運んでいる最中だった。奥様はたまたま外から歩いて帰ってきた所だったらしい。奥様に馬車を使わせないなんて!と以前サンドラさんが騒いでいた。やっぱりこの家は奥様をいじめている。
「すみません・・・水の魔石なんか滅多に使わないもので・・・」
「大丈夫よ。アダールが火魔法で乾かしたから誰の靴も汚れなかったわ。それより随分と若い子がいるんだなって思って微笑ましくって。」
奥様はくすくす笑った。どうやらその時名前で怒鳴られていたのでそれで覚えてしまったらしい。笑っている奥様を見ているとなんだか気の毒になってきた。こんなにいい人なのに。
「あの、奥様・・・」
「どうしたの?」
俺が足を止めると奥様も一緒に立ち止まってくれた。並ぶと奥様の方が少し背が高かった。
「この家、辛くないですか?」
「あら、どうして?」
傘と一緒に奥様は首を傾げた。晴れた日にさす傘は日傘というらしい。そんな上品なもの、初めて見た。
「だって・・・奥様いじめられてるみたいだし。」
奥様はくすくす笑った。
「いじめられてる・・・そうなのかしら。気付いてなかったわ。」
そういうとまた笑った。なにも可笑しい事なんて言ってないのに。
「だって俺聞いちゃったんです。仕方なく結婚したんだって。」
ちょっとムキになって言ってしまった言葉で奥様はようやく笑うのをやめた。代わりにとても困った顔をした。
「・・・盗み聞きしたの? それはいけないことよ?」
「すみません・・・たまたま、聞こえてしまって。」
俯くとまた奥様はふふっと笑って言った。
「貴族には貴族のルール、女には女のルールがあるの。・・・もちろん使用人には使用人のルールがあるわね。使用人のルールは盗み聞きしない、聞こえてしまったことはすぐに忘れて絶対に他言しないことよ。わかった?」
「すみません・・・」
奥様は俯いて謝るしかできない俺の頭を一撫でして行ってしまった。
俺も野菜の入った箱を抱えなおして厨房へ向かう。普段は町の八百屋が厨房まで運んでくれるのに、たまたま歩いてるのを見つかって押し付けられたのだ。
歩きながら奥様の言ったことを考えた。奥様はイジメに気が付かなったという。サンドラさんが言うには貴族の女は常に馬車に乗って移動するものらしい。ならば馬車を使わせてもらえない時点でイジメに気が付かない訳がない。やはり奥様は無理をしているのだろう。それともそれだけ夫の顔に惚れてるんだろうか。ミカみたいに。
誰かに相談したかったがぐっとこらえることにした。ルールは大事だ。あの奥様になら仕えるのは嫌じゃない。この仕事を続けたいのなら、俺は使用人のルールを守らなくてはいけない。