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カスミソウ

作者: 鈴雲ミキ

 楽しかったモノが気付いた瞬間に苦しいモノに変わってしまう。

 気付かなかった頃には戻れないから、気付かなかった頃と変わらないように、何も感じていないように過ごす。

 俺には4つ離れた兄貴がいた。

 勉強も運動も、何をやらせてもなんでもそつなくできた兄。それが、両親を含めた周りからの評価だった。

 俺からしても確かになんでも出来る兄貴だった。一つ欠点を言うなら寡黙という点だけだろう。

 受け答えに対しても最低限しかせず、人の気持ちなんてものを察することも出来ない。

 完璧な兄貴を好ましく思う女子は兄貴の周りだけじゃなく俺の周りにもいた。

 クラスメイトからの評価を毎日のように聞かされる。鬱陶しさとちょっとした優越感。

 誇りに思っていた。

 なんでも出来る兄貴を格好良いと思っていた。いつか俺もあんな風になりたいと思っていた。

 幼い頃から兄貴と遊んでいた。遊んでもらっていたという方が正しかったのだろうが。いつも兄貴と一緒だった。

 小学校に入ってもそれは変わらなかった。

 そして俺たち兄弟の中に新しい人間が増えた。

 俺たちの家の隣に引っ越して来た女の子。

 丁度兄貴と同い年の可愛い子だった。

「はじめまして、しかのなつみです」

 栗色の髪をした小さな女の子。引っ越しの挨拶だからなのかクラスの女子達とは違い、それなりにオシャレをしている。

 一目惚れだったんだと思う。

 話しかける時、変に上擦いた声になってしまった。

「に、にいみはると!」

 名前を言った後にすぐ兄貴が紹介する。

「あにきのにいみこういち」

 そんな下っ足らずな三人の出会いだった。

 鹿野夏海、兄貴と同い年でクラスメイトになった女の子。

 俺はいつの頃からか“お姉ちゃん”と慕うようになっていた。姉さんも俺の事を“弟”のように可愛がってくれていた。

「お姉ちゃんお姉ちゃん!遊ぼう!」

 俺は家が隣という事で毎日のように遊びに行った。もちろん兄貴も一緒に。

 兄貴も率先して遊びに参加する事は無かったモノの、俺が引っ張って行けば一緒に遊んでくれた。

 俺が小学校の中学年になると兄貴たちは制服を着るようになり、別の学校で遊ぶようになった。

 兄貴からはまるで“大人”のような雰囲気を感じ、接点もあまり持たなくなっていった。

 姉さんも週末には遊んではくれるものの、中学校での付き合いや勉強からか、格段に会う事は無くなった。

 俺は小学4年生になったあたりから浮いたヤツという立ち位置に着く事になっていった。

 “大人”である兄貴や姉さんとの接点は小さいながらも俺に影響を及ぼし同い年の人間を子供のように思ってしまうようになり、兄貴を見習って優秀な成績を取っているあたりでクラスの人間からは誰とも話す事がなくなった。

