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八話

 アドリィに促されるまま、真新しい紳士服の袖に腕を通す。

 着替えの間、普段は寝たり戦ったりで付いた癖を直す程度にしか触らない髪をいじられ、油や臭いのある薬品の類いは使わなかったが晩餐会に出席するには相応しい形に整えられた。

 一通り終えて満足げだったアドリィは、けれどすぐに気が付いたらしい。

「あなたは王国でもこんなに適当なのですか? 仮にもA級傭兵でしょう?」

 そう言いながら、俺がわざと緩めていた襟締を締め直す。

「俺の私物には、こっちの方が合ってた。安物を着古してたからな」

 とはいえ、政治家や名門騎士団が集まるような席では襟締を緩めるなど許されるはずがない。俺が口にしたのは単なる言い訳で、実情は子供じみた抵抗でしかなかった。

 まぁ、そこまでアドリィには見抜かれているのだろう。

 確信に等しい直感を抱いてしまえば、肩肘張るのも馬鹿らしくなる。

「さて、もう注文もないだろ?」

「えぇ、もう十分です」

 彼女に先導され、衣装部屋を後にする。

 部屋の前、扉の両脇に立つ見張りの兵士が敬礼され、そこで気が付いた。そもそも着替えるのであれば、部下――というか、主にヨルク――の前で調べる必要はなかったはずだ。

「悪かったな」

 大広間への道中で前置きもなしに一言詫びれば、相手もすぐに汲み取ってくれた。

「気にすることはないですよ。閣下は誰しもを信頼しています。全ての者の、持ちうる力を。むしろ私とセオの共謀という可能性を捨てきれず、かつ共謀されれば厄介だという認識があったからこその判断でしょう」

 誇っていいことですよ、と感情を滲ませずに笑うアドリィの、なんと頼もしいことか。

「リースと同じだな」

「……?」

 だが続く言葉の意味は上手く汲み取れなかったらしい。俺としても、その方が有り難かった。

 運命の歯車が少しずれていれば、彼はS級の高みから世界を見下ろしただろう。

 なら、俺は?

 俺にS級に至るだけの才覚はない。それは傭兵としては悲しむべきことであれ、一個の人間としては喜ぶべきことだ。別段、そこに馳せる思いはない。

 しかし、もっと身近な、S級などという霊峰に等しい高みからすれば豆粒ほどにちっぽけな違いはあっただろう。

 どんな道を、誰と歩んだか。

 始まりの夜、俺はリクを選んだ。ほとんど話すこともなかった同級生に誘われ、傭兵団に入るのではなく三人の傭兵仲間と組むことにした。名もない戦線で肩を並べ、歴史に残らぬ戦場で背中を合わせ、そして竜の息吹に分かたれたのだ。

 リースやアルターとの出会い、アリアンやアドリィとの出会い、ヨルクとの出会いもあった。

 そのどこかで、何かが違っていたら?

 答えは、けれども意味を持たない。

 リースはS級の化物ではなく教国の高位騎士で、俺はヨルクとともに傭兵団を築くに至った。それ以外の道は、俺にはない。結果論と可能性とを一緒くたにするほど、俺も若くはないのだ。

 結論は、だから出ない。

 あれきり黙りこくっていた俺を一瞥し、アドリィが門番然とした二人の兵士に目配せする。

 荘厳な扉が開けられた。

 大広間いっぱいの視線が半ば反射的に俺たちの立つ扉へと集まり、それから散る。

「随分と支度に手間取ったようだな」

 そう冗談半分で零された彼の一言で、『陛下』に対する無礼とも言える行為が許されたことを悟り、多くの招待客の顔から緊張が薄れていく。

 クラウディオの演説が、ちょうど終わったところだったらしい。

 改めて大広間を見回すと、拍手喝采の残響が聞こえてくるようだった。政界の重鎮にして軍が輩出した英雄の一人、何より帝国の全てを担う六王の一席に座す男の演説だ。聞き逃したことが悔やまれる一方、聞いてしまわなくてよかったとも思う。

 聞いていれば、きっと呑まれていただろう。

「さぁ、名目などは忘れてもらって構わない。私の名のもとに、珍しい顔が集まってくれたのだ。無礼講とはいかないまでも、皆銘々に楽しんでくれたまえよ」

 正面から対峙した時とは打って変わった、穏やかな声音。

 王の言葉は、それがなんであれ、大なり小なり命令に取って代わられる。

 つまり、楽しめと言われれば楽しむしかないのだ。緊張だとか、王の御前だからとか、そんな言い訳は無用であり、有り体に言えば無能の自己申告に他ならない。

 俺たちの登場で漂いかけていた曖昧な沈黙が拭い去られた。

 大広間に集まった人々が銘々に生む喧騒が、六王クラウディオの顔に笑みを刻む。


「しかし、こうして話をさせていただくのは随分と久しぶりな気が致しますな」

「えぇ、とても有り難いことに。……以前はお会いしたのは、確か賭場でしたからね」

「ははは、これは手厳しい。あの頃は若かったと言い訳させていただきたいものですが、しかし、そういうあなたは変わらぬ若さですな。陛下もそうですが、やはり秘薬でも抱えているのでは?」

