七話
報告書に見る教国の内部情勢は、なんとも見るに耐えないものだった。
一度国境を跨ぎ帝国領に入ってしまえば追っ手の心配はないと考えていたが、それにしても予想外というか、想定を遥かに下回るお粗末な対応に打って出ているらしい。
しかも信じ難いことに、その状況は帝国側……アドリィやクラウディオの術中にはまったわけでもないのだという。
一言で言えば、教国はリース一人の手によって前進の道を断たれたのだ。
ここまでの体たらくを見せつけられれば、もう愕然とする他ない。
そもそも内部の、加えて一見して被害者であるリースが首謀者だという状況が特異といえば特異だが、それを差し引いてなお呆れてしまう。外部からの攻撃ではなく、内部からの攻撃ですらなく、単なる児戯の延長線にあるような小手先の策で彼らは踊らされた。
リースの策とは、俺に手紙を出すこと、ただそれだけである。
アドリィ経由で送ってきたものとは違う、教国内部の検閲を馬鹿正直に受ける形で一通の手紙を出した。内容も至極単純なもので、概略によれば『結婚式の招待状』だったという。
暗号の類いではない、文字通りの意味だ。
騎士の立場から検閲というものを知っていた彼は、友人に向けた招待状を、しかし検閲で止められ、国外に持ち出されることのない無意味な文書として配達人の手に委ねた。
その内容は明らかにされていないが、例えば結婚式の会場や日時を記すだけでも手紙を出す時期によっては差し止めの対象になるだろう。
そして彼は、俺の反応から招待状が正しく届いていないことを知った。
あとは招待状を出した人間の態度で応じればいい。例えば、花嫁が誘拐された時に「信頼できる友人が来るから国外への追跡は彼に任せればいい」とでも言えばいいのだ。
周りからリースを見れば、友人の参列を信じていた新郎でしかない。加えて事態の対処に前向きであり、かつ友人の来訪を隠す意図もない立場を演出できる。
一方、検閲で招待状を止めてしまった側の人間がどんな状況に陥るか。
最初にベアトリーチェと会った時、彼女は俺の入国を知っているようだった。詰まるところ、移民の子供ですら教国を訪れる『騎士』の存在を知っていたのだ。
そして現に、騎士を自称する浮浪者が入国してしまっていた。
届かなかった招待状が、来るはずのなかった招待客を、身分を偽る形で招き入れてしまう。
元来、教皇の跡目争いなどで内部分裂が起きやすい政治体制だ。
明らかに帝国が一枚噛んでいると分かっていても、教国の有力者たちにすれば大差ない。むしろ暖簾に腕押しの対応が分かりきっている帝国側を突くより、将来の政敵となりうる現時点での同胞を叩く方が合理的かつ建設的だ。
結果として、教国上層部はありもしない責任の押し付け合いで紛糾し、遠からず火種となるはずだった俺や帝国への嫌疑が自然消滅しかけている。
呆れた話だが、馬鹿だ阿呆だと笑っていい話でもあるまい。
ただ一言、俺が口にすべきは――、
「やはり持つべきは友だな」
リースへの感謝、それだけだ。
「……その友のせいで人攫いにまで身を落としたのですけどね」
アドリィが身も蓋もないことを言ってのけるが、こればかりは仕方ない。十四年前もそうだった。彼が危ない女に惚れなければ危ない橋を渡る必要もなかったが、しかし同時に、地下で失敗した俺は救われたのである。
今回も、同じだ。
リースの件がなくとも、アドリィは俺を呼び寄せただろう。
だがリースが一枚噛んでくれたお陰で、俺は手札を増やせた。教国との軋轢、リースとその想い人であり過去の因縁も持つアリアン、ついでに傭兵団と直接の関わりがなかった二人の少女。
お膳立ては充実しすぎているほどだ。
であれば、ここでしくじるのは末代までの恥。傭兵としての沽券に関わる。
「アドリィ」
「なんでしょうか?」
「あんたを味方だとは思いたくないが、せめて敵じゃないとは思っていいのか?」
それは、有り体に言えば。
「えぇ、勿論です。私にも閣下にも、セオ――、あなたと敵対する意図はありません」
わざわざ明言した意味は、果たしてどちらか。
彼女が、延いては彼が敵か、それとも協力者か。
アドリィの瞳を覗いても、そこに答えは見えてこない。
けれども、今はそれで十分だった。
敵と決まったわけではない、それだけで。
傭兵団に用意された控室の扉を開けた瞬間、不自然な静寂が押し寄せてきた。
「構わない、気にせず続けてくれ」
どうやら歓談していたらしい、と見て取るやいなや吐き捨て、ヨルクとエミールには目配せだけする。
