十一話
「彼女があなたの――いえ、あなたと私の娘だからですよ、セオ」
彼女の言葉は雷鳴がごとく轟き、俺の思考を真っ白に染め上げる。
――は?
――娘?
――俺とアドリィの?
彼女が何を言っているのか、俺にはさっぱり理解できなかった。
「なに言ってんだ、お前」
そして脳裏に浮かんだ言葉をありのまま声に乗せてしまう俺自身の口に、またも驚かされる。
「セオ、あなたはそろそろ認めるべきではありませんか? 十四年前の夜に何があったのかを。あなたが……いいえ、あなたと私が何をしたのかを。そして、その結果を」
いっそ重苦しいほどの声音で紡ぎ、アドリィはちらと脇に目をやる。
すぅすぅと気持ち良さそうに寝ている少女の姿が、そこにはあった。
「だから、お前は何を――」
「あの子は、もう十三になります。その意味があなたに分からないわけがないでしょう?」
俺がリースやアルターとともに帝国へ行き、アリアンやアドリィの騒動に巻き込まれたのが十四年前。対して少女の年齢が十三だとすれば、計算は合う。
あくまで、計算は。
「冗談は程々にしろよ、アドリィ。あんたが俺たちを罠にはめようと、それくらいは看過するさ。利用するのはお互い様だ、自分だけ都合よく相手を使おうだなんて思わない。だがな――」
だが、笑えもしない冗談を意味もなく口にするのはやめろ。
そう言おうとした俺自身の口が、今度は視界に飛び込んできた景色によって沈黙を選ばされた。
何事か言いたそうな顔のエミールが、けれど何も言わずに俺の方を見ている。その両の目にあるのは、まさか呆れか?
「セオさん、今の話は本当ですか」
とエミールの代わりに声を上げたのは、団の面々ではなかった。フリーダはじめ、ランディもエドもシウフも、俺など見てはいない。四人が揃いも揃って別の方向に目を向けていた。
そちらにはヨルクがいたはずだが、脳から下されたはずの命令に首が拒絶で返し、彼の表情を確かめさせてくれない。見てはならぬと、本能が訴えている。
「本当なわけがないだろう?」
それでも返すべき言葉は一つしかなかった。
団の誰も口にできなかった問いを躊躇いもせず投げ付けてきたベアトリーチェには、心の底から脱帽する。
「用意したのがレイ・ジ・ドグだったとはいえ、今さっき少年兵を使った連中の手先だぞ。そのせいで兵士一人が死亡、招待客や俺たち自身の命も危機にあったと言っていい。そんな状況をわざわざ作り上げた人間の言葉のどこに信憑性がある」
何度だろうと繰り返そう、十四年前のあの夜、俺とアドリィの間には何もなかった。
確かに酒には酔っていたとも。水を飲むようにどころか呼吸するかのように杯を仰ぎ、瓶を空けていったアドリィに飲まされるがまま飲み下し、溺れるように酔った。
だが、それだけだ。
誰がなんと言おうとも、それだけだった。
「第一、アドリィの言い分には無理がありすぎる。お前の目は節穴か? あのガキが十三だと? どこをどう見たら十三なんだ」
すやすやむにゃむにゃすぅすぅとアホみたいな寝顔を晒している少女は、なるほど幼くも見える。
しかし、その姿はいくらなんでも十三と言い張るには無理がありすぎた。
「その、セオさん。国によって差はありますが、十二、三歳の子供の平均身長は大体彼女ほどだったはずです。ちょっと大きいかもしれないですけど、でも個人差だってありますし」
また別の女の声がして目をやれば、声の主はフリーダだった。
若手組四人の中では最も信頼できる常識人だと思っていたが、彼女までアドリィの側につくか。
「……っち。いいか、よく考えろ。あのガキはだな――」
それは、いい加減にしてくれ、と叫ぶ苦衷を押し殺しての言葉だった。
しかし悲しいかな、その言葉さえ仲間の手によって遮られてしまう。
「少し落ち着け。セオ、お前らしくないぞ」
声音だけは落ち着いた大人を装っているエミールの言葉で、遂に脳裏で何かが弾けた。
「いい加減にしろッ!」
こいつらはなんなんだ、と叫びたい。
酒に酔っていたことは認めよう。不承不承にだが、あの夜の記憶がないことも認める。
極論すれば、俺のアドリィの間に何もなかったと客観的に証明することはできない。
その腹立たしい事実も認める他ないと分かってはいる。
だが、それは同時に、アドリィの言葉が真実であるという確証もないことを意味していた。
証人は二人、それも互いに食い違った証言をする当事者である。
どちらが本当のことを言っているのかなんて、誰にも分からない。分かるとすれば、客観的に真実を証明できる何かしらの事実を握っている者だけだ。
「あのガキが十三歳で、同年代の平均身長だと? そんなわけがあるか。帝国裏社会の重鎮と王国の傭兵どもが雁首揃えてレイ・ジ・ドグの生態を知らないのか? 奴らは農業というものを知らない。奴らは自生する植物を採り、野生動物を狩り、人間が育てた野菜や家畜を奪う。しかも全てを食うわけじゃない。大半は連中が始祖様とか呼ぶ竜への貢物だ。奴らの生活は、人間の常識に当てはめればひどく困窮している」
俺は、何故、今になってこんな演説を演じているんだ?
