scene:03 旧界竜《エルダードラゴン》
王都ロマニアの王宮には宝物庫が二つある。
東西に分かれた宝物庫は、どちらも王族の離宮と言っても差し支えないほど豪奢な造りをしている。実際そうした攪乱の意図もあり、地上に見えている建物は単なる“玄関口”でしかない。宝物庫そのものは地下の広大な空間にあった。
西の宝物庫はまさに地下迷宮さながらの複雑さを誇っており、宝物庫の衛兵隊に配属され、在庫確認に出かけた新人が遭難するのは恒例行事ですらある。
それに対して、東の宝物庫にそうした不便さは無い。
むしろ中に収められたものをすぐに取り出せるようになっており、管理責任者へ王の免状と共に受付カウンターで頼めば、望む品がすぐに出てくる。
無論、そうした環境が整っているのには理由がある。
なにしろ『宝物庫』とは言っても、そこに収められているのは金銀財宝の類いではない。
人を殺し、地を裂き、山を砕き、海を割る為の兵器――魔導武具なのだ。
軍事装備品は厳重に保管しなくてはならないが、有事の際にはすぐに取り出せねば困る。そうした事情から管理方法の合理化が進められたのだ。
されど――あまりに簡単に取り出せるようでは困る。
ここに収められている武器の数は則ち、そのままブリタリカ王国の軍事力であり、貴族同士の権力バランスを保つ天秤の錘。
――当然、ここを警備する者には相応の信用と実力が求められた。
貴族と関わりが無く、王を裏切らず、魔導武具を必要とせず、どんな騎士よりも強い存在でなくてはならない。
つまり――旧界竜である。
◆ ◆ ◆ ◆
そうして、エリザベート・ドラクリア・バラスタインは馬車から地上へと降り立った。
「ここが……宝物庫」
『でけえな。城かよ』
途端、覆い被さってくるような巨大な建物に圧倒される。エリザはその豪奢な宮殿を見上げ、感覚共有で同じ視界を持つマリナも呆れたようなため息を漏らす。その大きさは、チェルノート城とほとんど変わらない。城壁なんて時代遅れなものがある古城と比べるのもおかしな話だが。
エリザは馬車の御者に「ここで待っていてください」とチップを渡して、宝物庫の扉へと続く階段を上る。
宝物庫にはエリザ一人でやって来ていた。シャルル七世は「そろそろ風呂に戻らないと怪しまれるからね」と言って、免状と地図を渡すなり宮宰を連れて再びタペストリーの裏へと姿を消してしまったのだ。エリザはシャルル七世が“風呂好き”と言われている理由の一端を垣間見た気がした。
巨人種のために作られたとしか思えないほど一段が大きい階段をようやくの思いで登りきり、エリザは宝物庫の巨大な扉を開く。
開いた扉の先に広がっていたのは、魔導灯ではなく蝋燭で照らされた薄暗いホールだった。調度品も無いだだっ広い空間は、場合によっては数個騎士団が集まるからだろう。ホールの奥には横一列に、王立図書館のそれにも似た受付カウンターが並んでいる。――が、その殆どには『受付時間外』の札が掛けられていた。
エリザは開いているカウンターを探し、
「ほう」
途端、聞こえたのは腹に響くような低い声だった。
「これは随分と懐かしい個魔力だな」
受付カウンターに座っていたのは、眼鏡をかけた老紳士だった。
白髪を丁寧になでつけ、その身を執事服にも似た黒衣に包んでいる。つい今まで本を読んでいたのか、その左手には分厚い装丁の本があり、受付の椅子にゆったりと体重を預けていた。
老紳士は本に栞を挟んで受付に置くと眼鏡の位置を直し、エリザの方を見て旧知の人物に会ったかのように微笑んだ。
まるで、長く会っていなかった孫や姪っ子を歓迎するような優しい笑み。
しかし、エリザの方には老紳士の姿に記憶はない。
対して老紳士は、嬉しそうな声をあげる。
「今代の『ドラクリア』は遂に契約を思い出したか。アイツも浮かばれるだろう」
「契約?」
エリザが首をひねると、老紳士は意外そうな顔で、
「我が友との契約だ。バラスタインを名乗りドラクリアを継ぐ者よ」
「――?」
やはりよく分からない。
エリザが言葉の接ぎ穂を探して「えっと――」と呟くと、老紳士は興味深そうに眉をひそめる。
「知らないのか――いや、なるほど。契約を思い出したわけでもなく、それだけの個魔力を……。『血の流れは魂を運ぶ』と言うが、君こそバラスタインの完成形というわけだ」