 それでも兄貴や姉さんと遊べる週末がなによりも大事だった。

 毎日が過ぎていくのがとても早く感じていた。週末を待ち望み、クリスマスなんかよりよっぽど楽しいと感じていた。


 兄貴と姉さんが付き合うまでは。




 時間が経ち、春、俺は大学生になっていた。

 大学3年という人生を左右するであろう大事な時期をただ無為に過ごしていた。

 やりたい事がある訳でも、やらなくてはいけない事がある訳でもない。

 高校でも、特にやりたい事が見つけられなかった。大学受験でたまたま受かったというだけで入った私立の経済学部。

 周りの人間はなにかに一生懸命になっている。サークルや恋愛、仕事などその様は今の俺からしたら眩しいくらいに。

 今までを振り返っても、俺の基準は“あの二人”だった。あの二人がいる道をただただついて行っていただけだった。

 特に俺がなりたいものなんて何もない。

 大学に入ってからもただただ無作為に時間を使っているだけだ。

「に、新見君!」

 その言葉に反応し声のあった方を向く。

 そこには高校時代に知り合った羽田美琴がいた。

「本日はお日柄もよく、新見君に会えたのもまた何かしらの神様のお導きではないかと思っている所存です。はい」

「……なにかようか?」

 彼女―――羽田は同い年であり、同級生でもあるのだが誰に対しても敬語を使って会話をする。他の人間に対してはそれほどアホな発言はしていないように感じるのだが。

「えっとですね!今日これからお昼食べに行こうかと思うんですけど、よかったらご一緒に食事を共にしたいな~と思っておりまして」

「日本語を習い直せ。飯に付き合えって言えば済む話だろ」

「いや、それがやはりそういうのは中々ド直球で言うのはかなりの覚悟が必要でして」

「……学食だろ?行くぞ」

 整った顔立ちをしている羽田は、俯いてしまいながらも先に進んだ俺の後をしっかりとついてくる。

 高校に通っている間、学校で会話したのは羽田が9割を占めるだろう。

 大学に入ってからも何人かとは“友人”になったが羽田との交友の方が密接である事は間違いないだろう。

 キャンパスはそれなりに広く、施設は幾つかに分かれている。学食があるのは経済学部が入っている7号館から離れており、一度屋外に出なければいけない。

「いつも思いますけど、渡り廊下的なサムシングを付けて欲しいです。雨の日とか大惨事ですよ」

「そうだな」

「新見君は何を食べるんですか?」

「日替わり」

「じゃあ私も同じのにします」

 俺から会話を振る事はあまり無く、ほとんどは羽田からの質問に俺が淡々と答えるという事の繰り返しが多い。

 学食に着くと別の生徒達がチラホラと座っており、あまり席に余裕はない。

「私席取っておくので、お昼一緒に持ってきてくれませんか?」

「わかった」

 大きめのお盆を二つを持つというのは些か難しいのだが、役割分担をした手前従うしかない。

 券売機で日替わりというボタンを2回押す。

 券2枚を手にもう一度並び、配膳されるまでを待つ。

 一瞬テーブルなどが並んでいる方に目をやると、羽田は何人かのグループに話しかけられていた。

 誘われているという事で間違いないらしく、そのグループが占拠しているテーブルには1人分のスペースがある様に見える。

 混みあっている食堂では2人分の座席を取るよりも別々に座って食事を取った方が効率的なのは明白である。

 配膳をしてくれるおばさんに券を2枚渡してしばらくすると日替わり定食が2つお盆に載せられた。

 なんとか溢さないように先程羽田が話していたグループの方に近寄り羽田にお盆を手渡す。

「ほら」

「あ、すいません!まだ席取れてなくて……」

「いいよ。そこで混ぜてもらえ。俺は適当に空いてる所で食べるから」

 羽田が受け取ってからさっさと移動する。下手に知らない人間に話しかけられるのも面倒というものだ。

 食堂を少しだけ回り、一か所だけ空いている席を見つけてすぐに座る。

 ようやく食事にありつける。

 すこしだけ冷めてしまった日替わり定食(唐揚げ)を食べ始める。


 食事を終えて、午後の授業に出席をする。

 事務局の人間が持ってくるハンディタイプのICカードリーダーに学生証を翳す事によってその授業を出席した事になるシステムを採用しているこの大学では、しばしばカードを字してから退室するという学生が横行している。

