第十三話 名前を決めましょう
「わたちのにゃまえは、るーちゃ、れしゅ」
「ルーチャか。可愛い名前だな」
「ちがいましゅ! るーちゃ!」
「う、うん? ルチヤか?」
「るーちあ!」
「ルーちゃん? 『ルー』が名前か?」
「もう……いいれしゅ。なんれも……」
思ったよりも舌が動いてくれない。そしていい加減に降ろして欲しい。階段の段差が高過ぎたので、うつ伏せになって足から降りようとしたら、それでも足の長さが足りなかった。
咄嗟に『夜のあの人』に助けを求めたが、つい『騎士さま』と呼んでしまった。三つも悪魔の名前を考えていたのに。
彼はわたしを抱き上げて助けてくれ、そのままキッチンに移動して座り、温めたミルクをフーフーと吹いて冷ましている。わたしはなぜか膝の上だ。
もしやこの体勢のまま、手ずからミルクを飲ませるつもりか。やめて欲しい。そしてうちのキッチンに馴染み過ぎだ。
そもそも顔が近いんだよ! キラキラ眩しいんだって! 自覚のないイケメン、ほんと扱いにくい。
ゼロ距離に迫る彼の顔をグイグイと押して、膝からポンと飛び降りる。
「わたち、なかみは、おとなれしゅ! たしゅけてくりぇたの、ありゃーったいけろ、ちかしゅぎれしゅ!」
「ん? すまん。もう一度頼む。『ありゃーったい』……?」
『ありがたい』と言ったつもりだった。うぐぐ……。この舌、ままならないっっ!!! あと『ん?』って微笑みながら言うの反則っ。腰が抜ける! 無駄に色気を振りまかないで欲しい。身体に悪い。
言葉がダメなら文字がある! 筆談だ!
リビングに、シオンと使っているお絵かきセットを取りに行き、その場に崩れ落ちそうになった。
まず引き出しに手が届かない。そして足場にしようとした椅子が重くて動かない。世界は三歳児がひとりで生きてゆけるようには出来ていない。
こっそりと振り向いて伺い見ると『夜のあの人』は、わたしをじっと観察するように見つめていた。
引き出しを開けて欲しい。でもさっき『子供扱いするな』的なことを叫んだ身としては、ちょっと気まずい。
「ん? その引き出しを開けたいのか? 何番目だ?」
「いちばん、うえ、れしゅ……」
立ち上がり、大股で歩いて来る。うわっ、足長っ!
「何を取ればいい?」
カタンと静かに引き出しを開き聞いて来る。下から見上げているわたしを、驚かせないように気を使ってくれている動作だ。
「くれよんと、しゅけっちゅ……しゅけ……」
スケッチブック……。言えない……。
「これか?」
お絵かきセットを丸ごと取り出してくれた。頷くと、空いた方の手でひょいとわたしを抱き上げる。太い腕の上は、思いの外居心地が良い。
スケッチブックを開き(彼が)、クレヨンを取り出す(彼が)。
渡されたクレヨンで、まずは自分の名前を書く。ルーチャではなくルーシアだ。
「ん? ルー……。ルー……?」
次にアドルフォ、続けてシオン。
「ア……オーン? これは『ド』で正解か?」
クレヨンは、推定三歳児の小さな手には太過ぎる。そして手が思い通りに動かない。スケッチブックには、大きく辿々しく、解読不明な文字が並んでゆく。これならまだ喋る方がマシだろうか?
見上げれば、彼がわたしの手元を優しく見つめながら、文字が追加されるのを待っている。プレッシャー、キツい。
わたしはコホンと咳払いをしてクレヨンを置いた。あとでこっそり練習しよう。今は無理!
「あなたのなまえを、きめまちょう。けるえろ……けりゅべりょ……べりゅじぇぶぶ……」
駄目だ。ケルベロスもベルゼブブも、幼女の舌には荷が重過ぎる。あとそこ、『呪文唱え出した』みたいな顔しない。違うから。
「『あろるふぉ』はどーれしゅか?」
「アドルフォ……『気高い狼』か?」
「も、もりにいる、はぐれに、あなたにてましゅ。かみのいりょ(髪の色)とか、ふんいきが」
「……良い名前だ。ありがとう」
噛み締めるようにお礼を言われて面食らう。
今まで後回しにしていた名乗りと名付けを早々に済ませた。それは幼女の姿になってしまい、彼の助力なしでは日常生活が立ち行かないという、極めて即物的な理由からだ。
さっきの階段みたいな状態に陥った場合、わたしとシオンでは、一緒に落ちるしか選択肢がない。
しかも、最優先として幼女の舌で発音しやすい名前を選んだ。あと、『あの人』と『アドルフォ』で発音が似ている。ずっと心の中で『夜のあの人』と呼んでいたから。
『夜のアドルフォ』……。非常にいかがわしい。
名づけの由来とさせてもらった、はぐれの一匹狼は数年前からの顔馴染みだ。なぜか冬になると見かけるようになる。
彼の髪色に似たダークブロンドの毛並みの、大きくて強そうな狼だ。
この森には狼の群れは住んでいないので、どこからか流れて来たのだろう。ぼっち仲間なので、わたしは一方的に親近感を抱いている。
決して近寄っては来ないそのはぐれは、凍えるような寒い夜がよく似合う。孤独を愛するような佇まいも、どこか彼と似ている気がする。
ようやく名前を付けました。名前を付けると、どんな生き物でも情が湧きますよね。無機物でさえ、特別な物になる。
次話『荷物をあらためましょう』
森で回収して来た、アドルフォの荷物を二人で確認します。少しは、アドルフォの過去が見えて来るのでしょうか? 26日、23:00更新です。