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マキは栗色の長い髪をきっちりお団子に結い、シミひとつない白いシャツに、黒の膝丈スカート。鏡の前で一回りし、自分の姿を確認して白いエプロンを身に付け台所へ向かう。
綾小路家は名家に相応しいお屋敷に住んでいる。食堂は3つあるが、そのうちの一つが朝食用の食堂である。朝食は家族皆で家庭の味を味わいたいということで、料理人ではなく家政婦が作ることになっている。朝食用の食堂はさほど広くなく、小さいころに子供たちが描いた絵などが飾ってある一般家庭の食卓のような雰囲気だ。
今日の朝食は祖母多恵がよく作っていたものにしようとマキは準備する。
味噌汁はワカメに豆腐、豆腐は木綿豆腐でないといけない。次はひじき、ひじきはゴマ油で香り付けし赤貝と一緒に煮詰める。最後は卵焼き、卵は出汁を入れて中心はトロトロに仕上げる、味付けは甘すぎず薄味にする。
ご飯が炊き上がり、味噌汁とおかずをお皿に盛る。マキはスカートから懐中時計を取り出し時間を確認する。現在、7時30分。綾小路家の人々が集まる時間である。
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「いや〜、一時はどうなることかと思ったけど、朝はやっぱり多恵さんの味噌汁じゃないと1日が始まらなくて、マキちゃんには無理言ってすまなかったな。」
当主である弘忠はマキの作った朝ごはんを掻き込むように食べている。そんなに祖母、多恵の味が恋しかったのかとマキは嬉しくなる。
「ホントによかったわ〜。私が作っても誰も食べてくれなくてお母さん寂しかったのよ〜。」
妻の麻衣子の料理の腕を知っているマキは御愁傷様にと旦那様を見る。奥さまの手料理を食べてから偏食家になったのだ。奥さまは何を作られたのか…。
「マキちゃん可愛くなったよね。ご飯も可愛い子が作ってるからいつもより美味しい!」
「兄さん、人妻にちょっかい出さないでよ。」
「人妻っていい響きだよね〜。」
「兄さん!!」
調子がいい忠仁を美夜子が釘を指す。
「マキちゃん。わたくしのお弁当作ってくれた?わたしマキちゃんが来るの楽しみにしてたの。」
菜々子はキラキラした目でご飯を頬張りながらしゃべる。
綾小路家の食卓は少々騒がしい。
「旦那様、ご飯はゆっくり食べて下さい。奥さまは料理は禁止にしていたはずです。忠仁さん、美夜子さんは兄妹喧嘩しないこと。菜々子さんにはちゃんとお弁当ご準備していますから、ご飯を頬張りながらしゃべらないこと。」
にっこり笑いながらマキは小言を言う姿は祖母多恵にそっくりである。
マキはご家族が朝食を食べ終わると食器を片付ける。綾小路家にはたくさんの専属使用人がいるので一般の家政婦のように掃除、洗濯をする必要はない。
マキはエプロンをはずし台所を出て、屋敷の敷地内にある矢島家へ顔を出すと昔馴染みの顔がある。
「瞬くん、おはよう。今日からよろしくね。」
「マキちゃん、わぁ本当に働いてる!」
瞬と呼ばれた青年はマキと共にこの屋敷で育った一人で、現在は運転手をしている。使用人は矢島家縁の者が多いので、下の名前で呼ぶのが常である。
「買い物に行きたいの。車出してくれる?旦那様に買い物へは必ず車で行くように言われてるの。ちょっとそこの商店街までなんだけど大袈裟よね。」
「いや、マキちゃん遠慮しなくていいよ。旦那様の言うとおり車出すから、いつでも声かけて。」
瞬は旦那様の意思を汲み取りマキが遠慮しないように明るく言う。マキは綾小路家の見目麗しい人々に囲まれて自分を平凡だと思っている節があるが、綾小路家にひけをとらないほどに美人である。色素の薄い栗色の髪、白い肌、大きな瞳にぷっくりした赤い唇。小柄だが出るところは出ていて、幼いころから美少女で有名だった。