 出欠の確認が楽になったという事にはなるがやはりそういう人間が出てきた対応策が考えられていない事がネックである。

 自分の学生証を翳してから適当な席に座る。

 本来は2教室分を使っての大規模な授業であるが、それでも大半の席は埋まる筈だが、今日はかなりの空席が見られる。

 仲の良いグループなのだろう、それが教室後方を陣取って会話をしている。

 授業を受けにきたというよりも単位が欲しいという理由で授業を取る学生というのは必ずしもいる。

「隣良いですか?」

 3人机の端に座り、真ん中の席に荷物を置いていた俺に話しかけてきたのは羽田だった。

「そっちが空いてるだろ」

 3人机の反対側の端を指す。そちらには荷物は置いておらず、真ん中ではわざわざ荷物をどかすのは面倒である。

 それでも少し不機嫌な顔をしている羽田は強引に荷物をどかしにかかる。

「いいからお話したい事があるので、失礼します!」

 俺のリュックサックを掴み、一番遠い席に移動させ、真ん中の席に強引に座る。

「おい。筆記用具が出せないだろ」

「それよりも大事なお話があります!さっき私を置いて行きましたよね!?」

「……知り合いだろ。それにあれだけ混んでるんだから別々に食べた方が効率的だ」

「お昼ご一緒にって言ったじゃないですか!」

「混んでたんだから仕方ないだろ。それに別に約束をしてたわけでもないんだからな」

「そうですけど!そうなんですけど!一緒に食べた方がいつもよりおいしく感じたりするじゃないですか」

「誰かと一緒に飯を食べて味が変わってたまるか。それに知り合いが一緒だったんだろ?なら別に問題なんてないだろ」

 段々面倒くさくなってきた。

「新見君と、一緒に、食べたかったんです!」

「そうかよ。なら今度は一緒に食うから、さっさと筆記用具を取ってくれ」

「むう、なんだか話を切り上げられた気分ですが、まあいいでしょう」

 離れ離れになっていたリュックサックを取り戻し、中に入っている筆箱を取り出す。

 下手な約束をしてしまった気がするが、とりあえず授業を受けなければいけない。


 授業が終わり、真っ直ぐ家に帰る。住宅街に並んでいる一軒家のうちの一つが我が家である。

 家の前まで行き、鍵穴に鍵を入れ解錠する。玄関を開ける。

 誰もいない真っ暗な家。

 明かりをつけて靴を脱ぐ。

 そのまま階段を上り、自室に入ってから荷物を置いてリビングに行く。

 両親は仕事で夜遅くまで帰ってくる事はなく、兄貴もいない。

 喉の渇きを潤す為に冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。適当なグラスに注ぎ、それを一息に飲み干す。

 ゴクゴクという自分の喉を鳴らしながら飲み終えると、再び静寂が戻ってくる。

 金曜の夜のこの時間帯はいつも1人でいる事が多い。

 だが、金曜の夜はいつも1人では無い。

 テレビを付けて適当にチャンネルを回しながら時間を潰す。面白くも無いバラエティや興味の無いニュース、歌って踊っているアイドルの名前もグループの名前も思い出せない。

 無趣味というのは時間を潰すという事ができないというのが難点である。

 本を読むという気分でもなく、料理を作る技術もない。それに―――


 ピンポーン


 毎週金曜の20時30分になるインターホン。

 その音を聞いた瞬間、すぐに座っていた椅子から立ち上がり、玄関まで移動する。

 ガチャという音を立てて扉を開けると、そこには栗色の髪をした女性が立っている。

「おじゃましま~す」

「……いつもどうも」

 鹿野夏海。俺と兄貴の幼馴染でお隣さんだ。

 兄貴の婚約者で、今は幼稚園の先生をしている。

 毎週金曜は1人きりの夕飯になってしまう俺を心配して作りに来てくれている。

 本人も面倒なのでは?と思い聞いてみる。

「いつも思うけど姉さん暇なの?」

「暇なんかじゃないよ。子供1人1人のレポートも書かなきゃいけないし、親御さん相手相手も色々と苦労させられるし、来週なんて遠足だから準備とかで凄い忙しいよ。これ冷蔵庫に運んで」