「下手な冗談は好きではありませんね。女も男も、若ければいいというわけではありませんよ。僭越ながら、奥方にはもっと上手い言葉を差し上げるべきかと」

 男と女の他愛ない会話が口元を引きつらせ、そのお陰で意識が眼前に舞い戻った。

 大広間に来てから、どれだけの時間が過ぎただろう。

 三十分では足りない。一時間かそこらだ。言うまでもないことだが、その間に大広間を出入りした人数は数え切れない。用足しや化粧直しで席を外す者がいれば、時間の都合で早々に帰る者もいる。また反対に、途中から顔を出す者もいた。

 ただの招待客という立場からは、その総数を知ることは叶わない。

 とはいえ、今この大広間にいるだけでも百人近いだろう。しかも豪勢な料理が並ぶテーブルの間を、俺ですら知っているような大物たちが平然と行き交っている。

 政治的な会合というならまだしも、名目上は単なる誕生日会であるにもかかわらず、だ。

 クラウディオは、それほどの政治力と求心力を持っている。

 ただそれは、裏を返せば身動きが取りづらいという負の側面にも繋がるはずだ。誕生日会でこうも客が集まるのであれば、政治的な決起集会など催した日には下手な暴動より大規模になるかもしれない。

 考えれば考えるほど、改めて自分の愚かさに泣きたくなる。

「どうされました? 傍からは退屈しているように見えてしまいますよ」

「実際問題、退屈だよ」

 いつの間に会話を切り上げたのやら、俺の隣に戻ってきていたアドリィに一瞥もせず答える。

 いかに政治的意図があるとしても、クラウディオが――いや六王が、ただの傭兵一人を罠にかけるために自らの名前を使うことはない。何をするにも規模が大きくなってしまう彼らにとって、『動く』というのはそれだけで大仕事なのだ。

「ですが、食は進んでいないようですね。傭兵とは食べられる時に食べるものでは?」

「……また痛いところを突いてくる」

 ――食える時に食え。

 それが傭兵の掟だ。状況が許し、また求める限り、いつでもどこでも飲んで食べて寝られなければ傭兵失格である。アザル・ルーとの戦争中も、異臭の中で飲んで、食って、寝た。

 対して今の俺はどうだろう。

「あまり歩き回りたくないというのであれば、ここまで運ばせますが?」

 そうしてくれると助かる。

 ……なんて言う前に、アドリィは近くの給仕に声をかけ、あれやこれやと言い付け始めた。

「酒はやめてくれよ?」

「勿論です。あなたと酒との相性の悪さは私が一番知っていますし、陛下にも目を光らせておくよう厳命されたほどですから」

「六王直々に禁止令が出るほどの酒癖の悪さか。買い被りすぎじゃないか?」

「…………はぁ。まぁ、いいですけどね」

 露骨に呆れてみせるアドリィが十四年前のことを示唆しているのは明白だった。

 しかし、何度も言うが、あの夜は何もなかったのだ。ただ酔い潰れ、介抱された。それだけ。それ以上でも、それ以下でもない。……あぁいや、以下だった可能性は捨てきれないが。

 なんにせよ、いくら酒が入ったところで、我を失って乱痴気騒ぎを始めるような野蛮人ではない。

 酒は、常日頃抑圧している本当の自分を引き出すと言われる。

 であれば、俺は惰眠を貪ることがあっても、野蛮な振る舞いに出るはずがないだろう。

 アドリィの命を受けた給仕から料理の乗った皿を受け取り、厚切りステーキにフォークを突き刺す。赤身の目立つ肉はもっちゃもっちゃと噛み切りづらく、良く言えば素材の味を活かした旨味があるが、悪く言えばただの肉の味しかせず物足りない。

 ただ、こういうのが甘い果実酒には合う。

 思わず視線を上げるも、声を発する前から「ダメです」と断られてしまった。

「それに、ほら、あなたにも王国のA級傭兵としての責務があるのではないですか?」

 言われるがまま彼女の視線の先を追い、そこに見つけた人影に背筋を正す。

 ――が、しかし。

 相手が誰なのか理解したわけではなかった。ただ背筋を正すべき相手だと察したがゆえの条件反射であり、俺が彼について言えることは『どこかで見たことがある気がする』といった程度のものだ。

