ベス
香織が玄関先で大泣きしている。へたり込むように座り込んで、立ち尽くす俺の服をつかんで顔を真っ赤にしてわんわんと泣いている。
普段から小学校ではリーダー顔で、姉さんぶって背伸びしてる香織が。
俺と一緒にゲームしてるのに、一人だけ「しっかりしてる」なんていわれる香織が。
正体なく泣いていて、どうすればいいか困り果ててしまった。
「そんなに泣くなよ」
「だって、だってうぇえええ」
「なにも永遠の別れってわけじゃないんだから」
「分かってるけどでもおおおお」
おばさんは困ったような半笑いで俺と香織を見守っていた。
香織は、隣町にある頭のいい中高一貫学園に進学する。中学から別々ということで、入学直前に挨拶に向かわされたのだが。
「うぇえええーええ」
このざまである。
こういうのって何て言うんだ。
号泣か。
へんなことを考えながら、なんとか励まそうと声をかけ続ける。
「またすぐ会うから。すぐ会いにくるから」
「うん、うん」
ところが、まあ別に引っ越すわけじゃないんだから、すぐ会える。
約束どおり翌週遊びに行くと、大泣きした気恥ずかしさからか、香織はひどくよそよそしい。普通に接していたら距離も埋まるかと思ったが、俺も向こうも、部活や新しい友人関係でだんだん疎遠になっていった。幼馴染なんてそんなものだ。
ただ、大泣きする彼女を慰めているうちに、俺は心の中で少し変わったことがあった。
学校で姉御ぶって仕切ってた香織はもういない。
えばってふんぞり返ってる彼女の背中を、中学で見ることはない。
困ったときに嬉々として首を突っ込んでくるお節介はもういない。
だから、俺がしっかりしないといけないんだな、って。
「人は笑顔が一番かっこいいんだ」
それは彼女の言葉であり、なにかのアニメの言葉だった。香織のリーダーシップも、結局のところアニメの真似事が最初だ。きっかけなんてそんなものでいいんだと思う。
しっかりしないと、と思ったものの、なにをすればいいのか分からなかった。俺はなんとも困って首をひねっていた。
だもんで、かあちゃんに聞いてみた。
「かあちゃん。俺、しっかりするにはどうしたらいいかな?」
「しっかり勉強して、部活して、あとよく家事を手伝いなさい」
「えー、めんど。かあちゃんが楽したいだけじゃねーのソレ」
「その『めんど』ってのがしっかりしてないってことなの」
なるほど、と思った。
そういえば、香織とよく一緒に観たアニメでも「助け合いましょう」とかやっていた。香織が言うのはアニメかゲームの引用だ。そういうもんか、と軽く思った。
まあ、そういうもんだろう。
人類は、歴史的に助け合って社会を作ってきたんだ。そう思うと、香織に聞いても同じことを答える気がしてきた。なるほど。
なんか、しっかりしてる感じがする。
そうと決まれば、「めんど」を捨ててしっかりやろう。
そんなことを思っていたある日、大荷物でおっちらよっちら横断歩道を歩いているおばあさんとすれ違った。
遅い。
どう見たって間に合う速度じゃない。
渡り終えてから振り返ると、おばあさんはまだ半分も渡っていない。
よし来た、と思った。
「おばあさん、手伝いますよ」
「ふぇ?」
驚くおばあさんに笑顔を向けて、荷物を取っておばあさんの手を取った。
「さあ急いで。信号が変わってしまいます」
「あ、あああ」
急かしたけどあんまり早くなってくれない。遅い。重い。
こりゃいかん。
引っ張ろうとしたけど、おばあさんの枯れ枝みたいな腕に力は全然なくて、おまけにプルプル震えている。おっかない。強く引っ張ったら倒れそうだ。
ちょっと赤信号にケツが出たけどなんとか渡り終えた。
「ありがとう、もういいよ。すぐ近くだから。しっかりした子だねえ」
「いえいえ、このくらい当たり前のことです」
当たり前なもんか、と自分でも思った。
こんなんやってるやつはじめて見たぞ。それが自分だからびっくりだ。
おばあさんはニコニコ嬉しそうに笑って、会釈をしてゆらゆら去っていった。心なしか足取りが軽い。
家まで送るまでしなくてよさそうだ、と振り返った視界の先で、赤信号が偉そうに俺を労っている。また信号を待たなければならない。
「あー………………めんど」
言ってから、しまった、と口を塞いだ。
とはいえ、しっかり、とはこういうもんかと分かったのは儲けものだ。
とりあえず、積極的に乗り出すことにした。
まあ、もちろん余計なお世話で断られることもあったわけだが、へこへこと礼をしながらやっていく。学校でボランティアを募集してるときもとりあえずやってみたし、行事の実行委員なんかも人がいないときは立候補してみた。
