4. 恋愛指南【キス】
午後はワイナリーを見学することになった。
川を挟んで街の北側には、ポートワインのワイナリーがある。川の上流や街近郊の渓谷でしか栽培できない品種の葡萄が原材料。ワインが入った樽を載せて運搬する小さな帆船はラベーロという。
「ポートワインはね、発酵途中に蒸留酒やブランデーを加えて、酵母の働きを止めるんだ。だから、苦味が少ないし、甘みが強い」
「シェリーみたいなもの?」
「ああ、そうだね。酒精強化ワインに分類される」
半地下のようになったカーブと呼ばれる貯蔵庫には、たくさんの樽が置かれている。
ワインの買付けにくる商人や高級品を購入する貴族のために、ワイナリーの一部は見学できるようになっていた。
ひんやりとしたワインカーブは、夏でも涼しくて肌寒い気がする。私が両手で抱えるように二の腕をさすったのを見て、先生は自分のジャケットを脱いで、私の肩にかけてくれた。
先生の匂いに包まれると、つい昨夜の馬車の中でのことを思い出してしまう。ジャケットに残る体温は、今朝ベッドの中で感じた暖かさと同じだ。自然と顔がにやけて赤くなる。
やだ。私ったら、何を思い出してるのよ!これじゃ、むっつりスケベじゃない!
「思ったより涼しいね。もう出ようか。君の母上のお土産に、何本かいいものを買っていこう」
ワイナリーの出口には、ポートワインの試飲と購入ができる場所があった。先生は慣れた感じでメニューを見て、何種類か試飲することにしたようだ。
「あっちのテーブルに座ろうか。少し休もう。まだ寒いかい?」
「少し」
嘘だった。ただ、先生のジャケットを返したくないだけの嘘。それなのに、先生は心配して私に温かいお茶を注文してくれた。
「いい香りだな。これは三十年ものだからヴィンテージって言うんだよ」
運ばれてきたお茶を飲む私に、先生がグラスを少し揺らして、ポートワインの香りを嗅ぎながら言った。そして、ワインを口に含むと、うっとりと目を閉じた。
先生はポートワインが好きなんだ。お酒を飲む姿までキマっていて、思わず見とれてしまう。酔ってもいないのに、顔が赤くなってくる。
「お酒が好きなのね。いいなあ。私も先せ……じゃなくて、ジルが好きなお酒を飲んでみたいのに」
「成人するまで、あと二年の辛抱だね。かなり強いから飲むときは気をつけるんだよ。口当たりがいいからってたくさん飲むと酔っ払うぞ」
「ね、ちょっとだけいい?舐めるだけ!」
わざとペロっと舌なめずりをしてから、空になったグラスを取ろうとすると、あっさり手首を掴まれて阻止されてしまった。
先生のほうにぐいっと腕を引かれたので、少し顔の距離が近くなってしまった。やだ、こんなことでドキドキして、恥ずかしい。
照れ隠しに、私はすねたフリをした。
「意地悪な旦那様ね!ジルなんか嫌いになっちゃうわよ!それでもいいの?」
わざと怒った顔を作ると、先生は優しく笑った。
その顔は反則。かっこよすぎる!先生は舞台俳優にだってなれたと思う。
恥ずかしさで真っ赤になった顔を見られたくなくて、私は横を向こうとした。それなのに、先生は私の頬に手を当てて、自分のほうに顔を向けさせた。
「それは困るね。じゃあ、奥様の我儘を少しだけ聞いてあげよう。ポートワインの味を教えてあげるよ」
先生はそのまま、私の唇を噛むようにキスをした。
これは、どうしたらいいの?息ができない。
「鼻で息をしてごらん。ワインの香りがするだろう」
唇を少しだけ離して、先生はそう言った。
これは、もしかして。指南?キスの仕方を教えてくれるの?
先生の言うように鼻で息をしてみると、少しだけワインの香りがした。
そうか、こうやって息をすれば苦しくない……わけないよ!先生とキスなんて、胸が爆発する!血が沸騰する!
「僕の口の中に、少しワインの味が残っているだろう。吸い付いて味わうようにしてみなさい」
言われたとおりに先生の口を吸うと、微かなアルコールの苦味と甘さを舌に感じた。でも、それよりずっと強く先生の匂いと味に酔わされる。
もう無理……と思う、ほんの一瞬前の絶妙なタイミングで先生は唇を離した。
肩で息をする私の頬を撫でながら、先生はお茶を飲むようにすすめてくれる。
「紅茶を飲んで少し落ち着こうか。まだ、試飲は残っているからね。全部、味わってから、君が一番気に入ったものを買って帰ろう」
「先……ジル、今のは、えーと……、し、指南ですか」
「そうだね。でも、ワインの試飲のためだから、上手にできなくていい」
「でも、あれじゃワインの味なんて分からない」
「次は僕が飲んだら、すぐティナにも試してもらおう。味に慣れれば、違いが分かるようになるよ。幸い、この地域にはワイナリーが密集してるんだ。君の好きな味が見つかるまで回ろうか」
先生、それは、あの、キスに慣れるまで指南……じゃなくて、試飲が続くということ?え、うそ。そういうことなの?こんな人前で?