 そう言って渡して来たエコバックにはタッパーに入れられた謎の食材や野菜などが入っている。姉さんはサンダルを脱いでリビングに向かう。

「なら別にわざわざ毎週来なくてもいいよ。カップ麺かコンビニ飯あたりでも買ってくればいいんだし」

「どうせお昼とかはそんなのばっかりで栄養の事なんて何も考えてないんでしょ」

「そういう事を学校側も考えての定食なんだよ。サラダもついてくる」

 姉さんは会話をしながらもキッチンに立ち、手を洗っている。

「というか最近のコンビニ飯は意外と健康に気を使ってるし」

「はぁ~。ハルがさっさとお料理上手な彼女でも作ってくれれば、万事解決になるのになぁ」

「だから面倒なら来なくてもいいって」

「ウソウソ。弟の為に料理を作るのはお姉ちゃん冥利に尽きるって」

 おそらく全国の血の繋がった姉弟にはありえないであろう発言である。

「何作るの?」

「野菜たっぷりの焼きそば」


「彼女とか作らないの?」

「そういう話題好きだよね、姉さん」

 いつも食べ終わると、大学についてや就活について聞いた後にこの話になる。

「いつも言ってるけど、特に予定はないよ」

「勿体ない。せっかく大学に通ってるんだから彼女の1人でも作れば良いのに」

「そんなホイホイ作れれば苦労はしないだろ。俺も周りも」

 彼女を作らないのではなく、できないという方が世間一般では正しい。

 姉さんに関しては高校時代には兄貴と付き合っていたし、大学でもその関係は続き、卒業してからは婚約までしてしまったほどである。

「気になってる子とかいないわけ?」

「前にも話しただろ。いないよ」

 自嘲気味に言ってみるものの、姉さんはこの話題から離れようとしない。

「羽田さんって子は?前に会った時は明らかに緊張してた様な感じだったけど」

「そりゃ男の家に来れば緊張もするだろ。それよりもっと別の話題にしない?」

 いい加減この話題は疲れる。




 八月になった。

 ミーンミーンと鳴く五月蠅い蝉に睡眠不足で弱っている頭を刺激されて気分が悪くなっている中、更に気分が悪くなる試験期間という文字。

 切り抜ければ天国、失敗すれば補習という名の地獄が待っている。

 未だ補習という悲惨な結果にはなった事が無いモノの、油断していれば落ちるのが大学である。

 基本的に出席をして毎回のミニレポートや課題をこなしていれば問題は無い筈だが。

「ヤバ気なの?」

 夏休みという事で暇になったのか、昼から我が家に入り浸っている姉さん。

「暇なの?」

「忙しいって。明後日から預かり保育だから備品の整理だとか予定表組まなきゃいけなかったりとかで大忙しだよ」

「ならなんで家にいるんだよ。っていうか預かり保育ってなに?」

 ちなみに預かり保育は1日2日幼稚園で子供たちを預かって、お泊り会をする。みたいなものであるらしい。

「たまには昼間から来ようかなって思ってさ。ついでにお掃除をしに」

「そりゃどうも」

「ハルの部屋もやるからね。見られたくない物とかあったら厳重に仕舞っておいた方がいいよ」

「あっそ。俺これから授業だから、戸締りよろしく」

