1ー07 アイス・メモリー
セージはそれでも分からずに首を傾げた・・・が、そのぎこちない動きから、首のあたりも補助機械化されていることが分かる。もしかすると、声帯も機器によって補助されているのかもしれない。
だから声がおかしいのだろうか?
「君は生身の持つ弱点をすべて克服し、全てを超越した存在になったのだっ。いま我々が手がけているアンドロイドなど、玩具にすぎないっ」
博士は手首に付いているリストバンド・センサーのボタンを押し、「鏡」と言った。
アイグラスの内側の画面に【開けますか?】と電子文字が現れたので、視線を移動させて項目【YES】を選択する。
セージが台のふちに足を下ろしている間に、自動カーテンのように壁が折り畳まれてゆく。
自分の新しい腕から視線を上げると、目の前の壁だった場所に一点の曇りも無い鏡が現われていた。
《・・・それは・・・?》
一瞬小首を傾げたセージは、次の瞬間に言葉を失った。これは鏡だ。反転している博士の側、台の上に座っているのは、他ならぬ自分の姿の筈だ。
しかし・・・しかしそこにいたのは、以前の自分とは全く異なった存在――いや。『自分と異なる』と言うより、『人類』と、と言った方がいいのかもしれない。
セージはゆっくりと床に着地し、自分の足で鏡の前に歩こうとした。いくら空調が整っているからと言っても、裸足のはずなのに僅かの温度も感じられなれない。
――鏡に細工がしてあって、博士は自分をからかおうとしているんだ。
そう思ってみるが、博士がそんな気質の人間でない事は知っている。セージは鏡に行き着く前に、脱力して膝から崩れ落ちた。足に痛みはなく、ケガをすることはない・・・いや。もっと大きな衝撃ならば、〝故障〟ぐらいはするだろうか。
「セージっ?」
セージの目は動揺で泳いでいた。しかしそれは、透明なガラスレンズのような部品である。頭髪は無い。もとより、体毛が生える皮膚が全身のどこにもない。セージは、白いカバーで覆われた自分の体を触った。黒い金属カバーが所々にある。男でも女でもない。人でもない。生身の部分が見えない。
しゃがみこんでセージを観察していたベルガ博士は、部品や信号伝達の不具合でないことを悟り、納得したように頷いて立ち上がった。
「君は四十年前のあの爆発に巻き込まれ、死にかけた。しかし頭部の損害は奇跡的に最小限ですみ、発見が比較的早かったおかげで、記憶保存装置にかけることができた。その記憶は現在まで極秘に保存され、そして君は今日、生まれ変わったんだっ。実に素晴らしいだろう?君は初めての成功例だ」
博士は新しい玩具を手にいれた子供のようにうきうきとしている。そんな博士が歩んでいく方向に、セージは呆然と視線を巡らせる。博士はセージが寝ていた台の裏側から、重そうな機械の乗っているワゴンを楽々と移動させてきた。
機械を乗せた金属の箱は、床から数センチ上空で浮遊している。博士がその箱へと手を添えると機械音がした。箱の上は死角であるが、指紋照合確認がすみ、箱の内部表面で動きが始まることをセージは半ば本能的に察知した。
いや・・・機械的、という方が正しいのかもしれない。
「アイス・メモリーはまだまだ実験段階だった。君も知ってるだろう?わたしが記憶のメモリー化を実現させようとしていたのは。脳が所有している莫大な情報を処理するのに時間がかかったが、やっとわたしの夢が実現したのだ」
博士がボタンを押すと、箱の一部が蓋になって下にスライドした。中には透明なガラスケースが入っている。密閉性が高く分厚い円柱ケースには、気泡の浮いた液体が満たされている。小さく小さく、唸るような重低音が箱の中から聞こえる。箱の中身は常に起動しているのだ。呼吸をしているかのように、中の気泡が上がっていく。
〝それ〟は、数え切れないほどのファイバーと針で繋がれていた・・・。
セージの瞳は自動的にサーモグラフィ機能に替わり、中の一部がマイナスに保たれていることを知る。博士は愛しそうにケースを撫でた。辛うじて動揺を抑えているセージは、呻くような小さな声で聞いた。
《それは・・・誰のっ・・・》
「もちろん、君のだ」
ケースの中に入っているのは、人間の脳みそだった。
セージは天上がかき回されたような大きな眩暈に襲われた。
吐き気がする。寒気と嫌悪感が背中を走る。