強欲王と嫉妬王
魔界の西南西にある、財貨の迷宮。
神話に謳われ、混迷期の折には【強欲王】の名で恐れられた悪魔マモンが寝食を共にするその宮殿には、普段は主であるマモン以外の生きたものは存在しない。
その強欲さゆえに【怠惰】の大罪を司る悪魔ベルフェゴールを取り込んだ結果、怠惰の化身となってしまったマモンに、配下の者は全員が愛想を尽かしてしまった結果だ。
だがその財貨の迷宮に、その日は珍しい来客があった。
「あらぁ、相変わらずだらけているのねぇ」
「……何の用だ、カマ野郎」
「差別用語よぉ、それぇ」
やけに間延びした言葉を連ねるのは、黒く艶のある髪を伸ばした、線の細い美しい女だった。
ただし、身長がどう見ても190はあるような、細長すぎる体型をしているが。
顔立ちも非常に整っていて、黒と赤というオッドアイという特徴がミステリアスさも醸し出しており、そこだけを見れば万人が振り向くような美しさを持っていた。
「それにぃ、ワタシはオカマでもオナベでもなくてぇ、両性具有者よぉ。そこのところぉ、間違えないで欲しいわぁ」
「同じ事だ。元の性別すら忘れた貴様など、カマ野郎で十分だ」
「貴方もぉ、昔と比べて随分と言葉が悪くなったわぁ。昔はそれこそぉ、高潔な貴族のように紳士的だったのにぃ」
「オレたち魔族はその永久に近い寿命ゆえに、人間と比べて遥かに長いスパンで万事を動かすが、それでも生まれてから数千年がたっている。人間の感覚の年数に換算しても相当な年月だ。それだけあれば変わる」
「それはぁ、ワタシも同じ事よぉ」
口元に手を当てて優雅に微笑むその女は、マモンを前にして些かの怯えもなかった。
主であるマモンが怠惰に堕ちても、財貨の宮殿に存在する膨大な財宝を奪おうとする者が同族異種族を問わずまったく存在しないのは、他でもないマモンの存在とその力がゆえだ。
元より大罪王という魔界でも10指に入る実力者として君臨していたが、そこに来て同格であったベルフェゴールを取り込んだ事で、その力はさらに増大し、いまや大罪王の中でも断トツで最強を誇っている。
そのマモンを敵に回すような事をするような愚か者は、魔界にはまず存在しない。
ほんの少しでも機嫌を損ねれば、すぐにこの世からリタイヤする事が決定するからだ。
だが、女には怯えもなければ、尊敬の念といったものも見受けられない。
それどころか、あたかも対等のように振舞っている。
「貴様の変わり様とオレの変わり様を同じにするな。虫唾が走る。どうして貴様のような奴が未だに大罪王として君臨しているのか、実に理解に苦しむ」
「単純な事よぉ。ワタシよりも強い魔族がぁ、どこにも居ないっていうだけの事よぉ」
7つある大罪の中でも【嫉妬】を司る悪魔、レヴィアタン。
それがその女の名前だった。
「それでぇ、ここに来た用だけれどもぉ、お礼を言いに来たのよぉ」
「礼だと? 貴様がか?」
「そうよぉ。貴方ぁ、あの子にワタシの事を紹介してくれたでしょう? お陰でぇ、いい物が手に入ったわぁ」
「眼に髪か」
「いいでしょう? でもぉ、それだけじゃないのよぉ。少しずつだけどぉ、あの子の魂も入ってくるのぉ。彼の魂、素敵よぉ」
「奴は【災厄の寵児】だ。質と格を高める為の試練の遭遇には事欠かない。当然の事だ」
「だからこそぉ、貴方に礼を言いに来たのよぉ。それとぉ、質問もあるのよぉ」
「答える義理はない」
「そんなに邪険にしないで欲しいわぁ。聞きたいのは1つだけよぉ」
懐から扇を取り出し、開いて口元を隠し、真っ赤な唇を真っ赤な舌でなぞる。
「貴方、あの子の事で隠し事をしているでしょう?」
「特にしてないな。話すのが面倒なだけだ」
「そぉ? なら、面倒なのを我慢して是非とも教えて欲しいわぁ。あの子ぉ、エルンストちゃんのお弟子さんでしょう?」
「…………」
「あらぁ、だんまりかしらぁ? でも、それは答えを言っているようなものよぉ」
マモンが、それまで気だるげさ一色で染めていた表情に、ハッキリと不快感を表す。
その事に気付いていないのか、それとも気付いていて関係ないと割り切っているのか、レヴィアタンは自分のペースで言葉を連ねていく。
「無能者という、世界のシステムが生み出した負の――最底辺の存在でありながらぁ、頂点にまで押し詰めた存在、素敵だと思わないかしらぁ?
