閑話 北の大熊、王家の大兜
ワスナ地方は険しい山岳地に囲まれている広い平野である。
王都を中心にした地図を参照すれば、ワスナは北方にある。季節に関わらず冷え込むものの野山が多少凍り霜が降りる程度で、晴れた日には領地の平野から望む山岳の尾根が高く長く続くのが見え、空の青と山の濃紺が美しい。凍った日の澄んだ空気の中に映る山岳もまた格別だ。
山岳からは細く流れる山水を通す水路があり、その先の平野には大きな湖――飛尾湖――がある。昔話では山の湧水が流れて湖になった、双頭の大蛇が河になった際に尾先が飛んできたのだとも言われているが、湖に山からの湧水が通るよう水路を後で作ったのだと思われる。
水が豊かな平野なので水耕作にも適しており、様々な作物を育てているが、基本的に寒い地域であるので寒さに弱いものは作れない。
領民はよく働くのんびりした性格の者が多く『北の大熊、南の大魚』とも言われる。
この山岳には大熊がいる。人を襲うことは稀にあるが基本臆病なため人がいると近付かない。そういう気質からか北方に住む領民を大熊――のんびり屋――と揶揄するようになった。比較として荒々しく短気な南方の領民たちの気質は、俊敏且つ水の中にあって雷を落とす大魚に肖って呼ばれる。
さて、この美しいワスナ地方では現在非常に難しい問題を抱えていた。
豊富な水のあったことが領民の首を絞めてしまっている。
ここ何十年か近辺の領地がやっている鉱山開発により、山の湧水が変化を見せていた。
すぐに湖への水路を止めればまだ良かったのかもしれないが、領民が気付いた時には既に遅く、湧水を通す水路の水も湖水も明らかにおかしな色になっていた。
『遠く見れば碧に美しく、近くは透き通る清水』と訪れた人々から称賛された湖水は毒々しい色の混じったようになり、もう山からの水路を止めたところでどうなる、とそのままになっていた。そしてそれがワスナの致命傷となる。
* * * * *
ワスナ領主であるイヒト紫君・ワスナは、王都王城で幾つかの役職を兼任しており、日々仕事に忙殺されていた。ましてもう間もなく新月祭が始まるために忙しさが輪を掛け目が回る勢いだ。
自分ではまだまだ若いと思うも近頃は疲れが取れず、かつて妻に『北山唯一の上等ベルベット』と褒めそやされた滑らかな濃紺の髪も今は硬く白く、かの濃紺は一筋耳の上辺りに残るだけである。近頃では目もかすみ、ただでも険しい顔付きがより怖くなったと部下達からの陳情が届き、とうとう縁は薄く中央の厚いガラスが入った年寄り眼鏡と呼ばれる遠視鏡を使うようになった。
国は以前から叫ばれている階級制度撤廃による各地での小競り合いや揉め事を収めるため、領主領地の階級持ちに向け人手を割くよう命じており、そのしわ寄せは王都王城の政向きの者達に行くこととなる。イヒトももちろんその中に入っていて常に手が足りない。
ところがそんな状態を理解しているはずの、領地を任せている中継家から矢のような催促の書状が近頃頻繁に来るようになり、放置するわけにも行かない。そこで、国を挙げての祭である新月祭を利用して休暇許可を貰い領地へと戻ることを決めた。
領地を王家から預かり、最終決定を下すのは上級家であるイヒトだ。だが直接管理しているのは中継家である。さらにその下に紐家が続く。しかし現在国内ではこの二家ともに数を減らし続けている。
イヒトの治めるワスナ地方ではありがたいことに北の大熊と呼ばれる気質のためか、そこまで市井に降る家はいなかった。彼らが降った領地は領主が寝る暇もないという。領主がその分王都の仕事が割り振られるお陰で彼もまた休む間もないのだが。
本来であれば上級家は縁戚も含め王都にて要職に就いていることが多く、おいそれと領地に戻ることはできない。だからこそ中継家紐家の知識と経験は重要なのであり、代わりにイヒトのような上級家が彼らの希望を王都に通し、ひいては領民のためにその生活を守らねばならない。
ところが、その知識を持つはずの中継家が困惑するような変事がワスナにてあったようで、彼らの采配ではどうにもならないため早急にイヒトに領地へと戻り事態の収拾を、と何度も求めてきている。
そんなイヒトが中々王都を離れる決心がつかなかったのは、彼の娘のノビユの存在が大きい。
娘は現王妃である。慣れぬ王城で心安らかに過ごしてもらうために縁戚の娘達を専属の側仕えにしたところ、彼女らから堕胎薬を長年に渡り盛られていた。それが王により議会で明かされ王妃の知るところとなり、人を疑い心を苛んでとうとう体調を崩してしまった。直接薬を盛ったと分かった娘達については内々に処理し、現在この件に裏があるかを確認した上で彼女らの親達にどう進退を決めさせるか悩んでいるところだった。
