10. 天国への階段
翌朝、先生は珍しく遅くまで寝ていた。
朝食の時間になっても起きてこないので、隣室のドアをそっとノックしてみたけれど、なんの返事もない。
心配になって中を除くと、先生はベッドで熟睡していた。ベッドサイド・テーブルには、ポートワインのボトルが空になって転がっていた。
昨夜あの後、飲んだのかな。二日酔い? まさかね。
私をあちこち観光に連れていって、しかも指南という責務もある。これは先生にとっては出張業務。気が抜けなくて疲れているのかもしれない。このまま、もう少し寝かせてあげたい。
メイドには私たちの部屋には入らないように指示をして、私は一人で朝食をとった。
先生がいないので、執事と思われる男性が、給仕の監督のために控えてくれていた。
お父様の侍従長のセバスチャンくらいの年齢かしら?真っ白な髪が印象的だ。
「今日は、一人で出かけたいの。お土産なんかを探しながらのんびり歩きたいんだけど、いい場所はあるかしら?」
「それでしたら、古い書店とその周辺の雑貨屋さんがいいでしょうね。近くには有名なカフェもありますよ」
「そうなの?よく知らなくてごめんなさい」
「いえいえ、奥様はご存知なくて当然なんですよ。有名といっても、カフェ自体じゃなくて、そこで書かれた児童書なんです」
「どんなお話なのかしら、知っているかもしれないわ」
児童書か。絵本だったら分からないけれど、物語なら知っているかもしれない。カフェで書かれた本。聞いたことあるような気もする。
「世界中で大人気の本なんですよ。両親を悪い魔法使いに殺された少年が、魔法魔術学校に入学して冒険をする話です。筆者は島国の人間で、昔ここで語学教師をしていたんです」
「あの有名な!まあ、じゃあ、あの物語はここで書かれたの?」
「実際はお国に帰ってからですが、ここのカフェのナプキンに構想を書き付けたとか。近くにある書店のイメージが、そのまま物語の世界にかぶると、ファンには人気で」
「知らなかったわ。でも、ここは本当に素敵な街ですものね。ああ、そう言えば、昨日は大学でたくさんの黒いマント姿の学生を見たわ。あれも、あの物語の制服のローブに似ているわ」
「そうでしょう、そうでしょう。残念ながら、この国には魔法を使えるものは、ほとんどいないんですがね」
「私の国もよ。私のお父様は使えるけど、私はさっぱりなの。魔法の世界って、あの物語みたいに隠されているのかもしれないわね」
「そうですか。奥様のお父上が」
執事さんはちょっと考え込んだあと、隣りに控えていたメイドに誰かを呼びに行かせた。
メイドと一緒に戻ってきたのは、精悍な見た目の若者だった。歳は二十歳くらいかしら?
「私の孫です。学生ですが今日は休日なので、奥様の観光案内をさせましょう」
「そんな、悪いわ!私なら一人でも。場所さえ教えていただければ」
昨日も一昨日も、身なりの悪くない女性が一人で買い物をしている光景を見ていた。都市に比べて治安はよいようだし、観光地なら警備もしっかりしているだろう。
「いいえ。奥様に何かありましたら、旦那様にもお父上様にも申し開きができません。私のためと思って、この者をお連れください。こう見えて、剣の心得もあります。いいボディーガードになるかと」
「マルセラと申します。私でお役に立てますなら、是非ご一緒させてください」
「ごめんなさい。我儘を言って申し訳ないわ」
先生が起きたら伝言をしてもらうことにして、私たちは馬車で市街地へ向かった。
まずは書店。白亜の外観には花や植物のカラフルなデザインが取り入れられていて可愛い。中に入ると凝った細工がされた螺旋階段があり、赤い絨毯がとても上品だ。
「これは『天国への階段』と呼ばれているんですよ。複雑な曲線を描いていて面白いでしょう」
「とても美しいわ!小さな宮殿の中にいるようね」
「宮殿に入ったことがあるんですか?それはすごいな」
「ええっ?いえ、もちろん例えよ。天井の木の細工もステンドグラスも綺麗だわ。とても幻想的。本屋さんというのを忘れてしまうくらい」
まずいまずい。身分を隠したお忍び旅行なのだから、こういううっかり発言には気をつけないと! 先生以外には、こういうことを言っちゃダメ。
「奥様は、どんな本をお好みですか?」
「うーん、そうねえ、私はあまり本は読まないわ。そうだ!最新の医学書とかないかしら?彼に買ってあげたいの」
「ああ、ジルベルト様はお医者様だそうですね。それならこちらですよ」
マルセラが医学専門書コーナーに連れていってくれた。ざっと見てみたけれど、何がなんだかさっぱり分からない。そういえば、先生の専門が何かも知らなかった。
「ダメね。難しずぎて全く分からないわ。考えてみたら、私、医学のことなんて何も知らないの」
「それなら、これはどうですか。医学の入門書ですよ。医者というよりも看護師を目指す者が最初に手に取る本です」
「看護師。そういう職業があるのね。知らなかったわ」
「女性が多い仕事ですね。医師の助手をするんですよ」
先生の助手はサラさんだったけど、彼女自身も医師だった。そういえば、お母様について病院へ慰問にいくと、同じ制服をきた女性がたくさんいた。
あれはメイドさんじゃなくて、看護師さんだったんだ!
