最終話
気が付くと、窓の外からの儚げな日差しが広い一室を照らしていた。
今は何時だろう。
反射的に時計を探し、ぐぅぅと鳴く腹で時計を見る前に朝だと知る。
そういえば、昨日の夜は飯を食べずに寝たんだった。
……何故だ?
確かアドリィが手配した宿では、俺たちの到着に合わせて夕食が用意されていたはずだが。
いや待て、そういえば夕食の前に――。
「どうしたんだっけ……?」
あろうことか、記憶が途切れている。
宿まで歩いてきた記憶はあって、夕食のことを告げられた記憶もあるのに、その後の記憶がない。
まさか油断した隙に何か薬でも飲まされたのか。
アドリィなら、それくらいやりかねない。
そう考え始めると、急に不安が押し寄せてきた。
ヨルクは……、いや部下たちは無事なのか。同じ宿にはエリノアとベアトリーチェもいる。彼女らに何かあっては、リースやアリアンに顔向けできない。
脳内で鳴り響いた警鐘が身体を衝き動かす。
まずは状況を確かめるべきだ。
陽の光が差し込むということは、少なくとも地下ではない。そう明るいわけでもないが、視界も十分。
ぐるりと辺りを見回し、そして見つけた。
「すぴー……すぴー…………」
腕と足を縄で縛られ、ベッドで寝息を立てている少女の姿を。
何があった。
やはり今すぐ全精神を傾け記憶の復元を急がなければならない。
まず、……まず、何があったんだっけ?
分からない、思い出せない。
しかし、そうだ、俺は一人ではないのだ。
そう思い出せたのは、ちょうど探していた人物が俺の目の前に現れたからだった。
「おはようございます、セオ様」
「あぁ、ヨルク! これはどういう……」
状況なんだ、と続けようとした口が、ヨルクの細く白い指に止められる。
「セオ様?」
吐息のような声を紡ぐヨルクの口は魅惑的で、何故か目が離せない。脳の警鐘が遠ざかり、やがて途絶える。
それを見透かしたかのようにヨルクが頬を綻ばせ、再び耳を撫でる声で紡いだ。
「あまりお酒を飲みすぎてはいけませんよ?」
酒の臭いは、しないはずだが。
しかしヨルクに言われると、何故だかそんな気がしてしまう。
そうか。
俺は夕食の席で酒を飲み、そのまま酔い潰れたのか。
なるほど、そう考えれば記憶がないのもの頷け…………、
「いや待て、あれは――」
待て待て待て、俺が酔い潰れたことと少女が縛られながらも熟睡していることの因果関係が分からない。
復活した警鐘が脳を内側からガンガンと叩くも、悲しいかな。
「セオ様?」
蠱惑的に微笑むヨルクの顔を見ていると、痛いほどに鳴り響いていた警鐘も萎んでいく。
「昨夜何があったのか、もしかして覚えていらっしゃらないのですか?」
どこか恥じるような表情で、彼は視線を落とす。
その視線を追いかけていけば、透き通るような肌色が続いているのが分かった。
それは詰まるところ、裸というわけで……。
「い、いやいや、覚えていないわけがないだろう?」
半ば自動的に紡がれた声は震えていたが、悟られてはいけない。
何もかも忘れていることを悟られてしまっては、今度は意識を失うだけでは済まないかもしれないのだ。
……今度は?
なんだ、何を忘れているんだ……?
