一話
埃と砂の臭いに塗れた部屋に一歩踏み入った直後、俺は自分の浅慮を悔いる羽目になった。
自責の原因となったのは、眼下に見える光景だ。
年端もいかぬ二人の少女が互いに互いを離すまいと抱き締め合い、そのまま寝入ってしまっている。
リースの依頼を請け教国下りまで出向き、あろうことかA級騎士――正式には高位騎士だったか――の花嫁を攫うという暴挙に打って出てから、早くも一週間が経過しようとしていた。
道中の寝床や食料には事前に目処を付けていたが、それでも一週間に及ぶ逃避行が生易しいものであるはずがない。
最初の二、三日は緊張と不安からか食事も喉を通らない様子だったし、馬を駆っての行軍では自分たちが思っている以上の疲労が溜まる。そろそろ大休止を取りたいとは考えているものの、今ここで、というわけにもいかないだろう。
だが、あと少しだ。
あと一日、あるいは半日も馬の背で揺られれば、事前に手紙を出しておいた女のもとに着く。
だから、あと少しの辛抱だ。
そう伝え、できることなら小休止を切り上げて出発しようと思っていたのだが、それが失敗だった。
幸せそうな、けれどもどこか儚げな顔ですやすやと寝息を立てている二人を見てしまえば、もうしばらく寝かせてやってもいいかと甘い考えが脳を支配してしまう。
まぁ、そう急ぐ旅でもあるまい。
ちょうど顔を見せたヨルクに無言で状況を告げ、二人が寝ている部屋の戸を閉めてやる。
目下の課題は教国軍……ではなく教国騎士団の追っ手と、教国側から要請なりなんなりされているはずの帝国軍の動静だろうか。
とはいえ既に国境は跨いでいるし、内弁慶にして及び腰の教国が積極的に派兵するとは思えない。一方の帝国は反教国の代表格だし、要請されればされるだけ頑なに派兵を拒むだろう。
それに、最悪の場合に備えた手は打ってある。教国の強行派が派兵を断行し、帝国の穏健派が受け入れたとしても、俺たち四人の身の安全は確保されているも同然だ。
その代償に大きすぎる痛手を払ってもいるのだが、旧友の頼みくらいは二つ返事で聞いてやるのが後々のためである。リースは勿論、もう一方の大駒も敵に回すのは避けたい。
「いいのですか?」
しかし、無論、そうした諸々は全て俺の頭の中で繰り返してきただけの話である。
「何がだ?」
「言わなくても分かっているのではないですか?」
果たして、出発を先送りした俺に待っていたのは、部下と呼ぶべきか腹心と呼ぶべきか、あるいはまた別の呼び方をすべきか悩む人物からの苦言だった。
「いかに教国とて、今回の件に帝国上層部が絡んでいることくらいお見通しでしょう。悪役を定め、勧善懲悪のシナリオを決め込めば、騎士たちは容赦なく国境を踏み越えます」
「君にそこまで言わせるか、教国という豚どのも巣は」
「蒙昧が尊ばれるのは宗教の内側においてのみです。国の頭が鰯の頭であってはなりません」
にもかかわらず、教国の頭は鰯のそれ同然と言いたいわけか。
言葉を中途で切ったヨルクにはため息一つを返し、さてどう言ったものかと思案を巡らす。
「だが、教国は教国だ。アラステア教の総本山にして、一個の国だ。経済が火の車といえど、資金力は国家として然るべき領域にある。理性や知性も、国が国として存在している以上は侮れん程度にあるだろう」
教国は愚かだと言えば、諸外国の民の十人中九人は然りと頷くに違いない。
合理性ではなく信仰心、理性ではなく感情で形作られた教国は、硬さと脆さを矛盾することなく併せ持つ極めて不格好な国なのだ。国の首脳陣は優れた求心力を持つが、それは本来なら悪政とされるはずの間違った政治さえ許容しかねない諸刃の剣と言える。
慣例と信仰、歪みの原因がそのまま彼らを今なお平静の上に立たせているのだ。
「はっきり言って、派兵はない。仮にあったとしても、相当に遅くなる。連中は後の祭りと承知で体裁を整えるためだけに国境を跨ぎ、国家ぐるみで散歩して帰るだけだ」
