scene:07 明星の誓い
温かい雨が頬を伝う。
仲村マリナはそう感じて、その瞳を開いた。
しかし視界に広がるのは雨雲ではなく、少し癖のある銀髪を垂らした少女の泣き顔だった。夜が明けるにはまだ遠い朝闇の中で、何か大切なものでも失くしたような顔で涙を流し、目を赤く腫らしている。
思わずその涙を拭おうとして、マリナは自身の腕が無いことを思い出した。
仕方なく、マリナは主人の名を呼ぶことにする。
「エリザ……」
「マリナさん!?」
エリザは名を呼ばれて、驚いたように目を見開いた。どうやらマリナが目を開けた事に気づいていなかったらしい。涙で視界が歪んで、ろくに見えていなかったのだろう。
途端、エリザは胸から上だけしかない魂魄人形の身体を抱きしめる。
「良かった……、良かったぁ……」
「あぁ」
エリザの肩に顎を乗せる形となったマリナは、頭だけを傾けてエリザの頬に自分の顔を寄せた。すると頬にエリザが流した涙が沁みるのを感じる。そこでようやくマリナは、先ほどの雨粒が少女の涙だったのだと悟った。
どうやらだいぶ心配させてしまったらしい。
「わりぃ……ちょっと失敗した」
「――いいの。こうして戻ってきてくれたんだから」
壊れた人形を抱きしめて泣きじゃくり、嗚咽を漏らすたびに身体を震わせるエリザに、貴族としての威厳はない。
今、マリナを抱きしめているのは、ただの少女だ。
苦笑して、マリナはエリザへ問う。
「いいのか? 領民が見てるぞ」
「いいのよ、そんなの。……今は、いいの」
そう、エリザが微笑む気配がした。
――しかし、マリナにはよく事情が飲み込めなかった。
どうしてエリザベートという少女はこれほど泣いているのだろう。自分がリチャードを殺しきれなかったのは確かにミスだし、上手く行くかどうか心配もしただろう。だがここまで泣くようなことだろうか。
これではまるで、オレを心配していたような――
そこで気づく。
「なるほど、流石だ」
「――?」
マリナが発した言葉に、エリザが不思議そうな声を漏らす。
何をとぼけているのだろう、とマリナは眉をひそめる。少し考えて『もしかしたら誉められたいのだろうか』と結論づけた。
ならば仕方ない。わざわざ指摘するような事でもないが、主人の功績を誉めるのもメイドの務めだろう。
そう考えて、マリナはエリザが泣いている理由を指摘する。
「こうして使用人を心配する姿を見せることで、領民に『心優しい領主』という印象を与えて信用を得るんだろう? ――上手い手だ。強さを見せるだけでは損得と恐怖で縛ることになるが、情を示すことで民草の心を惹きつけることができる」
「……え?」
「流石だエリザ。お前は良い領主になるぞ」
「…………」
そう言うと、マリナを抱きしめている腕がフルフルと震え始めた。どうやら誉められて嬉しいらしい。だがそんな身体を震わせるほどの事だろうか。もしかしたら誉められ慣れていないのかもしれない。
そうマリナが苦笑していると、ふとエリザが口を開いた。
「マリナさんの――」
「ん?」
「バカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!!!」
エリザの叫び声と共に、マリナの身体は思い切り泥交じりの地面に叩きつけられる。
思わずマリナは「ぐは、」と痛みに呻く。いきなり何をする、と言おうと見上げれば、泣き腫らした顔のまま憤怒の形相を浮かべるエリザの顔があった。立ち上がって拳を握り、先ほどまでとは違った意味で身体を震わせている。
よく分からないが、何かに怒っているらしい。
「マリナさん、貴女って……貴女って人はぁッ!