フリーダとエド、エリノアは未だ緊張気味だったが、代わりにシウフとベアトリーチェは気にする素振りも見せず改めて口を開いた。ランディはちらと俺の方を見やるも、すぐに会話の輪に戻る。
「どうでしたか?」
そんな彼ら彼女らを俺同様に一瞥したヨルクからの一言。
「今のところは問題ない」
「今のところは、か」
苦い声で返してくるのはエミール。ずっと帝国にいた彼には断続的な緊張があったに違いない。『今のところは』の連続で今現在に至るわけだ。
「どうあれ、何事もなく終わることはないだろう」
悲しいかな、アドリィは友人ではない。
友情という名の白紙小切手を渡せる相手ではないのだ。
金を貸しても返済の確証はなく、無利子で借りた金の返済を未来永劫待ってくれるはずもない。もしもの時、友情に代わるのは暴力だ。信用ではなく実力で返済を迫る。
目に見えない返済期限が、それでも間近に迫っているのが手に取るように分かった。
「俺が席を外した間、特に変化はなかったな?」
「イエス。何も問題はありませんでした」
「なら、先に細かいところを詰めるとしようか」
もう一度ちらと見やり、部下たちが歓談に集中していることを確かめる。
これから口にするのは、彼らに聞かれては些か困る話だ。
「まずヨルク、君は気を引き締めろ」
ヨルクは副団長で、エミールは相談役だ。
役職もない平の団員とは違う。要は彼らの上司や上官に当たる二人を、見えるところで叱るわけにはいかない。
「ノー。既に引き締めています」
無論、こうやってヨルクが否を唱えるのも分かっていた。団長と副団長の言い争いを団員たちに見せるべきかといえば、答えは明白だろう。まず見せてはならない。
「そうか、そういうことなら俺は君を過大評価していたことになる。……ここがどこか分かっているか? 家じゃないんだ。それどころか王国ですらない。帝国の――、毒蛇の巣の中だ。油断しているつもりは、いや気を抜いている自覚もないだろう。だが、言っておくぞ。気を引き締めているなら、まず表情を隠せ。君の課題は、そこだ」
ヨルクの少女的とも言える顔に衝撃が刻まれる。
だからこそ、言わなければならない。嫌なことがあるなら、隠さなければならないのだ。
足を引きずった傭兵は、最初に敵から狙われる。何故か? 足を庇うために十全には戦えない敵、それは陣形を切り崩す手始めとして最も手堅い。
「エミール、その点でお前はまともだったはずだ。まぁそもそも仏頂面が似合いすぎるってだけかもしれないが、理由はともかくまともだった。にもかかわらず――と、その顔は自覚があるらしいな」
衝撃というか、悲しみを隠せないでいるヨルクと同じく、エミールも反省の色を隠さず顔に出していた。こちらはわざと見せているのだろう。自覚し、反省していると。
「何があった?」
ヨルク曰く、問題は何もなかったはずだが。
というより、俺から見ても問題はないようだった。俺が去る時の室内を思い出してみるが、結論は変わらない。エリノアとベアトリーチェが自己紹介し、それに合わせて団の面々も口を開く。そんな光景が脳裏にはあった。
しかしあの時、確かにエミールだけは違う表情を浮かべていたのだ。
「わざわざ言うようなことじゃないんだが……」
「わざわざ隠すようなことなら、言わなくていいが?」
その時は分かってるよな、と言外に吐き捨て、続くはずだった言葉を黙らせる。
ここがどこだか、二度も言わせないでほしい。
エリノアとベアトリーチェならまだしも、あるいはフリーダとランディとエドとシウフなら許容できても、他の二人は無理だ。物事には限度がある。
格付け上はB止まりといえど傭兵歴が長いエミールと、経験こそ厚くないもののAの位に到達したヨルク。その二人がこれしきの心構えもできていないとなれば、失望に値する。上司として立つ瀬がないし、俺自身にも軽く失望できるほどだ。
「あの娘が……なんだ、少し似ていてな」
誰にだ。
思わず怒鳴りそうになったが、どうにかこうにか自分自身を黙らせる。ついでに澄まし顔を作って言葉の続きを待てば、エミールが焦った様子で再び口を開いた。
俺自身も、もう少し感情を隠せるようになった方がいいらしい。
「カプア、だったろ? その名前に覚えがあった。それで、昔の知り合いを思いだしてな」
「ベアトリーチェ・カプア、か」
確かに、王国に多い名前ではある。
昔から人間同士ではなく隣人や獣と争うことが多かった大陸において、国家間の関係は比較的良好だった。教国などの例外はあるにせよ国を跨いでの結婚も多く、姓や名だけで出身国を特定するのは難しい。
