scene:02 異世界《ファンタジア》
「――というわけで、あなたから見てこの世界は異世界なの」
そう締めくくった少女の言葉に、仲村マリナは眉をひそめる。
マリナは今、『エリザベート』と名乗る少女の私室へと連れてこられていた。そして訳が分からないまま、その部屋の天蓋つきのベッドに腰掛けさせられ、銀髪の少女から『異世界』だというこの世界についての説明を受けたところだった。
「わたしたちの世界では、異なる世界の事を『ファンタジア』って呼んでる。実在すると仮定されてはいるけど、誰も見たことがないって意味を込めてね」
「オレからすれば、今の話が全部がファンタジーだよ……」
頭を抱えるマリナに、エリザベートという少女は「無理もないわ。わたしも驚いてるもの」と同意する。
「まさか異世界の死者を召喚するなんて……。まあ、冥界はあらゆる世界の死者を蒐集していると言われてるから、理屈の上ではあり得ない話ではないんでしょうけど」
「それなんだけどよ。――オレは死んだんだよな?」
マリナの問いかけに、エリザベートという少女は「ええ」と断言する。
確かにマリナの最後の記憶は戦闘ヘリに、潜んでいた廃ビルごと破壊された時のものだ。機関砲の攻撃から逃げた憶えはあるが、そこから先は曖昧。しかし常識的に考えれば、居場所を特定された上に機関砲を撃ち込まれれば死ぬしかない。生まれてこの方ゲリラ屋のマリナとはいえ、逃げ切れたかは怪しい。
それに。
と、マリナは自身の両手へ視線を落とした。
そこには削り出した白木で出来た手がある。球体関節で繋がれた指はマリナの意思に応じて違和感なく動いた。それだけではなく、今やマリナの肉体はすべて削り出された木材で出来ているのだ。顔だけはプラスチックともシリコンともつかない不思議な皮で覆われ、マリナの表情を浮かび上がらせている。髪だって鮮血のように真っ赤。どう考えても人間の肉体ではない。
だから自身が死んだことや、体を木偶人形に変えられてしまったことは認めるしかない。事実、先進各国では、義手や義足だけでなく肉体そのものを機械化することも研究されていたのだ。その実験台に選ばれたというなら、すんなり納得しただろう。
だが『異世界に魂だけ召喚されて、人形の中に入れられた』と認める事には流石に抵抗があった。
「……米軍あたりの人体実験に付き合わされてるわけじゃねえのか?」
「何度も言うけれど、わたしはその『ベイグン』を知らないし、『アメリカ』も『ニッポン』のことも知らないわ」
いい加減疲れたとでも言いたげに、エリザベートは肩をすくめる。
確かにここで押し問答を繰り返しても仕方がない。マリナは少女に「いや、すまん」と手を振った。
それにマリナとしても、この銀髪の少女の言い分を認めてしまいたいと思い始めていた。
マリナは所属していた部隊の中でも『ニッポン』の遺産たる漫画や小説を読む方だった。マリナが愛してやまない武装戦闘メイドたちの中には、魔術やら魔法やらを扱う者もいたし、異世界から召喚された少年を主人と仰ぐ者もいた。だから『異世界の死者の魂を召喚して人形に移し替えた』と言われれば、イメージくらいは湧くのだ。
それでも少女の言葉を「はいそうですか」と納得できないのは、マリナが知る常識とはかけ離れた現象である事と、これまでの人生で得た『他人の言葉を鵜呑みにするのは危険』という経験則からだった。
「んー、どうしたら信じてもらえるかしら」
表情からマリナの内心を察したのだろう。エリザベートは腕を組んで考え込む。
そして何かを思い出したのか、パッと表情が明るくなり、
「ねえ、契約の言葉を聞いた?」
「なんだそれ」
「魂魄人形は死者の魂と契約を交わして、その魂を人形へと定着させるの。だから、あなたもわたしの呼びかけに応じて契約を承諾したはずなのよ」