 そう言って自宅の鍵を渡しておく。

「終わったらポストに入れとくなりしといて」

「は~い」

 軽い返事が聞こえるも、そのままリュックサックを背負って大学に向かう。

「兄貴、行ってきます」

 帰ってこない返事。わかっていた事だが少しだけ物悲しい。

「行ってらっしゃい」

 逆に明るく送り出してくれる姉さんはそんな寂しさを吹き飛ばしてくれる。

 玄関を開けて、そのまま家を出る。


 ミーンミーン


 甲高く耳障りな鳴き声と燦々と降り注ぐ陽。

 拷問のようにも感じるこの真夏日に授業があるというのはどういった嫌がらせなのか。

 自宅から駅まで歩いただけでも額に汗が浮かぶ。

 電車の中はそれこそ地獄絵図のようになっていることだろう。

 姉さんもいる事だしさっさと試験を終えて帰らなければ姉さんに悪いだろう。


 今日から試験期間ということで、普段は少ないはずの人口密度は倍になっている。

 お昼時の食堂のように、座れる席を探すのも一苦労である。本来3人机として使われていても、カンニング予防のために真ん中の席は使用禁止ということになっている。

 がやがやとした喧騒の中、自分の座る席を探す。

「新見君、ここどうですか?偶然にも空席でして」

 話しかけてきたのは羽田だった。

 荷物を置いて別の人間が座れないように席を確保していたように見えたのだが。

「誰か来るんじゃないのか?」

「ささ、どうぞどうぞ」

 質問には答えずになおも勧めてくる。周りを見てもほとんど埋まってしまっている。または羽田のように荷物を置いて席を確保している連中がいる。

「じゃあ、遠慮なく」

「勉強してきました?」

「少しだけな。自信はない」

 試験前になるとお決まりの内容の会話。自分がどれだけやってきたか、相手がどれだけ準備をしてきたかを聞く行為ではあるが、必要性がわからない。

 誰かがやっていないということを知って自分を安心させるくらいなら、勉強して対応できるという安心感に浸った方が幾分マシだろう。

「やっぱり他の講義に比べえ難しくないですか?」

 ミクロ経済学。

 経済学を学ぶ上で重要になるものである。選択必修だったので遅ればせながら単位稼ぎとして受けている。

 当たり前のことだが、やはり経済学に興味のない人間からするとさして面白いとは思えないものである。

「何がそんなに楽しそうなんだ?」

 隣でニコニコとしている羽田を見て、疑問に思う。

「ずいぶん余裕なんだな。ノートを見返すくらいはしといた方がいいんじゃないのか?」

「余裕なんかじゃないですよ。ただ何事も楽しいと感じてなければ人生つまらないですよ」

 彼女が、辛いことも苦しかったことも経験したことがない、そう思えてしまう。


 本来90分という時間を使っての授業なのだが、試験は90分もかからずに終わってしまう。そのため早く終わらせた人間は早めに退出をしてもいいという権利を得る。もちろんギリギリまで粘ることも許されるのだが、経済学とは基本的に覚えていなければ諦める以外の選択肢がない。なので早めに退出している人間はほとんどが“終わった”人間だけである。

