21. 後朝の告白 (先生の視点)
目覚めたときには、ティナはもう隣りにはいなかった。思った以上に、ショックを受けている自分がいる。
こんな答えは見えていたのに、いつの間にか違う結果を期待していたようだ。
気だるさと疲れで、起き上がりたくない。もう若くないのに、度数の高い酒を一気に煽ってから行為に及ぶなんて、こうなって当然だろう。我ながら愚行極まりない。
だが、昨夜はどうしても、酒の力が必要だった。
ティナに閨房指南をした後は、いつも気持ちが昂ぶって眠れない。たまに眠れたとしても、みだらな欲望でティナを穢す夢を見るだけだった。
だから、夜はアルコールの世話になっていた。酒の力を借りて意識を飛ばさなければ、うまく眠れない夜があるだけ。
そして、眠りが足りないと実生活に支障をきたす。もし、寝不足で冷静な判断ができなくなってしまったら、いつ過ちを犯してもおかしくない。理性が保てなければ、ティナの身が危ない。
そうして、なんとか危うい均衡を保ってきたが、どうしても抑えが効かない場面に何度も遭遇し、僕の精神は疲弊していたと思う。
ティナは優しい子どもだった。そして、母親によく似て聡い女性に成長した。いや、おそらくは母親以上に賢くて、人の心に敏感な娘になった。
彼女には、僕が隠したいことも、隠していたことも、いとも簡単に見抜かれてしまう。僕が誰に対しても閉ざしていた扉を、鍵も持たずに内側から開けさせてしまった。
そして、ティナが僕を知りたいと思ってくれる以上に、ティナに僕を知ってもらいたいと思うようになっていた。
そんな気持ちを抱いた相手は、今までただの一人もいなかった。唯一、愛していたはずの女性にすら、僕は自分を偽ってきたというのに。
『私はもうあなたを信じられない。人としても医師としても!』
アリシアがああ言うのは当然だった。カルロスやニコライ殿下から頼まれたから、僕は黙っていたわけじゃない。彼女の命を削りたくなくて、彼女を失いたくなくて。そんな自分のエゴのために、進んで彼女を騙していた。
だが、それは僕を悩ませた。ニコライ殿下は患者であり友人だった。もっと早くに、アリシアに打ち明けておけば、あるいは延命できたのかもしれない。
『もう友人でもないわ。私のことは放っておいて』
そんな僕の苦悩を知っていたからこそ、アリシアは僕を突き放した。もう自分のために苦しむなと。
『先生が私に負っていた全ての任を解きます。あなたの献身が報われることを祈っています』
彼女に愛を告白したとき、僕はいつでも彼女の味方だと、彼女への気持ちは生涯変わらないと言った。
その言葉の呪縛から、アリシアは僕を解放してくれたのだ。
そうは分かっていたのだけれど、それでもやはりきつかった。自己満足でしか遂げられない気持ちすら、もう捨てろと言われたのだから。
長い年月に行き場を失って持た余した思い。大切に胸の奥で温めていたものが、消えてしまう喪失感。それは執着に似て、手放すのが苦しいものだった。
ティナはそんな僕の悲しみに気がついて、僕のために泣いてくれた。僕のことだけを見て、僕の味方になってくれた。
『先生もお母様のことしか見ていない。それなのに、何も見返りがないなんて、悲しすぎる!』
見返りなんていらない。そう信じていたし、そう思ってきた。それでも、ティナにそう言われて、僕は初めて欲しがっていたことに気がついた。
僕はずっと、愛する人に愛されたがっていた。ただ見守るだけでいい、そばにいて助けになるだけでいいなんて、自分に嘘を吐き続けて。
愛して愛されたい。それが僕の本当の望みだった。
ティナを抱いたのは、指南だからじゃない。弾みでも遊びでもない。一時の感情に流されたわけでもなく、ましてや酒に酔ったからでもない。
彼女を愛して愛されたいと思った。僕を愛してくれているティナを、本当はずっと愛したかった。なのに、その事実からずっと目をそらしていたのは、僕だった。
僕を混乱させていたのは、彼女の母親を愛していたという動かせない事実。そして、彼女を母親の代わりにしてはいけないという強迫感。
ティナの中にアリシアの面影を見るたびに、僕は戸惑っていた。本当にティナを愛しているのか、自分の気持ちに自信が持てなかった。
そして、二十五歳という年齢差も、僕にストップをかけた。彼女の父親であるカルロスよりもさらに歳上だ。
医学の才を見いだされ、最高学府に通うためだけに下級貴族の子爵の猶子になったけれど、元は隣国の平民出身。
運良く宮廷医まで上り詰めたけれど、所詮は成り上がりだ。大国の王女とは身分が違う。
『迷惑なら、そうはっきりと拒絶して。じゃなきゃ、諦めることもできない』
迷惑なわけがない。僕がティナと一緒にいられて、その存在にどれほど安らぎを見出していたか。彼女には想像もつかないと思う。
そして、諦められないというティナの気持ちも、痛いほど分かっている。僕も彼女に対して、ずっとその気持ちを抱いていたのだ。
僕はもうすでに、引き返せないくらいティナを深く愛してしまっていた。
