その恋の終わらせ方
勢いだけで書いてしまった。
さらっと楽しんでいただければ。
込み合った電車から降りたとたんに、すり抜ける風に首をすくめ、コートの襟を掻き合わせた。
僕はプラットホームを人の波をかき分けるように歩く。
目の端に先日降った雪の塊がまだ、線路の脇に少し残っていて、それがわずかに光っているように見えた。
ふと視線とあげると街路樹のイルミネーションが二月になって、ハートのモチーフにかわったことに気付く、なんとも言えない気持ちになって、小さく息を吐く。
いつもと変わらない通勤路。
向かう真っ暗なアパートには誰もいない。
駅からアパートの道の途中にあるコンビニで食料を調達して、風呂に入って寝る。
変りばえのない毎日の繰り返し。
下りの階段でぶつかったのは、急ぎ足の男性。「すみません」小さな声と会釈に返事をする前に、目の前から消えていく。
少し立ち止まった僕を避けていく人の波、その波の中に、ふわりと揺れた白いショール。
それは珍しくないものだろう。
細身の彼女を大きく包み、やわらかな曲線を描く。遠目にも温かそうに見える。歩くたびに左右に揺れる栗色の髪、小さな頭。振り返れば、黒目がちの瞳に、長いまつげ、ちいさな鼻と同じように小さなでも、ふっくらとした唇があることを僕は知っている。
自分が送ったショールを彼女がまだ、身に着けていることに、心が残っているのでは?とわずかに思ってしまうのは、自分自身に心が残っているからだろうか。
その背中はすぐに人に紛れ、見えなくなってしまう。
追いかけろとどこかで聞こえる。
しかし、追いかけても見つからない。
追いかけてどうするんだ。
どうすることもできない。
そんな答えが一瞬のうちにはじき出されて、僕の足は動かない。
ただ、彼女との思い出だけが、浮かび上がり、胸が苦しくなる。
――あの時、彼女の言葉を聞いていたら。
――あの時、彼女にもう一度、連絡していたら。
そんな、情けないことばかりが心を締め付けていく。
僕は、自分の情けなさに息を吐いてから、歩き始めた。
アパートの階段を上ると、自宅の家の前に誰かがうずくまっていた。
僕は足を止める。その誰かは僕に気が付いたようで、パッと顔をあげて、こちらを向いた。
「兄ちゃん!おっそいよ!」
頭のおかしい妹の麗那だ。この寒風吹き荒れる二月の極寒の夜に連絡もなしに、実兄の住むアパート前にいる。しかも、ふわふわのムートンブーツから伸びる足は、薄いストッキングのみで、上半身もあり得ないくらいに薄着だ。
立ち上がり、駆け寄ってきたその頬は赤くなっている。
「何やってんだ。連絡もなしに」
「連絡しようと思ったんだけど、スマホの充電切れちゃって。それに、兄ちゃんは絶対帰ってくるじゃん?」
「……」
言い返すことなどできない。ぐうの根も出ない僕を促し、我が物顔で、アパートに上がり込む。
慣れた様子で、僕のクローゼットをあさり、着替えをみつけだすと、さっさと風呂に入ってしまう。
「なんなんだよ」
麗那はおそらく、母親か父親と喧嘩でもして、家を飛び出してきたのだろう。
よくあることだった。年の離れた妹を可愛く思わないわけではないが、都合がよすぎる自分の首をひねってしまう。
そんなことを思いながら、入り浸る娘に見かねた母親が用意した布団が敷けるように、部屋をかたずづけている。
「兄ちゃん、ありがとう。ほんとに助かった」
風呂で温まり、頬を紅潮させ、自分のスエットを当たり前のように着ている麗那にため息しか出ない。
「で?どうしたんだよ?また母さんと喧嘩でもしたのか?」
「もう、ほんとにお母さんって、なんでも頭ごなしにまだ早い、だめって、そればっかりで、なんにもわかってないの!もう、今は昭和じゃないの!平成なの!」
「んだよ、そんな説明でわかるか」
「麗那ね、彼氏ができたんだぁ、えへへ」
「……」
母親の言う通りだろう。
この考えなしの無計画の麗那に彼氏。それは心配どころではないだろう。
「兄ちゃんだって、彼女くらいいるでしょ!」
「……」
「ごめんごめん、いたでしょだね。まえの彼女にフラれてから、彼女まだできてないんだってね。でも、お兄ちゃん、結構イケメンだし、やさしいし、すぐに彼女できると思ってたけど、全然だね。もう、二年になるんじゃない?」
なぜ、この兄の恋愛事情をこの妹がしっかりと把握しているのか、それはここに入り浸ることが多いからだ。
「そんなこと、いいの!この前、兄ちゃん、お母さんからの電話で、麗那のこと家に来てないって言ったでしょ?!」
確かに、先週末に珍しく母親から連絡があり、『麗那はそっちにいるか』と聞かれ、正直に来ていないと話した。
