表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/25

5. 夢か現か

 港街を観光した翌日は、そこから日帰りできる場所にある古都を訪ねることになった。

 この大陸で最も古い大学が丘の上にあって、そこを中心として丘全体が一つの街になっている。


「あそこは僕の母校なんだ。国立大学だから、平民でも入れる」

「じゃあ、そこから留学を?」

「ああ、そうだね。僕が十七のときかな」

「十七歳でもう大学って。先生、飛び級したんだ! すごいわ」

「そんな大層なことじゃないよ。でも、ティナに褒められると自慢したくなるね。僕も若いときはなかなか優秀だったんだよ。今じゃ、脳みそが退化していくだけだが」


 気まずかったのは、ワイナリーからの帰り道。馬車の中だけだった。屋敷に戻って夕食をとる頃には、私たちはすっかり元の関係に戻っていた。


 むしろ、あのぶどう園の出来事のほうが、夢だったのかもしれないと思うくらいに。


「先生は今も優秀でしょう。学会でたくさん論文も発表してるし。本当は病院で臨床や研究が希望なんじゃない?王宮医なんて、つまらないでしょ」


 私は前々から気になっていたことを口にした。


 王族の主治医になることは、名誉ではあると思う。それでも、診察できる症例は限られているし、最先端技術を試す機会も少ない。

 もちろん、王宮医療が遅れていては困るので、定期的に研修には出ているけれど。


「僕は今の仕事に満足しているよ。おかげでこんな美味しい食事を、こんな可愛い奥さんと一緒に食べられたじゃないか。役得だろう」


 お世辞でも、自分が可愛いと言われて嬉しかった。それに、美味しい食事というのは、お世辞でもなんでもない事実だ。


 屋敷での夕食に出されたのは、この国の郷土料理。バカリャウと呼ばれる干した塩漬け鱈を水で戻したもの。じゃがいもと一緒にホワイトソースをかけた料理は絶品だった。この鱈はコロッケでも美味しい。

 豚肉とあさりの炒めものも、どんどん食べられてしまう。魚介類と野菜の煮込みは素朴だけれど、パプリカの味付けが優しい。


 そして、デザートは超有名スイーツ。パステル・デ・ナタ。エッグタルトというのか、カスタードタルトというのか。シナモンをかけていただくのが、この国の食べ方らしい。


「よく食べたね。この国の料理は、本当に君の口に合ったんだな」

「ええ。どれもすごく美味しい。私、ここなら永住できるわ!ねえ、先生。ここでずっと一緒に暮らしましょうよ!きっと楽しいわ」

「おやおや、ティナはお菓子で酔ったのかい?お父上が聞いたら卒倒するだろうね。それに、君が嫁ぐ国にも美味しいものはたくさんあるよ。ひよこ豆やクスクスは女性のファンが多いね」


 思い切って言ってみたのに、軽くいなされてしまった。


 そうだよね。これは先生の任務で、この関係は偽装。ずっと一緒になんて言われても、冗談以外には取られなくて当然だ。


 先生は今日買ったポートワインを一本開けて飲んでいた。きれいな琥珀色。たぶん、一番最初に試飲したヴィンテージだ。


「先生、私もちょっと味見したい」

「ああ、そうだね。ここなら、もう酔ってもいいだろう。未成年だが、それを見咎める人もいないしね」


 先生はそう言ってウィンクすると、グラスに少しだけポートワインを注いでくれた。


 分かっていたことだったけど、ちょっと期待してしまった自分が恥ずかしい。また、キスで飲ませてもらえたら……なんて、ずうずうしい願望。


 私は受け取ったグラスをちびちびと舐めた。


 夕食が終わって、私たちは寝室に戻った。部屋の真ん中にある天蓋付きの大きなベッドを見て、私は急に恥ずかしくなった。


 昨夜は先生と一緒にここに寝たんだ!


「慣れないことばかりで疲れたろう。メイドを呼ぶから、支度をして先に休みなさい」

「先生は?寝ないの?」

「僕は少し仕事があるんだ。隣室でそれを片付けてから寝るよ」


 向こうの部屋には、予備の簡易ベッドがある。先生はきっとそこで寝るつもりなんだ。

 今夜は別々。当たり前のことなのに、なんだかすごくがっかりしている自分がいる。


「分かりました。あまり無理しないでね」

「大丈夫だよ。僕のことは気にしないでいい」


 先生は私の額にチュッと口づけると、呼び鈴を鳴らしてメイドを呼んでから、次の間に入ってしまった。


 食後に強いお酒を飲んだせいか、ベッドに入っても体は火照ったままだった。なかなか寝付けない。

 隣りのドアから漏れる光で、先生がまだ起きているのはわかっていたけれど、夜中にそのドアをノックする勇気はなかった。

 冷たく追い払われたら、ショックが大きすぎる。


 そうしているうちに、私は眠りに落ちた。


 どのくらい眠ったのか、誰かがベッドに腰掛けて、私の額の髪をサラサラとかき分けて、頭を撫でてくれている。


 この匂いは先生?先生だわ。私の様子を見に来てくれたの?