「やぁ、悪いね。食事の邪魔をしてしまったみたいで」

 そう愛想良く、いっそ柔らかすぎる物腰で口火を切った男は、老齢も老齢だ。八十になるというクラウディオは未だ壮年の輝きを纏っていたが、眼前の男は違った。

 老いに抗うことはなく、それでいて衰えには抗っている。

 そんな印象を抱かせる、不思議な老人だった。

「いえ、傭兵風情の私にとて、ここが単なる食事の場でないことは分かりますよ」

「ということは、なるほどなるほど、邪魔ではあったわけだね?」

 からからと悪戯っ子の笑みを湛える男の、なんと印象の良いことか。

 彼はよく似合っている年代物の紳士服を着ていた。傭兵や軍人など荒くれ者の類いでないこと、また過去にそうした経歴がなかったことは明白だが、それ以上のことが分からない。

 しかし、もし政治家だったとすれば、これは中々に侮れない狸だ。

 古狸や狸爺と称される六王が一人、ブルーノ・ドーフラインほどではないにせよ、老獪さ狡猾さを笑みの奥に隠す政治家には、クラウディオのそれとは全く別種の恐ろしさがある。

「まぁ、あなたほどの人物が目の前に来れば、弥が上にも肉が喉を通らなくなりますからね」

「ほうほう、ということは、君は私のことを知ってくれているわけだ」

 彼の意地の悪い冗談を敢えて受け止め、その上で見え透いた世辞を投げる。

 次いで返された言葉を噛み砕けば、嫌でも見えてきた。この男と会ったことはないが、互いに互いを知っている。ただ俺が覚えていないというだけで。

「いえ――」

 言葉を選ぶが、内容は選ばない。

 ただあるがまま、それが正解だろう。

「失礼ながら、新聞か何かで拝見した記憶はあるのですが、どうにも名前と役職を失念してしまっているみたいで。……何か論文をお出しになっていましたよね? 確か、そう、かなり興味を引く内容だったと記憶しています」

「つまり内容そのものは記憶にないわけだね?」

「大変失礼ながら」

 隣でアドリィが絶句しているのが分かった。

 当たり前だ。田舎で馬としか接していない青二才ですら、もっとまともな受け答えをする。

 だが、俺とて若くはない。

 自分に求められる役割というのは、往々にして、自分自身が思っているものとは異なるのだ。俺は世俗を忌むとまで囁かれる傭兵で、相手はそれを知っている。

 ならば、下手に知ったような口を利くべきではない。

 知らぬのなら、知らぬ。

 それが許されるほどの地位を築いてきたのは、驕ることではないが、俺自身だ。

「……いやはや、噂に聞いていた通りだ」

 狸の奥に、一瞬、狐が見えた。

「試すようなことをして悪かったね。儂は……まぁ過去には論文を出したこともあるが、所詮は田舎の百姓に過ぎないよ。気楽にアンクティルの爺さんと呼んでおくれ」

 そして差し出された手を、俺はしばし悩んでから握り返す。

 元々断れるわけなどなかったのだが、それでも悩んでしまったのは――、

「アンクティル、ですか……? いや、まさか、まだご存命だとは」

 確か、十年前には九十近かったはずだ。

 つまり今は百近い。S級とは違った意味での化物である。

「セオ……! あなた、いくらなんでもそれは」

「いや、いいんだよ、アドリアーノ嬢」

 他の男が言えば、それは世辞を通り越して嫌味でしかない言葉。

 だがアンクティルが口にすると、言葉通りの意味にしかならない。半分かそこらの年月しか生きていないアドリィなど、彼にとっては小娘同然だろう。

「世俗忌む盾騎士の噂は聞き及んでいる。こんなところで顔を見るというのは、儂にとっても驚きでね。遂に人間風情が生きる世俗に興味を持ったということかな?」

「どうも大袈裟に噂されているようですね。私は元から興味津々ですよ。あなたが何十年も前に発表した……なんでしたっけ、正確な題は忘れてしまいましたが、農業における隣人や獣との付き合い方について学術的見地から考察した論文なんかは、学生時代から何度も読みましたからね」

 咄嗟には思い出せないわけだ。

 とっくに隠居し、ほとんど表舞台に出てこない仙人じみた老人。そんな人物が平然と歩いていると、誰が想像できようか。更に恐るべきは、彼を連れ出したクラウディオの力だ。

 どういう根回しがあれば彼を庵室から連れ出せるのだろう。

「それは少し違うように思えるけどね」

 アンクティルは困ったように笑う。

 それから周囲を見回し、手近にいた給仕に声をかけたと思えば、透明の液体が入った杯を二つ受け取った。片方を自身が持ち、もう片方を俺に差し出してくる。

「しかしまぁ、君とは初めて会った気がしない。……どうだろう、再会の乾杯といこうじゃないか」

 ちらとアドリィの方を見やり、許可をいただく。その光景にもアンクティルはくすりと邪気のある瞳で笑っていた。

「えぇ、喜んで」

 俺が掲げた杯と、アンクティルが掲げる杯。

 二つの杯が近付き、甲高い音を立てようとした、その時だ。

 杯たちの音を掻き消すようにゴォンと異様な音を立て、大広間の扉が開け放たれた。

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