レイ・ジ・ドグに限った話ではない。黒の隣人と呼ばれるウドゥリルをはじめ、緑の隣人アザル・ルー、青の隣人サージなど、幾多の隣人と関わって俺たち人間は生きている。
特に王国は、彼らとの戦争が絶えない。
六年前にはウドゥリルとの、九年前にはアザル・ルーとの戦争があった。それぞれ毛色こそ違えど、この世の地獄と呼ぶに相応しい甚大な被害を受け、今の王国がある。
二度と同じ災厄を呼び起こしてはならぬと言っても、それは不可能だろう。
人間同士、たとえ親子であってもいがみ合いは生まれるのだ。少し言葉が通じる程度の全く別の命が互いに同じ土地に生きていて、争い事が起きないわけがない。
それでも、悲劇を少しでも減らすために、俺たちは知る必要がある。
傭兵にとっては、最早義務と言っていい。
「奴らに連れ去られた子供たちの大半は、生贄にすらならない。どうしてか知っているか? 餓死、あるいは事故死するからだ。常に過酷な生活を続けるレイ・ジ・ドグは人間がいかに脆弱かを知らない。まさか一週間飲まず食わずだっただけで死ぬだなんて思っちゃいないし、ほんの一メートル、二メートルの段差を転がっただけで死ぬとも思っちゃいない。そういう奴らだ」
先人の知恵を学ぶべきだ。
全てを知ることは、無論叶わない。
だからといって、何も知らなくていいという道理もないだろう。
「それほど劣悪な栄養状態で育てられて、洗脳されて、平均身長に達しているだと? 冗談じゃない。そんな良心的かつ人間的な部族がいるなら、この目で見てみたいものだ。傭兵をやめて論文を書いてやってもいい。晴れて大先生になれるだろうさ」
いかに苛立っているのか、俺自身の声で気付かされる。
フリーダが押し黙り、エミールが気まずそうに目を逸らしたのが見えた。分かっている。彼は『らしくない』と言った。冷静さを欠いている俺を、そう断じたのだろう。
しかし、それは間違いだ。
激情に駆られ、我も忘れて喚き散らすのが本当の俺だろう。
抑圧は、解決からは程遠い。
「ヨルク。君はどう思う?」
「ノー、どうも思いませんね。もし仮にあなたの娘であるのなら、それは私の娘も同然です。母親が誰であろうと、構う必要はありません。親権を主張するなら、意見の一つや二つもありますが」
「そんなことは聞いてないんだけど……まぁ、もういい」
醜態を自覚し、的外れな意見を聞かされれば、嫌でも頭が冷める。
「九年前の戦争については勘弁してやる。俺だって、あんな悪夢は思い出したくもない。だが六年前と……、いや、せめて今世紀と前世紀にあった戦争くらいは勉強するべきだな。隣人の生態を学べ。敵ではなく、一個の生物として理解するべきだ」
フリーダをはじめ、他の若手組にも言い捨てておく。
知識と知恵は諸刃の剣だ。なくてはならぬ武器であるにもかかわらず、使い方を誤ればいとも容易く自分の首を絞めてしまう。無知は至福と先人は言ったが、まさにその通りだろう。
知らぬままに幸福を享受できるのなら、それほど幸せなことはない。
ただ、俺たち傭兵には許されぬ贅沢だ。
知って、なお知らぬことを自覚する。そうでなければ、好き勝手に暴力を振るうならず者と大差ない。
「さて、アドリィ。これで何回目の茶番だ? いい加減、ちゃんと話を進めてくれ」
「……はて? 彼女が私とあなたの子供でないと、何故言い切れるのです?」
「俺とお前の子だと言い切れるのなら、是非とも言い切ってくれ」
とことん嫌になる。
アドリィだけじゃない。アルターも、リースも、アリアンも――、かつての俺を知る者は苦手なのだ。
彼らは皆、知ってしまっている。
リクを、アイラを、イザベルを。
かつての仲間たちとともに歩んでいた、俺のことを。
「事件が発覚したのは七年前のことです」
そして、そうアドリィが口を開いたことで、誰もが表情を切り替えた。
「行方不明の捜索中に当局でも把握していなかった民家を発見、その中から男女の腐乱死体が見つかりました。民家にあった所持品から別の事件で指名手配されていた人物ではないかと当局は見ているそうですが、未だ真相究明には至っていません」