得心がいったとばかりに頷く老紳士。
どうやら向こうは、面識はなくともエリザの事を知っているようだ。父親は辺境伯だったとはいえ、エリザはついさっき爵位継承の内定を受けたばかり。エリザの名は有名では無いどころか、公式文書に載ることも珍しい。どこで知ったのだろうか。
『んだよ、エリザ。知り合いか?』
マリナも怪訝そうに問う。
『ううん。もしかしたら父の知り合いかも』
エリザは確認しようと「ところで貴方は?」と問う。
すると老紳士は薄く微笑み、
「おや、旧界竜に会うのは初めてかな?」
「旧界竜……?」
「ああ。――儂が旧界竜、ファフナーだ」
エリザは今朝方、航天船から見た翠玉色の巨体を思い出す。
だが、どうにも目の前の老紳士と、あの竜の姿が結びつかない。
ファフナーと名乗る老紳士は「その反応は久しぶりだ」と苦笑し、
「普段はこうして汎人種の姿をとっておるのだ。今日は『存在を印象づけろ』と言われていたからな。空も飛んでみせたが――どれ、証拠というほどではないが……」
言って、老紳士は左手の手袋を脱ぎ捨てる。
――現れたのは、翠玉色の鱗に覆われた皮膚だった。
「――まあ、これだけでは蜥蜴人種と変わらんがね。流石に本来の姿に戻るのは骨が折れる故、勘弁願いたい。それに今代のブリタリカ王は特に個魔力が少なくてな。下手に魔力を消費すると殺してしまいかねん」
そう肩をすくめて、ファフナーと名乗る老紳士は手袋をはめなおす。
どうにも嘘を吐いているようには見えない。
それに、とエリザは思い出していた。
旧界竜は多くの能力を有するが、その内の一つに自己変成能力があると聞いたことがあった。場合によっては自然現象へとその身を変え、大陸を沈めるほどの嵐となって襲うことも出来たという。ならば、汎人種に姿を変えるくらい造作も無いだろう。
ならば。
この人が七大竜の一人――旧界竜、グレイトブリタリカ公ファフナーなのか。
「儂も歳でな――正直、ここで本を読んでいる方が好みなのだ」
戦慄するエリザの前で、ファフナーは疲れたような笑みを浮かべる。
確かに武器庫の警備責任者はファフナーが務めていると聞いていたが、こんな受付で会うとは思っていなかった。
エリザは恐縮しつつ「その――公爵閣下、」と呼びかける。
途端、ファフナーは「ふ、」と小さく吹き出す。
「そう畏まるな。気負わず『ファフナー』と呼んでくれて構わんよ。――どうしてもというなら汎人種貴族らしく公爵閣下でも構わんが」
「では……ファフナー、様」
エリザは緊張して乱れた呼吸を整えてから用件を告げる。
「わたしはエリザベート・ドラクリア・バラスタインと申します。若輩の身ではありますが、この度、辺境伯を継承することになりました。つきましては、前辺境伯が所有していた魔導武具を受け取りたく参りました」
「ああ、今代のブリタリカから聞いておるよ。――『万槍』だな。少し待っていろ」
そう告げて、ファフナーはカウンターの奥へ消えてしまう。
受付のテーブルの向こう側は薄暗く見通せない闇になっていた。恐らく、陽光操作系の魔導陣が張られているのだろう。いや、保管している物の重要度を考えれば長命人種でなければ編むことが出来ないという〔亜空境界式〕によって空間そのものを断絶させているのかもしれない。
『なあエリザ』
と、ファフナーが居なくなり手持ち無沙汰になったのか、早速マリナが念話を飛ばしてきた。
『あの爺さんの言ってる旧界竜ってなんだ?』
「……ああ」
そういえば今朝のファフナーの姿をマリナは見ていないのだった。
なら、と。エリザは早速、シャルル七世との会話の最中で思いついた事を実行することにする。
きっとマリナも、首だけの状態で放置され暇をしているに違いない。丁度良いだろう。
つまり、この世界に関する講釈だ。
「簡単に言うととてつもなく長生きなドラゴンのことよ」
そう言うと『おお、ドラゴン……異世界っぽいな』とマリナの念話のトーンが少しだけ明るくなる。こういう話が好きなのだろうか。少し意外に思いつつ、エリザは話を続ける。
旧界竜とは、簡単に言えば人魔大戦以前から存在した竜のことである。
ただ今日に至っては、旧界竜と言えば人魔大戦において人類種に味方した七大竜を指す。
――というのも、それ以外の旧界竜はもう残っていないからだ。