「私、本当に何も知らなくて恥ずかしいわ。どうやったら看護師になれるのかしら?」
「専門学校があるんですよ。試験に受かれば、誰でも入学できます」
「そうなのね!じゃあ、私でもなれる?」
「もちろん。ただ、奥様は働くような身分の生まれには見えませんし、ご夫君がそばを離さないと思いますが。学校は全寮制が一般的ですから」
「そうなのね。彼のお手伝いができたらいいなって思ったのに」
もしそうなったら、先生は私を助手にしてくれるかしら?サラさんみたいに、一日中ずっと先生のそばで仕事を手伝える?
「ご夫君を、愛しておられるのですね」
「え?」
「すみません。随分と年齢が離れているので、政略結婚なのかと。貴族にはよくあることですから。ジルベルト様に望まれて、その、ご実家のために……」
ああ、なるほど。そういう見方があってもおかしくないか。
貴族はたいてい政略結婚だけれど、歳が離れている場合は特別な事情があることが多い。没落貴族の令嬢が、裕福な平民に金銭援助を求めて結婚するという図式は、確かに一般的な考え方だ。
「残念ながら、どちらかと言えば、押しかけ女房なんです。私の望みで、一緒にいてもらっているの。だから、彼の役に立ちたいんだけど、何もできなくて。この本を買うわ。言語を選べるかしら?国際語じゃなくて、できれは母語がいいの」
「お調べしましょう。ジルベルト様が羨ましいですね。こんなに美しい奥様に、これほど愛されているのですから」
マルセラはそう言うと、とても優しく微笑んだ。そして、私の国の言葉で書かれた入門書を探して、購入してくれた。
「お金を払うわ。いくらだった?」
お母様から少しだけお小遣いをもらっていた。これが自分で稼いだお金だったなら、先生も私を見直すかもしれないのに。
私が使うのは国民の税金。自分で働いて得たものじゃない。
「これは、僕からプレゼントさせてください。二人のお幸せの記念に」
「まあ、ありがとう!じゃあ、あとでお茶をごちそうさせて。有名なカフェに行ってみたいの」
「分かりました。では、そちらはお言葉に甘えることにします」
書店を出てから、私たちは周辺の伝統工芸品店を見てまわった。その中でも、黒い雄鶏をかたどった木彫りにカラフルな模様つけた雑貨が、特に目を引いた。
「これは奇跡と幸運のシンボル。ガロと言います。巡礼者を無実の罪から救った伝説の雄鶏の丸焼きがモチーフなんですよ」
「かわいいわ!これはコルクの飾りになっているのね。飲みかけのポートワインの栓にするのにピッタリ。これがあれば、ジルも飲みすぎないかもしれないわね!」
「奥様は、本当にジルベルト様のことばかり考えていらっしゃるんですね」
「そう?そうかな。彼のこと、とても好きなの。でも、なかなか気持ちが伝わらないわ」
「そんなことはないと思いますよ。ほら、あちらを」
マルセラが目で指したほうを見ると、先生がこちらに向かって走ってくるところだった。
もう起きちゃったのね。ゆっくり寝かせてあげたかったのに。
「ティナ!探したよ。心配したぞ。大丈夫だったかい?」
「おはよう、ジル。もっとゆっくり寝ていてよかったのに。お疲れなんでしょう?」
私はバックの中からハンカチを取り出すと、先生の額の玉の汗を拭った。
急いで走ってきてくれたのかな。この辺りは治安が良さそうに見えるけど、そんなに心配することあったのかしら?
「起こしてくれればよかったのに。君を一人してしまって、すまない」
「一人じゃないわ。マルセラが案内してくれたの。執事さんのお孫さんよ」
私がそう言うと、先生は初めてマルセラの存在に気がついたような仕草をした。
そして、私の手を取って自分のほうに引き寄せると、私の腰に手を回してぐっと抱き寄せた。
え、何?なんでこんなに密着するの?
「君がマルセラか。妻が世話になったね。困ったことはなかったかい?」
「いえ、そんなことは。周囲の眼をうっとおしいくらいに楽しませていただきました」
何の話?誰か私たちを見てたっけ?気が付かなかった。ああ、そうか、マルセラさんに憧れる女性とか、そういう人から睨まれてたのかな。こわいこわい。
「そうだろうな。申し訳なかった。ここはもういいから、屋敷に戻ってくれ」
「ジル、マルセラとカフェでお茶をすることにしているの。観光案内のお礼に」
「奥様、それは結構です。邪魔者は退散しますよ。どうかごゆっくり」
マルセラはそう言うと、さっとお辞儀をしてから去っていってしまった。引き止める暇もない。あんな風に逃げなくてもいいのに!
「お茶くらい一緒に飲んでほしかったわ。別に邪魔じゃないわよね?」
「ティナ、君にはもう少し教えなくちゃいけないようだね」
先生の声が、いつもより少し低かった気がした。どうしてだろう。
<モデルとなった場所>
国:ポルトガル
都市:ポルト
書店:レロ書店 (Livraria Lello)
伝統工芸:ガロ(雄鶏伝説より)