「新見君ずいぶん早かったですね」

 早々に退出してしまった俺に比べて、最後まで粘っていた羽田はそんな言葉を投げかける。

「わからない問題とわかる問題なんてはっきりしてるからな。わかる問題だけ解いてさっさと提出して終わり」

「時間ギリギリまで粘れば、ふと思い出すことがあるかもしれませんよ」

「そんな希望的観測のために貴重な時間を割けるか」

「なんとその甲斐あり、15番の答えを思い出せました!」

 誇らしそうに言う羽田はまるで子供のように見えた。

「今日新見君予定はありますか?よかったらささやかな打ち上げでも行ったりしませんか?」

「行かない。明日も試験あるし。全部終わったら付き合うよ」

「そうですか。残念です」

 荷物をまとめてさっさと帰路につく。


「あれ?おかえり~。早かったね」

 リビングに掃除機をかけていた姉さんの挨拶を聞いて、少しだけ呆れる。

「ただいま。まだいたんだね」

 試験の時間がおよそ90分。学校への往復の時間を合計すると3時間以上である。

 その間ずっと掃除を続けていたのだろうか。

「念入りにやっているってことだよ。お掃除」

「お茶でも入れる?」

「うん。貰おうかな」

 グラスを2つ用意し、冷蔵庫から麦茶を取り出す。自分の分と姉さんの分を用意して、テーブルに置く。

「そういえば試験どうだったの?」

「難しかったけど半分以上は埋めてあるから、問題無いと思う」

「そう」

 淡々とした会話。最近はロクに会話が続かない事がよくあるように思える。それはやはり―――

「そういえば姉さんってさ、兄貴以外に人を好きになった事ってあるの?」

「なに?藪から棒に」

「いつも俺ばっかり聞かれてるから、たまには姉さんにも聞いて見ようかなって」

 話題転換ではあるが、興味があったモノである事は事実だ。

 10年以上の付き合いであっても、コレに関しては流石に聞いた事のない話題であるのは確かだった。

「う~ん。たぶん無いと思うよ。一目惚れだったし」

 一目惚れ。

 初めて会ったその時、姉さんも兄貴に一目惚れしていたのか。初めて会ったその時から俺には勝ち目なんて無かったのか。

 俺が姉さんに一目惚れした事も事実ではある。だがそれは所詮片想いでしかなかったのだ。

 兄貴が当時姉さんの事をどう思っていたのかは分からないが、姉さんがその時既に兄貴の事を好きだったのだと、今にして知る事になるとは思わなかった。

「雰囲気からしてクラスの男の子達とは全然違ったしね」

「確かに物静かではあったけど……」

「そういうんじゃないんだけど。まぁ、格好良かったんだよ」

 顔を少しだけ赤くしてしまっている姉さんはまるで俺よりも年下の女の子のように見えた。

「そう考えると何を持って人を好きになるんだろうな」

 姉弟ではないが、お互いに一目惚れ―――第一印象で決めているあたり、似た者同士という事になるのだろうか。

 というよりただの面食いである。

「さあね。人それぞれじゃないの?」

「ふ~ん」

「それよりハル。お盆休みは空いてる?」

「……そりゃ当たり前だろ」

「じゃあ、一緒に出掛けよ」

 唐突に変わった話。それは単なる約束のようでいて、それ以上のものである。

「わかった」

 試験もお盆前には全て終了している事だろう。再試ということにならなければ問題なく夏休みに突入できるというものだ。

 兄貴がいないのに2人で出掛けるというのはどうかと思うのだが、お盆休みくらいなら大目に見てくれるだろう。


 2人きりでの外出と言っても、デートなどではない。

 熱い陽射しを浴びながらやってきたのは、楽しい雰囲気とは無縁の場所。

 お寺までやってきた俺達2人は、花を用意し、線香を持ってきている。

 2人とも、一言も話さないまま目的の墓の目の前にやってくる。

 新見家之墓。

 そう刻まれた墓石の前に立つ。周りの墓石よりも幾分綺麗なそれはまだ月日が立っていない事を示している。

 姉さんが花をやり、俺はその間に線香に火を付ける。

 好きにはなれないこの匂いを嗅いで、それを線香皿に載せる。

 まだ1年しか経っていないからか、やっぱり少しだけ泣きそうになる。

 自分の中では折り合いを付けてきたように思えるモノの、未だに生きていた時を思ってしまう。

「ひさしぶり。兄貴」




 兄貴は姉さんのどこが好きで付き合い始めたんだろう。

 もしかしたら兄貴も一目惚れ、なんて事は無いと思うけど。

 でも、人を好きになるのはほとんどが顔で選んでるんじゃないのかな?そう思う時がある。ただ一緒にいるだけで、誰かの事を好きになる事なんてあるとは思えないんだ。

 劇的な事や、初めて会った時に全てが決まると思う。

 理由なんて全て後付けで、誰かを好きだってわかった瞬間に、顔が熱くなるし、心臓の鼓動は聞こえるほど大きくなる。

 ぼーっとする頭で考えて初めてそれが恋だと分る。

 姉さんを好きになったのも初めて会った時。

 俺にとっては劇的な事で、何年も片想いを続けていた。