「……で、あんたは何て言ったんだ?」
マリナが半信半疑にそう問うと、エリザベートは「死にゆく者よ――」から始まる契約の文言を口にした。
それを聞いているうち、マリナの脳内に蘇ってくるものがあった。
見上げる曇り空、
失った右脚と溢れ出す血液、
死ぬ前に表紙を目に焼き付けようと取り出した漫画本、
そして、死の瞬間に聞いたその言葉――
「…………思い出したよ。たしかにそんな台詞を聞いた」
「ほんと!?」
よかったあ、とエリザベートは胸をなでおろす仕草をする。
見ていて飽きない少女だ。そうマリナは思う。考えていることがすべて、表情と動きに出てしまっている。隠し事ができない性格なのだろう。――ついでに言えば、こんな人間が嘘を吐けるとも思えない。
仕方ない、ひとまずはこの少女の言うことを信用してみよう。
そう、マリナはひとり結論する。
疑うことも悲観的に備えることも重要だが、不安に囚われて動きを止めるのは最悪だ。分からない事は『今は判断できない事』として保留し、行動を起こして新たな情報を得た方が建設的。
ふと、エリザベートがマリナの顔を覗き込む。
「それで、何を願ったの?」
「あ?」
意味が分からずマリナが聞き返すと、エリザベートは少しじれったいような様子で、
「契約の文言にあったでしょ? 願いを叶えてあげるって」
「ああ」
「わたしも詳しくは知らないけど、魂魄人形とその主人が正式に主従契約を結ぶと、主人の個魔力と棺に溜められた大魔を使って、死者の魂の願いを叶えるらしいの。そのための魔導式が魂魄人形には組み込まれてるんですって」
魔導式というのはいわゆる『魔法』のようなもので、大気中や生物の体内にある魔力を使って、様々な現象を引き起こす技術ということだった。魔力とそれを操る『式』さえあれば、理論上不可能なことは無いらしい。マリナとしては眉唾も良いところだが、既にこうして死んだ後に木偶人形へ魂を押し込められているわけだから信じるしかない。
「主従契約は簡単に解除できない魔導式だから、わたしと結ぶ必要は無いけど、もしかしたらわたしの出来る範囲で『願い』を叶えられるかもしれないし」
「…………いや、覚えてないな」
怪訝そうな顔をするエリザベートの視線を、マリナは素知らぬ顔で受け流す。
流石に初対面で「武装戦闘メイドになりたいと願いました」と言う勇気は無かったのだ。
付け加えるなら、このエリザベートという少女は異世界の王国における『貴族』らしい。そんな立場の人間に「メイドになりたい」などと言えば、事実その通りにされてしまうだろう。この世界の社会制度についてろくに知りもしない段階でそれはあまりに危険だ。
マリナは話を逸らすため「アンタは何で『ゴーレム』を起動させたんだ?」と聞き返す。契約の文言には『その魂を役立てて欲しい』とあったのだから、何かをさせたくて召喚したのだろうと思ったのだ。
しかし、
「あー……、いや、いいのいいの。やって欲しいことがあったのは確かなんだけど、異世界から来たばかりの人には頼めないものなの」
「そうなのか?」
「ええ。……まあ、アテが外れたのは痛いけど、仕方ないし」
ダイジョーブダイジョーブと笑うエリザベートは、初対面のマリナから見ても空元気だ。
と、
遠くから呼び鈴のような音がマリナの耳に届いた。
途端に「ああ……、来ちゃったか」と、エリザベートは額を押さえて天を仰ぐ。
「えっと、あなたは暫くここで待ってて。今後のことについては後で話し合いましょ」
言って、エリザベートはマリナを置いて部屋から出て行ってしまう。
部屋のドアが閉まる音を聞きながら、マリナは頭をポリポリと掻いた。
「今後のこと、つってもな……」
とりあえず、服と武器が欲しい。
