混沌始動⑤
太陽が頂点から降りて、徐々に朱色に染まり始めた無人の校舎。
その校舎のとある1室内に、4人の男女の影があった。
1人は汗だくの状態で激しく呼吸を繰り返しながら、冷たい床の上に埃が体に付着するのも構わず仰向けで寝転がっている茶髪の青年。
そしてその青年を、あどけない笑顔で机の上にうつ伏せになり、両手で顎を支えた状態で実に楽しそうに見下ろす翡翠色の髪と瞳を持った少女。
その2人を窓辺に腰掛け、まるで観察するかのように眺めている、座っていても背が高いと一目で分かる女性。
適当な机の上に書類を広げて手際よく処理する、精気に漲った健康的な肉体を持った初老の男。
傍から見ても何の集まりなのかはさっぱり見当の付かない4人だった。
「惜しかったねぇ」
ニンマリとした笑みのまま、少女が手に持った時計を青年の眼前で振ってみせる。
「あと3分逃げ切れたら、宣告通りそっちの勝ちだったのにね。本当惜しかったよ。凄い逃げっぷりだったね、君!」
「そりゃあ、諜報員に1番に、求められるのは、諜報能力じゃなくて、情報を持ち帰る逃げ足、だからねえ……」
「そうなの? その割には、他の人たちは君ほど凄くなかったけど」
「伊達に、現地の隊長を、勤めてねえし……」
幾分呼吸が落ち着いたのか、上体を起こして一息つく。
「つうか、どの道遊ばれてたんだから、あと3分なんて関係ないっしょ。それに仮に1時間逃げ切ったとしても、本当に見逃してくれる保障なんてどこにもねえし」
「いやいや、ちゃんと見逃してたよ。それが学園長とも交わした約束だったしね」
少女が視線を、窓辺に腰掛ける女性へと向ける。
「で、お姉ちゃん。ちゃんと捕まえたよ」
「遊びすぎ」
「ごめーんね」
女性の注意の言葉を、少女はあくまで軽い調子で受け止める。
そこに真剣さを感じられないのは女性も同じだったのか、やるせない溜め息を吐く。
「……それじゃ、ディンツィオ君。最初の約束の通り質問に答えて貰うよ。ただし、嘘はシアちゃんには通じないからそのつもりでね。それと解答は、はいか、いいえか、分からないの3つ以外聞きたくないからそれもそのつもりで」
「……なんつー暴君よ」
「返事は?」
「はい!」
引き攣った苦笑いのまま声を張り上げる。
その返答に女性――アキリアはよろしいと満足気に頷き、最初の質問に移る。
「それじゃ単刀直入に……君はジン君の情報を売った?」
「……いいえ」
「半分嘘で半分本当かな」
「それじゃあ、売ったのは君の仲間かな?」
「はい」
「今度は本当」
シアの言葉に青い言葉でディンツィオは震える。
「なるほどなるほど……」
「あのー、こっちからも質問いいっすか?」
「私はさっき3つの返答以外聞きたくないって言ったんだけど……まあいいか。その代わり後にしてね。
それじゃ、次の質問。君は祖国に忠誠を誓っている?」
「……いいえ」
「じゃあ、私たちの方に来れる?」
「……俺に裏切れって?」
「返答は?」
「いいえ!」
思わず問い返した直後に、アキリアの眼は決して笑っていない笑顔を見て即座に答える。
誰の目で見ても、その光景は竜と子犬が向かい合っているようにしか見えなかった。
「つまり、君はゾルバと忠誠心以外の何かで繋がっているという事だね。それはお金?」
「いいえ」
「大体7割くらい本当」
「当たらずとも遠からず、か。じゃあ、人質を取られている?」
「……いいえ」
「半分くらい」
徐々に性質の違う汗を掻き始めたディンツィオに対して、アキリアは顎に手を当て、少しだけ長く思考する。
「……じゃあ、君は身近な人に何かしらの事情で莫大なお金の要る人がいる?」
「もう何なのこの人!?」
「返事は?」
「はいはい!」
もう自棄だった。
「詳しい事情を説明してくれないかな。勿論自分の口で」
「……弟に満足な教育と生活を――」
「ダウト」
「不治の病です! 弟が不治の病に――」
「2割くらいダウト」
「妹っス! 同じ孤児院で育った義理の妹が不治の病に罹ってます!」
「嘘吐く必要あったのかな、それ」
「いや、普通でき過ぎでしょ。妹が不治の病とか、どこの三文芝居だよって話」