基本的に「めんど」を封じて、なんでも頼まれごとを積極的にこなしていくようにした。
面倒なので、人目につかない仕事はノンビリやったりもしたが、口には出さなかったからセーフだ。
その代わりに、頑張る理由を聞かれたら「当たり前のことだ」と答えるようにした。口走った言葉の惰性なわけだが、たいていは褒められる。なので、俺のキメ台詞はこれで行こうと決意した。
そんなことをやっていたら、ある日、クラスで可愛い子に言われたのだ。
「高峰くんって、すごいね」
うっひょう、と思った。
「ボランティアとかいろいろやってるんでしょ? すごいよね。推薦とか狙ってるの?」
「いやいや……別にそういう点数稼ぎとかじゃないんだ。当たり前のことをしているだけさ」
「へー、すごいねえ」
可愛い子は感心したようにうなずいて笑った。
うっひょう、と思った。
なるほど、どうやら俺はしっかりできていたらしい。
ひょっとしたらひょっとするぞ、とにやにやして、見せられた顔じゃなかった。
よし。もっとしっかりしよう。
なおのこと頑張って、いつの間にか学級委員なんか任されたりした。さすがに、生徒会はやらなかった。小論文が鬼門過ぎた。そのうちに別の内申狙いがかっさらったので、俺の席がなくなった。
まあ、そんなものさ。内申点数というものがある。
なあなあに仕事を詰めて、部活して、帰ったらゲームをして、忙しい中学生活を送っていく毎日だ。
その可愛い子に目を送ったりしていたが、さすがにアプローチはできなかった。恥ずかしいだろやっぱ。
仕事も多かったし、暇な時間は友達と馬鹿をやる貴重な時間だったから。
しかし、ある日、やっぱり言われたのだ。
「高峰くんって、すごいよね」
うっひょう。
緩みそうな頬をこらえていると、
「そうそう。ボランティアとかホントにやってんのな。なかなかできることじゃねーよ」
誰だコイツは。
横から割り込んできた他のクラスのチャラい男が、訳知り顔でうなずいている。
なんだコイツは。しかめそうな顔を一線でこらえる。可愛い子と妙に距離が近い。なんだコイツは。
「昨日、二人で一緒に街を歩いてたら、お前本当にゴミ拾いやってただろ。すげーよな」
なんだと?
「普通できることじゃないよね。あたしたちなんてずっと遊んでるのに」
思わず、ばれないように気をつけながら二人を見てしまう。これはどういうことだ? 二人で街を歩いてた? いつも遊んでる? いつも? 二人で?
「お前、学校行事でもいつも頑張ってるもんな。応援してるぞ」
チャラ男が缶コーラを軽い感じで手渡してきた。よく冷えている。買ってきたばかりのようだ。膨れ上がっている感じもない。
可愛い子は小さく手を振って、チャラ男について教室を出て行っている。近い。あれは、あの距離は。
あれは――「恋人の距離」だ。
コーラを一気飲みしたら、予想以上に炭酸がきつくて涙が出た。コカコーラ社さんが丹精籠めて詰めた二酸化炭素を舐めちゃいかん。他人の金で呑むコーラだと思うとなおさら美味い。ちくしょう、コーラさん、むかつくくらい甘いよ。
なんなんだよ。
ボランティア仲間でもないのにねぎらってコーラくれるなんて、そんないいヤツ、はじめて見たぞ。
そんなわけで、俺は気づいてしまったわけだ。
「当たり前のことですから」
そんなわきゃあなかったのである。
すごくなるつもりも、必要もなかった。俺はただ、しっかりしたかっただけなんだ。
いや、がっかりすることじゃあないんだろうが、俺はなにか、ひどい肩透かしを食らった気分になった。
そう、例えば内申点稼ぎの生徒会長のように、「並み居る生徒とは一味違うすごい俺」を目指していたんなら、すごい生徒になれたほうが嬉しいだろう。
でも、俺は「並み居る生徒ベス」くらいになりたかっただけなんだ。「並み居る生徒ベス」が「キング生徒」と同じくらい強いって、それはバランスが崩壊している。
つまり、がっかりしてしまったのだ。
なんだ、特別って、別に特別じゃないんだなって。
そりゃあ、あれだ。
なんか、つまらん。
俺は、だから、なんともよく分からんのだが……並み居る生徒ベスを増やしたいと思うようになったわけだ。
ベスベス言ってなんだか分からなくなってきたけど。
みんな、もっとしっかりすればいい。できるはずだ。思った以上にしっかりしたらしい俺は、そっちの方向にしっかりするようにシフトした。
やってみろよ、と声をかけて。背中を叩いて。さあ踏み出せ。面倒くさがんな。しっかり立て。大丈夫。
お前も、ベスまでもうすぐだ。
なんか数年前の作品が「執筆中」に残ってたので、蔵出しです。
今も書き味は遜色ありませんが、運びかたが違う気がしますね。