そう思いマリナは部屋の中を見渡す。
しかし貴族の娘という割にはずいぶん質素な部屋だ。
確かに部屋は家が一軒入りそうなほど広いし、床の絨毯はやたら毛が長いし、ベッドは天蓋付きのクイーンサイズ。壁にかかっている槍に巻きつく竜が描かれたタペストリーは、恐らく『家紋』とかいうやつだろう。
だが、それらは『貴族』としての体裁を最低限取り繕うために揃えられたような印象を受けた。なにしろ、それ以外には何もない。ここで生活しているというなら、もっと金のかかった調度品や嗜好品が並んでいるはずなのだ。金持ちは、有り余った金の使い道をいつも探している。少なくとも、これまでにマリナが暗殺してきた権力者たちの部屋はそうだった。
そもそも貴族というなら、何故召し使いの一人も連れていないのか。マリナが読んだ漫画や小説では、貴族というものは身の回りのあらゆる世話を召し使いにやらせていたものだ。どうせ異世界に召喚されたというなら、本物のメイドや執事というものを見てみたかったのだが。
まあ、つまり。
あのエリザベートという少女には何かある。
そう判断したマリナは、部屋の中を探索する。絨毯の上を歩いて床下の収納を探し、壁を叩いて何か仕込まれていないか確認。そして最後に、ブービートラップを警戒しつつウォークインクローゼットを開いた。
と、そこにあった物にマリナは目を瞠った。
そして、瞬間的に理解する。
あのエリザベートという少女が、何を考えて魂魄人形とやらを起動させたのか。何故、仲村マリナという死人を召喚したのかを。
アパートの一室かと思うほど広いクローゼット。その中には、やはりと言うべきかろくに服がなかった。数だけなら、各国軍の野戦服を揃えていたマリナの方がまだ衣装持ちというレベルだろう。――だが、そんな中にあっていかにも「これから使います」と言いたげに、ハンガーらしきものにかけて用意された服があった。
その服はマリナもよく見たことがあるもの。
だが一度も着たことはなく、実物を見たことすら無かったもの。
黒いロングスカートのワンピースと、真っ白なエプロン。
そして実用性を重視しつつも僅かなレース生地で装飾したヘッドキャップ
実用性と見栄えを両立したゴシックな黄金比。この世界では何と呼ぶのかは知らないが、マリナのいた世界ではこれを『ヴィクトリアンスタイル』と呼んでいる。
つまりそこにあったのは、
――メイド服だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「いやあ、ご壮健そうで何よりですバラスタイン嬢」
応接間に通された男――王政府から派遣されている調整官は、わざとらしく大げさにエリザの機嫌を取っている『フリ』をする。慇懃無礼は今に始まったことではないが、毎度毎度よく飽きないものだ。そうエリザは愛想笑いの下で辟易としする。
ついでに言えば、役人は堂々と上座へと腰掛けていた。確かに彼は王政府直属の人間であり、エリザは爵位の継承も済んでいないただの公女だが、それでも平民が貴族へ取ってよい態度ではない。
つまり――それをしても良いほどの力関係が、ここには存在する。
「それにしても、バラスタイン嬢自らお出迎えしてくださるとは。このエッジリア、感激のあまり涙を流してしまいそうだ」
「それほど喜んで貰えたなら、わたしもその甲斐があったというものですわ」
「いやいや本当に。私の相手など、メイドにでも任せてしまえば良いものを」
王政府の役人――エッジリアは、ハンカチで目元を拭う仕草をしてみせる。こんな馬鹿げた態度をとられたままでは貴族の威厳が傷つこうというものだが、エリザには守るべき威厳はすでにない。
そう、この男は分かっていて何度もこういう事を言うのだ。