「ですよね、安心しました」
けれども、難を逃れたことを察するやいなや、俺の頭は安堵に溺れた。
「もう一眠りしていいか?」
「イエス。私も……やっぱり少し、寝足りないですね」
結局あの少女がなんだったのかは分からない。
まぁ、いいだろう。
俺は傭兵なのだ。
自分の命を繋ぐことに、今だけは集中しよう。
二度寝から覚めると、部屋にはもう俺しかいなかった。
思わず寝過ごしたかと思ったが、窓から差し込んでいる光の角度はまだ浅い。俺が寝て間もなくヨルクが少女を連れて出ていったのだろう。早朝とはいえ、そろそろ食事の準備もされるはずだ。
であれば、俺もゆっくりはしていられない。
ベッドの上で一度だけ伸びをして、床に足を下ろす。腰から下にかかっていた毛布がはらりと落ちれば、見えるのは二度寝前に見たヨルク同様の一糸纏わぬ姿。
未だに受け入れ難いことだが、本当に酒に溺れたまま寝たのだろうか。
勿論、アドリィの時とは違う。互いに望まぬ形ではないし、後から事実を告げられて拒絶するような話でもない。
しかし、ここは敵地に等しいのだ。
クラウディオやアドリィとは暫定的な協力関係を結べたと思っているが、それを信用しきっていいはずもない。加えて、もし本当に協力関係が築けているなら、クラウディオの政敵をそのまま俺自身の敵に回したも同然である。
この宿がアドリィの手配によるものならば尚更で、そんなことは百も承知だったはずの昨夜の俺が酒に溺れるとは思えない。
それに心中の疑念を助長するかのごとく、思考は明瞭に巡っていた。
少し酔いすぎた程度でも翌朝には二日酔いで頭がガンガンと痛むのに、正体をなくすほど飲んで頭痛の一つもないというのは妙だ。
ただ、全く何もないわけでもなかった。
首の後ろ……付け根に近い辺りに鈍い痛みというか、些細な違和感が残っている。
まさか、と浮かんだ直感は次の瞬間には手の届かない遠くへと消え去り、代わりに違う懸念が脳裏をよぎった。
「いやいや、それこそ『まさか』だ」
世の中には事の最中に噛んだり絞めたりして楽しむ紳士淑女がいると聞いたことはあるが、俺にもヨルクにもそんな趣味はない。あるはずがない。
まぁ実際問題、受け入れ難い現実というのも時にはある。
どうあれ前後不覚に陥って眠りこけていたのは事実なのだから、そこだけは認めるしかないだろう。
恐らくヨルクが用意してくれたであろう几帳面に畳まれていた服に袖を通し、鏡の前では軽く寝癖を直す。溺れるほど飲んだ割には酒臭さも全くないし、これなら人前に出ても大丈夫だ。
意気揚々と……なんて言える気分ではなかったものの、できる限り普段通りの態度で部屋を出て、ヨルクたちが向かったはずの食堂に足を向ける。
結局昨日は足を運ばなかった食堂だが、そこは食欲を刺激する香りたちが教えてくれた。
その食堂に続く扉を開けると、中で滞留していた香りという香りが一気に鼻孔を通り抜ける。
「あ、おはようございますっ」
意識を切り替えるより早く投げかけられたフリーダの声の後には、ヨルク、ランディ、ベアトリーチェ、エリノア、エド、エミールと順番に挨拶が続いた。
「セオーっ!」
「…………」
そして、忘れてはいけないレイ・ジ・メイの少女と、相変わらず団長相手でも沈黙を貫き通すシウフも挨拶してくる。……いやまぁ、挨拶だろう。俺の方を見て少し頭を下げたし。
「待たせ……た、わけじゃないみたいだな。おはよう。全員、元気そうで何よりだ」
てっきり寝坊助の団長を待っていてくれたのかと思ったが、ランディは食いかけのパンを片手に持っているし、少女に至っては皿の周りをぐちゃぐちゃに汚している。
そんな俺の視線に気付いたのだろう。
あはは、と気まずそうに笑ったフリーダが、すぐに少女の世話を焼き始めた。
「ありがとう、助かるよ」
こういう時に気が利くのはフリーダだけだ。
彼女は「いえいえ」と恐縮してみせたが、すぐに普段の表情を取り戻し、少々躊躇ってから言葉を続けた。
「昨夜はもっと大変でしたからね。ダメだって言っても聞いてくれないし、落ち着かないどころか暴れちゃうしで。……でも、ちょっとずつコツが掴めてきましたよっ」
一瞬、その言葉がグサリと胸に突き刺さった。
暴れた……?