本来あるべき道理で考えれば、国と国民を侮辱するような蛮行を黙認するはずはない。
だが教国はあらゆる面で特殊すぎる。事の発端からそうだったが、世間一般でいうところの常識を知れば知るほど、教国とは理解できない国になっていくだろう。
「……セオ様がそう仰るのでしたら、それでいいですけれど。しかし、あまりのんびりもできないのではないですか?」
「まぁ、それもそうなんだけどな」
ヨルクと再会し、傭兵団を旗揚げしてから半年以上が過ぎた今、俺とて自分一人のことを考えていればいいわけじゃなくなっている。
流石に教国にはヨルクを連れていくのが限界だったが、偽装工作の意図もあって帝国まではエミールや他の若手組も一緒だった。状況が状況なだけに、合流は急ぐ必要がある。
「とはいえ、急いては事を仕損ずる。目的は達したが、少女の犠牲の上に成り立つ幸福をリースは望まないだろう。これ以上の負担を強いるわけにはいかないし、それに――」
それに彼女たちにとって、俺たちは決して味方ではないのだ。
そう続けようとした言葉は、けれども予想外の音で遮られた。背中の方で、木の軋むような音が鳴る。
「でしたら――」
落ち着いた、清らかな声。
捨てきれずにいる幼さと、それでも決別しようとする強い意思が滲んでいるそれは。
「でしたら、もう大丈夫です。私も、ベアトリーチェも、もう行けます。足手纏いには、なりません」
銀の髪を長く伸ばした少女、エリノア・カレンベルクの声だった。
いつの間に目を覚ましたのか、俺たちの会話を聞いていたらしい。
足手纏いも何も、この少女がいなければ俺は教国に行くどころか、帝国にいる連中の策略に乗ってやる必要すらなかったのだが、そんなことを言っても無駄だし、言うべき場面でもないだろう。
ちらりと見やれば、エリノアの後ろからはもう一人の少女が不安げな眼差しを彼女の背に投げていた。
こちらはベアトリーチェだったか。姓は、確かカプア。予定にない人物だったので情報は少ないが、ヨルクやエミールの親戚なのは間違いない。
まぁ同性を愛するのか、愛した相手がたまたま同性だったのかまでは知らないが。
「君ら子供や移民の世界ではその回答が正しいんだろうが、俺たち傭兵の世界じゃ赤点も良いところだ。大丈夫じゃないのに大丈夫と言われても迷惑でしかない。申告は、正確に」
無理をされては困る。
優しく諭したところで聞くような性格でも聞けるような状況でもないのは百も承知だから、今は厳しく言うしかなかった。エリノアはなおも反発しかけたが、すぐに我に返ったように唇を噛んで黙り込む。
「起こしてしまったのは謝るよ。その分際で言うのも変な話だが、もう少し寝ていた方がいい。次は少し長めに走るからな。……それに、そこまで行けば柔らかいベッドで休める」
ついでに言えば、馬も休ませなければいけない。
最悪使い捨ててもいいが、いくら言葉の通じぬ動物といえど道具同然に扱き使うのは良心が堪える。
「君もだよ、ベアトリーチェ・カプア」
エリノアほど強硬な姿勢を見せない少女は、自身の置かれた状況を理解できているのかどうか。どうにも、抜けているところがあるように見えてならない。
「俺は君たちを救ったわけじゃない。旧友の頼みを聞いただけだ。なんならここに捨て置いても、俺たちには事前に取り決めておいた報酬が支払われるだろう。そのことを忘れちゃいけない」
「えっ、でも……、今リースさんが望まないって…………」
地獄耳め。
いや、そもそも堂々と話していた俺が悪いのだが。
「アホか、可能性の話をしてるんだよ。足手纏いになりたくないのは結構だが、どうやったって貴様らごとき足手纏いでしかないんだ。休める時に休んで、せめて動く時に少しでも邪魔にならないようにしておけ」
じろりと冷たい視線が脇から注がれた気がするが、気にしたら負けだ。
エリノアやベアトリーチェだけではない。ヨルクさえもが、何か勘違いをしている。