「私は信じるよ?」
「普通は信じないっての。あと、余り弱みは握られたくねえし」
そう言うディンツィオだったが、既に表情には諦念が溢れ返っていた。
「つまり、君の妹は不治の病に罹っていて、その延命治療には莫大なお金が掛かる。そのお金を稼ぐ為に君は諜報活動をしている、そういう事かな?」
「その通りですよ。結構俸給良いんでね、諜報員って。まっ、その代わりアホみたいに殉職率も高いんだけど。だから人件費も採算が取れるらしいんだけど、その辺りの事情は知らんね」
「こっちも知りたくないから気にしなくていいよ。それで、ジン君の情報を売ったのは君じゃないっていうけど、それなら誰が売ったの?」
「……知っても遅いよ?」
「ああ、死人に口なし?」
「俺はさぁ、よしとけって言ったのよ。確かに金は貰えるけどそれっきりだし、エルジンっちの事を売るのは個人的にも頂けないし、何より敵国の貴族様相手に保護するなんて口約束、信用できたものじゃないって分かってたからさ」
「君はジン君と親しいのかな?」
「いんや、こっちは親しくしたいと思ってるんだけど、肝心のエルジンっちは俺の事空気扱いだからね」
そこで眼を、狩られる寸前のウサギの眼から一転させて、逆に探り返してやろうというものに変える。
「そろそろこっちからも聞いて良い?」
「何かな?」
「あんたらはエルジンっちの縁者?」
「……知ってたんじゃないの?」
「黒か。いや、知らなかった。本国からは何も聞かされてないし、その事自体本国は知らんからな。
そもそも本国がエルジンっちを雇ったのだって、エルジンっちがあの【死神エルンスト】の弟子で、そのエルンストを5大公爵家が殺したって事を半ば偶然で知ったからだしね。それで上手くやれば駒が1つ増えるってんで雇っただけで、本国にとってエルジンっちの価値はそこまで高くはないよ」
「その方が都合が良いんだけど、何かジン君が軽く見られているみたいで複雑だね」
「あながち間違いでもないんだけどね。だけどまぁ、俺としてはそれがありがたかったかな。
実はちょっとした偶然から、エルジンっちがあんたの事をアキ姉って呼んでるのを聞いちゃってね。もしかしたら親しい間柄なのかって思って、上手くいけばあんたと繋がりができるかな、てな感じに踏んでたんだけど、まさか縁者とまでは思わなかった」
「……そう、ジン君はまだそう呼んでくれているんだ」
郷愁に満ちた表情を見て、ディンツィオの中に不必要な好奇心が湧き出てくる。
「……因みに、俺っちは何がどういう事なのかさっぱりな訳なんだけど、そこのところ詳しく――」
「死んじゃう?」
「嘘っ、嘘よ! 冗談の類!」
シアに親指で喉を掻き切る仕草を笑顔でやられ、真っ青な顔で首を高速で振る。
既に湧き出ていた好奇心は欠片も無くなっていた。
「……ねえ」
「はい、何でしょう!」
「そんなに畏まんなくたっていいよ。君の妹、治してあげようか?」
「……は?」
「だから、君の……義理なんだっけ、とにかく妹を治してあげようかって話」
「……できんの?」
「ゾルバの諜報員なら、私の能力ぐらい知ってるんじゃないのかな? それを使えば治すくらい訳ないよ。
これは私の勝手な推測だけど、君が諜報員としてティステアに潜入して、しかもこの学園に属したのって、神殿関係者とパイプを繋ぐためじゃないのかな? 神殿関係者には治癒系の能力を持った人が多数所属しているから、その中に君の妹の病気を治せる人が居るんじゃないかって期待していた。違うかな?」
「……その通り、です」
「なら、もう捜す必要はないね。私が代わりを務めるよ。それぐらいの願いだったら、わざわざゾルバに足を運ぶまでもないかな。君も見付けた後に、攫ってゾルバまで運ぶなんてリスキーな事をしなくて済むよ」
「……目的は?」
「ん?」
「目的は何だ?」
途端、ディンツィオの雰囲気が一変する。
それまでのどこかおちゃらけたような、軽薄そうな態度はどこかへと消え、変わりに鋭利な光を眼に宿した表情を作る。
「顔つきが変わったね。それが君の、諜報員の君としての顔なのかな。