とはいえ、傾向があるにはある。
レイモン・トマは帝国や共和国に多い名だったし、それと同じようにカプアは大陸の南に多く、王国でもよく聞く姓だった。
それでも気にかけるに値するほどではなかったが、エミールの昔馴染みも同じ姓だったか。
「お前も聞いたか? あいつの親は傭兵だったらしい。所属していた傭兵団が解散したせいで路頭に迷って、教国に逃げ延びた。その時には、もうベアトリーチェは生まれていた」
歳は幾つだったか。
正確なところは覚えていないが――というか直接聞いたかどうかも怪しいが――、まだ十八かそこらだっただろう。親子が教国に移住したのは十年ほど前になる計算だ。
「そうか。そうか…………」
苦しげな顔で呟いたエミールは、それきり黙り込んでしまった。
言うべきではなかったかもしれないと今になって気付く。腹のうちに留めていられたなら、せめて王国に戻るまでは忘れさせておくべきだった。
時既に遅し、というやつだが。
とことん嫌になるな。人を叱った直後に、自分の反省点が次々と見つかっていく。
「まぁ、もう戻れ」
ため息混じりの言葉を、二人はどう受け取ったのか。
歓談の輪に戻る気分でもないらしく、ただ俺の前で突っ立ったままだった。
「……あのっ!」
嫌になる。
自嘲に囚われそうになった時、じめじめとした空気を追い払ってくれたのは若い声だった。
「話終わったなら、ちょっといいすかっ?」
反射的に誰かと思ってしまったが、いくら人付き合いが少なかったといえど部下の声くらい聞き分けられる。
ヨルクとエミールの間から顔を出し、彼、ランディが勢いよく手を挙げていた。まるで教師に解答を求められた生徒である。
「なんだ?」
シウフとは違った意味で空気を読まないランディの性格が、今ばかりは有り難かった。
「リースさんって人と会ってきたんすよね? セオさんと昔からの知り合いだっていう。ならっ、なら聞いていいですか? 赤の隣人の群れ長を一人で倒すって、やっぱリースさんってすごい人なんすかっ?」
ただ少々、というかかなり、元気が良すぎる。
ちなみに赤の隣人というのはレイ・ジ・ドグの別称だ。王国ではどちらの呼び方もよく使う。
「剣術の天才だな、あいつは。残酷なことを言うようだが、ここにいる誰も、あいつに剣術では敵わない。どれだけ鍛えたところで、あいつと正面から戦っては勝つことすら叶わない。そういう奴だ」
運命の歯車とやらが今と少し違う形で噛み合っていれば、もしかしたら彼は高位騎士などではなくS級と呼ばれる化物たちの仲間入りを果たしていたかもしれない。
それほどまでに、リースの剣の才覚は常軌を逸している。
「……セオさんも、ですか?」
リースを知らぬ者は、俺やアルターの言葉を信じない。
教国に生まれなければ、恋に溺れなければ、幸福に包まれなければ、剣を握るための悲劇と激情にさえ恵まれていれば――。
アドリィに言われずとも、分かっていた。
「あぁ。ヨルクであっても、あいつには勝てないだろうな」
ヨルクでさえ、だ。
確かにあの時、俺はヨルクの将来を見たくなった。栄養豊富な土から顔を出した芽がどんな花を咲かせ、実を付けるのか。それを見るために遠回りまでしている。
だが、そのヨルクでさえ、リースの才能の前には勝てない。
「でもどうしたんだ、急に」
まさか俺とアドリィの会話を聞いていたわけでもあるまい。
どうして急にリースの話など持ち出すのかと思ったが、彼の姿を見て気付かされた。言いづらそうに目を泳がせるランディの左手は、恐らく無意識なのだろうが自身の腰に伸びている。
そういえば、そうだった。
俺たちが教国に行っている間、帝国に残された面々は獣狩りをしていたはずだ。エミールは何もなかったと言ったものの、ランディには決して小さくはない何かがあったのだろう。
「色々戦ってきたんだろ? 何と戦った時が一番やりづらかった?」
気持ちを切り替え、先回りして訊ねれば、ランディも悟られたことに気が付いたらしい。声をかけてきた時の元気はどこへやら、似合いもしない神妙な表情を見せた。
「…………名前、忘れちゃったんすけど」
「おい」
「いや、だって、よく聞かない名前のばっかでしたしっ!」
神妙だった理由はそれか、と呆れるが、まぁそっちの方がランディらしい。
「サヅチ、だったよね? ランディが苦戦してたのって」
「なっ……、見てたのかよっ!?」
そして助け舟を出してくるフリーダも、やはり変に気を遣っているより多少図太いくらいの方がいい。周りの目を気にせざるを得ない環境だからこそ、堂々としているべきだ。