メイドを雇う余裕など、今のバラスタイン家には欠片も存在しない。それは王政府からエリザベートの後見人代理として派遣されたこの男が一番よくわかっている。『幼くして領主代行となった公女を爵位継承までの間支援する』という名目で派遣されているのだが、エリザは既に17歳。後見人による推薦さえあれば爵位の継承に問題はない。
なのにいまだ『公女』扱いなのはエリザの領地運営能力を評価し、真の後見人たる王政府へ報告するのがこの男だからだった。
「これほどの城主ともなれば色々と忙しいでしょうに。……そういえば、いつもの老婆はどうされたのかな?」
エッジリアの言う老婆とは、祖父の代からバラスタイン家に仕えてくれていた女性の事だった。召し使いのひとりも雇う余裕のないエリザの事を案じ、城下町に移り住んでまで城の管理を無償で手伝ってくれている。いつもなら、この役人が来る時にはメイドの代わりを務めてくれていたのだ。
「……今は暇を出しております」
「そうなのですか! たしかに彼女は高齢でしたからな。そろそろ来るべき時が来たのかと思いましたよ」
「――ッ、」
一瞬、エリザは頭が沸騰するかのような怒りを覚えたが、何とかそれを飲み込む。自分が小馬鹿にされるのは受け流せるが、尽くしてくれている身内への侮辱は耐えられない。「ご心配には及びませんわ」と笑顔を浮かべた自分の自制心を褒めてやりたいとすら思った。
いくら耐え難くとも、今だけは我慢せねばならない。
この男は王政府へ報告する為の資料を、エリザから受け取りに来たのだから。
それはエリザが領地を問題なく運営し、税を得て、王政府へと献上できるという事を証明するためのもの。実際、マリナは街の農業や商業についてまとめた資料や証拠としての念写画、商会や自治会からの証書類を用意して男の目の前に置いている。
これが王政府に届けば、爵位継承へ大幅に近づく。そうすれば法や税制、公共事業に至るまで――領地内に限り――エリザの一存で決められるようになるのだ。これまで協力してくれた民への恩返しができる。
だが、男はそれの資料が目に入らないかのように、ぐだぐだと嫌味を言い続けている。
「だが、そうなりますと困りましたな……」
「なにがですか?」
「いえ、ここの城は随分と町から離れておりますから、歩き疲れて喉が渇いてしまいましてな。しかし召し使いが居ないとなると、私は渇きを潤せそうにない」
なるほど、今日はそういう趣向なのか。
エリザは思わず奥歯を噛み締めた。
つまりこの男は、わたしにメイドの真似事をさせたいのだ。
エリザが出迎えた時点で、今この城にはメイドが居ないという事に気づいたのだろう。いい加減、嫌味のバリエーションも尽きてきた頃合いだ。せっかく見つけた弱みを有効活用してやろうとでも思ったに違いない。
もし貴族が平民に対して給仕の真似事をしたなどと知られれば『貴族としての自覚が足りない』と責められ、エリザの爵位継承はさらに遠のくことになる。それをネタにわたしを強請る気なのだコイツは。もちろんこの男の立場も危うくなるはずだが、もしかしたら宮廷貴族の誰かから庇護を受けているのかもしれない。でなければ流石にここまで強気に出てこられまい。
とはいえエリザはこの資料を男に受け取らせ、王政府へ届けさせなくてはならない。それは権利ではなく義務。エリザが領地運営を放棄したと見なされれば、バラスタイン辺境伯領最後の土地であるこのチェルノートすらも召し上げられ、バラスタイン家は消滅する。
だが、この男はきっとエリザが茶の準備をして差し出すまで、目の前の資料に気づかないフリを続けるだろう。
エリザは静かに拳を握る。
仕方ない。いずれ爵位を継承するまでの辛抱。
今だけ。今だけは。
この男の望む通りにしてやろう。