「おう」
「んもう!ちゃんと来てるって言ってよぉ!ほんとに気が利かないんだから」
何の連絡もなしに、アリバイ作りに協力できるほど、器用でないことは妹の麗那も十分にわかっているだろうが、連絡をし忘れているという事実は抜け落ちているのだろう。
「それで、ママにたっくんのこと、バレちゃって、怒られたんだからぁ」
「知るか!」
「もう、兄ちゃんのせいだからね!責任感じてよ!麗那も高校生で、十七歳だし、結婚だってできちゃうんだから。それにたっくんのことほんとにスキなんだからっ」
この国の法律は十八歳での女性の婚姻を認めているが、妹の精神年齢が低すぎて、ため息しか出ない。
仕方がないのかもしれない。
僕と妹は10歳も年が離れている。しかも女の子である、両親は麗那をひどく可愛がったし、僕も甘やかした自覚はある。僕や父より幾分早く、甘やかしていることに危機感を持った母親が、麗那に口うるさくなった時には、すでに遅かった印象だ。
さらに困ったことに、可愛らしい顔立ちをしている。目はぱっちりとしているし、小柄で細く、化粧をすると高校生とは思えない。そして、この馬鹿さを天真爛漫と好意的に感じる男は一定数いるだろう。
妹が可愛くてうらやましいなと、同級生に言われたことがあるが、この麗那を女として、見ることは断じてない。姉や妹の恋愛小説や漫画は、はやり二次元だ。
生まれた時から知っているのだ、これは父性といっても差し支えない。
とにかく、腹を満たそうとコンビニの弁当を食べようと、袋を探したが、見当たらない。
麗那がさっきから食べている弁当が、自分の買ってきたものであることに気が付いた時には、半分以上が麗那の腹におさまっていた。
「麗那ね、たっくんのことほんとにスキなんだ。だから、最近になって、兄ちゃんに悪いことしちゃったかなぁって思うことあるんだ。でもね、結局、そんなに兄ちゃんのことスキじゃなかったって、思うの。だって、麗那なら、簡単にあきらめたりしないもん」
割り箸を嚙みながら、麗那は考え込むように、眉間にしわを寄せている。
妹の考えていることはたいていわかるが、思考が飛び過ぎて、ついていけないことは多い。
「なんの話をしてるんだよ」
麗那の弁当を奪いとり(取返し)、僕はテーブルの上に転がっていた、新しい箸をパキリと割った。
麗那にかけられた迷惑は数えることなど、もはやしていない。
残りの弁当をかきこむ、麗那は電子レンジに入れて、温めるという弁当を美味しく食べる工程をすっ飛ばしたらしい。
冷えた弁当は、非常に味気ない。
「ねぇ、兄ちゃん。なんで前の彼女と別れちゃったの?名前なんだっけ……、えと、えみじゃなくて、みかじゃなくて」
「……奈瑠美。全然違うし」
「あれ、そんな名前だった?苗字は?」
「大塚だよ、何でこんなこと。もういいだろ?」
「よくないよ、何でうまくいかなかったのかが、わかんなきゃ、新しい彼女もできないじゃん?それとも、ほしくないの、彼女?もしかして、未練があるの?その奈瑠美さんに?」
「……おまえなぁ、いい加減にしろよ」
「ねぇ、どうしてダメになっちゃったの?浮気でもしたの?兄ちゃんにそんな器用なことができるとは思えないけど」
「浮気なんてするわけないだろう。そうだな、なんだか、うまくいかなくなったんだよ。話しをしてても、一緒にいても、楽しそうじゃなくて、だんだん、わからなくなって。仕事が忙しくなって、そのまま……」
話をしていて、ため息がこぼれた。
別れの言葉はなかった。でも、始まりの言葉もなかったことに気が付いたのは、彼女からの連絡が途絶えて、ずいぶんと経ってからだった。
何となく始まって、何となく終わった。
一緒にいて、気負わなくていい、優しい雰囲気が心地よかった。たいしておかしくない話しをしても、くすくす笑ってくれたし、会話が途絶えても、その沈黙が重くはならず、目が合うだけで、よかった。そんな彼女が僕と一緒にいてくれることが、本当にうれしかった。
真っ白なショールを彼女がほしがっていることは、知っていた。
ショッピングモールを一緒に歩いた時に、そのショールを熱心に眺めていたし、やわらかな手触りをうっとりと楽しんでいた。その価格は普段、僕や彼女が身に着ける物の値段とは桁がちがっていたけど、そのショールを彼女に送りたかった。断ることが目に見えていたから、僕はこっそり買って、彼女の誕生日にプレゼントした。ただ、喜んだ顔が見たくて。
彼女は思った通りに驚いて、少し躊躇して、でも飛び切りの笑顔を見せてくれた。
――ほしいって言ってなかったのにどうしてわかったの?