「言っておくが、ここまでは予定通りだ。いや、余計なのが一人いるが、それくらい許容できる程度には柔軟に、かつ徹底して予定を組んでいる。だから、ここまで順調なのは当たり前のことだ。むしろ順調でなければおかしかった」
だが、この先は――。
言うべきか否か、今になって悩んでも遅い。
「問題は、次だ。貴様ら二人連れてくるために払った代償、どう転ぶか分からない」
金銭的な面でいえば、リースからふんだくれるから問題はない。
しかしどれだけの報酬を得たところで、それを持ち帰れなければ意味がないのだ。
「だから休め。後になってやっぱり疲れて動けませんなんて言われても、どうしようもない」
白状すれば、俺は彼女らを知らなすぎたのだろう。
三十余年の長いとも言えない半生である程度の処世術や人々の有り様を知ったつもりでいたが、エリノアもベアトリーチェも、俺の知らない世界で生きてきた人間だ。
教国に逃げ延びた移民の子供たち。
直に見たフウルという移民の街は退廃的な空気に満ちていて、僅かに覗く活気は下卑たものや刹那的なものだった。
詰まるところ、予想は大きく裏切られたのだ。
無力さを教え、現状を再確認させ、多少なりとも威圧し、そして促せば、普通は渋々だろうと従うだろう。
「でも、大丈夫だよ」
当たり前なことを、少なくとも一つは忘れていたらしい。
「これくらいで音を上げてたら、フウルじゃやっていけないから。急がなくちゃいけないなら、行くべきところがあるなら、立ち止まっていたくはないから」
自嘲するように零されたベアトリーチェの言葉が、俺の口の端を引っ張り上げる。
なるほど、道理で。
ただでさえ無力な移民の、もっと無力な子供のくせに、騎士の花嫁を奪おうとするわけだ。
無力で無知だが、それ以上に無自覚な無鉄砲で、道理も身の程も弁えない無遠慮さまで兼ね備えている。
それは彼女の個性なのだろうが、同時に移民区で培われたものでもあるはずだ。高位騎士の嫁に選ばれたエリノアと選ばれなかったベアトリーチェの差はそこにあるのか。
鳥籠に囲うべきは可憐に鳴く鳥であって、好き勝手に暴れ回るじゃじゃ馬ではない。
「ヨルク」
と一声呼んだだけで、腹心は身を翻した。
俺と同じ結論に至ったかどうかは、この際関係ない。流れと声音から俺の意図したところを汲み取るだけで十分すぎる。
「知っての通り、俺は傭兵だ。移民だろうが子供だろうが、傭兵流の伝え方しかできない」
踵を返して外に出ていったヨルクが足を止めたのが分かったが、聞きたいなら聞かせてやればいい。別に陰口を叩くわけでもなければ、格好付けて御大層なことを言うわけでもないのだ。
「三十分だ。君らが良くても、馬が持たない。出発までの三十分、寝られなくても寝ていろ。いいな?」
馬など言い訳に過ぎないが、それでも二人は素直に頷いてくれた。
……まぁベアトリーチェはともかく、エリノアは方便だと気付いていたかも怪しいが。箱入り娘というほどではないにせよ、彼女はどうも抜けているところがあるように見受けられる。
とはいえ、相棒役のベアトリーチェの鋭さは油断ならないものだ。
単なる勘や思い込みかもしれないが、『そいつを休ませておけ』と念を込めて送った視線に、なんと再びの首肯で返してみせた。
「じゃあ、また三十分後に起こしに来る」
別れ際に付け加えた言葉の意味さえ、正しく受け取ってくれたのはベアトリーチェだけだ。
「え……? あっ、はい、おやすみなさいませ」
「…………おやすみ」
鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せ、それから頭を下げてくる姿には、最早ため息さえ湧かない。
代わりに零しかけた同情の言葉はどうにか呑み込む。
俺にできるのは、次に部屋に入る時は目のやり場に困らない状況であってくれ、と願うことくらいだ。