唐突に始められた話がどこへ向かっているのかは一目瞭然だった。
「死因も定かではありませんが、男は頭蓋骨を、女は頚椎を刃物で叩き割られていました。凶器は薪割り用の斧と見られています。家の中に血で汚れたものが転がっていたそうですから」
ほんの一、二分前まで脳裏を支配していた熱が急速に失せていく。
斧という言葉には、ベアトリーチェですらピクリと目を動かした。ここにいる誰もが、続くアドリィの言葉を予見しているのだ。
「また、民家からは男女のものとは別に衣服などが見つかりました。大きさから十歳前後の女児のものと思われます。三人分の衣服、三人分の家具や食器、二つの死体」
可能性は、二つに一つ。
「ここまで言えば、もうお分かりになりますよね?」
「なんで俺の娘だなんて見え透いた嘘を口にしたのかは、さっぱり分からんがな」
けろりと笑ってみせるアドリィには毒づいておくが、しかし、分かってしまっていた。
腐乱死体で見つかったという男女が少女の親だったかどうかは、定かではない。勿論、アドリィの言葉に一片でも真実があるかといえば、そんなこと断言できるはずもなかった。
俺には、先ほどと同じ結論を下すことしかできないのだろう。
嘘か真かを断定する情報はない。となれば、より合理的な結論を導き出すべきだ。
「見つかったのは、それだけか?」
薪割り用の斧で男女を殺したのは、誰なのか。
「民家は山中にありました。木々が生い茂り、近隣の住民も分け入ることのない地区です。勿論、当局が監視すべき獣の巣や隣人の村もありませんでした。……ですが、民家の周辺には、無数の足跡が残っていたそうです。専門家によれば、レイ・ジ・ドグのものではないかと」
まぁ、そうなるだろう。
ここでレイ・ジ・ドグの名が出ないのであれば、アドリィがわざわざ口にする理由がない。
「レイ・ジ・ドグが少女を連れ去ったという確証は?」
「ありません」
アドリィは即答する。
「あなたは聡明な方ですから、これ以上の誘導は必要ないでしょう?」
「なるほど、誘導してきたと認めるのか」
「あなたを王国から引きずり出すのは、私にとっても重労働ですから」
面倒な道に誘導されてしまったものだ。
二人の男女は、当時十歳前後だった少女にとってどんな存在だったのか。親なり保護者だったのか、それとも監禁されていたのか。
男女に薪割り用の斧を振り上げたのは誰だったのか。二足歩行のレイ・ジ・ドグは人間が扱う道具を同様に使うことができるものの、わざわざ現地で凶器を調達するだろうか。
そして、少女はどこに消えたのか、レイ・ジ・ドグはなんのために山中に分け入ったのか、謎は多い。
しかし、俺が考えるべきは当局とやらが追っていた七年前の事件ではないだろう。
「レイ・ジ・メイとして洗脳された少女か、七年前に男女二人を殺害し失踪した少女か、レイ・ジ・ドグに親を殺され自身も誘拐された過去を持つ少女か、あるいは人知れず産み落とされた俺とお前の娘か」
行く末を見据えた時、彼女はどんな少女であるべきだろう。
まるで六年前の戦争と九年前の戦争のどちらがマシだったかと議論するようなものだ。どちらもくそったれな戦争だったことは疑う余地もなく、選ばずに済むなら選びたくもない。
それでも選ぶとすれば、まだしも六年前のウドゥリルとの戦争の方がマシだった。
「俺自身の娘として連れ帰るのが、その中では一番まともな答えだろうな」
隣人の道具か、親殺しか、竜への捧げ物か、顔も覚えていない親に引き取られた子供か。
論ずるまでもない。
でも――。
「でも、無茶だ。あまりに現実的じゃない。たとえアルターを丸め込んで証言させたとしても、相手があんたである以上、どう足掻いても信憑性がない。過去を隠すための欺瞞だと、誰でも勘付く」
仮に俺がA級傭兵としての発言力を最大限に使い、これまで築いてきた信用とこれから築いていけるであろう地位の全てを擲ったとしても、不可能だ。
そして不可能を可能とするだけの力は、ただの人間には持ち得ない。
