2-01 ベルガ博士
二章 境界線は何処にあるのか
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わたしは万物に溶けている。
(解読不能)
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ベルガ博士は太い眉を寄せた。
他の社員のように皮膚を張り替えたり、人工毛を移植したりはしていないが、アンドロゲンとエストロゲン他、様々な投薬のおかげで八十三歳には見えない姿をしている。せいぜい六十過ぎだ。しかし額に入った皺は深い。黒ヒゲに隠れている口元が、深刻なため息を漏らした。
悩みの種は、自身の手で蘇らせた助手のセージだ。進歩した未来――現在か――に多少戸惑いはするだろうが、科学者の端くれならばこの状態を喜ぶだろう・・・そう思っていたのに、彼は口を開けば「なぜ」「どうして」と責めてくる。
――なぜ蘇らせたのですか。
――どうして死なせてくれなかったのです。
彼がこの世に蘇ったことで、多少混乱することは予想していた。しかし十日経っても精神状態が持ち上がらないのは予想外だ。
何度精密検査を行っても、神経伝達人工回路や器には問題がない。ならばやはり、彼は精神を病んでいるのだ。
ベルガはセージの精神分析表のカルテを睨み見ていた。
慢性的うつ状態。
レベルA・重度の自殺願望あり。
記憶障害あり。特に四十年前の研究施設爆破事件――再生直前の記憶――の記憶喪失は著しく、原因は爆破当時の精神的ショックだと思われる。退行催眠の結果、過度のストレスによる人工神経回路の破壊が確認され、ストレスレベル・5を確認。直後被験者は音声量レベル9を発し気絶。計測不能状態に陥り、計測断念。
・・・これが肉体を持つ者なら、精神安定剤や精神鎮静剤、精神浄化剤などを使う所だが、彼は脳みそすら持たない完全なロボットなのである。自我精神を持つロボットなど特に前例がないために、ベルガ博士は頭を抱えていた。
セージの精神を持ち上げるには、セージが所有している過去の記憶を一部取り除くか、一部の作り変えをするのが一番効率的かつ合理的な解決法ではある。現代の科学をもってすれば、セージの記憶を修正するのは簡単なことだ。
しかし過去の経験と記憶は、現在の人格形成に大きな影響を与えていることは言うまでも無い。ここでセージの精神に人工的な手を加えてしまえば、それはセージの模造品に過ぎなくなってしまう。
『人工精神』は新商品のアンドロイド、個性強調型にも使っているプログラムだ。四十年もかけて研究し、死者の記憶と精神を呼び起こすまでに至ったというのに、肝心の『自然的精神』に手を加えることなどできる筈がなかった。
地道にカウンセリングを行い、自然治癒するのを待つしかなさそうだ・・・。
――結局科学で蘇らせたのは、科学の手には負えない代物だったのか。
博士はいつになく弱気になり、そんなことを思った。
ベルガの両目は老化のために視力低下が著しい。治療をおこなってはいるが、それでも日常生活に支障をきたすようになってきた。そのため常に視力補助機能がついているアイグラスをしている。
パシュー、という音がして入り口のドアが開いた。車椅子に座っていたベルガは、肘掛についている球体のコントローラーに触れ、入り口に振り向いた。マジックミラーのように銀色に光るスマートゴーグルの中で、ベルガ博士は黒い瞳を見開いた。
部屋に入ってきたセージは、白衣を着ていた。老化による目の錯覚か、もしくはアイグラスの故障かは分からなかったが、未だ機械の骨格を持つセージを見て、博士は生前のセージの姿を見た気がした。
その幻覚も一瞬で解け、セージはとぼとぼと近づいて来る。
「博士・・・僕を殺して下さい」
生前の肉声を再現した声に、ベルガは数秒の間困惑して押し黙った。
「どうして、そんなに死にたいんだ?」
「生き返っても意味が無いからです」
「意味が無い?まさか。君の存在は我が社にとって、そしてわたしにとっても大きな価値を見い出しているのだよ?」
「今の僕の存在を、過去の僕が認めません」
「過去や現在という認識は、所詮幻想に過ぎない。過去が現在に影響を及ぼすことはあっても、過去が現在を否定することなど有り得ない。現在というものは過去の――」
「そんなことはどうでもいいんです。これが幻想だと言うのなら、早く現実に戻して下さい。僕をあの時に帰して下さい。僕はこの時代に生きていい者ではないんです。僕が今の僕を肯定するなんてことできないっ。してはいけないんですっ」
ベルガは顎を撫でながら、落胆するようにため息を吐いた。
「・・・被害妄想か・・・確かに君は、あの爆発事故の被害者の中で、唯一蘇って来た存在。それは君が選ばれた存在だったからだ。生前の君は知的向上心の強い子だった。若さに満ち溢れ、研究員の中でも群を抜く――・・・もう、〝若い〟や〝老いる〟という言葉は君にはあてはまらないな。半永久的に知的探究心を追い求めることができ、過去の研究が実現していく姿を何世代にもわたる時間の中で見守っていくことができるんだ」
「僕はそれを望んでいないっっ」
セージは感情のままにデスクを叩いた。
ベルガはそれを横目で見つめ、静かに視線を上げる。
「君は・・・実に人間的な感性を持ったままにロボットとなった。未だ同じ存在がいない事実は非常に心細いことだろう・・・しかし、もう病に苦しむことはない。体が弱くてスポーツができなかった君はいない」
ベルガはセージの手を握り、その甲を軽く叩く。
同情と慰めの、無難で最善の表現。