彼らの在り方は魔導式と自然現象を束ねたものであり、言い換えると『世界の法則が意志を持ったもの』。故に、主従契約によって人類種の価値観という楔に縛られなければ、いずれ世界に溶けてしまう。旧界竜が溶けた世界は、その旧界竜が持つ法則を取り込んで生まれ変わる――と、されている。曖昧な言い方になるのは、あらゆる魔導式による検証によって出された結論ではあるものの、人類種自体が世界の一部である以上、その変化を知覚することは永遠に出来ないからだ。
そうした不安定な存在ではあるが、旧界竜の力は絶大だ。
なにしろ、彼らの力とは『世界そのもの』と言って良い。
彼らを倒すほどの力を、少なくとも人類種は手にしていない。
『騎士でも倒せないのか?』
マリナのそんな無邪気な疑問に、エリザは苦笑する。
エリザ自身、幼い頃に「お父様でも倒せないのですか?」と訊いた事があったからだ。
だから、父に言われた言葉をそのまま返す。
「“騎士でも”というより“騎士ごときでは”と言うべきかな」
『……恐ろしいな』
「旧界竜と主従契約を結んでいなければ、人魔大戦で人類種は滅んでいたとさえ言われてるもの」
『――つか、それだけ強いドラゴンと契約してるなら、王様は何であんな暗殺に怯えてるんだ? もっと偉そうにしてても平気だろ』
それが良い行為かはともかく、もっともな意見ではある。
しかし、その答えは割とハッキリしていた。
「ブリタリカ王家が受けてる呪いが原因だと思う」
『呪い?』
「――王家の人は代々、個魔力生成量が異常に少ないんだって」
通常の貴族騎士であれば、その膨大な個魔力によって騎士甲冑を纏い、魔導式を無効化した上でそれ以上の暴威を振るうことが出来る。それだけでなく個魔力の量が膨大であるが故に、生命力が非常に強い。腕を切られた程度では死なず、病気に無縁なだけでなく毒も効かない。魔導式による呪いも大抵は膨大な個魔力で押し流して無効化できてしまう。
貴族の権威と権力の源泉は、その膨大な個魔力にあると言って良い。
――その個魔力が、王家の血筋には受け継がれなかったのだ。
『呪い』と言われてはいるが魔導式によるものではなく、原因は不明。
勿論、個魔力がまったく無いわけではないが、せいぜい魔導士と同程度。身体的にも特別頑強ということもなく、健康な平民と同程度だ。毒にも呪いにも弱く暗殺は容易。当然、騎士甲冑を纏うこともできない。権威の裏付けとして軍事力と本人の戦闘技能が大きな割合を占める王国において、これは致命的なまでの欠点と言える。
それでも辛うじて同一政体を維持し続けてこられた理由が『旧界竜との主従契約』なのだ。
「ファフナー様は王家と『王家の領地を外敵から守る』という契約をしているの。だから貴族たちはブリタリカから独立したくても出来ないし、王家を絶やせば旧界竜っていう絶対の戦力を失うから王位の簒奪も起こらなかったって聞いてる」
『……ちょっと分かんねえんだけど、そもそも貴族ってそもそもどういう立場なんだ? 自分の領地を持ってるんなら“王家の領地”とはならねーだろ』
「それはね――公的には、『領地』とか『貴族』なんてのは通称であって正式名称ではない、ってことになってるの。今でも貴族は全員、公的にはブリタリカ王家の役人で、王領の運営を任された代官に過ぎないのよ」
『代官があんな偉そうなのか?』
「まあ、建前と実情は違うというか……」
ブリタリカ王国は、今でも体裁としては中央集権国家を成している。
でなければ、旧界竜ファフナーが守るのは王都ロマニアと、数少ない王領のみとなってしまうからだ。
そもそも今日では貴族の階梯のように扱われる伯爵や子爵といった称号は、貴族を指すものではなかった。王が治める広大な土地を『伯領』として分割し、そこを代理運営する代官の役職名が『伯爵』であったのだ。爵位の継承が王の権限で成されるのも『代官として任命し直している』という建前があるからである。
――しかし実情は大きく違う。
『伯爵』という名の代官は『伯領運営はその土地の者が一番上手くできる』という理由で世襲制になり、国防における現場指揮権を拡大解釈し各伯領で独自の騎士団を創設。何らかの理由で伯領運営が困難な時に認められる臨時徴税を恒常化、国税とは別に所領税として二重徴収。また宮廷に入った騎士たちは結託し、王の権力を自身たちへ『委託』するという形で少しずつ奪っていった。