喜ばせたいから、いつも見ているからわかるよ。そんな本当のことなど言えるわけもなく、僕は笑ってごまかすしかなかった。
でも、その幸せな時間が永遠に続くような気にはならなかった。だから、いつからか、そんな彼女の瞳が不安げに揺れるのをみて、どこかで、やっぱりなと感じた。
何かを言いたそうに、僕を見ていることもあったし、連絡しても返事が来るのは遅く、そして、ひどくそっけなかった。
とうとう、彼女からも連絡が途絶え、僕からも連絡をすることができなくなった。既読のつかないメッセージ。いっそのこと、削除して、ブロックしてしまおうと、アプリを開くけれど、何度もひらくけれど、今もまだ、残っている。
きっとこれを未練たらたらというのだろう。
「ねぇ、兄ちゃん」
僕が思いをはせている間に、麗那は僕の充電器にスマホを差し込み、スイスイと右手を滑らせている。
「明日、ヒマ?てか、ヒマだよね?彼女いないんだし。することなんてないよね」
「なんだよ、急に!」
「何?何があるの?この可愛い妹のお願いより大事なことがあるの?洗濯は用事に入らないから!」
「……用事はない」
洗濯物をかき集めて、洗濯機に入れ、干す。週末の用事らしい用事と言えば、これくらいだ。
ちらりと、上目づかいに僕を見つめる、これは絶対にダメなパターンだ。
このお願いを僕は断れたことがない。
「明日、私に付き合ってね」
妙に弾んだ声で、麗那が言うのを聞いて嫌な予感がした。
次の日、僕は妹の麗那に言われるままに身支度を済ませた。
いつものように、はき慣れたジーンズに、グレーのパーカーを着た僕に、麗那はダメだし。
「何よ!それ!信じらんない。わたしと出かけるのに、そんな部屋でだらだらするときと同じような格好って、ないよ!ほんとにないから!着替えて!」
結局、麗那の言うままに細身の黒いパンツに、ラフなジャケットまで着せられた。正直なところ、麗那と出かけるのに、ここまでする必要を感じないが、こういうところも、甘いのだろう。言われるままだ。妹が喜ぶなら、まぁいいだろう。
何度か行ったことのある、ショッピングモールに向かうように指示され、僕は車を走らせる。
何か買わされるかもしれないと、財布の心配をするが、何とかなると信じたい。最近の高校生はわからないが、自分が高校生の時は、身の丈に合う価格の物を身に着けていた。
妹は並ぶ店舗に、立ち寄ることなく、スマホを片手にすいすいとモールを進んでいく。
「あ、ここだ」
そういうと、チェーン店のコーヒーショップに入っていく。
ささっとオーダーを済ませ、ちょこんと座る。
ここの店に来たかったのだろうか。
そうであれば、ここまでくる必要はない。アパートから、15分ほど歩いたところにある。
麗那の意図が読めずに、首をひねりながら、僕はコーヒーを手に、妹の前に座る。
店の出入り口に背を向けて、妹が座るように指定したことに気が付いたのは、僕の横をすり抜けて、妹の横に座ったのが彼女だったからだ。
「こんにちはー」
「こんにちは」
「すみません、急に呼び出したりして」
えへへと笑う麗那の横に座る彼女の、奈瑠美の顔をぽかんと見てしまったのは、仕方がないことだと思う。
何の前触れもなく、心の準備もなく、突然現れた奈瑠美は、あの時と全く変わらない笑顔を浮かべていた。
「ちょっと、兄ちゃん。しっかりしてよ!」
テーブルの下から麗那の鋭い蹴りが僕のすねに刺さる。
「あ、うん」
「私、兄ちゃんに謝らないと。私、前に奈瑠美さんに会った時、嘘ついたから。私が彼女だって」
「は?」
「アパートの前で兄ちゃんを待ってたら、奈瑠美さんが来て、私が彼女だから、あなたは騙されてるって」
「はぁ?」