背に人間を二人ずつ乗せた二頭の馬が、のっそのっそと歩き出した。
ろくに馬草も与えられず、辺りに生えているささやかな雑草で食い繋いできた馬たちの歩みはなんとも頼りないが、それでも人間の足で往くよりは速い。
背後には先ほどまで休憩所として使っていた廃墟同然の家屋がある。
かつてこの近辺を根城としていた山賊たちが暮らしていた隠れ家の残骸、という建前のもとで帝国軍の一部派閥に管理されている東方――つまりは教国である――監視拠点の一つだ。
帝国領なのは勿論、教国が安易に手出ししていい領域でもない。
急ぐ必要があるとすれば、それはエリノアとベアトリーチェの体調と、そして彼女らを連れ去る以上の危険を伴う可能性がある仕事のためだ。
アドリアーノ・バリアーニ。
忘れもしない、帝国の毒蛇だ。彼女からの仕事を俺が代わりに請け負う代わりに、俺の教国行きを彼女が支援するという契約になっていた。だが肝心の仕事の内容については、事実上明かされていない。
いや、六王が一人クラウディオ・デーニッツの八十歳を祝う晩餐会に招待されるという話ではあるのだが、まさか玉座で政争に明け暮れる六王が誕生日パーティーなど開くとは思えないし、仮に催されたとしても俺が呼ばれるはずがないだろう。
とどのつまり、見え見えの罠だ。
そうと承知で彼ら彼女らの懐に踏み込まなければ、リースの願いを果たすことはできなかった。
しかし、とはいえ、だ。
ふとした瞬間、思わずため息が零れそうになるのは如何ともし難い。
こんな二重契約、アルターとその騎士団ですら手を焼くこと必至だ。それを弱小どころか旗揚げ半年余りの俺たちには荷が重すぎる。
いっそ俺一人なら気楽だったのだが、ヨルク以外の団員――、フリーダやランディ、エドとシウフについでのエミールは今も帝国で事実上の人質として窮屈な思いをしているはずだ。
「私が先行しましょうか?」
俺の後ろに乗るヨルクがそう口を開いたのは、そんな時だった。
手綱を握る拳に無意識に力を込めてしまっていたのが見えたのだろう。言われてから自覚し、「いいや」と首を振る。
「いくら教国の追っ手が来なくても、孤立するのは危険だ。野盗もそうだが、隣人や獣に襲われるかもしれない」
「……その程度の敵に私が遅れを取ると?」
「そりゃ場合によるだろ。多勢に無勢ってこともあるしな。油断はするな、万全を期せ」
ただまぁ、やはり、先に行かせるべきだったか。
のんびりと走る、というかほとんど歩いているに等しい馬の上に二人というのは、些か以上に神経が擦り減らされる。
ヨルクは今、どんな気持ちでいるのだろう。
分からない。
否、考えたくない、というのが本音だろうか?
「なぁ、ヨルク」
「なんでしょうか?」
「帰ったらのんびりしよう。しばらく仕事も休んで、静かに、毎日ぐーたらと過ごそう」
「イエス。……というか、当たり前です。少しお人好しが過ぎるんですよ、セオ様は」
ヨルクは口を尖らせて不満げに言う。
まぁ、お人好しとは言い得て妙だが。
そのせいで俺はあいつらと……リクと、アイラと、イザベルと仲間になって、失って、そしてこの男色家と出会ってしまった。
後悔はない、何一つ。
けれども時折、どうしようもない迷いに取り憑かれることがある。
迷い、惑い、そして動けなくなることが。
「セオ様?」
不意に囁かれ、意識が眼前に引き戻される。
「ん? どうした?」
「……やっぱり、セオ様も少しは休んだ方がいいみたいですね」
はあぁ、と大きなため息を零され、何が何やらと首を振った直後。
辺りの景色が一変していることに、ようやく気が付いた。
「おはようございます。まぁ、よく眠れたなら何よりですよ」
まさか、馬の上で?
いやいや、まさか。
しかし目の前に広がる光景は、どれほど受け入れ難いものであっても現実である。
「着いた、のか……?」
「イエス。さぁ、もう寝ている場合じゃありませんよ」