第三十六話 ほうきにのるとっくん その2
あれから三時間。わたしはまだ諦めていない。
途中でこれは魔女としての特訓ではなく、箒に跨るという不自然な姿勢でバランスを取り、上半身だけでジプシーダンスを踊る練習だと気がついた。
何度も箒から落ち、時には箒ごと墜落した。膝も肘も擦り傷だらけだ。太腿は既にプルプルと震えている。
いつものわたしなら、とっくに諦めて投げ出していただろう。なぜ続けられるのか? たぶんそれは今のわたしが幼女だからだ。幼い子供は未来を恐れたりしない。それは自分の可能性を否定するだけの、判断材料がないという理由かも知れない。
だったらわたしも、今は忘れてしまおう。自信がなくて、本気になるのが怖くて、諦めるのが上手なルーシアのことを。
無謀で上等。浅慮でけっこう。分相応なんて糞食らえ!
大人は微笑ましいと笑うだろう。十七歳のわたしもまた今度にして、キッチンでお茶でも飲もうよと言うかも知れない。
だがわたしは推定三歳児。諦めも躓きも遠い未来の話だ。倒れるまでやってそれでもダメなら、ベランダに大の字になって、手足をバタバタさせて泣けば良い。大声で泣いたって許される。
なんせわたしは、天下無敵の幼女なのだから!
もう少し……その先に……あとちょっとで……。そう思ってまた箒の柄を握る。
何度も失敗を繰り返して、ギリギリのバランスを掴もうと必死で身体を動かしていると、徐々に雑念が消えて感覚が鋭くなってゆくのを感じた。
うっすらと積もった初雪の上を、仔兎が跳ねている。翼の先だけが赤い鳥が、細い枝を蹴って飛び立った。小川の薄く張った氷の下を、流れる水の音がする。
(今なら出来る! そんな気がする!)
意を決して魔力を動かすと、箒は音もなくスーッと前へと進み出した。
「う、うごいた!」
遠慮せずに声に出して叫んだ。つい両手を離してしまって箒ごと落ちて、今度は額を擦りむいた。でも……!
なんとなくコツが掴めた気がする!
わたしは箒を抱きしめて、ベランダをゴロゴロと転がった。目頭が熱くなる。何しろ、箒が前に進んだのは初めてなのだ。魔女歴十二年目にして、初の快挙だ。
例え、進歩したのが魔女としての技量ではなく、身体的能力だけだったとしても、箒は確かに前へと進んだのだ。
「にゃはは……にゃははははっ! やった! やったぁー!!!」
仰向けになり小さな小さな拳を、空に向かってを突き上げる。冬本番を前にした空はスッキリと晴れ渡り、小さな雲が転がるように流れてゆく。
ああ、いつか! あの雲のように……!
「よち! わしゅれない(忘れない)うちに、もっかい(もう一回)!」
勢い良く起き上がると、シオンが慌ててベランダに出て来るのが見えた。まだパジャマのままで、前髪に寝癖がピンと跳ねている。ふふふ、可愛いなぁ。
「るーちゃ、るーちゃ! だいじょうぶ?」
わたしの手を取って立たせてくれて、顔や服に付いた砂を払ってくれる。心配そうに眉を寄せて、鼻や額の擦り傷をそっと撫でる。
「しおん、みてた? ちょっとらけ、できたの! ほーき、できたの!」
「うん! みてたよ。すごいね! るーちゃ、とんだね! りっぱなまじょさまだよ!」
興奮して捲し立てるわたしを、シオンがぎゅーと抱きしめて頭を撫でてくれた。わたしの初飛行を、誰かに見てもらえたことが嬉しい。それがシオンだったことが、何よりも嬉しい。
だって、わたしがとうの昔に投げ出していた箒に、もう一度挑戦しようと思ったのは、シオンと一緒に天女様の果物を食べに行きたいと思ったからなのだ。
「しおん、もっかい、とぶからみてて! じょーずにできたら、しおんをうちろ(後ろ)にのしぇて(乗せて)あげりゅ!」
君を乗せて、どこまでも飛んでゆきたいんだ。あの雲のように……! 調子に乗ったわたしの心のポエムが止まらない。
「でもるーちゃ、きずだらけだよ。ほら、ひざから血がでてる。手当てしてからにしよ?」
コテンと首を傾げて言う。本当に心配されているのがわかってしまうので『でも』と『だって』が続かない。シオンに手を引かれて、とぼとぼと部屋の中へと入る。わたしの工房だ。
シオンがテキパキとガーゼや消毒用のアルコールや、傷用軟膏の用意をする。迷いなくわたしの作った軟膏を持って来るのすごいな! シオンのわたしの軟膏への信頼が、甘くて重くて、誇らしい。
えへへ、ふひひと笑いながら、傷の手当てをしてもらう。沁みるのも、痛いのも、嬉しくて堪らない。
手当てが終わると早速わたしは、正装(魔女ローブと魔女帽子)に着替えて意気揚々とベランダに出た。
そうしてシオンを後ろに乗せて、フラフラ、ヘロヘロと三十センチの低空飛行でベランダを三周することに成功した。
シオンが背中越しに『すごいね! るーちゃ、すごい!』とずっと誉めてくれたので、なんだかわたしは五つ星魔女になったみたいな気分だった。




