1-04 尼寺
メロカリナが〝ユーノアス〟と呼ばれるのは、百五十年ほど前に『悪魔風』でスタロイディが激減したのが原因でもあるし、先天的に優れた戦闘能力や特殊体質が備わっている血族であるし、美形の多い一族でもあったからだ。
メロカリナは周辺の民族から、『神に好かれた者達』とか『楽園に近い者達』という意味合いの言葉で呼ばれていた。その血を継いでいるアレクやメロカリナの伝統が、整形の必要を感じないのも無理は無い。
アレクは今にも抜けそうな板床を歩いて、前の住人が置いていった小さな冷蔵庫を開けた。何故失踪したのかは不明だが、この街ではよくあることなので、いちいち気にしていたら生きていけない。
スラムまでとは言わないが、ここらの地区も水道水は安全じゃない。アレクはボトルの蓋を開けた。精神安定剤をビタミンウォーターで四・五粒と、強めの睡眠薬を飲んだ。
リモートコントローラーを使わないと電源が入らない旧式のテレビをつけ、ソファーへと腰かける。ランダムボタンを押すと全チャンネルが表示され、枠がルーレット式に回って停止すると、映像が拡大されて固定した。
歌番組のようだ。顔や腕に刺青を入れた少年達がこちらを挑発するように叫び、ゴシックロリータの格好をした無表情な女がオペラを歌い、バーチャルアイドルが愛嬌をふりまきながらジャンル不明の歌を披露している。
薬が脳神経にとろりと効いてきた頃、ジャポニズム衣装の美女が登場し、歌詞のないメロディを歌い始めた。囁くようだが濃淡のある、どこまでも響きそうな不思議な声だ。
アレクは背中をソファーへと預け、ゆっくりと目を閉じた。
歌手の姿が瞼の裏に残り、その女が溶けて見覚えのある別の女に変化していく・・・腹のあたりで組んだ細い腕を包み、ゆったりとした袖が揺れた。
何本もの柱が立っている中庭は淡い光に包まれている。女の横顔がこちらに振り向き、水色の瞳が細くなり、手招かれたままに近づいていくと頭を撫でられた。
マレキリート・ガロムニス派の尼寺は、七歳までの子供は男女を問わず天界とへその緒が繋がっていて、真の世俗人ではないとゆう解釈のもとアレク親子を受け入れてくれた。
一番長く身を置いたその尼寺の中庭で、八歳のアレクは珍しく母親に抱きしめられた。優しい声で「大きくなったわねぇ」と言われると、驚きと恥ずかしさで顔をそむける。
“たとえ親子であっても、異性には必要以上に触れてはいけません ”
そういう戒律があったので、アレクは戸惑っていた。
廊下の角から人影が見えて、慌てて母親から離れる。気まずい雰囲気。母親の苦笑の気配。そのあと母親はシスター達とともに出かけ、そして――・・・そして・・・。
アレクは顔を歪めた。
無意識にソファの肘掛を握り締めている。
勝手な外出は禁止されていたが、母親が大事にしている指輪のネックレスが廊下に落ちているのに気付き、アレクは中庭の木を伝って屋根によじ登った。そこから壁や柱を伝って移動し、道路に飛び降りる。誰にも見つからなかったし、怪我も無い。募金をお願いする場所、オフィス街へと走った。
クリーム色の建物の角を曲がり、大きな道路の向こう側に母親とシスター達が見える。外出時には皆、白の尼僧服とロザリオ付きの頭巾に、白い手袋だ。オフィス街では水素燃料車か浮遊車が主流で、一般民の中でも生活水準が高い。スーツを着ている会社員ばかりのこの道で、彼女達は浮き立って見えた。
スーツの大人はなぜだか彼女達が見えていないらしい。
――耳が悪いのだろうか。皆が?
小さい頃は、素直で無邪気な疑問を持っていたものだ、と、今のアレクは思う。
ふと、黒人の少年が四人でオープンカーに乗っているのを見つける。アレクは繊細で警戒心の強い子供だったので、男達に〝嫌なもの〟を感じとって彼らの死角へと隠れた。
男達はニヤニヤしながら何かを話し、奇妙な目で神に仕える聖なる女達を見ている。
それがのちに異性を見る目だということを理解し、アレクは自分の中にある彼らと同じかもしれない感情をひどく嫌悪した。
ゆっくりと高級オープンカーの屋根が閉まり、シスター達の前で止まる。一人の少年が道路に降り、にこやかに話しかけた。母が気付き車へと近づいて行く。
「ダメだっっ」
――そう叫びたいのに、声が出ない。
突然車の中から黒い腕が飛び出して、母親は驚いて腕を払った。外にいた少年が母親の背中を突き飛ばして車内へと押し込める。
驚いたシスター達が止めに入ろうとすると、少年はいかにも楽しげにナイフを取り出した。
その日は天気がよくて、ナイフの表面は鏡のように反射する。
シスター達の白い服に、細長い銀色が何度もめりこんだ。尼僧服が血で赤く染まっている。
少年が乗り込むと車が急発進される。どんどんと視野から小さくなり、角を曲がって死角へ消えた。ナンバー・プレートは付いていない。悲鳴。どよめき。悲鳴。サイレン。
アレクはレンガの壁に手をつけたまま、呆然と立ちつくしている。
――それを客観的に見ている、大人の自分が側に立っている・・・。
どうやって帰ったかは、未だに思い出せない。
次に記憶があるのは聖堂での葬式だった。棺おけに入った母親は、黒い百合の花に囲まれている。周りに立っているシスター達は、すすり泣いていた。
「最後のお別れをしなさい」、と誰かが言う。
アレクは棺おけの中を覗き込んで、化粧でも隠しきれないアザを目元に見つけた。ウエディングドレスのような喪服を着た母親は、いつもの癖のように腹のところで手を組んでいる。
細い腕に切り傷を見つけ、アレクは思わずその傷に触れた。冷たい。状況を理解していなかった。シスター達が故意に情報をしめきっていたからだ。
「お母さんはガロムニス様の御許に行くのですよ」
どうして僕を置いて行ったんだろう?
どうして一緒じゃないんだろう・・・?
本当の意味で彼女を思って泣いたのは・・・ずっと、ずっと先のことだった。