まさか酒に酔った勢いで相当な横暴を働いたのかと焦りに焦ったが、しかし、どう聞いてもどう見ても、フリーダが口にしたのは少女のことだ。
「あ、あぁ……、そうだな」
なんのことだか分からないながらに調子を合わせ、ちらとヨルクの方を見やる。
それは、彼なら目配せだけである程度のことを教えてくれる、と考えた結果の行動だった。
だがヨルクは俺の心中を察しないどころか、ほんの僅かに視線を泳がせてからそっぽを向いてしまう。
違和感。
別に、ヨルクならなんでもかんでも察してくれるなどと驕っているわけではない。彼とて完璧ではないのだ。分からないことだってあるし、後ろめたいこともあるだろう。
ただ、そうは言っても、限度があった。
不勉強を恥じることこそあれ隠すことはなかったし、正しいと信じての行動であれば叱責を承知で声高に主張さえするのがヨルク・ヨークという男だ。
その彼が弁明すらせずに顔を背けたことが、何よりの違和感だった。
「ほんとに大変だったんですからね? 汚れは頑固で落ちないですし、……その、ちょっと臭いもすごかったですし。まぁ女の子ですから、セオさんに任せるわけにはいかないのも分かりますけど」
俺とヨルクの一瞬のやり取りに気付かなかったフリーダは、ぷくりと頬を膨らませてから「ほらっ! 腕も引っ掻かれちゃって痛かったんですから!」と傭兵にしては少し細すぎる腕を見せてきた。
「メイちゃんもダメだからね、人のこと引っ掻いちゃ!」
「メイのせいっ!?」
「だってメイちゃんがやったことでしょ?」
「あっ、あれはヨッ……ヨック…………、ヨークがいけないんだよっ!?」
そのまま年の離れた姉妹のような言い合いを始めてしまうフリーダと少女。
――いや、もう諦めよう。
レイ・ジ・メイという名で呼ばれていた過去を少しでも忘れさせたいと願っていたが、当人はおろかフリーダまでメイと呼んでしまっている以上、訂正のしようがない。
まだ言葉がたどたどしいメイは、きっとヨルクと言おうとしていたのだろう。
結局『ル』を上手く発音できずに『ヨーク』で妥協してしまったが、おかしなことにヨルクを指す名としては間違ってもいないので、こちらも訂正しようにもできなかった。
そんな微笑ましいやり取りを脇目に、俺は給仕に勧められるがまま座った席で焼き立てらしいパンに手を伸ばす。
「っていうか、何がヨルクのせいなんだ?」
メイが悪い、メイは悪くないの押し問答になってきた二人の言い合いに口を挟んだのは、やはり大した意味があってのことではなかった。単に暇潰しを兼ねてメイの気を逸らそうとしたに過ぎない。
「だ、だって! ヨークがじゃましたんだよっ!? メイはセオといっしょがよかったのに……!」
その時、ピシリと食堂の空気に亀裂が入った。
雰囲気が引き裂かれる音を確かに聞いた気がするが、あるいは人間が失われた記憶を取り戻す時に聞く音だったのかもしれない。
「ヨルクが邪魔を?」
点と点が繋がり、線を結んでいく。
「そうだよっ? ヨックがね、ヨックがっ!」
「エミール」
必死になって昨日の出来事を訴えようとするメイから視線を外し、気配を消さんと努力していた中年男に声をかける。
彼は勇者だった。あろうことか、聞こえぬ振りで返してきたのだ。
「エミール」
「……な、なんだ?」
しかし、二度目はない。
傭兵に限ったことではないだろう。どんな世界においても、一度逃したチャンスをもう一度恵んでもらえる道理なんてあるはずがない。
彼は勇者だったが、愚者ではなかった。
「念のため確認しておくが、俺は昨日、酒を飲んだか?」
「いや……、晩餐会でどうだったかは知らんが、少なくとも宿に来てからはそんな時間はなかったはずだ。つうか、お前は昨日――」
「いや、もういい」
さしものメイでさえ、空気が軋む中では元気を失うらしい。
「皆、気にせず食事に戻ってくれ。ただ申し訳ないが、フリーダはメイのことを頼む。メイ、君はフリーダの言うことをよく聞くように。彼女の言葉は、俺の言葉だ」
「了解しました!」
「りょーかい? ……しましたっ!」
二人の元気のいい返事に頷きを返し、それぞれが目の前の料理に手を付けるのを待ってから、最後に告げるべき言葉を零す。
「ヨルク、君には後で話がある」
「……イエス」
ちなみに、全くの余談なのだが……。
この一部始終において、シウフとベアトリーチェだけが全く気にする素振りも見せず、気ままにパンを食べスープを飲みと朝食に勤しんでいた。
対極に位置するような彼女らだが、だからこそ通じる部分があるのだろうか。
まぁ、そんなことは帰ってからでいい。
重要なのは、酒に溺れての一夜などではなかった、昨夜のことである。