「では、素直にレイ・ジ・ドグに引き渡しますか?」
「そんなことは、俺が許してもブルーノや他の六王たちが許さない。クラウディオを失脚させるためなら、連中はなんでもするぞ」
「ですが――」
反駁しかけたアドリィの声を手の一振りで遮り、視線を脇に投げる。
先ほどの俺の怒鳴り声で起きていたのだろう、上体を起こした少女が眠そうに瞼を擦りながら、俺たちの方を見やっていた。
「だからこそ、だ」
解決策がない、はずがない。
アドリィは――いやクラウディオは、何故あの少女を俺に引き合わせた? それがレイ・ジ・ドグの要求だったからだ。
ではクラウディオは何をレイ・ジ・ドグに要求した? 恐らくはサヅチの大移動に関することだ。
目先の手柄のために安定した足場を捨てるほどの愚か者では、六王は務まらない。
答えは、あるはずなのだ。
俺の頭にはなくとも、クラウディオの頭の中には既にあるはず。
「傭兵相手に政治的な茶番はやめろ。お前の要求はなんだ、アドリィ」
じろりと正面から睨み付け、逃げ場を奪う。
アドリィは喉の奥で息を飲み込み、それから諦念とともに吐き捨てた。
「条約を破り、帝国北部を占拠するレイ・ジ・ドグの大規模派閥の壊滅。それがあなた方に依頼したい内容です」
占拠する、か。
「期日は?」
「明後日には、サヅチの大群を追ってレイ・ジ・ドグが移動を始めます。その一週間から二週間後には、作戦を始められるでしょう」
六王の手の平は、遠大だ。
前代未聞の大移動ですら、クラウディオ・デーニッツの手の平の上からは逃れられない。
「俺たちだけでは、致命的に戦力が足りない。他の戦力を聞いてもいいか?」
「ありません。正規軍は動かせませんし、あなた方以外に依頼する予定もありません」
「アルターに話を付ける。彼らに正式な依頼と報酬を」
「……その場合、期限は来月一杯でしょうか。それ以上は待てません」
サヅチが大移動を始めた原因など、後から調べればいい。
まずは人々の住む地を踏み荒らす前に大移動する大群を叩く。そのためにはレイ・ジ・ドグとの取引も厭わないが、一方で隣人と取引するのは法的にも許されざる行為だ。
だからこその俺たちというわけか。
サヅチはレイ・ジ・ドグに叩かせ、その口封じに俺たちがレイ・ジ・ドグを叩く。
そして俺たちの口を封じるには、三人の少女の未来で十分だ。
「後始末は頼んでいいのか?」
それだけ確かめれば、話はまとまる。
「えぇ。再来月の頭には、破産した孤児院の子供たちも新しい家に移り住んでいることでしょう」
騎士の花嫁と、移民の娘と、竜の巫女と。
そんな少女たちを抱え込んでいた孤児院がこの国のどこかにはあって、いつの間にか首が回らくなるらしい。
「それと、もう一つ確かめたいんだが――」
どうあれ、鼻先の人参に釣られた馬である俺に選べる道は少ない。
どの道を走っても後悔するなら、せめて走っている間だけでも笑っていたいものだ。
「わざわざ俺の娘だとか言う必要はあったか? むしろ物別れになる可能性もあっただろ?」
俺は気が長い方じゃない。
下手に怒らせては、アドリィにとっても良くない結末に終わっていたかもしれないのだが。
「さて、どうでしょう」
ひらひらと掴みどころのない笑みを浮かべた彼女は、けれども俺にも分かる言葉で答えてくれた。
「私にだっているかもしれませんよ? とても可愛くて、いっそ籠の中に閉じ込めてしまいたくなるほど愛おしい娘が」
反吐が出る。
そう吐き捨てられれば、どんなに嬉しかったか。
「念のため言っておくが、俺は三十二だからな。あんたの歳は……俺の精神衛生のために聞かないでおくよ」
晴れ晴れとした彼女から視線を外せば、俺自身の周りに立つ者たちが見えてくる。
一人の男と、一人の中年オヤジと、四人の部下と、三人の少女と。
「また面倒なことになった。辞表を書きたい者がいるなら、そこの女から紙を貰っとけよ」
帝国から王国へ、大陸を縦断する馬車の旅が終われば、束の間だが我が家に帰れる。
十人十色の面々が出入りするには狭すぎる、あの家に。