彼の子供はノビユ一人きり。後継は縁戚から養子を迎え、教え育てていかなければいけないが時間が足りない上に、縁戚には先の娘達の問題がある。血の近い家はそのせいで頼りたくない。
イヒトは頭の痛い問題ばかりで頭を抱えていたが、中継家から届いた直近の書状を読み、今はとにかく領地だと気を張り直した。残念ながら彼の知識と記憶では判然としないことばかりなのだが、まずは現場に赴いての状況確認が必須だ。
娘には寂しい思いをさせてしまうだろうが彼女にはまだ王の庇護がある。今やお飾りの王で権力はないに等しいが、そこは任せてくれと王当人から言質は取った。
ここで優先事項を間違えればワスナは他の領地と同じくイステルを荒らす害悪になってしまう。領民の心は離れていくだろう、イステルは人心が荒れていくことを許さない。――だが、王家は……王はもう消えても良いのではないか――そこまで考え彼はうんざりした。
イヒトは王家から二度も煮え湯を飲まされたために王家への忠誠心が曇っている。
――最初は叔母にあたる父の妹が婚約破棄の憂き目に遭ったことだ。叔母は破棄後すぐに領地のワスナに戻り縁戚を頼ってひっそりと結婚し、その後公の場に出ることはなかった。
とても美しく優しく賢い自慢の妹だ、と父は言っていた。物心ついてからは一度もお会いすることのないまま彼女は病を患い夭逝してしまう。
亡くなってからずいぶん後、病床についていた叔母がその先を覚悟して書かれたと思われる父宛の手紙が彼女の婚家から送られてきた。
そこには、まず領地に戻って後穏やかに暮らせたことに対する婚家への感謝と夫君への愛情が認められていて、父はそれに安堵していた。ただ、最後に婚約破棄の件について『私はむしろあのようなおぞましき者と契りを結ぶことがなく安心しております。願わくはどうぞ王家、かの王への憎しみがございますれば捨て去り下さいますよう。あの変わり様はもうかの方ではございません』との言葉で結ばれていた。
苦い顔の父にそれを見せられた私は『憎むなと言いつつ他の女を選んだ嫉妬にかられた、淑女の見本よと褒めそやされた叔母でも意外と女性らしい物の言い方をするのだな』と思ったものだ。
――そして二回目。それが娘の件だ。
確かに直接手を出したのは縁戚の娘達で、それを一門の娘達だからと信じ推挙した私にも落ち度はあったろう。本家の娘を蔑ろにし、命に危険のある薬を嫉妬から盛ってしまうくらい男の色気に簡単に落ちるとは思っていなかった。異性を魅了する魔性と呼ばれる者が男にも、身近にいるとは分からなかったのだ。
だが一番ろくでもないのはあの男だ。
優男のナリをして、女と見れば色目を使い『お飾りの好色王に嫁いだ何もできぬ王妃よ』と陰で呼ばれる娘の悲しみにも気付かず飄々と花を渡り歩く。
孫であるレオンも王には相応しくない育ち方をした。口が悪く、王族の矜持だけが高い。まるで労働階級らへんのような話し方をよくしている。不満があっても孫であっても腐っても王族、こちらからの口出しは憚られた。
ノビユはそれも気にしていた。お飾りの王家であるために王家らしくあるための教育が一切なされない、と。さらに『あのような物言いしかできぬ王子しか産めぬ女よ』とノビユは王の寵愛を狙う周囲の女共から陰日向に責められ心を痛めていた。
娘が生まれる当時から政務は忙しく本邸に帰れない日々が続く中、妻の両親が倒れたのを切欠に妻は娘を連れ一旦領地に戻り、妻はワスナと王都を月単位で往き来し、ノビユはそのまま父のいる領地で育った。おっとりとした、他人との争いを好まぬ娘で王都のパーティーにも出たことがないために、周りから箱入りにも程があると言われたことは懐かしい。
そのために王家より紫君からノビユをと打診があった際には、父と話し合い過去の確執は忘れてもノビユでは務まるまいと、畏れ多くも一度断ったのだ。だが他に年齢的に釣り合う者はおらず、そのうち騙し討ちのように引き合わされ、色男に免疫のない娘があの魔性に一目惚れした挙げ句、それを逆手に既成事実を作られたのがよくなかった――。
イヒトは思い出してギリギリと歯軋りをする。
大兜の印を持つワスナ。王家の知識を司る。王家を古くから支える上級家のひとつ。
――それがどうした、とイヒトは吐き棄てるように呟き、真闇の中、領地に戻るための箱馬車に乗り込んだ。
読んでくださりありがとうございます。