 でも、姉さんと兄貴は付き合い始めた。

 それまで一緒にいた楽しかった時間も記憶も全てが一転して苦しいモノになった。

 息をする事ができなくなり、ただただ1人きりで窒息しそうになるのを抑え込もうとしてた。

 幸せそうな2人の姿はそれだけで胸を貫き、瞼の裏に刻まれる。

 嫉妬に駆られそうになった事もある。どうにかしたいと思った事もある。

 それでも、兄貴の冷静と寡黙を真似て生きてきたお陰なのか、すぐに現実に引き戻される。

 無駄に賢い頭はすぐに諦め、2人の姿をなるべく直視することをしなくなっていった。

 大学に入り、逆に2人は大学を卒業して就職し、しばらくしてから婚約した。

 感覚は麻痺し何が楽しいのかも理解できなくなっていった。

 毎週金曜にやってくる楽しげな姉さん。

 いつもと変わらないものの、少しだけ口数の多くなる兄貴。

 苦痛だった。

 もはや楽しかったと思えていた記憶までもが色褪せて、何を感じていたのか、何をしていたのかも思いだせず、思い出す事もなくなった。

 そして、大学2年の春に兄貴は死んだ。

 交通事故という名の悲劇。

 不注意や不運、色々な要素が絡まり合い起きてしまった出来事。

 兄貴との幸せな生活を想像していた姉さんは一瞬にして一人ぼっちになってしまった。俺もたった1人の兄弟を無くした痛みに、姉さんを慰める言葉もかける事は出来なかった。

 そして、1年が過ぎても俺達は1歩も踏み出す事がないまま無為に時間だけが過ぎてしまった。




 ある日、羽田に呼び出された。

 既に夏休みに入っている為、遊びの誘いだと思って出掛けた。用件も何も言わずに場所と時間だけを指定したメール。

『大学の最寄り駅に6時に来てください。』

 そんな内容のメール。

 何かしらの裏がありそうなそのメールの時間と場所に行ってみると羽田はいなかった。

 しばらく時間を潰しているとまたもやメールが入る。

『すみません!電車が遅延してて遅れます!』

 なんなんだよ。

 呼び出しておいて遅れるというのは珍しくも無いのだが、自分が警戒していた筈なのに間抜けなメールを見てしまうと気が抜けてしまう。

 夏休みという事で人通りが多い駅、加えて西日が差しこんでくる駅前に立っているのはそれなりに汗を掻く。

 駅にはどんどん人が溢れるくらいの人間が押し寄せてくる。

 駅に辿り着いた時点で浴衣を着た人間を何人か見ているので予想はついていた。

 今日は花火大会がある。

 なぜ大会などという大それた名前を使っているのかは疑問だが、おそらく羽田の目的も花火を見る事だろう。

 既に6時20分。混んでいるという事を加味すると遅れてくるのは仕方が無い様に思えてくる。

 そしてしばらくすると羽田がやってきた。

 彼女もまた浴衣姿という普段は目にする事はない格好をしている。

「す、すみません!人が多すぎちゃって」

「まぁ、花火大会だからな。見に行くんだろ?花火」

「もちろんです。江戸っ子は花火と聞けば心が躍るのです」

「残念がら江戸っ子じゃないもんでな」

 親はどちらも学生時代に上京してきた人間達だ。それに今や江戸っ子なんてあってないようなモノだろう。

「それより花火見られるのか?こう人が多いと場所取りとかは大変なんじゃないのか?」

「実はこの近くで親戚が働いていましてですね、そこの仕事場の屋上から綺麗に見えるそうなんですよ」

 ドラマや映画などでは良く聞く話だが実際にそんな場所様な穴場スポットがあったのか。

「親戚って仕事は良いのか?」

「美容師をしているんですけど、どっちかというと花火が始まる頃にはお暇になるらしくて」

 浴衣だったり髪を結ったりというのは確かに花火が始まったら必要のないモノになるだろうな。

「じゃあ、ぼちぼち行くか」

「飲み物とか買って行きましょうね」

 カランカランという音と共に俺たちは花火を見に行く事になった。


「で?花火を見に行って、告白されたの?」

「面白がってんだろ」

 最後の花火が打ち上げられ、色とりどりに散ったあとに言われた言葉。

 薄々感づいてはいたし、わざわざ一緒に花火を見たのだから告白をするという事があっても不思議ではないのだが、不意に言われた言葉はやはり心を揺らすには十分だった。

 情けない事に返事は明日という事になっている。

 自分の様な人間が一丁前に考え込まなければいけないという状況になるとは思っても見なかった。

「羽田さんでしょ?付き合えば?特に断る理由なんて無いんだし」

 軽いノリで言ってくる姉さん。

 姉さんは、俺の気持ちを分っているのだろうか。

 本当は悩んでなんていないんだ。もう何年も前から俺は彼女の事が好きだった。いつも一緒にいた気がする。気付けば近くで笑っていて、一緒に笑った。

 彼女といる時だけが俺の楽しい時間なんだ。

 高校で知り合った、あの誰にでも丁寧に話す、いつも一生懸命な―――。

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