そうエリザが決意し立ち上がり、エッジリアがほくそ笑んだ瞬間だった。
「失礼いたします」
応接室の戸がノックされ、給仕台車を押したメイドが現れた。
「お茶の用意が調いました」
しずしずと二人へ歩み寄ってくるのは赤髪の魂魄人形だった。その身を、エリザが商会を通して家政婦派遣協会から購入したメイド服で包んでいる。思わず「あ、あなた……」と問いただそうとするエリザにチラリと視線を向けて、魂魄人形はニコリと微笑んだ。
「遅くなり申し訳ありません、お嬢様。スコーンを焼くのに手間取ってしまいまして」
「あ……そう。次からは気をつけなさい」
「かしこまりました」
慇懃にエリザへとお辞儀をした魂魄人形は、続いてエッジリアの方へ向いて「お待たせしました」と微笑む。
「表情、がある」そう呟くエッジリアの瞳がみるみる内に見開かれていった「……自動人形じゃない。まさか魂魄人形!?」
驚くエッジリアに構わず、魂魄人形はテーブルへ紅茶を注いだティーカップを並べていく。スコーンとジャムが並べ終わるのをエッジリアは呆然と見守っていた。
「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」
「あ……、ああ」
言われるがまま、エッジリアはカップを口へと運ぶ。だが、その手はエリザから見ても哀れなほど震えていた。視線は泳ぎ、こめかみには血管が浮いているように思える。
恐らくエリザに騙されたとでも思っているのだろう。羞恥と怒りが混ざり合った表情なのかもしれない。散々、貧乏貴族と小馬鹿にしていた娘が、魂魄人形を従えていたのだ。客をもてなす方法としては、それなりに上等。しかも魂魄人形の希少価値と歴史から考えれば、それ自体が貴族としての格を示すことに繋がる。この男からすれば『小馬鹿にされていたのは自分の方だった』と感じていてもおかしくない。
驚きのあまり思考がまとまらないのだろう。エッジリアは紅茶を飲み干すと「すまないが、これで失礼する」と宣言して立ち上がると、逃げるように応接間を後にしようとする。
だがそれを、魂魄人形が「お客様」と呼び止めた。
「な、なにかね?」
「お忘れ物でございます」
言って魂魄人形は、エリザが用意した領地の運営資料の入った封筒をエッジリアへと手渡す。そこまで堂々と差し出されれば、エッジリアも受け取らないわけにはいかない。小さく舌打ちをして封筒を肩にかけたカバンの中へ乱暴に放り込む。
「街まで馬車を出しましょうか?」
「結構だ!」
エリザの提案をも断って、エッジリアは応接間の戸を乱暴に閉めて去ってしまった。
そうして応接間には、エリザと魂魄人形の二人だけが残される。
先に口を開いたのは魂魄人形の方だった。
「わりい、迷惑だったか?」
魂魄人形はバツが悪そうに、メイドキャップを取って頭を掻く。
その姿がなんだかおかしくて、エリザは思わず吹き出してしまった。
「んだよ! なんで笑うんだよ」
「いえ、ごめんなさい。なんでもないの」
「はあ?」
「……助かったわ、ありがとう」
言って、エリザが手を差し出すと、少し驚いたような顔をしてから魂魄人形は手を握り返した。
「この世界でも、握手はするんだな」
「あ、そういえば異世界から来たのよね。あなたの世界でも、握手は友好の証なの?」
「ああ」
「なら良かった。ほんと、感謝してるわ」
「……いやまあ、オレもああいう男は嫌いでさ。小馬鹿にされたら、小馬鹿にし返すのが一番だ」
魂魄人形は先ほどの上品な笑みとは打って変わって、イタズラ小僧のような笑みを浮かべる。こちらが本来の彼女の笑顔なのだろう。
「仲村マリナだ」
「え?」
「オレの名前だよ。言ってなかっただろ?」
そういえばそうだった。