帝都から一路南へ。
道中で馬を替えながら突き進む馬車の席に、ヨルクは靴を脱いで正座していた。
乗合馬車であれば徐行するはずの悪路でも容赦なく速度を出す馬車は、揺れに揺れる。轍が大振りの石に乗り上げガタンッと跳ねる度に、引き結ばれたヨルクの口元が歪んだ。
「せっ、せぇお?」
「セオだ」
「セオ……?」
「なんだ?」
「えっと、えっとね? メイも、その、ちょっとはわるかったかなって」
「君は悪くない」
「でっでも、フリーダがよくないって。ヨークもそれでおこっちゃって……」
「確かに、君は良くないことをした。……で? まさか次も同じようにするつもり?」
それまでどうにかこうにか言葉を紡いできたメイだったが、その問いにはふるふると首を振って答えるだけだった。
「じゃあ、もう怒るようなことは何もない。最初から全てを知っている人間はいないからな。誰しも最初は知らずに間違える。問題は、同じことを繰り返すかどうかだ」
「……セオも? 始祖様に選ばれたニンゲンでも?」
「そうだ。君が始祖様と呼ぶ竜だって、最初から何もかも知り尽くしてるわけじゃない」
だからこそ、――いや、今はよそう。
今にも涙を浮かべてしまいそうな上目遣いで見つめてくるメイの頭を撫でてやり、しばし窓の外を見やる。
いくら馬車馬とて、十人もの乗客がいては走るに走れない。街中を巡るくらいならそれでも十分だろうが、急ぎの旅においては分乗する方が効率的で、むしろ安く済む。
まぁ蜻蛉返りの旅に使う馬車は依頼主たるクラウディオが負担してくれるらしいが、どちらにせよ速いに越したことはないため、俺たちは三台の馬車に分かれて乗っていた。
一台目には俺とヨルク、メイの三人。
二台目にはエミール、ランディ、エドの男組。
三台目はその残りだから、フリーダ、シウフ、エリノア、ベアトリーチェの女組。
エリノアとベアトリーチェの扱いはまだ決めていないものの、流石に再び帝都に連れていくことはないだろう。彼女らが不慣れなのは王国も帝国も同じで、ならば移動は少ない方がいい。
自分たちが武力の塊である傭兵は忘れがちだが、国境を越えるほどの移動は常に危険と隣り合わせだ。アリアンのもとで働くアベルの両親も、行商の旅の最中に命を落とした。
王国なら頼れる伝手もないではないし、わざわざ危険を冒してまで連れて戻るよりは王国に残して『フウル流』とやらとは違った日々の暮らし方を勉強させたい。
「そういえば、君はどうする?」
「ふぇ?」
と返された素っ頓狂な声を聞いてから、自分がいかに馬鹿げた質問をしたのか気が付いた。
メイの故郷がどこで、親が誰なのかは知らないが、少なくともクラウディオが依頼してきた掃討対象であるレイ・ジ・ドグの群れにいたことは確かだ。それも彼女の言動を見るに、かなり馴染んでいたはずだろう。
たとえ洗脳紛いの教育を受けた結果といえど、……いやだからこそ、その群れを虐殺するに等しい作戦に同道させるのは冗談でも口にするべきではない。
「いや、忘れてくれ」
「わかった! わすれる!」
イヒヒッ、と相変わらず気味の悪い声で笑うメイだったが、慣れてしまえば個性だと言い張って目を瞑れる。斧を持たないメイは、単なる少女にしか見えなかった。
だが、いつまでもただの少女のままではいられないだろう。
「ヨルク」
「はい」
正座し、ただただ沈黙を貫き通してきたヨルクも、打てば響く。
「君なら守れるか?」
「ノーとは、言いたくありませんが」
そして最低限の言葉すら省いた問いにも間髪容れず答えてきた。といっても、その中身は淀みないとは言えないものだったが。
「君でも難しいか」
「……イエス。私は、盾ではありません」
素性が知られれば、メイに平穏が訪れることは二度とないだろう。
というより、今でさえ平穏と呼べる状態ではない。
彼女を王国に置き去りにするのは、エリノアとベアトリーチェを王国に置いていくのとは全く別の意味を持つのだ。
前線からヨルクを引き抜いて解決するのであれば、相当な痛手ではあるが看過しよう。だがそれでも足りないとなると、打つ手は限られてしまう。俺だって、目的と手段を取り違える愚は犯したくない。
「君は……」
自分の口が何を言いかけたのか、考えれば考えるほどに遠ざかる。
ヨルク一人では足りないかもしれない。団員を総動員すれば足りるだろうが、それでも不安は残る。かといって、アルターという最も信頼できる戦力は前線に必須。
ならば、答えは明白だった。
戦力が集中し、かつ俺の目も届きやすく政治的な手が届きにくい前線に配置する。些か曲芸じみているとはいえ、メイの斧の腕があれば特別に護衛を付ける必要もないだろう。
