1. 閨房指南役
先生は医務室の机に座ったまま、イライラしたように髪をかき上げた。少しだけ目にかかるくらいの前髪に隠れた濃紺の瞳が露わになり、整った顔立ちがくっきりと認められる。
「ティナ、これはどういうことなんだ?説明してくれるかい?」
先生は怒りを押し殺したような声で、私を怖がらせないように、言葉を選んで口火を切った。
ここからが私の正念場。何がなんでも、先生にこの依頼をうけてもらう!
「その書簡に書いてある通りです。先生に私の閨房指南役になってほしいんです」
少し長めの黒髪に、浅黒く日焼けした肌。男らしい大きな手は筋張っていて、触れられたらどんなだろうと、女に卑猥な想像させるために存在しているみたいだ。
手に持っていた書簡を握りつぶす様子だけで、何人もの女が失神しそうな勢い。色気が凄まじい。
「ばかばかしい。陛下が許可するわけないだろう」
肘までまくった白衣の袖から伸びる腕は程よく引き締まっていて、衣服に隠れた部分も鍛えられていることを示していた。
見えないものほど見たくなる心理が、その体を見てみたいという欲求を掻き立てる。
「許可したのは、お母様です」
私の言葉に反応するかのように、先生は腕を机について立ち上がった。椅子がガタンと音を立てる。
身長は百九十センチくらいだろうか。お父様よりも少し高い。
白衣が持つストレートなラインが体の線を消しているけれど、それでも逞しい胸板や、長く伸びる足は隠しようもない。
「王妃が。そんなはずはない!」
血が滲みそうなほどに唇を噛んで、苦悩に瞳を揺らす先生の姿に、私は抱きついてキスしたい気持ちを抑えるのに苦労していた。
どんなときでも、先生は素敵だ。この人に抱いてもらえるなら、私はどんな卑怯な人間にもなれる気がする。
「嘘じゃありません。婚約した王族には、必ずこのお役目がつくことになってるんです。婚姻に関わる儀式を滞りなく遂行するために。王家で受け継がれている決まりです」
「今どき、時代遅れだろう!悪習は撤廃すべきだ。僕が陛下に掛け合おう」
ティナ、落ち着いて。落ち着くのよ。ここで先生に承諾してもらえなけば、すべてが終わってしまう。なんとしても、先生にその気になってもらわないと。
「先生は、私を抱けないと言うんですか?」
片手で無造作に前髪をぐちゃぐちゃと掴むようにしながら、先生は机から少し離れた場所にあったソファーにドサッと腰を下ろした。
乱暴な動作がやけに扇情的で、背筋がゾクゾクする。
「君は男というものを分かっていない。そんな言葉で僕を誘うことはできないよ」
「知っています。だから、上手な誘惑の仕方を教えてほしいんです」
「意味が分かっているのか?親子以上に歳が離れた男に、君の純潔を捧げたいと言っているんだぞ!ふざけるにもほどがある」
「政略結婚に必要なのは、処女の証じゃありません。上手に愛して愛されること。お相手に気に入っていただくことです」
「君ならどんな男にでも愛される。君を気に入らない男なんて、この世にはいない!」
それは嘘です。だって、先生は私を愛していない。気に入ってくれているとは思うけれど、それが愛じゃないことくらい、私にだって分かる。そういうのは、動物の勘でピンとくるものでしょう?
「誰でも……ですか?どんな男性も私に対して、生理的な嫌悪感を持ったりはしない?」
「当たり前だろう。君はすれ違う男がみな振り返るような美少女だ。しかも、この国の第一王女。男が喉から手がでるほど欲しがる女性だろう」
それは言い過ぎだと思う。先生はちょっと贔屓目が過ぎる。でも、そう言うのなら、それを利用させていただく。だって、なりふりかまってなんていられないから。
「先生も、私を欲しがってくれているんですか?」
「馬鹿なことを。君は僕の娘同然なんだよ。どこに娘に懸想する親がいるんだ!」
でも、本当の娘じゃないし、養女でもない。血の繋がりなんて全くないし、普通の男と女だ。なんの問題もない。
「先生を推薦したのは、お母様なんです。この役目にふさわしい、信頼できる人だからと」
「王妃が?」
「はい。先生が適任だと」
稀代の聖女と呼ばれた王妃は、私のお母様。二十二歳で私を産んだとき、先生は二十五歳。同世代ということもあり、ずっと昔から深い信頼関係を築いてきたと聞いている。
「王妃は間違っている。兄を亡くした喪失感で、今の彼女は精神が薄弱だ。冷静な判断ができなくなっているんだよ」
「私はお母様が正しいと思います。先生は私に関心がないんでしょう?指南役に懸想されては困るんです。情に囚われることなく、お役目だけを全うできる人が必要なんです」
実際、もし先生が私に少しでも興味があれば、お母様はこんなことを命令しなかった。
その意図するところはズレているけれど、これは必然。先生が私を拒否しない人だったら、こんなことをしなくてよかったから。
「それなら、君に釣り合うもっと若い男を選ぶべきだ。探せば、ティナに関心がない男が見つかるかもしれない」
それはそうでしょう。そんな人、ゴロゴロいる。私はモテないし、愛を告白されたこともない。