僕は突然のことに言葉を失う。そんなありえないことを、その時の奈瑠美は信じたというのだろうか。僕は目の前の奈瑠美をじっと見つめる。
しかし、困ったように笑うだけで、彼女は驚いている様子はない。
「奈瑠美さんは、わかってました?」
「ずいぶんと、後になってからね。その時はわからなかったなぁ。問いただすこともできなくて、軽く聞くこともできなくて、自分の中でグルグルして、好きなぶん、つらくて」
懐かしいって彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
――懐かしい?
その言葉が僕の心に突き刺さる。
彼女の中で僕が完全に済んだことであることを思い知らしめた。
小さな頭に栗色の長い髪、黒目がちの瞳、長いまつげ、小さな鼻、ふっくらとした小さな口、そのどれもがあの時と変わらないのに、彼女の中で、僕のことはすっかり終わっている。
あの頃のままなのは、自分だけなんだと痛感し、心の中の何かがすっと消えてしまったように感じた。
「あぁ、よかった。私のせいで、奈瑠美さんが勘違いして、別れてたら嫌じゃん。もう気になったら、じっとしてられなくて。なんとかしたくなったんだもん」
ほっと大きく息を吐いた麗那は、にっこりと微笑んで、ぐびぐびと甘そうなドリンクを飲んでいる。
「うふふ」
「は?どういうこと?」
「SNSに急にメッセージが着たの。兄ちゃんと付き合ってた奈瑠美さんですか?ってなんのことかわからなかったから、びっくりしちゃった」
どうやら、あの時必死にスマホにかじりついていたのは、奈瑠美に連絡を取っていたらしく、今日会う約束を取り付けたようだ。
その行動力は若さというか、軽率というか、無鉄砲というか。高校生ならではと言わざるを得ない。
麗那の馬鹿さ加減に言葉をなくす。
胸のつかえのとれたらしい麗那は満足そうに、スマホを触っている。
もう用事は済んだと言わんばかりだ。
「はぁ」
「うふふ」
僕はテーブルにうつぶせになる。そんな様子を彼女はおかしそうに笑っている。それもあの頃を思い出す。
僕の胸は麗那の馬鹿さに呆れかえる気持ちが広がったけれど、次の瞬間にキリキリと痛む。
ちらりと見上げると、笑っている彼女がいて、僕の胸にはまだ全然過去になっていない、気持ちがあることをその痛みは教えてくれる。
――あぁ、好きだな
僕は、目の前の彼女に向き合う。
彼女にとって終わったことでも、僕には終わっていない。
諦められない。
なら、もう一度、彼女に付き合ってほしいと言葉にするべきなんじゃないだろうか。
乾いた口を潤すために、僕はコーヒーを手にする。
すると、目の前の彼女も手元のコーヒーを手に取った。
その手に、その指に、僕の目は釘付けになる。
店内の照明を受けて、きらきらと光るそれは、まぎれもない指輪。
左手の薬指ではないけれど、右手の薬指に存在を主張するきらめきの意味が分からないほど、僕は鈍くはない。
もし、僕の大切な人が、元カレに会いに行くといえば、いい気はしないだろう。むしろ不快だ。それでも行くなら、僕のものだという所有印を付けていくことを強要するだろう。
つまりはそういうことだ。彼女に今、好きな人が、大切な人がいないわけがない。
僕の口から、彼女に思いを伝える言葉が出ることはない。
ごくごくと、喉を鳴らして、コーヒーを飲み切った。
その言葉も、思いも飲み込んでしまえればいいと、思って。
誰もが言葉を発しないまま、不思議な沈黙が落ちる。
コーヒーを飲みほした彼女は、コトリとカップを置いた。
「じゃ、行くね」
小さく笑って、席を立った。トレイを手に、彼女の匂いをほのかに残して、僕の脇をすり抜けていく。
その微笑は心をざわざわと揺さぶっていく。
忘れるわけもない、彼女があんな顔をするときは決まって……。