どうしてそこまで――、そこまで自分を――!」
「ま、待てエリザ。何をそんなに怒って」
と、
「おいおい」
横合いから第三者の声がかけられた。
「折角目を覚ましたのに、それじゃまた死んじまうぞ」
そう苦笑しているのは、羊飼いの格好をした魔導士――ダリウスだった。
羊飼いの杖で肩を叩きながら、二人の様子を呆れたような表情で眺めている。
途端、エリザはそっぽを向いて口を閉ざしてしまった。恥ずかしい所を見られたが逃げるのもそれはそれで恥ずかしい。そんな感じだ。ダリウスはエリザに声をかけたようだったが、エリザは完全に無視をする構えである。
これでは主人の性格が悪いみたいではないか。
マリナは慌てて表情を引き締めて、ダリウスへ声をかける。
「ダリウス様? いつこちらへ?」
「……この状況で見栄を張るのか。ある意味すげえ奴だな、お前」
「メイドですので」
「ははっ――そうかい」
マリナの答えが、なんらかの琴線に触れたらしく、ダリウスは小さく笑う。
それから、隣で憮然としているエリザを見やり、
「ま、公女さんに感謝するんだな。お前、あと少しで本当に死んでたんだぞ?」
「――そうなのですか?」
魂魄人形となり、魂だけの存在になった自分が死ぬというイメージが湧かない。何しろ、頭と胸だけになっても、まだ生きているのだ。
だが「意外と甘いな、あんた」とダリウスは苦笑する。
「言っとくが、魂魄人形は蓄魔石だけで生きているわけじゃない。蓄魔石を核にして、人間の魂を人型に成型し直してるんだ。魂魄人形の身体を破壊されるってのは、魂を破壊されるのと同義。こんだけ破壊されたら普通は意味消失してただの魔力に還元されるんだよ。実際、あと少しでそうなる所だった」
「はあ」よく分からないが、幽霊が成仏するようなものだろうか。「なら、私はどうして生きているのです?」
その問いに、ダリウスは呆れたように「だから公女さんのお陰だよ」と答える。
「蓄魔石は無事だったから、そこから公女さんの個魔力を大量に流し込んで、欠けた魂を疑似的に補填した。公女さんはお前の契約者だからな。ある程度、魂の情報を共有してるから何とかなった。じゃなきゃ今ごろアンタは冥界の渦に飲み込まれてただろうさ。
――ま、それをお膳立てしたのは俺だからな。俺にも感謝しとけ」
「左様ですか、ありがとうございます」
「テキトーだな、おい」
どうやら、再びエリザに命を助けられていたらしい。
怒っている理由はよく判らないが、礼は言わねばならないだろう。
そっぽを向いているエリザへと、エリザは顔を向ける。
「エリザ――ありがとう」
「……いいです。生きて、帰ってきてくれたから」
そっぽを向いたままだったが、その声は元の優しいものだった。
「だけどよ。本当、奇跡だと思うぜ、実際」
地面に転がったままのマリナを見下ろして、ダリウスが笑う。
「普通はあれだけバラバラにされたら、蓄魔石が残っていようが、根幹魔導式が無事だろうが、メイドさんの存在を定義するあらゆる要素が欠け落ちて、精神や意識を形成できないはずなんだ。
それでも目を覚ましたって事は――――よほど一途な魂だったんだろうな。
誰かさんの為にありたいっていう、そんな在り方の魂だったんだ」
そこまで言って、ダリウスはそっぽを向いて憮然としているエリザへと呆れたような声をかけた。
「だからな、公女さん。そろそろ許してやれよ」
「……そうですね」
呟いて、そっぽを向いていたエリザは、目元の涙をゴシゴシと拭いてから地面に転がったマリナを見下ろす。そして膝をつき、地面に転がされたマリナの身体を抱きかかえて立ち上がった。よく分からないが、許されたらしい。
エリザに抱きかかえられたマリナは、ようやく周囲の状況を見ることができた。
雷に焼かれた地面、あちこちにばら撒かれた薬莢と劣化ウラン弾の破片、無残に抉られ掘り返された町へと続くあぜ道。夜明け前の暗闇の中では細かい所までは見えないが、きっと絨毯爆撃でも受けたような有様に違いない。