先生は『親バカモード』で私を見ているから、勘違いしているだけで、私はその辺にいる普通の恋する女の子。特別なものは何もない。
「経験豊富じゃない若者に、このお役目は無理だそうです。私はいずれ他国に嫁ぐ身なので、仮初の関係に相手が溺れては困るからと。若い男性が私を抱いて、愛さずにいられると思います?」
かなり無理な見解だ。やばいくらいに勘違い女っぽい響きもある。でも、このままやり通すしかない。
こんなセリフ言ってる時点で、もうこんな女は誰にも本気で愛されない臭がプンプンするけど、ここはもう、自分がお母様みたいな女性だと思い込んで、それになりきるしかない。
私のお母様は絶世の美女だ。若い頃からその美しさを讃えられていたけれど、私を含めてすでに八人の子どもを産んだ後でも、その容姿は衰えることを知らない。三十八歳という年齢は、まだ女盛りだと言っていいし、今でも世界中から求婚者が殺到している。
「君はもう十分に魅力的だ。本来なら指南などいらないんだよ」
「さっき先生は言いましたよね?『僕を誘うことはできない』と。魅力が通じない相手がいるのに、なぜそう言い切れるんですか?」
「僕だって普通の男だ。君に惹かれないわけがないだろう」
ソファーに座ったまま頭を抱えてうなだれる白衣の宮廷医。私はそっと立ち上がって先生のほうへ近づき、そのまま黙って彼を抱きしめた。
もしも、私に少しでも気持ちがあるのなら、どうかこの依頼を受けてください。お願いだから、私を見捨てないで。一度でいいから、チャンスをください。
「先生、私に愛し方を教えてください。私に触れた男性が、私に執着して手放せなくなるように。私が幸せになるためには、愛の手管を磨く必要があるんです」
肉付きのよくない私の胸が、先生の耳に当たっている。この心臓の鼓動が聞こえませんようにと、そのときの私はただそれだけを必死に祈っていた。
「異教徒の国には『カーマ・スートラ』という愛の経典があるだろう。それ専門の宦官が姫らに手ほどきをすると聞いた。彼らのほうが適任では?」
「宦官は他国の奴隷です。そんな者にこの身を任せたくありません。それに……怖い」
涙が出た。先生は、私を他国の男なんかに投げてしまえるんだ。それほどに、私の相手をするのが嫌なんだろうか。
先生がこちらを見上げたタイミングで、私は腕をほどいて、急いで涙を拭いた。
「すまなかった。君を泣かすつもりはなかったんだよ。僕はどうかしているな。ティナを怖がらせるようなことは、絶対にさせないから安心しなさい」
私が宦官の手ほどきを怖がって泣いたのだと、先生はうまいこと都合よく解釈してくれた。
私がショックだったのは、そこじゃなかったんだけれど、そう思ってくれたのなら、それを利用させてもらう!
「よかった。他国の奴隷だろうが、この国の貴族だろうが、先生以外の男性は怖いです。だって、何をされるか分からないんだもの」
両手を先生の頬を包んで、その黒曜石のような瞳を見つめた。どうか私の顔が赤くなっていませんように。先生にこの下心を悟られたら、この話は受けてもらえない。
「ティナは、僕だったら怖くない?」
「はい。先生だったら大丈夫。だって、痛くしないし、辛いときは優しくしてくれるし。いつも喜ばせてくれるから」
先生はそれを聞いて、なぜか笑った。今夜、最初の先生の笑顔が見れて、私は少しだけホッとした。
「それは、注射や病気のときの話だろう。閨房指南はお菓子をもらって喜ぶようなこととは違うんだよ。それでも、僕なら泣かずにいられるのかい?」
「はい。先生がいいんです。お願い、この話を受けてください。私を助けて」
これは本音。先生じゃなくちゃ嫌。どうか、どうか、私を突き放さないで。私の手を離してしまわないで。
先生は何も答えなかったけれど、沈黙は合意とみなされる。私は先生の頬から手を離して、ソファーから少し距離を空けて立った。
「このお役目、承諾してくれますよね。明日から、私は先生のお部屋に通います」
異論を唱えられないうちに、私はだまってスカートの端をつまみ、淑女の礼をした。
そして、ドアノブに手をかけたところで、背後から先生の声が聞こえた。
「王宮では目立つ。急病の療養目的ということで、どこか別の場所に移ることにしよう。僕は君の主治医だから、一緒に行ってもおかしくない。王妃様に転地療法を進言しておこう。それでいいかい?」
「分かりました。では、その手配ができるまでは、今まで通りでお願いします」
ドアを開けたときに、先生のため息が聞こえた。
「君は、本当に強情だな。それに度胸がある。王妃譲りだね」
私は何も聞かなかったフリをして、そのまま医務室から退出した。なんと言われようとも、ここは我を通す!私の人生がかかっているんだから、引き返してなるものか。
とにかく、お母様にコトの首尾を報告しなくちゃ。先生が転地を勧めてきたら、うまくことを進めていただかないと。こういうことには、母娘の連携プレーが大事なのよ!
「お母様っ、うまくいったわ!受けてくださるって」
お母様のサロンのドアを開けながら、私は思わずそう叫んでいた。