目的に関しては、さっき君に聞かなかったかな? 私たちの方に来れないかって。別に裏切れって言ってる訳じゃないんだ。内密な方が都合が良いのは確かだけど、決して不利益ばかり被るって訳じゃない。グレーなのは否定しないけど」
「……あんたはそれで良いのかよ? こんな事がすぐ傍で提案されてますけど?」
雰囲気を元通りにし、黙々と書類を処理している初老の男――学園の長であるメネキアに視線の矛先を向ける。
「生徒の自主性を重んじ、その子の事を第一に考えて守るのが私の理念ですので」
「いやいや、平然と敵国の諜報員を捕まえた挙句、懐柔しようとしてますけど? それでもその理念貫き通すの?」
「その通りですが、何か?」
「国賊扱いされても文句言えないだろ……」
学園長は突破口になり得ないと諦め、視線を元に戻す。
「迷う事はないと思うけど?」
「……ハァ」
目の前に手が差し出されたのを見て、諦念漂う溜め息を吐く。
「……本当に治してくれるんだよな?」
「今すぐにでもやる事を約束するよ。これからよろしくね」
「よろしくぅ!」
姉妹に満面の――混じり気なしの笑顔を向けられて、ディンツィオはもう1度、小さく溜め息を吐く。
「何でだろう。美人からの誘いなのに、まるで嬉しくない」
ベルと相手の握る長剣が噛み合う。
脳の抑制が外れている筈のおれと互角に力比べをするのは、細身の一目で鍛えていないと分かる体型をした、どこにでも居るような一般人らしき男だ。
その男が、両手に握った長剣に力を込めて、おれの握る大剣と互角に鍔迫り合いを演じている。
魔力を探ってみるが、保有している魔力量から考えても道理に合わない剛力だ。
「……ふん」
両手の力を抜いて引くと同時に、前蹴りを叩き込む。
おれが引いたのに合わせて、すかさずに押し込んできた相手はガードもできずに蹴りを喰らい後退する。
間髪入れずガラ空きの左側にハイキックを叩き込み、首の骨をへし折る。
力は強いが、技術は皆無も同然だった。
「……首の骨を折っても駄目か」
あり得ない方向に曲がった頭部をそのままに、倒れた男が立ち上がる。
これ以外にも、手足の骨をへし折っても、折れたその部位を駆使して立ち上がろうとして来た連中を眼にしている為、おれに驚きはない。
すぐに大剣を振るい首を跳ねる。
それでようやく、本当にそいつは沈黙する。
「…………」
剣を肩に担ぎ、アルトニアスの方を見る。
脳の抑制を外したおれと互角の筋力を発揮する敵を相手にどう立ち回るかという興味の元で観戦してみたが、おれが見たのは、ちょうどアルトニアスが相手の腰を落とし、背後から手足を使って絡み付いて首を絞めているところだった。
「裸絞め……」
バックチョークと呼ばれるそれは、確かに決まれば相手の筋力は余り関係がない。
ただし、あくまで決まればの話であって、その状況に持ち込むのにはそれなりに苦労する筈だ。
思っているよりも、アルトニアスのポテンシャルは高いらしい。
「……ふう」
程なくして技を掛けた相手の手足から力が抜けたのを確認し、アルトニアスが体を解く。
バックチョークを決められた相手は、脳に血を送れなくなって昏倒していた。
「首の骨は折れても動けて、血が送られなくなると気絶する。何なんだろうな、こいつらは」
周囲にはアルトニアスが倒したのも含めて、8人の男女。
このうちおれが倒したのは6人で、全員が共通して頭部の破壊を伴って死んでいる。
対してアルトニアスが倒した2人は、目立った外傷はなく気絶しているだけだった。
無駄な事だ、そう思う。
気絶から覚めても、精神支配を受けている以上は再び彷徨っておれたちを追跡する。
アルトニアスのやっている事は、その場凌ぎだけで何の解決にもなっていない。
「行くわよ」
「先導するぐらいなら道順ぐらい覚えておけ。そっちはもう行った」
「し、知ってるわよそんな事!」
まあ、おれが気にする事じゃない。
そんな事よりも、注意するべき事がある。
襲撃して来たのは今のを含めて3回。
最初の襲撃者の連中は素手だった。