そんなマキの夫もマキにベタぼれで有名で、ちょっとでもマキが危ない目にあったのなら、旦那様まで文句を言いに行くに違いない。そんな事態は避けなければいけないと瞬は思っていた。
商店街へ買い物をし、台所へ戻ると明日の下ごしらえを行う。懐中時計の時刻は11時。奥さまの来客がある予定なのでお茶の準備をする。
初夏に合うように料理人が水羊羹を作ってくれたので、合うように新茶を用意する。
お茶を準備し、応接間に持って行きノックしてから静かにお茶を出す。今日のお客様は若い女性のようだ。
「どうして、私と忠仁さんの結婚を認めて下さらないのですか?」
なんと若い女性は忠仁の恋人のようである。しかし、忠仁はもっと控えめな女性がタイプだったはず、どう転んでこんな自己主張の塊のような女性と付き合うようになったのかマキは思った。
「あら、やだ。反対なんかしてませんわ。忠仁が結婚をしたい女性を紹介したらね。でも、あなたはご自分が結婚を迫ってるだけでしょう。息子は女性を見ると口説かずにはいれない性格で、貴方のように本気にして結婚を迫る女性がたくさん来るのよ。香山の令嬢ともあろう人がこのように騒ぎ立てるものではありませんよ。」
奥さまはコロコロと笑い飛ばしながら、新茶を飲む。さすがは生粋のお姫様。成金の香山とは格が違う。
「マキちゃん、お客様はお帰りになるから昼食は一緒に食べましょうね。」
暗に帰れと促す奥さまに香山の令嬢は激怒する。出されたお茶を奥さまにかけようとする。瞬時にマキは奥さまを庇い、腕にお茶がかかる。
「きゃあ!大丈夫マキちゃん?」
奥さまは顔が青ざめ、マキを心配しながら矢島家筆頭の執事を呼ぶ。
「なっ何よ!奥さまが私を蔑ろにするのが悪いのよ。それにちょっとたかが使用人にお茶がかかったくらいで大袈裟よ。」
「たかが使用人ですって?マキちゃんは大切な預かりものなのよ。マキちゃんにお茶をかけて香山はただで済むと思わないことね。」
事の重大さを分かっていない香山の令嬢に奥さまは普段のほのぼのした性格からは想像できないような張りつめた声を出す。
「奥さま、私は大丈夫です。香山様は直ちにお帰り願います。」
マキは大事になる前に香山の令嬢を追い返そうとする。しかし、香山の令嬢はさらに激怒する。
「使用人の分際で私に意見する気なの!」
怒りで冷静な判断が出来ていない様子でマキに向かって平手打ちをしようとする。マキが避けようとする前に令嬢の手を背の高い男性が掴む。令嬢が後ろを振り返ると長めの髪を後ろで緩く結び、彫りが深く海外モデルのように綺麗な顔立ちの男性が顔を歪め令嬢を睨んでいた。
「春?あなたどうしているの?帰ってくるのは明日だったわよね。」
マキが名前を呼ぶと、途端にニコニコと笑顔になって令嬢の手を外し、マキを抱き寄せる。
「マキ〜。会いたかったよ。愛しのハニー。早く顔が見たくて1日早く帰ってきたよ。綾小路家に寄って執事と話してたら、奥さまの叫ぶ声がしたので僕も駆けつけたんだけど、どうしてマキが濡れてて、平手打ちされそうになってるの?」
ニコニコと笑っているが、目の奥にはマキを傷つけようとした令嬢に対する苛立ちがゆらゆらと見える。
「ちょっと、あなた誰なの?急に現れて!使用人に抱きつくなんて恥ずかしくないの?」
空気を読めない令嬢は春に対して傲慢な物言いをする。冷静な判断が出来るのであれば、春が一般人とは違うと気づくはずである。フルオーダーの100万円はくだらないスーツに、爪の先まで手入れが行き届き、他者を圧倒するオーラ。
「この春・エドワード・ローランドの妻を使用人だと?」
「ローランド?まさかあのローランドカンパニーの?」
マキ・ローランド。妻を溺愛する夫が日本のみならず、世界屈指のローランドカンパニーの総裁の息子で顔も頭も良いいが妻を害するものを許さないという若干ヤンデレな夫がいるのが珠に傷である。