しかし、よりによってサヅチか。
原因不明の大移動を見せているサヅチの討伐依頼が民間に出され、それを部下たちがこなしていた。となると、ヘイズも当てずっぽうで話を持ちかけてきたわけではないのだろうか。
「どうやりづらかった? ……つうか、まさか適当に叩いたんじゃないだろうな?」
とはいえ、サヅチそのものは取るに足らない相手だ。エミールが引率するのであれば、俺とヨルクが抜けたところで問題にもならない。
苦戦する理由が見当たらず、何気なく口にした言葉。
それが引き金となって、ランディの目がまたも泳ぎ出した。……信じ難いことだが、まさか、か。
「その、ウズザルと同じくらいの敵だって聞いてたんですけど、全然そんな感じしなくて。むしろ剣が通らないっていうか、変な弾かれ方しちゃって……」
冗談で言っているのなら、笑えないと笑い飛ばしてやれた。
だが本気で言っているのだとすれば、それはランディ一人の問題に留まらない。どう擁護しようとも、俺とヨルクに問題があったという結論に至ってしまう。
「お前、料理はするか?」
傍目には唐突すぎるような問いに、ランディとて目を丸くする。
「え、……えっと、自炊は時々ですけど」
「なら肉と野菜を同じように切るのがどれだけ馬鹿げてるか分かるだろ?」
一般的な獣に比べ、ウズザルは背骨が異常に発達している。そのせいで背筋は伸ばせないが、代わりに剣や矢を弾く天然の鎧と化しているのだ。
一方で、竜の鱗や人工的に純度を高めた鋼ほど頑丈ではない。ある程度以上の力があれば、むしろ心臓を貫くより容易く命を奪える。
特にランディの得物は剣鉈だった。剣ではあるが、斧のように重みで斬る武器。
「海中でも過ごすサヅチは柔軟性を持ってる。対極とまでは言わないにしても、ウズザルと同じように斬ろうとすれば力が上手く伝わらないのは当然だろう」
敵が変われば、斬り方も切れ方も変わる。
当たり前のことだ。
悩むことですらない、初歩の初歩。それを知らぬとなれば、問題は当人ではなく教える側にある。ヨルクは確かに彼らを一つ上の次元に引き上げてきたが、あくまで彼がいる前提での戦術を立てていたのだろう。ヨルク一人が抜ければ、それで瓦解する戦術を。
そして俺も、知っていて当然だからと教えなかった。俺とて先人から教わったというのに。
反省点は数えきれない。
それでも自覚しただけ救いようはある、はずだ。
「帰ったら――」
ランディの答えも待たずに口を開き、ほとんど同時に開かれた扉を一瞥してから言い捨てる。
「ちゃんと一からやろうか。教えられなかったことを教えて、言えなかったことを言って、やれなかったことをやって――」
続くはずだった言葉は声に乗せず、心の中でだけ紡ぐ。
――そのためにも、まずは無事に帰ろう。この毒蛇の腹の中から。
彼女も分かっているのだろう。
開け放した扉の前に立ったアドリィは、ただ無言で俺を見据えていた。
「今度はなんだ?」
「閣下がお見えになり、晩餐会が始まりました。セオ、正式な招待客であるあなたは会場へ。……勿論、危険物の持ち込みは厳禁です」
「盾も、か?」
「素人が持てばただの鉄塊でも、あなたが持てば立派な武器ですから」
彼女が連れてきた男女は裏社会の臭いを隠すことなく、俺に近付いてくる。剣と盾を渡した後、恐らくはヨルクの逆鱗に触れるのを避け、女が俺の全身を隈なく調べた。
それは逆効果な気もするが、先ほどの説教が効いたらしい。ヨルクが怒気を立ち上らせるだけで留まり、そうなれば他の面々も倣うしかなかった。
「他の皆様はこちらでお待ちいただきます。料理は運ばせますので、要望があればなんなりと」
アドリィがそう言ったところで、女が「問題ありません」と報告する。その声は記憶にあるものだったが、しかし見覚えのある顔ではなかった。
俺も相手も視線を交わさず、代わりに二つの眼差しがアドリィに向く。
「それでは、こちらへ」
招かれるままに俺はヨルクたちから離れ、アドリィのもとへ寄った。
「信じていいんだろうな?」
すれ違いざま、耳元で囁く言葉。
それを聞いた彼女は、からりと鳴る鈴の音のような笑い声とともに答えた。
「勿論です。私とあなたの仲ではありませんか」
「……そうだな、その言葉を信じさせてもらうよ」
そして、俺とアドリィだけが扉をくぐる。
六人の部下と二人の少女、アドリィが連れてきた男女を残し、扉は再び閉ざされた。
扉を背に向かうのは、果たしてどこだろう。
断頭台や絞首台の類いでなければいいのだが。