だがその次からは剣や槍やナイフといった、殺傷する為の武器を持ち始めていた。
そして今の連中は、拙いながらも連携のようなものをして来ていた。
これを進化していると考えるべきなのか、それともこっちの対応を観察し適応して来ていると考えるべきなのか。
どっちの場合でも面倒である事は変わりはないが、対応手段は変わって来る。
そしてどっちの場合でも、できる限り早急に脱出しなければならない事に変わりはない。
「……また戻って来たわね」
見覚えのある死体と昏倒して倒れている者たちが転がる場所に戻る。
それに苛立たそうに、手に持ったメモに何かを書き込んでいる。
「チェックポイントの更新に、曲がる順番は関係ないみたいね」
「今までのに共通点は?」
「ないわよ。さっきのは右に2回曲がった後に3回左に、その後に右と左を交互に2回ずつ曲がったら更新されたけど、今のはご覧の通りよ」
洞窟などを探索する時は、常に左手を壁に沿わせた状態で曲がれば迷わないという手段が存在するが、この領域干渉系はそこまで単純なものではない。
法則に則っているのは確実だが、その法則が分からない。
「……闇雲に歩いても、体力を消費するだけだな」
「進まないと、いつまで経っても出口には辿り着けないわ」
「何も進まないとは言っていない。ただ、闇雲に動くのは得策じゃないと言っているだけだ」
「なら、法則は分かったの?」
「分かってたら、そもそもそんな事は言わないだろう」
何度目かの八方塞である事の確認。いい加減うんざりしてくる。
「せめて、ここに居るっていう【レギオン】の連中と合流できれば、まだ違うんだろうが……」
そもそも遭遇する事自体が稀な領域干渉系の能力者だが、少なくとも【レギオン】に属している者なら、おれよりも経験は豊富だろう。
何せ、身内にその領域干渉系の能力者を抱えているのだから。
何かしらの進展は望めるだろう。
「……次は途中までさっきと同じで、3つ目の曲がり角を反対に曲がるわよ。とにかく少しでも材料を集めないと、法則を解く事もできないわ」
「材料があったところで変わらないとは思うがな」
要は法則に気付けるか、気付けないかだ。
材料があったところで、それを導き出せる頭を持っていなければ攻略は不可能だ。
壁はどこも変わらない煉瓦製で、特定箇所が他と違うなんて事もない。
その壁に掛かっている燭台も同じ物が等間隔に並んでおり、変わったところは見受けられない。
地面はなだらかなもので、しるしがどこかに描かれている事でもない。
となれば、分かれ道の曲がり方が法則に関係しているのだろうが、ここまでならば誰だって容易に辿り着ける。
問題なのは、その先が分からない事だ。
『ジリ貧だナァ』
「……お前は、その【歪賂の宮殿】とやらをどうやって攻略した?」
『攻略してねェヨ。結局諦めて撤退したからナ』
「役立たずが」
『この状況でオマエが言うのカ?』
「…………」
イラつく言葉だったが、ベルの言う通りだった。
少なくとも戦闘以外では、おれはこの状況を改善させる事に対して、何ら貢献していない。
かと言って、アルトニアスが貢献しているという訳でもないが。
要するに、2人とも役立たずという訳だ。
ベルも含めれば3人だが。
「……また戻って来たわね」
「そうだな」
地面に転がっている物体の数が2つ足りないが、襲ってくる気配はない。
もっとも、この迷宮の性質を考えるに、あまり魔力探知や気配察知は役に立たない可能性が高いが。
「……いや、一応全く役に立たないという訳ではないか」
「何の話?」
「敵襲だ」
そこでようやく、アルトニアスがおれが視線を向ける方向を警戒する。
近付いてくる気配は1人分。
精神支配を受けている他の者たちと同様、殺気は微塵も感じられない。
そいつがアルトニアスが昏倒させた相手かどうかは不明だが、1人だけというのは都合が良い。
曲がり角を曲がってきた瞬間に、先手必勝で首を刎ねて終わらせる。
そして――
「どうもジンさん、呼ばれた気がしたので来ました」
「……呼んでねえ」
寸前で剣を止め、代わりにとりあえず足蹴にしておいた。