そして裁判を司る宮廷伯とその家臣団から王族が排された時、彼らを裁ける者が消えた。
そこから先は坂から転げ落ちるようだった。
伯爵たちは『貴族』を名乗り特権階級として自身を正当化。元々が騎士国家であり、軍事政権そのものであった王国で貴族たちは増長。周辺国家を勝手に併呑し、領地と権力を拡大。今では王家など歯牙にもかけていない。
それでも貴族たちは『代官』という立場を捨ててはいない。
独立した権力者になるという事は、旧界竜の翼の影から出るという事であり、旧界竜の暴威に晒されるという事でもあった。それは身の破滅を意味する。
――ならば、代官のままで王の権力を全て奪えばいい。
王の家臣としての立場を表面上だけでも守るのであれば、旧界竜は手出し出来ない。主従契約は世界との契約。いかな旧界竜といえども破ることは出来ない。だからこそ貴族は『名』を捨て『実』を取った。権威のみを王家に残し、それ以外の権力をむしり取っていったのだ。
旧界竜を縛る為だけに王家を飼育する貴族。
それが今のブリタリカ王家と、他の貴族たちとの関係である。
――エリザの講釈を聞き終えたマリナは『どっかで聞いたような話だな』と鼻で嗤った。
『まあ、余所の国にも旧界竜が居るなら、一人だけ孤立するわけにいかねえか。――核の傘みてえだ』
「かくのかさ?」
『わりい、こっちの世界の話だ。それで、あとは何処の国が旧界竜と契約してんだ?』
「国――というか、人種ごとに一つの旧界竜って感じかな。首長連合、連邦、共和国、ベルグリッジ王朝、皇国――」
エリザが指折り数えて思い出していると、マリナが不可解そうに『待て』と念話を飛ばす。
『それなら、帝国は旧界竜と契約してないのか?』
「うん。……だから貴族達は強気なんだと思う。いざとなればファフナー様に頼れば良いからって」
『ハッ、虫の良い話だ』
「待たせたようだね」
重々しく念話を割ったのは旧界竜の声だった。
カウンター奥の宝物庫から戻ってきたファフナーは、脇に小振りな棺を抱えていた。どうやらそれに『万槍』が収められているらしい。
ふと、ファフナーは眼鏡を光らせ、少しだけ口角を上げた。
「――お嬢さん。友達とお話しするのは構わないが、頭の中で完結させた方が良いな。近衛兵が怪しむだろう? 立場をわきまえたまえ」
「あ……」
どうやら念話をしている事がバレていたらしい。忘れていたが、今は警備機構を騙して念話を繋いでいるのだ。それをよりにもよって、宝物庫の警備責任者とされるファフナーに知られてしまった。
どう誤魔化そうかエリザが慌てている内に、ファフナーの方から「別に誰も言ったりはせんよ」と笑みを向けてきた。エリザはありがたいと思うと同時に、まるで孫の悪戯を見つけた老人のようだと感じる。
「さて。――これが『万槍』だ」
ファフナーは小振りな棺をカウンターの上に置き、その蓋を開く。
――まるで竜の骨格標本を、無理に槍の形へ収めたようだった。
柄は人間の背骨のようにゴツゴツと伸びており、その穂先は竜の頭蓋骨を上から押しつぶして平たくしたような形をしている。竜の鼻先から額にかけてのラインには鋭利な刃がついていて、反対側は竜の牙が鋸のように並んでいた。切り裂く時には鼻筋を、傷を開く時には顎を使うと父が語っていたのをエリザは憶えている。
それは確かにエリザの父、ブラディーミア十三世が最期の出陣で掲げていたものだ。
「固有式の使い方は知っているかね?」
ファフナーの問いに、エリザは「いえ……」と首を横に振った。
「なるほど、酷いな」
落胆したような声に、エリザは思わず身を固くする。
しかし、それを感じ取ったファフナーはすぐに「いやすまない」と謝罪を口にした。
「バラスタイン家はもう君しか残っていないのだったな。扱い方など知らなくて当然だ。――よろしい、では最初から説明しよう」
ファフナーは棺の中から『万槍』を取り出し、その傷みが無いか確かめるよかのように慎重に眺めながら語り始める。
「この槍は少々特殊な経緯で生まれていてね。――とある旧界竜が、ある男と主従契約を結び、武器へとその身を変じさせたものなのだよ」
そこからしてエリザには初耳だった。
まあ、それも仕方の無い事かもしれない。父が『万槍』を手にする事など滅多に無かったし、そもそも『万槍』を受け継ぐのは兄のヴィクトルのはずだったのだ。エリザに話す道理もない。