だから、はっきりした意志を持って、僕はティナを抱いた。この先にどんな地獄が待っていようとも、彼女を愛さずにはいられなかった。
ティナを僕のものに、僕だけのものにしてしまいたかった。今だけでいい、彼女をこの胸に抱けるのならば、明日殺されても僕は後悔しないだろう。
だが、ティナはそうじゃないかもしれない。彼女はまだ若い。思春期特有の危うさで、その心が移ろいやすくても、誰に咎められることもない。一時の感情で流されたことを、後悔することになるかもしれない。
『これは、君にとっては悪い夢だ。明日になったら忘れるんだ。いいね?』
口ではそう言った。ティナに逃げ道を用意するために。
だが、体は真逆のことを訴えていた。ティナに二度と忘れられないような記憶を刻みつけた。僕から離れられなくなるようにと。僕が知りうる限りの手管を使って。
あれを閨房指南というならば、おそらく最終試験ではなくて免許皆伝を言うのがふさわしいだろう。
僕は彼女をつなぎとめたくて、その体を快楽に溺れさせるために、持ちうる限りの情熱をすべて使ったのだ。
あれ以上の愛し方を、僕は知らない。
そうして目覚めた朝、ティナの姿は消えていた。僕のベッドからだけではなく、この屋敷から。
それがティナの出した答えなら、僕の一縷の望みは潰えたということだ。僕は彼女を落とせなかった。
『先に王宮に戻ります。また医務室で』
昨夜のことは夢だったと思わせるように、意図を持って書かれた手紙。僕の部屋ではなく、自分にあてがわれた部屋にそれを置いていったティナ。彼女が望んでいることは察しがつく。
だが、どうして夢だと思い込むことができるだろう。
体中に残る愛の証と、心が沸き立つような喜び。そして、寝室に残る濃い情事の匂いと、シーツに滴った破瓜の血。
僕は間違いなくティナを愛して、そして、彼女をこの腕に抱いたのだ。
何もなかったかのように全てを忘れること。例えそれがティナの望みだとしても、このまま放置するわけにはいかない。
中年の醜い未練だと言われようとも、彼女の純潔を散らしたのは僕だ。その事実について、ティナと話さなくてはいけない。
ティナにとっては指南であったとしても、僕にとってはそうじゃない。彼女は僕の子を宿したかもしれない。
僕がしたことは、明らかに指南役の職務を超えていた。完全な越権行為。
それが罪になるのならば、僕は喜んで罰を受ける。
僕はティナとは違う。すでに四十を超えた分別あるべき大人だ。その行動が引き起こす責任から逃れる気はないし、その覚悟がなければ彼女に触れたりしなかった。
酔い醒ましに痛み止めの錠剤を飲んでから、冷水で体を清めた。肌に残るティナの匂いを消したくはなかったけれど、そんなことを言ったらきっと気持ち悪がられるだろう。
僕は中年のオジサンだ。自覚しなければ、ただの勘違い男になってしまう。
そうして、急ぎ王宮に戻ると、いつもと様子が違っていた。使用人たちはみな青ざめた顔をして、下を向いたまま立ち止まることなく、何かに急いでいた。
「先生!帰ってたのね!よかったわ、使いをやろうと思っていたところだったの。お願い、助けて!」
アリシアが僕を見つけて走ってきた。顔面蒼白で明らかに様子がおかしい。目は涙ぐんでいて、足元はおぼつかない。
「どうしたんです?具合が?」
「いいえ、大丈夫よ。私のことじゃないの」
誰だ?急患? ニコライ殿下に続いて、王族に何かがあったのか?
「ティナよ!ティナが北の塔に。先生、お願いです、カルを説得して!あんな場所に娘を放り込むなんて」
北の塔?死刑を待つ重罪人が入る独房だ。この時期は中は凍えるほど寒く、数日入っただけで病に倒れるものもいる。衛生状態も悪く伝染病も流行りやすい。
どういうことなんだ、なぜティナがあんなところに?
「アリシア、何があったんだ?事情を説明してくれ」
アリシアは今にも倒れそうに蒼白な顔をしながら、それでも気丈に顔を上げてこう言った。
「ティナが王籍離脱を嘆願したの。深い関係になった平民の男を追いかけて、自分も平民になって自立したいと言い出して。カルが相手を問いただしたんだけど、頑として口を割らないの。だから、相手の名を告げるまで、北の塔に入るようにと、王命が」
「平民の男?それは……」
「ティナは、相手は先生じゃないと言っているの。先生の指南とは関係ないから、巻き込まないでほしいって。昨日はそんなこと言ってなかったのに!昨夜、一体ティナに何ががあったの?」
ばかな。なぜそんなことを! 僕を巻き込みたくないだって?僕のために嘘をついたのか。僕に頼らずに、一人っきりで平民になる気なのか?まさか看護師に……。
「王妃様、ティナと関係した男は僕です。僕が彼女をそそのかしたんです。国王陛下には、きちんと説明して罰を受けます」
僕はそう言い残して、陛下の執務室に向かった。
ティナを一人にしたのは失敗だった。彼女がこんな暴挙に出るとは思っていなかった。
だが、必ず救い出す。すぐにそこから出してやる。たとえ死んでも君を助ける。
そうやって逸る心を抑えられずに駆け出した僕を、王妃がため息をつきながら見送っていたことに、僕は全く気が付いていなかった。




