羊の歩み
*
柊さんは言った。わたしを恨んでいるんだと。
「でも今日で許してあげる。だから、少しだけ付き合ってよ」
夜はとっくに更けていて、暗い道をわたしは彼女に手首を掴まれて歩いていた。ゆっくりとして、それでも迷いのないその足取りに、引っ張られる。抵抗しようとしているのに、振り払えない。
ねえ、サツキちゃんはさ、聞いた事ある? 学校の七不思議。トイレの花子さんとか、動き出す人体模型とか、そういうの。我らが五中にはもちろんそんなものはないけど、結局の所、誰かの夢の話なんじゃないかって思うの。夢なら怖くないって思う? でも夢ってさ、醒めるまで現実だよ。
これは山木さんに聞いた話なんだけど、五中には七つじゃなくて一つだけ、噂話があるんだって。真夜中の屋上に行った人は、狂って死んじゃうんだってさ。え? うん、不思議な話だよね。実際、死んじゃった人なんて一人もいないよ。人間って案外逞しいものだから。どんなに綺麗事言ったって、やっぱり自分が可愛いのが本音だしね。まあ私達も、そんな人間の一人だけど。
それでその、噂の発端っていうのが、屋上から飛びおりた生徒なんだって。いじめられっ子が飛びおりた、よく聞く話。ただ、ここからがちょっと変わってるんだけど、その子は幽霊になっていじめっ子達を夜の屋上に連れて行ったんだって。そしたらなんとその日から、いじめっ子達は毎晩体が勝手に屋上に向かうようになっちゃったらしいよ。でもね、逃げ出す方法が一つだけあるの。誰かを身代わりにすることなんだけど。
――え? 夜の屋上になんて入れる訳ない? それがさ、入れちゃうんだよね。どうしてかはわかんないけど。だってほら、見てよサツキちゃん。扉、開いたでしょ?
*
はっと息を飲んだ時には、私は開け放たれた扉の前に立っていた。後ろから凄い力で突き飛ばされて前に倒れ込む。慌てて起き上がり振り返るけれど、扉はもう閉ざされていた。
誰かの笑い声が聞こえる。遠くから聞こえるようで、耳元で囁かれているようで、鼓膜の内側で響いているような、声がする。
扉には鍵が掛かっていた。震えが止まらない握りこぶしで何度も叩くけれど、びくともしない。私は浅い呼吸を繰り返した。おかしい。おかしい。おかしい。おかしいおかしいおかしい。
「――君、はじめて?」
手の感覚がなくなりそうになった時、右側から声がした。
暗闇の中に立っていたのは丸山くんだった。小学生の頃に数回同じクラスになったことがある。どうしてこんな所に丸山くんがいるんだろう。――こんなところ? そうだ、ここは。
私は恐る恐る眼球を動かした。目は私のものじゃないみたいに重たくて、少し動かすだけで神経が軋む。
見えるのは、広がるコンクリートと、その先にある吸い込まれそうな漆黒だけ。
ひゅう、と喉が鳴った。
「もう、時間がないな」
丸山くんの声変わりしたての声はがちゃがちゃして、壊れてるみたいだった。彼は私に背を向けて、歩き出す。私は誰かに首を掴まれた感覚がして、前のめりにその後ろをついていく。
笑い声がぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる聞こえている。
丸山くんが足を止める。その横に私も並ぶ。コンクリートはそこで終わっていた。
そうだ、ここは私の通う第五中学校の屋上だ。だからこのつま先の下にある暗闇は――。
いつの間にか私と丸山くん以外にも人が増えていた。全員が横に並んで、暗闇を見つめている。
私達は闇に吸い寄せられて、足を踏み出す。足先は空を切る。全身が竦み上がる。息が出来ずに、悲鳴も出ない。笑い声が聞こえる。落ちている。私の体は放り投げられた人形みたいに、無抵抗に落ちていく。
まず肢体に衝撃があって、それからどん、と鈍い音がして、内臓から熱いものが飛び出してきて、
――ぐちゃ。
私は自室のベッドの上で目を覚ました。呆然と両手を翳し、指先を動かしてみる。
息を吐くと、熱くて吐き気がした。
「ゆめ……」
一体、どこからが夢だったんだろう。
感触が残っている。人が潰れる音が、耳に残っている。
頭まで布団を被っても、もう眠ることは出来なかった。そうしてそのまま学校へ行き、私は丸山くんがもう三ヶ月以上も学校を休んでいることを知った。
また夜が来る。
まともに寝ていない脳は限界を訴えているのに、目をつぶっても眠れない。
体が勝手に起き上がる。パジャマで裸足のまま、ベッドから降りて部屋を出る。階段を降りて廊下を通り、玄関へ。見えない誰かに手首を引かれている。嫌なのに、抵抗できない。
暗がりの町を通り抜けて、私は学校へ向かっている。この町はこんなに暗かっただろうか。こんなに静かだっただろうか。助けを求める相手もどこにもいない。
閉じている筈の校門が開いている。昨日はここを通った記憶すら残っていない。私の破裂しそうな心臓とは裏腹に、足はどんどん前に進んでいく。
行きたくない。口にしたいのに、私は息を吸うばかりで上手く吐き出せない。
辿り着いてしまった屋上には、既にいくつかの人影があった。笑い声が、聞こえる。