エリザの驚きをよそに、ファフナーは槍を優しく撫でながら続ける。
「とある旧界竜とは儂の友人だ。そして我が友と契約を結んだのは『ブラディーミア』という、少々夢見がちな青年だった」
「――初代様と会った事があるのですか?」
「儂を誰だと思っている。人魔大戦では共に魔人を屠った事もあるとも」
ファフナーは少し自慢げな顔をすると、万槍を棺の中へ戻す。
「実はな。この槍となった旧界竜は汎人種――いや、人類種そのものを信用していなかった。我が友が信じていたのは、青年ブラディーミアただ一人だったのだ。
――故に、我が友は固有式の使用に三つの制限を設けた」
ファフナーの人差し指が天井を指した。
「ひとつ、ブラディーミアの血を引いていること」
二つ目の指が立つ。
「ふたつ、当代の“ドラクリア”であること」
そして三つ目の指が立った。
「みっつ、契約を果たすために槍を振るうこと。――これらの条件を満たすことで、この槍はその能力を十全に発揮することになる」
「契約って一体なんですか?」
父からそんな話を聞いたことがない。
しかし、エリザの問いにファフナーは「さてな」と言って虚空を眺めてしまう。
はぐらかされたように感じ、エリザは思わず眉をひそめた。
途端、ファフナーが苦笑する。
「そんな顔をするな。意地悪をしているわけではない。本当に知らないのだ」
「……そうなんですか?」
「まあ、我が友が結びそうな契約に心当たりが無いわけではないのだが――――だとしてもそれは君ら一族が思い出すべきことだ。それが“誠意”というものだ」
「父は知っていたのでしょうか」
「いや、知らんだろうさ。儂が知る限り、この槍の能力を十全に引き出せたのは初代ブラディーミアただ一人。――ま、彼では個魔力が少なすぎて、契約を果たすには至らなかったようだがね」
「どうして分かるんですか?」
「契約が果たされていれば、我が友はここにはおらんからさ」
そうして薄い笑みを浮かべ、ファフナーは万槍を優しく撫でる。
何度も『我が友』と言うくらいだから、きっと大切な人――いや竜だったのだろう。
槍を何度も撫でる老竜の瞳は、一体何を映しているのだろうか。
「だが条件を満たさずとも、最も簡単な固有式は扱える」
ファフナーは槍から視線を上げ、説明を再開する。
「――【増殖式】。個魔力を消費して槍の複製を作り出し、弓のように放つ固有式だ。複製と言っても、魔導式による再現だからな。その在り方は幻獣に近い。故に、個魔力を流し込めば幾らでも分裂させることが出来る。――それを見た者が『万の槍』と呼ぶのも無理からぬことだろうさ」
だが、と。ファフナーは眼鏡の奥からエリザの瞳を覗き込み、
「この槍の本来の力はその程度ではない。――なにしろ旧界竜を材料にしているのだ。この槍の全力とは、つまり旧界竜の力を振るうことにも等しい」
息を呑む。
旧界竜の力――それは、世界の法則そのものだ。魔導式のように一時的に現象を再現するのでも法則を押しつけてねじ曲げるのでもない。そんな詐欺のような方法ではなく、その力を振るえば、力に合わせて世界の方が変革してしまう。故に旧界竜の力は、今では軽々しく振るわれる事はない。
そんな力を、わたしが手にして良いのだろうか。
「ひとつ、言っておこう」
ファフナーはカウンターから身を乗り出し、エリザの耳元へ口を近づけて囁く。
「この槍の本当の力は、我が王ですら知らない。――恐らく、歴代のバラスタインも知らなかっただろう。儂も教える気には、ならんかったからな」
「……どうして、わたしには教えてくれるんですか?」
「なに――『男は惚れた女に弱い』というだけの話だ」
ファフナーはどこか自嘲するような声で、
「お嬢さんからは我が友の個魔力を感じる。きっと君こそが我が友と、あのブラディーミアが望んだ子供だったのだろう。君で無理なら、もう誰にも果たせない。これが最後の機会。――そう、思ったのだよ」
優しい竜の吐息が離れていく。
そして次にエリザがファフナーの顔を見た時には、もう仕事は終わったとばかりにカウンターの椅子に腰を落としていた。
「もし君に守りたいものがあるのなら、思い出すことだ」
ファフナーは読みかけていた本を開き、ページをめくる。
「ドラクリアという名の、本当の意味をな」