と、マリナはそこにあるべきものが無いことに気づいた。
マリナとエリザが倒した、騎士の姿だ。
「リチャードは――?」
「生きてます」
そのエリザの答えに、マリナは思わず「嘘だろ?」と返す。
だが隣に立つダリウスが「いや本当だ」と答えた。
「騎士の生命力は脳髄が少し欠けたくらいじゃ死なねえよ。今は城の地下室に閉じ込めてある。――ま、騎士甲冑剥いで、服の下に仕込んでた魔導器具の類も全部とっぱらったから逃げられることは無いだろう」
言って、ダリウスは懐からじゃらじゃらと首飾りやら腕輪やらを取り出した。恐らくそれがリチャードが身につけていた魔導器具というやつなのだろう。
「こいつは協力した報酬として貰ってくぜ。もうエッドフォード家には戻れねえから、金は幾らあっても足りねえし」
その口調は、どこか話を切り上げようとする意図が感じられた。
つまり、もうここを去るのだろう。
マリナは首を動かし、ダリウスへと顔を向ける。
「これからどちらへ?」
「そんなこと、貴族様とそのメイドには言えねえよ。俺はこれでも『憂国士族団』の一人なんでね。貴族は敵なんだよ」
そう言うダリウスの顔は、憎たらしい言葉とは対照的に笑っていた。
「んじゃまあ、行くわ。仲間が待ってるしな」
魔杖を軽く振って、ダリウスは魔導式を展開させる。撫でるような風が吹き、ふわりとその身体が宙に浮かび上がった。
そのまま上昇し――「ああ、そうだ一つだけ」と、何かを思い出したようにマリナ達を見下ろす。
「暫くの間、王都には近づかないことだ。
――じゃあな、バカ娘ども!」
言って、今度こそダリウスは飛び去ってしまう。朝陽が昇る前の暗い空へと、魔獣使いの姿が滲んで消えた。あちらには森がある。恐らくそこで『憂国士族団』の仲間と落ち合うのだろう。
それを待っていたかのように――ザリ、と。
背後から近づく足音があった。
「公女様」
振り返ると、そこに居たのはシュヴァルツァーだった。その後ろにはエンゲルスを含めた商会職員達もいる。皆、何かを掘り返すつもりなのか、肩にスコップやツルハシを担いでいた。
「ちょっくら町に行ってくるわ」
「今から、ですか?」
エリザは眉をひそめた。夜が明けるまでにはまだ少し時間がある。こんな朝早くから何をしに行こうと言うのか。
シュヴァルツァーは「いやまあ」と、頭をポリポリと掻いて、
「……知り合いをあんまり瓦礫の下に閉じ込めておきたくなくてな。もしかしたら生きてる奴もいるかもしれんし」
「そう……ですね。城で受け入れられるよう、準備しておきます」
「助かる。カヴォスが残って色々やってるから、手伝ってやってくれ」
そう笑って、シュヴァルツァーはエンゲルスや他の商会職員を連れて、町へと降りていった。
ふと、周囲を見渡せば他にも町へと降りていく人が何人もいた。その数は多くは無い。城内に残っている領民も沢山いる。だが、こうして町へ降りていくからには、恐らく彼らの身内に逃げ遅れた者がいるのだろう。【断罪式】に巻き込まれて生き残れたとは思えないが、それでも諦めきれないのだ。
「マリナさん」
彼らの姿を見送るエリザの横顔は、悲しみに歪んでいた。
「どうした?」
「わたし、やっぱりあんな顔は見たくないです。もう二度と、あんな辛い思いを、誰にもして欲しくない」
「…………」
「でも、わからないんです。どうしたらいいのか」
エリザは遠く、【断罪式】によって破壊された町を見ている。
「今までは領地を取り戻せば、良い領主になればいいと思っていました。
――けど、それだけじゃ足りない。全然足りないんですよね。
わたしは、これからどうしたら――――」
沈黙が流れた。
エリザの願いとは『万人の幸せ』だ。それを見ることがエリザベートという少女の欲望であり、自分自身の手でそれを成すのが喜びだという。
マリナは思考を巡らし――そして、思いついた事を口にする。
「じゃあ、世界でも征服するか?」
「え?」
「誰にも悲しんで欲しくないんだろ?
