序章 その花びらは夫人の口紅と肉片に似ていて
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ロボットはより人間らしくなり、
人間はより、機械と獣に化していく
(S・S)
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昨日は小雨が降ったので、辺りはしっとりと濡れていた。
アスファルトの地面には、まだ張り詰めたような冷気が淀んでいる。
どこか遠く、もしかすると耳の奥で、パトカーのサイレンが唸り声をあげている。
緑色のゴミ箱の隣で、青年は赤レンガの壁に背を凭れさせている。
残り少ないウイスキー瓶がその手に握られていたが、酔うことも眠ることもできずに夜が明けてしまった。残るのは沼のように濁ったまどろみと、一瞬が永遠に続く鮮やかな悪夢だけだ。
母親譲りの水色の目をうっすらと開けると、どんよりとした灰色の空が見える。
細い溜息・・・。
無意識に右足を摩ると膝の辺りで感触が変った。アレクが使っているのは機械と神経を繋ぐ、最新の神経機械義足だ。
《幻想の痛みに潜む怪人》。
通称F O F P症候群は、無い筈の患部の痛みやかゆみ、違和感に悩まされる症状のことで、アレクにおこる症状の一つでもある。
アレクは億劫そうに立ち上がり、袖の中から写真を取り出して女の顔を二つに裂いた。新聞紙で暖をとっている向かいのホームレスに酒瓶と灰色のローブを渡して、彼らが所有しているドラム缶ストーブの炎の中に写真を投げ捨てた。
この街はまだ一般市民の住居率が高く、貧富の差がある者達の溝も比較的穏やかだ。アスファルトみたいな原始的な舗装術が残っているのもその為で、一般民が飛行車に乗るなんて夢のまた夢。汗水たらして浮遊車が精一杯、とゆうある意味健全な街だ。
アレクはホームレスに礼を言われるのを無視して歩き出した。
途中でバンダナがしゅるりと落ちて、それを空中で受け取る・・・小さなため息。結び目をといて金茶色の髪にあてると、腰まである長いバンダナを結んだ。
彼が身に纏っている長い衣の袖はゆったりとしていて、歩く度に優雅に揺れる。コートのようにも見える寛衣は、アレクの出身地ー正確には、母親の出身地ーであるメロカリナ族の民族衣装だ。メロカリナ。現地の発音では、メロカリーア。別名エドナカリン。山岳地帯と砂漠の秘境とも呼べる場所の、戦闘能力に長けた一族である。
いや、正確には「あった」、というべきだろうか。今では全滅したと言われる一族の、アレクはその末裔だ。一度も故郷を見たことはないが、一族としてのある種の執着、自覚と誇りを強く持っている。その為、できるかぎりの時間を民族衣装、『キゴジュ』を着て過ごしていた。
昨日のターゲットを殺す時にでさえ、ローブの下にはこの服を着ていたぐらいだ。
他民族が混在するこの街では、誰がどんな服を着ていようとも関係ないのだ。キゴジュが鮮やかな色合いの牧師服に似ていても、別段、教会関係者以外は興味を示さなかった。
依頼人との成功報酬の受け渡しは、ターゲットの遺品と現金の交換である。間もなく約束の時間なので、アレクは指定された石橋のトンネルを歩いた。間接照明が等間隔で埋め込まれている壁を横目に歩き、防弾ケースを持っているスーツの男を横切る寸前、アレクはそこで立ち止まった。
「・・・どこかでお会いしましたか」
依頼人の仲介役が聞いた。丸い片メガネの鎖が、耳たぶのピアスに繋がっているのが印象的だ。アレクは平坦な声で合言葉を返した。
「ええ。きっと前世で」
ふと男の警戒が半減し、銀色のケースを横向きに差し出した。アレクは血の付いたダイヤの指輪をケースの上におき、男が指輪を受けとるとそのケースを受け取った。
「予定変更です。他の宝石類もそちらに差し上げましょう」
アレクは眉をひそめた。
「物取りの犯行、ということで警察は捜査をするでしょう。万が一にでも邸で捜査が行われた時、無くなったはずの物が出てきて貰っては困りますから」
「・・・では、遠慮なくいただく」
アレクはケースの中身を確認してから、トンネルの向こう側を歩いていた黒漆の花車引きを呼びとめた。ポケットの中に押し込んであった金で赤い花束を買うと、花車引きの気配が消えるのを待ってから、トンネルの暗がりに立つ男に花束を差し出した。
「墓前に。依頼主にはお喜びを。そして依頼主の御夫人には、ご冥福を」
「・・・痛み入ります」
絹帽の仲介者は会釈すると、上品な足取りでその場を去った。
アレクはそれを一瞬だけ見送り、反対の方向へと歩き出した。