周囲を見回すと、なんとなく他のお客さんは遠慮がちに離れて座ってくれていた。
北の島国のバイヤーが多いのか、山高帽を被った紳士は無関心を装っている。その気の使いようが、かえって私たちが目立ちまくっていることを証明していた。もう、穴があったら入りたい。
先生は周囲なんて気にしない様子で、ポートワインも、たぶんキスも楽しんでくれていた。それだけで、こんな恥ずかしい思いをしたことも、かなり報われる。
石造りの家や蔵に挟まれた細い小道を登ったところ。丘の上にあるワイナリーの試飲が終わったときには、先生も私もワインと、何度も味わったキスのせいで、ほろ酔い気分だった。
「ここにはぶどう園があるね。外の風で少し酔いを冷ましてから戻ろうか」
先生は私の手を引いて、ぶどう畑の中へと入っていった。ぶどうの木は先生の背より少し高いくらいで、一人で中に入ったら迷ってしまいそう。食べごろの葡萄から芳醇な甘い香りが立ち上る。
「ワインはね。穢れのない処女だけが素足で踏んだ葡萄で造るんだ」
「え、それはなんというか、恥ずかしい感じですね」
「宗教的な意味合いが強いんだろうね。神殿に仕えるものは、みな純潔を守っているだろう。そういう風習みたいなものだよ。今は形だけだ」
「そうなんですか」
良かった。あるときからいきなり足踏み参加不可になったら、ぶどう園で働く娘さんたちはさぞ恥ずかしいだろう。人権侵害だ。
「ティナが葡萄を踏んでいたら、周りの男たちは浮足立つだろうね。我先にと求婚者が押し寄せそうだ」
「先生こそ、そんな現場に行かないでくださいね。たくさんの乙女が先生に摘み取られたら、足踏みできる人がいなくなっちゃう。ワイナリーの経営者が困るでしょう?」
「ははは。僕はそんなに飢えてないぞ。だが、興味はあるな」
「え?乙女の収穫に?」
「まさか。東洋には口噛み酒というのがあるんだ。原料を口で噛んで吐き出したもので造る酒だね。口噛みも処女だけに許される役目だよ。どんな味がするのか、気にならないかい?」
え、人が噛んで吐いたものなんか、気持ち悪いよ。アルコールになれば殺菌されるかもしれないけど。
そう思っていると、先生は白ぶどうを一粒摘んで、口に入れた。
「よく熟れている。食べ頃だね。口を開けて」
先生が葡萄を一粒つまんで、私の口の前に持ってきてくれた。
これは、『はい、あ~ん』ってやつ?
指南だ。絶対にそうだ!少しは成長しているところを、先生にアピらないと!
私が口を開けると、先生がそっと私の口に葡萄を運んだ。私は先生の指ごと葡萄を口に入れて、先生の指から吸い取るように葡萄を奪った。
どう?私もやればできるのよ。少しは恋愛の達人に近づいた?教え甲斐のある弟子だと思ってもらえる?
先生の顔は夕日の逆光になってよく見えないけれど、声には熱が籠もっていた。
「ティナは悪い子だな。僕に挑むなんて、まだまだ早い」
先生はそう言うと、もう一粒、私の口に葡萄を運んだ。そして、今度はすぐに指を抜かず、そのまま私の舌を撫でた。
背筋がゾクゾクと泡立ち、体の芯がきゅうっと締め付けられる。思わず葡萄を噛み締めてしまい、口の端から甘い汁が滴った。
噛んだ葡萄を飲み込む暇もないうちに、先生は私の顎に滴った汁をペロっと舐めてから、唇を重ねてきた。そして、上手に舌をつかって、私の口の中で噛み潰された葡萄を掻き出し、自分で食べてしまった。
あまりの早業に動けないまま、私は先生に抱きしめられていた。
どうしよう、もう足が……。立っていられない。
「思ったとおりだね。乙女が噛んだ葡萄は美味しいよ。ワインよりも酔わされる」
私を支えるように抱えた先生は、耳元でそう囁いた。
こんなのダメ。こんな指南をしてもらって、溺れない女性なんていないと思う。
先生はいつも、こんな風に恋愛をしているの?こうやって女を口説いているの?
どす黒い嫉妬が、胸の奥から湧き上がる。
嫌だな。先生が誰かにこんな風にキスするなんて。私だけを見てほしい。私だけに触れてほしい。
感じたことがないような欲望が、私の全身を支配した。先生が全部ほしい。もっと深く繋がりたい。
私が先生の首に腕を回すと、先生は私を強く引き寄せて、激しい口づけを落とした。
このまま先生と、行き着くところまで流されてしまいたい。
夜の帳が降りて、ぶどう園にライトアップの明かりが灯る。夢中になって互いの唇を貪っていた私たちは、その光で我に返った。
「先生、あの、私……」
先生が好き。先生に愛されたい。先生も同じように思ってくれているよね?
そう言おうと思ったのに、先生は全く違うことを言った。
「いい指南ができたね。もうキスは教えることはないようだ。合格だな」
違う。私は先生に溺れたけど、先生は私に流されてくれなかった。このキスは失格。
だって、私にとっては愛情表現だったのに、先生にとっては単なる指導の域を出なかったんだもの。
「……はい。ご指導ありがとうございます」
そう答えるしかない。先生は、きっちりと線を引いた。先生の反応は愛じゃなくて指南だって。
「遅くなったね。歩いて帰るのは無理だ。馬車を呼んでもらおう」
足元が暗いからと、先生は手をつないで出口まで歩いてくれた。その手をギュッと握ってみたけれど、握り返してはくれなかった。
そうして私たちは無言のまま、馬車で屋敷に戻ったのだった。
<モデルとなった場所>
国:ポルトガル
都市:ポルト
場所:ヴィラ・ノヴァ・ドゥ・ガイア地区
ワイナリー:サンデマン / テイラーズ