「やあ、二回目だね」
気味悪く落ち着いた様子の丸山くんが私に笑いかける。頭がおかしいんじゃない。昨日、彼だって、私と一緒に死んだのに。そこまで考えて、全身の力が抜けてしまった。糸が切れたみたいに手足がだらんとして、へたり込む。
「……そうだ、死んだんだ」
私は昨日、ここで、死んだ。そうだ。死んだ。死んだんだ。
「死なないよ。人間って、案外逞しいもんなんだ。ここで死んだ人は、いない」
丸山くんは私の頭に言葉を落とした。私は手の甲がコンクリートの冷たさを拾い上げるのを感じていた。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「古参だからね、これでも」
「ここから逃げる方法はないの?」
「来てしまったからには、飛びおりるしか方法はない」
愕然とする私に、丸山くんは膝をついて口元を耳朶によせる。
「もうここに来ないで済む方法なら、一つだけある。誰かを身代わりにするんだ」
聞きながら私は、昨日のことを思い出した。私の背中を押したあの手のひらを。
「みが、わり、なんて、そんな」
「うん。僕は絶対に誰かを身代わりになんてしない。この連鎖をここで断ち切るんだ。僕が。僕は誰かを犠牲にしたりしない。僕はそんなことしない。他の誰がしたって僕は絶対絶対絶対ぜったいぜったい」
丸山くんの顔が歪んでいく。胃の奥から吐き出すみたいに笑う声が、高くなって、他の誰かの笑い声と混ざり合って、屋上中いっぱいから沸き上がってくる。
「格好いいだろ、僕」
急に彼はその体躯から一切の感情を消した。曲がった首にぶら下がった頭部が重そうで、虚ろな瞳が私を映す。
私はしきりに頷いた。その首を掴まれる感覚がして、無理矢理立ち上がる。屋上にいる人達がみんな揃って歩き出す。まるで処刑台に送られているみたいだ、と、思った。これから自分がどうなるか、わかっているのに逆らえない。
コンクリートの縁で全員が横に並ぶ。私は足ががくがく震えていた。しきりに聞こえるカチカチという音が、自分の出している音だと気づくのに時間が掛かった。顎が小刻みに震えて、歯が鳴っていた。
「はやくおいで」
深い闇の奥から、無邪気な少女の声が確かに聞こえた。
私は勝手に動き出す足先から目を逸らして横の丸山くんを見た。
「丸山くんは、何回目なの」
彼はぐちゃぐちゃの顔で口角を吊り上げた。
「さあ。少なくとも、百は超えてるんじゃない」
体が傾く。一瞬ふわりと浮き上がったと思うと真っ逆さまに落ちていく。迫ってくる地面に、胃液の味が口内に広がる。ぐちゃ。頭が割れそうな音がして、ああ割れてるんだ。ぺしゃんこになった私の脳の中で、誰かが笑う。
数日も経たないうちに私は布団を被って毎日を過ごすようになった。目を閉じるとあの感覚が蘇るから眠れない。窓もドアも閉め切り、家具を動かしてバリケードを作っても、夜が来れば私は全てをどかしドアを開けて、屋上へ向かってしまう。
夢だ夢のはずなんだ。でももう境目がわからない。何度も何度も死を繰り返しているうちに、私の脳はおかしくなってしまったのかもしれない。そしておかしくなったのは、私だけじゃない。
丸山くんは日に日に狂っていった。話しかけてもまともに反応しなくなり、暗闇を見つめながらただ笑うだけになった。私もいつかこうなってしまうのか。これが私に待っている末路なのか。
発狂しそうな日々の中で、これが何度目かわからなくなった頃、丸山くんは屋上に来なくなった。
彼の言葉が、脳内で反芻される。
――方法なら、一つだけある。誰かを身代わりにするんだ。
私は事実を咀嚼して、内臓の奥から笑いがこみ上げてくるのを感じた。口元を両手で押さえても、あふれ出して止まらない。心の底から可笑しくて仕方なかった。格好いいだろ、だって。ばっかみたい。
いつの間にか屋上にいる人は、全員が入れ替わっていた。そうだよ、当然じゃん。なんて私はばかだったんだろう。私がこんな目に遭う必要なんか、どこにもないのに。
私はずっと、憎い人物を探していた。でもそうだ、誰だっていいんだ。理由なんて小さなことでいい。そうだ、小学生の遠足で私を仲間はずれにした、あの子にしよう。これは天罰なんだ。私より、あの子が受けるのが相応しい。
そこまで思考すると、私の体は嘘みたいに軽くなった。家を出て、少し歩いた先にあるマンションへ。三○五号室のドアを開けてあの子の部屋を探す。奥の部屋のドアを開けると、お目当ての彼女は目を丸くしていた。
「私さ、あなたのこと恨んでるの。でも今日で許してあげる。だから少しだけ、付き合ってよ」
呆然とする彼女の手首を掴んで外に出る。夜の闇に包まれた道を歩きながら、私は堪えきれずに笑った。その声は、ずっと聞こえていたあの笑い声によく似ていた。
「やめてよ、どこいくの、柊さん」
怯えた様子の彼女に、私はいいことを思いついた。屋上へ着くまでの間に、少しお話をしてあげよう。山木さんが私にしたみたいに。
「――ねえ、サツキちゃんはさ、聞いた事ある? 学校の七不思議」
笑い声は、もう聞こえない。