しかし、それでは堂々巡りだ。
アドリィの話では、彼女は七年以上もの間、レイ・ジ・ドグに育てられてきた。前線配置となれば、七年間ともに過ごした家族の虐殺に参加させることになる。
「せぇお?」
床を睨み付けて黙る俺と、相変わらず正座しながら揺られるヨルク。
持ち前の動物的直感で不穏な空気を感じ取ったらしいメイが不安げな声を漏らし、横目でちらちらと見やってくる。
「なっ、なにかわるいことしちゃった?」
怖気づきながらもこちらの顔色を窺ってくる彼女の姿は、クラブハウスの大広間で斧を振るっていた時とは似ても似つかない、ただのあどけない少女だった。
「いいや? 君は何も悪いことなんかしちゃいない」
その姿を見て、初めて気付かされた。
知らないのだ、俺は。
洗脳じみた教育を受けたとか、七年間ともに過ごした家族とか、そう思い込んでいるだけかもしれない。事実は事実で、どうやっても変えられないものだろう。
だが一方で、厳然たる事実をどう受け止めるかは、個々人に委ねられるべきものだ。
「レイ・ジ・メイ」
「なにっ?」
「君はレイ・ジ・ドグに育てられた。竜……いや、始祖と対話するため、俺と会うために」
イヒヒと笑う少女は、けれども嬉しそうだった。
なんでそんな風に笑えるのか、俺には分からない。分かるはずもないのだろう。俺は俺で、メイはメイだ。生まれも違えば育った境遇も違う。共感できるはずなど、あるはずがなかった。
「君が昨日まで過ごしてきたレイ・ジ・ドグの群れを、俺は滅ぼす。そこのヨルクと、君を世話してくれたフリーダたちも一緒になって、君たちの家族だった隣人を殺し尽くす」
果たして、メイはどう思っているのだろう。
山中の民家から自身を連れ出し、七年もの間ともに生きてきた者たちを。
「君はどうする? 俺たちと、それでも一緒に来るか?」
自分で訊ねておいて、その答えを聞かされるのが嫌だった。
その答えを聞いてしまえば、どちらにせよ、後戻りなんかできなくなる。なんでもそうだ。一つでも何かを知ってしまえば、知る前の自分には戻れなくなる。
「ヒヒッ、もちろんっ!」
メイは、やはり笑った。
屈託のない笑みは、俺の問いの意味を理解していないかのようにさえ見える。
「だって、長様はいったからねっ。セオのいうことをききなさい、って! だからねっ、セオがいうならメイはきくよ? 長様だって、始祖様だって、セオが殺せっていえば、メイは殺すからっ!」
親にお遣いを頼まれた子供のように、少女は言い放つ。
あまりに歪んだその答えは、しかし俺の望んだものでもあった。
レイ・ジ・ドグと生きた過去を抱えたまま人間社会で生きていくのは難しい。環境も常識も違いすぎる。思い出を大事にしている限り、メイは俺たちとは馴染めない。
隣人は、どうして隣人なのか。答えは明白だろう。
彼らとは家族どころか友人にもなれないからだ。どれほど歩み寄っても、隣人が関の山。
そんな彼らとの思い出は、いつか捨て去らなければならない。
過去を捨て、家族を殺す。
そして叶うならば、自ら手を下すべきだ。
その決別を、自他に証明するために。
「ヨルク、普段は君の好きにしていい。だが戦場では、私情は抜きだ」
「イエス。言われるまでもありません」
「なら結構。もう足を下ろしていいぞ」
次に俺たちが赴くのは、戦場だ。
九年前や六年前に比べれば幾分も小規模になるだろうが、それでも紛うことなき戦争が始まる。
「メイ」
何を言われるのか、少女は分かっているのだろう。
期待の眼差しを真正面から受け止め、紡ぐべき言葉だけを口にする。
「過去の全てを捨てろ。君が生きてきた証を殺せ。その先で、俺は待つ」
自らの半生に、自ら引導を渡す。
それがいかに恐ろしいことか、想像するだけでも身が震えた。
俺にできるか? リースたちと過ごした学生時代を忘れ、リクたちと生きた戦場を忘れ、喜びも憎しみも捨てることが。
分からない。
やってみるまで答えは出ないだろうし、きっとやる機会も訪れないのだろう。
俺は運が良い。
捨てる側ではなく、捨てさせる側に回れたのだから。
「じゃあ、はやくころさないとねっ」
たどたどしい言葉が誰でもない俺の胸を突き刺す。
「あぁ、期待している」
「イヒッ、ぜったいだよ? ぜったいだからねっ?」
メイが過去を捨てるなら――。
捨てさせた以上の未来を、俺は作らなければならない。
まぁ、今に始まったことでもないのだろう。六年前に拾い上げ、去年再会した青年。彼とともに率いると決めた若者たち。友のために連れ去った少女たち。
その全てを背負い、進み続ける。
それが俺に課された義務で、俺自身の選んだ道だから。