第十七話 アドルフォも風邪ひきでした①
「うわっ! アドルフォだよ! 何で⁉︎」
わたしの声とガシャンと鳴ってしまった食器の音で、寝ていたアドルフォが薄く目を開いて少しだけ上半身を起こした。
「なんだ? 明るいな……夜じゃないのか?」
シャツのボタンがまた全部飛んでいて、胸やらお腹やらがむき出しだ。明るい日差しの中で見ると、いかがわしさより、作り物めいて神々しい。
あっ、ちょっと待って。またパンツ履いてませんよね? そこ、わたしのベッド……。
「ま、まだ朝ですよ! なんでアドルフォなんですか⁉︎」
「いや、俺にわかる筈がないだろう。魔女殿?」
その通りだよ! でも魔女のわたしにもわかりません!
「シオンが風邪をひいて熱を出したの。考えられるのはそれくらい……?」
「そうか。だからか……」
変身の法則が崩れた理由に納得したんじゃなく、『だから自分も具合が悪いのか』という意味だろう。顔が赤いし、少し息も荒い。
「シオンは頭が痛いと言っていました」
「ああ……。俺も痛いな……」
「廊下で寝るからです! シオンはまだ子供で抵抗力も弱いんですから、少しは気を使って下さい」
ほら、横になってと、ベッドに押し倒して布団をかける。無抵抗でポスンと枕に頭を落とす様子はなんだか無防備で頼りない。
『母性本能をくすぐられる』とは、こういう状態を言うのだろうか? ムズムズして、何かしてあげたくて、たまらない。
少し弱っている生き物は、小さいのも大きいのも、抗いがたい魅力があるな!
「シオンは食欲はあったんで、パン粥作りましたよ。食べられそうですか?」
「甘い匂いがする……」
アドルフォはわたしの質問には応えずに、階下から漂う林檎の匂いにスンスンと鼻を鳴らした。
「ああ、焼き林檎を作っているんです。シオンの好物なので」
「君は……シオンのことばかりだな」
「えっ?」
拗ねたような物言いに、少し驚いて聞き返してしまった。だって、まるで焼きもちを焼いているみたいだったから。
アドルフォにもそれが伝わったようで、顔を赤くしてプイッとそっぽを向いた。
えっ、まさか本当に拗ねて甘えているの? 自分の心配をしてもらえなくて、悲しくなっちゃったの? なにそれ可愛い。
「あ、あなたのことだって心配してますよ!」
「いや……。今のは忘れてくれ。熱で頭がどうかしているな」
顔を背けたままで言う。気のせいか、耳までほんのりと赤い。
「拗ねてないで、こっちを向いて下さい。頭に手拭いが乗せられないでしょう?」
渋々といった様子で天井に顔を向けるアドルフォの額に、絞った手拭いを乗せた。
「ああ、冷たくて、気持ちいい」
ひとり言のように、つい思わずといった風に口走る。
この人は今日、わたしたちの間にある垣根を、いくつ飛び越えてしまうつもりなんだろう。さすがに戸惑いが隠せなくて、無言になる。
こんなにもわたしに弱みを見せてしまって、元気になった時にどうするの?
これはいよいよ熱が高いせいかもと、体温を測るために、耳の下あたりに手のひらを当てる。
ちょうどそのタイミングでアドルフォがほんの少し顔を動かし、わたしの手のひらに少しカサついた彼の唇が触れた。
心臓が、跳ね上がる。
騎士の誓いの場面が頭に浮かんだけれど、あれは手の甲にする筈。確かロマンス小説には、『手のひらへのキスは懇願のキス』と書いてあった。
いやいや! この記憶を持たない美しい男が、わたしに何を乞い願うと言うの。
こんなのは、ほんのちょっとした事故のようなものだ。
自分のことながら、初心で乙女な思考回路に呆れてしまう。
「ほ、ほら! 熱が高いですよ! 大人しく寝てて下さいね。これ、食べられそうですか?」
パン粥を差し出して聞くと、『ああ……』と言いながらアドルフォが身体を起こし、フラリと揺れてベッドの背もたれへと寄りかかる。掠れた声と、濡れた前髪が艶かしい。
熱のためか、トロンと潤んだ紫色の瞳、吐き出される熱い息。こめかみから流れた汗が顎を伝い、はだけた胸元へポツリと落ちた。
な、な、なんなんだこの、暴力的なまでの色気は! 風邪じゃなくて、こういう病気⁈
助けて雑貨屋の女将さん! わたしじゃ太刀打ち出来ないぃっっ!
「食べさせてくれるか?」
「えっ?」
この弱った大きな生き物は、抗いがたい魅力を総動員して、わたしを絡め取り、糧にするつもりなのかも知れない。
あとがきで『変身シーン』と書くたびに、某ライダーが頭に浮かんでしまいます。何か相応しい呼称はないものでしょうかね。メタモルフォーゼ?
次話 アドルフォも風邪ひきでした②