 私が身動きをすると、先生は私の頭から手を離して、立ち上がろうとした。え、どこに行くの?ここにいて!私の手が無意識に先生の腕を掴む。


「起こしたかい?すまないね。あんまりよく眠っているので、少し心配になったんだ。お酒なんて飲ませてしまったし、悪酔いしていたら……」

「大丈夫です。でも、少しだけ寒いの」

「酔い覚めのせいかな。少し室温をあげようか」

「先生の体温がいい。すごく気持ちいい」


 私はそう言って、先生の腕をぐいっと引いた。予想外の動きだったらしく、先生はバランスを崩して私の上に覆いかぶさるような形になった。


「ティナ、寝ぼけているのか?」

「うん」


 私はそう言ってから、先生の脇腹から背中に手を這わせて、ぐっと自分のほうに抱き寄せた。

 先生は私を下敷きにしないように、横向きに体勢をかえてベッドに横たわった。


「先生、あったかあい。すごく抱き心地いい。いい匂い」

「ティナ、ダメだよ。離しなさい」


 先生の声は聞こえたけれど、何もかもが気持ちよくて、もう起きていられなかった。

 私は先生に抱きついたままで、シーツに沈み込んでいくような感覚に身を委ねる。


 愛してる。


 これは、私が言った言葉だった?それとも先生?夢の中?願望が夢に出てきたの?


 眠くてもう目が開けられない。きっと、天国に行くってこんな感じなんだ。


 私はそのまま、眠りの淵へと落ちていった。


 翌朝、バスルームからの水音で目が覚めた。ああ、先生がシャワーを浴びてるんだ。

 起き上がろうとしたら、なぜかうまく力が入らなくて、体がふらりと揺れた。え、これって二日酔い?


 体は少し気だるいけれど、よく眠れたのか頭はすっきりしている。少しだけ筋肉痛のような痛みがあるので、もしかしたら変な体勢で寝てしまったのかもしれない。寝違えた?


 でも、起き上がれないほどではないし、むしろ気分はいい。先生がバスルームから出てこないうちに、メイドさんに朝の支度をしてもらおう。


 そう思って呼び鈴をならそうと、ゆっくり立ち上がったとき、私は鏡を見て驚いた。


 肌は昨日よりもずっとつやつやだし、瞳はキラキラと輝いている。唇は真っ赤で口紅がなんていらないくらいで、心なしか少し腫れていた。


「うそ。アルコールのせい?それとも、ワイナリーでのキスのせい?」


 明らかに、噂に聞いていた女性ホルモンとやらの仕業だと思われた。


 すごいわ!今日の私はかなり色っぽい!自分でも美しくなったと思う!恋が女を綺麗にするって本当になんだ!


 自分の体からポートワインの甘い匂いに混じって、先生の香りが立ち上ったような気がして、体が震えた。

 私、相当、重症なんだな。先生が好きすぎて、匂いにまで妄想に抱くようになるなんて!


 まずいまずいと思いながら、私は急いで呼び鈴を鳴らした。


 こんな不埒(ふらち)な想像に惚けた顔、先生に見られたら、きっとはしたない子だと思われちゃう!お風呂に入って、きっちりお化粧しなくちゃ!女も武装が必要なのよ。


 私は鏡の中のすっぴんの自分から目をそらした。


 先生の出身大学がある街は、馬車で片道二時間くらいだった。街全体が丘になっていて、大学はその頂上にある。


 大学まで続く坂道に、可愛い雑貨やお土産を売っている店があると聞いて 私は歩いて登ることにした。


 この国での私たちの格好は裕福な庶民風。ただし、見る人が見れば階級が分かる。デザインは地味だけれど、生地は高級品で仕立てもいい。


 だから、こうやって歩きやすい靴でも目立たないし、どこに行っても門前払いされることはない。外国のお忍び貴族だと思われて、丁重に扱ってもらえる。


「タイルだわ。綺麗な色」

「この辺で採れる粘土を使った焼き物なんだ。アズレージョと呼ぶんだよ」

「昨日の街でもたくさん見かけたわ。藍も蒼もとっても素敵」

「店の奥に工房があるようだね。絵付をしてみるかい?」

「できるの? やっていいの? やりたい!」


 先生は店員さんに声をかけて、奥に入って行った。店内には他には人がいなくて、私はゆっくりと作品を見てまわれた。


 そういえば、屋敷の中の壁にも、このタイルが貼ってあったし、お風呂場にも使ってある。


「まるで陶磁器みたいな美しい肌ですわ。奥様は壊れ物みたいに大事にされていらっしゃいますね」


 お風呂のお世話をしてくれた若いメイドさんの言葉を思い出した。


 傷一つない肌を褒めてくれたのだけれど、仮にも新婚で体になんの愛された形跡もないのがバレているんだと思う。キ、キスマークとかあった方が、それらしいのに。指南、お願いしようかな。


「ティナ、おいで。工房に入っていいって」


 アズレージョの絵付はすごく楽しかった。縁飾りになる葡萄と蔓は私が、中心に置かれるワインボトルと二つのグラスは先生が描いた。


「ジルって何でもできるのね。絵も上手いなんてずるいわ」

「僕みたいなのを、器用貧乏って言うんだよ。ティナこそ、センスいいじゃないか」


 それって、褒め言葉? 芸術は爆発だっていう感じの理解不能系って意味じゃないよね?


「ありがとう。初挑戦にしてはまあまあよね。でも、ジルと合作なのは嬉しい。宝物にするわ」

「ティナ、君は本当に可愛いね。僕を喜ばせるのが上手すぎる」


 それはどういう意味? 先生は私をどう思ってる?

 

 一番知りたいことは、いつも聞けないままだった。


<モデルとなった場所>

国:ポルトガル

都市:コインブラ

伝統工芸:アズレージョ(タイル)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言]  書いたら警告もらうようなことしたのね? ね?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