「ねぇ、兄ちゃん、これって、性癖ってやつ?」
「はぁ?」
セイヘキの意味が分からない。僕はスマホを手にしたまま、ひどく冷たい目をしている妹に問う。
「だって、兄ちゃんの考えてることなんて、おでこに書いてあるみたいなもんじゃない。好きなんでしょ?なのに何も言わないって、そういうフェチなわけ?意味わかんない」
「んな、わけがないだろう」
「じゃ、何で何も言わないのよ?!キモイ。マジで、ありえなくない?」
何が嬉しくて、妹にキモイなどと言われなくてはならないのだ。いきなり来て、いきなり彼女を呼び出し、しかも、別れた原因かもしれないといきなり言い出し、謝って……、いや、謝ってない。ものすごく迷惑をかけられているのにも関わらず、この扱いはひどいのではないだろうか。
僕はきっと、この妹にガツンと言ってもいいと思う。
その言葉が口から飛び出る前に、妹は言う。
「ビビってるだけじゃん。怖いんでしょ。フラれるのが怖いんでしょ、思いを伝えて、断られて傷つきたくないんでしょ。それで、ウジウジウジウジ、いつまでたっても忘れられない。連絡する勇気もない。結局、そんな自分に酔ってるんだよ。だから、キモイの!」
目の前が、くらくらする。キモイの理由を聞きたくなかった。
僕はテーブルにがっくりと伏せる。
「行けよ」
妹のいつになく冷たい声が、かかる。でも、僕は動けない。
今から彼女を追いかけても、もう見つからない。ショッピングモールは広大で、週末の人出はとても多い。しかも、彼女の向かった先などわかるはずもない。
奇跡的に、見つかったとして、いったい彼女に何を言えばいいのか。煌めく指輪をした彼女にかける言葉など思いつかない。『幸せに』?そんな心にないことが言えるほど、僕は器用じゃない。心にあることも、言葉にできないくらいなのに。
「さっさと行けよ。すっきりフラれて来なよ!」
ガンと妹の靴が、僕のすねを蹴り上げる。
この想いを彼女に伝えれば、終わらせることができるのだろうか。
確かに、この機会を逃せば、もう二度と彼女に僕は会わないだろう。
きっと、また思うのだろう。
――彼女を追いかけていたら
――彼女に思いを伝えていたら
そう、思うのだろう。
今、行かなくてはダメだ。僕はわかってはいても、足が動かない。しかし、すねをこれ以上蹴られては歩けなくなってしまう。
全身から、勇気を振り絞り、僕は顔をあげて、妹に精一杯に言葉を返す。
「うるせぇ」
僕はトレイを持って立ち上がろうとしたけれど、妹が「私が片づけとく」とトレイを押さえた。その妹の目がわずかに赤くなっている。
「さっさと行って」
妹はまるで、犬でも追い払うように、手を振る。その顔は背けたまま。
僕は少し笑って、コーヒーショップを飛び出した。
右を向いても、左を向いても、たくさんの人が歩いている。
そんな中で、彼女を探すことは不可能かもしれない。
もう、いないかもしれない。
でも、いるかもしれない。見つけられるかもしれない。
僕は必死になって、彼女を探す。
どこにいるだろうか、ぐるぐる回っても、一階も二階も右翼も左翼も探したけれど、彼女の姿は見当たらない。
結局、またコーヒーショップの辺りに戻ってきてしまった。
彼女はどこにいるんだろう。
あんな風に笑うとき、彼女は泣いてしまうんだ。
もしかすると、泣いているかもしれない。でも、どうして泣くのだろうか。僕にはわからないけど、彼女が泣いているなら、そばにいたい。
彼女が人前で泣くことはなくて、いつも我慢をして、笑う。そして、後になって泣くのだ。
目に入ったのは、レストルーム。
人前で泣くことを嫌う彼女なら、レストルームに入ったのかもしれない。
そう思った僕は、レストルームの出入り口をじっと、見つめた。