言ってたじゃねえか。人の笑顔を見るのが好きだって。
不幸になりたいと泣き喚いても、その意思をねじ曲げて無理矢理にでも幸せにしてやるって。
それをするには世界を征服して、片っ端から幸せにしてくしか無いんじゃね?」
「本気――ですか?」
「いや、冗談だ」
「……ちょっと、マリナさん?」
「けどよ、やるとしたらそれ位のことを考えなくちゃなんねえだろ」
エリザの言っている事は、それだけ大それたことなのだ。不可能と言ってもいい。馬鹿げたこと。普段のマリナなら、一笑に付すところだ。
だが、今はその『馬鹿げたこと』を真面目に考えても良い。
マリナはその理由を説明する。
「エリザ――オレの居た世界では、エリザの言うような事はまず不可能だった。人間がお互いに理解し合うなんて不可能だし、尊重するだけでも難しい。別に悪いことばかりじゃねえし、たまには良い事もあったけどよ。……そもそも個人の幸せは一人一人違うからな、いつかは齟齬が生まれて誰かが不幸になっちまう。人間が人間である限り、世界全てを幸せにするのは無理だった」
思い起こされるのは、かつての世界の記憶だ。
市民ゲリラとして多くの兵士を殺し、自分たちが戦い続ける為に守るべき同胞にまで苦難を強いた。そんなロクデモナイ世界。もちろん、マリナが見た事のある世界などごく一部だ。探せば理想郷のような場所もあったのだろう。
けれどそれらは、どこか遠くの人間の犠牲で成り立っている。当然のことだ。
――しかし、
「けどさ、この世界は違うかもしれねえだろ?」
ここは、あの『ニッポン』ではない。
「この世界にはエリザがいる。
オレもいる。
本当なら町の人間が皆殺しだったところを、全員じゃねえけど半分以上は助けた。魔法を使う奴も、化け物みたいな強さの騎士も倒した。これって割と、スゲェことだと思うんだよ」
そこから先を口にするべきか、マリナは少しだけ悩む。
それは夢であり、希望であり、望みだった。
そうであれば良いという願望だ。なんの根拠も無い。仲村マリナという少女は、そういった希望的観測を嫌い、ただ現実を積み重ねることを良しとしてきた人間だった。
出来もしない事を口にして、変に期待させるのはマリナの主義に合わない。
――けどまあ、たまにはイイか。
この異世界に来る事になったのも、夢を願ったのがキッカケだ。
ただの願望を、事実のように口にしたい時もある。
「ひょっとすると、
目に映る全ての人間を幸せにする方法を見つける事だって、
そんな世界を作ることだって、出来るんじゃねえか?
――オレと、お前なら」
言ってマリナが見上げると、そこには目を丸くしたエリザの顔があった。
そして、
「マリナさん」
「ん?」
「貴女は、いつもわたしに希望を与えてくれるのね。
まるで夜明けを告げる明星のよう……」
エリザは抱きかかえるマリナを見下ろして、そう笑った。
マリナもつられて笑う。
「明星? 妙な言い回しだな」
「その魂魄人形の身体が入っていた棺桶に明星の印が描かれていたの。だから」
「なるほど」
「――見て、マリナさん」
エリザが顔を上げ、遠くへと視線を飛ばした。
「明星が見える……もうすぐ夜が明けるわ」
言われて、マリナも東の空へと視線を向ける。
見ればガルバディア山脈の向こうが白み始めており、その隅にポツンと輝く星があった。いわゆる『明けの明星』というやつだろう。そんな話をかつての世界で誰かが話していたのをマリナは思い出す。
「――?」
ふと、自分自身の思考に違和感を覚えた。
だが不思議なことなど何もない。太陽が東の空から昇ろうとしており、反対側の空では月が沈みゆこうとしている。明星――つまり金星は太陽の近くに現れるものだから、明け方に見えるのなら東の空にあるのが正しい。
そう、いつもの朝である。
――元の世界で散々見てきたものと、まったく同じ夜明けだ。
「どういう、ことだ?」
「マリナさん?」
マリナの口から漏れた言葉に、エリザが不思議そうな声を返す。
だが、マリナにはエリザの言葉に応える余裕はなかった。
どういうことだ。
ここは異世界ではなかったのか?
もちろん人間が暮らしている以上、太陽と月があるのはおかしくない。というかどんな世界だろうと太陽が無ければ人間は生きていけないのだから、人間がいる以上は太陽もあるのだろう。衛星たる月があっても、それは別に構わない。この世界が惑星なのであれば、太陽系と同じように他にも惑星があっても良いだろう。
だが――その形状や衛星軌道まで同じというのは、果たしてあり得るのだろうか?
「エリザ、この世界は――」
そう問いかけようとしたマリナは、急に周囲が暗くなったことに気づいた。
それが地面に落ちた影だと気づいて、マリナとエリザは空を見上げる。
そこにあったのは、山のように巨大な鳥だった。
西側の空から現れた巨鳥が、二人に影を落としている。嘴から尾羽までは数百メートルはあるだろう。広げた翼は、下手をすればチェルノートの町を半分は覆いつくせそうなほど大きい。
だが、よく見れば朝陽を受けて輝くその身体は平坦で、なにか硬質なもので出来ていた。巨鳥の身体を覆っているのは羽ではなく、木材だ。
つまり生き物ではない。
――人工物。
「――シュラコシア、」
その声はエリザのものだった。
つられてマリナは主人の顔を見やる。
エリザの視線は巨鳥へと釘付けになっているが、そこに驚きはない。あるのは困惑の表情。
どうやらエリザはあれが何なのか知っているらしい。
エリザが巨鳥の影を見上げて呟く。
「シュラクシアーナの航天船が、どうして」
【第4話へつづく】