混乱する魂魄人形を落ち着かせるのに必死で、自己紹介などする余裕が無かったのだ。それを魂魄人形本人も分かっているのだろう。少し恥ずかしそうに「で、アンタは?」と訊いてくる。
「エリザベート・ドラクリア・バラスタイン。――エリザと呼んで」
「エリザ、ね。よろしく」
「……でも驚いたわ。あなた、メイドの経験があったの?」
「ん? いや、無いぞ」
「それにしては、様になっていたけれど……」
そう問うと、『ナカムラ・マリナ』と名乗った魂魄人形は、再び恥ずかしそうに頭をポリポリと掻く。
「さっきの話だけどさ」
「さっき?」
「ほら、『何を願ったのか』ってやつ。オレは『武装戦闘メイド』になりたいって願ったんだ」
「ブソウセント……え?」
「ああ、いや、良いんだ。そこは気にしなくて。というか気にするな。するんじゃねえ。いいな?」
あまりの気迫に、エリザは「え、……ええ」とたじろいでしまう。ともかく『ブソウセントウメイド』というものがどんなメイドかは深く聞いてはいけないらしい。
エリザがコクコクと頷くのを確認すると、『ナカムラ・マリナ』は一度咳払いをしてから、
「とにかくっ!! オレは『メイド』になりたかったんだよ。だから、多少は作法とかも知ってたってわけ」
「紅茶やスコーンは? というかキッチンの場所がよく分かったわね」
「……前の職業柄、こういうとこの構造は少し歩けば予想できる。それに大体準備してあったしな。あれ、アンタが用意しといたんだろ? オレにやらせる為に」
「ええ、まあ」
確かにエリザは、エッジリアとの折衝のために魂魄人形を起動させようと決意したし、その後にメイドの真似事をさせるための準備もしていた。
だが、それを状況証拠だけで判断し、見ただけで準備を整え、完璧に実行してみせたのは驚異に値する。
「……あなた、メイドになりたいのよね?」
「ああ」
「それなら、わたしが役に立てると思うわ」
「そうなのか? だって、メイドを雇う余裕なんか無いんだろ?」
エッジリアとのやり取りを聞いていたらしい。『ナカムラ・マリナ』は怪訝そうな表情を浮かべる。事実、バラスタイン家の家計は燃えていないだけで余裕はない。
しかし、
「これでもわたしは『貴族』だから。家政婦派遣協会に紹介する位はできるし、なんなら知り合いの伯爵に訊いてみてもいいわ。変に自力で探すより真っ当な雇い主が見つかるはずよ」
「なるほど……」
しばらく『ナカムラ・マリナ』は考え込んでいたが「なら派遣協会とやらに紹介して欲しい」と答える。
「でも良いのかアンタ、魂魄人形を簡単に手放して。さっきの話だとけっこうな額なんだろ、オレは」
「いいの、今日だけ乗り切れればと思って起動させただけだから。あなたもせっかく生き返ったんだから、したい事をしたいでしょ?」
それはそうだが、と口ごもる『ナカムラ・マリナ』は、きっと異世界でも真っ当な人間だったのだろう。でなければ、こちらの事情を察してここまで気を遣ったりしないはずだ。
やはりこの人を手放すのは惜しい、とエリザは思う。洞察力も行動力あって気遣いも出来る。メイドとしてはもってこいの人物だ。
だが、休息も食事も必要のない魂魄人形とはいえ、無償で働かせるのはエリザの信条に反する。『貴族と民は、特殊な契約関係にあるだけで本来は対等なのだ』という父の言葉をエリザは信じていた。
だからこそ、先ほどエッジリアに弱味を握られる危機を救ってくれた彼女にはなんだってしてあげたいのだが『ナカムラ・マリナ』の方はそうもいかないらしい。
なら、とエリザは提案する。
「もし気兼ねするなら、取り引きをしましょう?」
「取り引きだ?」
「ええ」
エリザは警戒する魂魄人形を安心させるために、優しく微笑む。
「協会へ紹介する代わりに、今日一日だけ、わたしのメイドとして働いてくれたら嬉しいなって」