もう、いないかもしれない。そもそも、そこにはいないかもしれない。
男の僕が中に行って、確かめることは出来なくて、ただ、じっと待っていた。
ハチ公もびっくりだ。
だから、彼女の姿を見つけた時、僕はまるで、待っていた飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってしまったのは、仕方がないことだろう。
「奈瑠美!」
「え?」
目をこぼれそうなほどに、見開いて奈瑠美は、僕を見上げている。
「ど、どうしたの?」
「うん、探した。」
僕の言葉の続きを待つように、奈瑠美は僕を見つめている。黒目がちの瞳が赤い、やっぱり泣いていたのだろう。
「泣いてた?」
「……うん」
僕が勢いに任せて掴んだ彼女の左腕、その手がそっと僕のジャケットを掴んだ。それだけで、僕は嬉しくなってしまう。でも、どこかで、期待させるようなことをする彼女に困ってしまう。
さぁ、この思いを彼女に伝えてしまおう。
そうしてしまわないと、僕はいつまでも彼女を忘れることができない。わかってはいても、言葉はなかなか思いにならなくて、喉の奥から出てこない。
簡単な言葉で終わらせてしまうには、僕の思いは大きくなりすぎていて、それをそのままみせることはやっぱり躊躇する。なるべく簡単に、彼女の負担にならないように。僕が傷ついても、彼女は傷つけたくはないから。
「奈瑠美、君を忘れたことなんてないよ、ずっと。君と連絡を取らなくなったことを後悔してた」
「……」
彼女はじっと僕の瞳を見つめている。その瞳がやっぱり愛おしくて、今この時だけでも、僕に向いてることが嬉しかった。
「僕の思いはもう、届かないってわかってるけど、伝えたかった。ずっと、好きだった」
「好きだった?」
彼女はその気持ちは、終わっているのかと聞いているのだろう。応えは簡単だ。
「……いまでも」
その答えに彼女の瞳は、みるみる涙が溜まっていく。そして消え入りそうな声で言う。
「……私もだよ」
彼女が恥ずかしそうに下を向いてしまう。その言葉の意味をつかみ損ね、僕は呆けた顔をしていたと思う。
「え?で、でもその指輪が……」
僕は彼女の右手を取り、その指にはまっている煌めく指輪を確かめる。すると、困ったように笑う彼女から信じられない言葉が聞こえた。
「い、妹さんが」
「何?どういうこと?」
つまりはこうだ。僕のヘタレを矯正しようと、荒療治に出たと。彼女の持っている指輪をしてきてほしいと頼まれたとのことだ。本当は左の薬指を指定されたそうだが、それは出来なかったと彼女は笑う。
『彼氏がいるってわかってて、告るのってムズイじゃん』といった妹に腹を立ててもいいだろう。
「あ、あいつ!」
「何にも言うなって、口止めされてて。兄ちゃんが何も言わないヘタレなら、新しい男を探したほうがいいって……」
僕があまりのことに、がっくりと崩れ落ちそうになって、そっと、彼女に寄りかかる。
ちょうどいい位置にある、彼女の頭と、耳。僕は首筋に顔をうずめる。彼女の匂いがあの頃のままで、ひどく安心した。
彼女をぎゅっと抱きしめる。
もう二度と離したくない。
「ちょっと、恥ずかしいよ」
レストルームへ入っていく人の視線が刺さっていることに気が付いた僕たちは、慌ててその場を離れた。
その後、妹に一言、いってやらねば、気が済まないと、呼び出したが、公衆の面前で寄り添っている写真をいつの間にか撮られていた。
その画像を見せられ、あまりの恥ずかしさに僕は何も言えなかった。
「てかさ、私に何か買ってあげてもいいと思わない?」
その笑顔が憎らしいのに、まんまとスマフケースを買わされた僕を彼女は笑っていた。
竹内まりやの『駅』を聴いて、思いついた。
昭和歌謡は、名曲ばかり。なにより詩がいいんだよね。