言い換えればぁ、彼はシステムに抗えるという事を身を持って証明したのよぉ? 必然的のそのお弟子さんであるあの子もぉ、それを為し得る可能性があるって事だわぁ。それを手中に――」
「レヴィアタン!」
マモンが立ち上がり、ベッドから降りてレヴィアタンと向かい合う。
誰かに急かされてでもなく、紛れもない自分の意思で、しかも怠惰さを微塵も含まないその行動は、実に20年ぶりの事だった。
「あらぁ、ご立腹ぅ?」
「……つまり貴様は、20年前に出た結論に異を唱えたいと、そういう事だな? ならば話は早い」
マモンの適当に伸ばされた金髪が逆立ち、彼を中心に魔力の嵐が吹き荒れる。
「前々から貴様の事は気に食わなかった。良い機会だ、貴様を惨滅してくれよう!」
「……落ち着いてよぉ。ワタシは別にぃ、そんなつもりで言った訳じゃないわぁ」
さすがのレヴィアタンも冷や汗を滲ませ、弁解の言葉を口にする。
「ワタシが言いたいのはぁ、ベルゼブブちゃんの事よぉ」
その言葉に、少しだけマモンが圧力を弱める。
「ワタシもぉ、20年前に出た結論にぃ、今さら異を唱えるつもりはないわぁ。当時の主張がサタンやベルフェゴールと一緒だったのは否定しないけどぉ、同時に彼らの末路は良く知っているものぉ。わざわざ自殺に等しい行為をする筈がないでしょう?」
20年前――より正確には、20と数年前だが、まだ【死神】と呼ばれる前のエルンストの存在に、人間たちよりも先に注目した存在が居た。
それが魔族たちの中でも、大罪王と呼ばれる彼らである。
「静観するかぁ、それとも動くかでワタシたちは2つに分かれたけどぉ、彼らが先走った結果争いが起こって今の有様よぉ」
静観を主張していたのは、マモンとベルゼブブの2柱。
対して何らかのアクションを起こそうとしていたのが、レヴィアタンを含む、サタンとベルフェゴールの3柱。
中立や例外を除いた5柱の議論は平行線を辿っていき、結果的には静観派にとって都合の良いように事が運びそうになったところで、焦りからかサタンとベルフェゴールが動き出してしまい、それを止めようとマモンとベルゼブブも動き出した。
結果ベルフェゴールはマモンに取り込まれ、サタンはベルゼブブに喰われた訳だが、唯一レヴィアタンだけは生存した。
それが魔界にて魔族の間で一般に語られている事の顛末だ。
「実際はぁ、あくまでそれはキッカケに過ぎなくてぇ、どっちも自分の都合で動いただけなんだけれどもねぇ」
「そもそも、オレはまだしもベルゼブブの奴は静観派ですらなかった。奴はあわよくば大罪王を喰らおうと、より敵に回る数の多い静観派に回っただけで思想など欠片も存在しなかった」
「それが彼女の存在理由の根幹でもあるのだからぁ、責めるのは酷よぉ?」
「別にそれ自体に不満がある訳ではない。いまあいつがあの小僧の傍に居る事に関しては、文句の1つでも言ってやりたいがな」
張り詰めた空気を緩め、両者ともに落ち着いた雰囲気を取り戻し始める。
もっとも、その下には様々なものを溜め込んでいたが。
「だが、あいつがあの小僧の傍に居るのは、他でもないあの小僧が選んだ結果だ。ならばオレたちが口を出す権利はない。ルシファーがそうであったようにな。だから、もし貴様がちょっかいを出すというのならば、その時はオレが貴様を殺す」
「大丈夫よぉ。ワタシってぇ、そこまで信用がなかったかしらぁ?」
「むしろ今までに僅かでもあると思っていたことが驚きだ。結果だけを見れば、貴様は判断を誤らず危ういところで命拾いをしたと見る事ができるが、一方でただサタンとベルフェゴールを唆して、ただ1人利益を貪ったとも見る事ができる」
「言い掛かりよぉ?」
「どうだかな」
「まあ、信用されないならばそれでも構わないわぁ。ワタシの本心がそれで変わる訳でもないしねぇ?
でもぉ、一応宣言しておくわぁ。ワタシはあの子の事で動くつもりは無いわぁ」
その後に扇で隠した口を動かし、あくまでワタシわねぇ、と自分にだけ聞こえるように呟いた。
「大罪王もぉ、半分近くが消滅してしまったわぁ。あの混迷期のお陰で力のある魔族の多くが居なくなってぇ、いまの魔界には次代の王となる資格を持つ程の実力者は居ないわぁ。お陰で空位は未だ埋まらないままぁ。そんな中でぇ、さらに空位を作るような愚かな真似はしないわぁ」
そこで扇を口に当てて、上品に笑う。
「それにしてもぉ、貴方は随分とあの子を気に入っているみたいねぇ。あの日以来怠惰の極みに居る貴方がそこまで入れ込むなんてぇ、相当な珍事じゃないかしらぁ?」
「あの小僧はオレの代わりに財宝を集めてくれるんでな。居なくなる分に不利益はないが、かと言って失うのには惜しい。それだけの事だ」
「……ふぅん、どうやら本心みたいねぇ。意外と執着心は無いのかしらぁ?
でも気を付けてねぇ。ワタシは動かないという言葉に嘘は無いけどぉ、あの子は違うと思うわぁ」
「混迷期の時ですら動かなかった奴が、あの小僧如きの為に動くとでも?」
「楽観のし過ぎよぉ? ある意味ではあの子が1番、ワタシたちの中で神族に対する感情は強いわぁ。だからベルゼブブちゃんにも辛辣だったしねぇ。それにぃ、逆は無いと思わないと思わない事ねぇ」
「それはあり得ないな。奴の事を小僧に教えた事は無い」
「情報源はぁ、貴方だけじゃないのよぉ? もっと基本的な事を忘れちゃ駄目よぉ」
「…………」
「うふふ、じゃあねぇ」
優雅に一礼し、踵を返してレヴィアタンは宮殿を後にする。
残ったマモンは、気だるげな足取りでベッドに腰を下ろし、そのまま身を投げ出す。
「……疲れた。もう何もかもが面倒くさい」
天蓋を見上げて焦点をズラす。
すると徐々に睡魔が襲い掛かって来て、急速に目蓋の重さが増していく。
「あの小僧に忠告……人界まで行くのがめんどくさい。あの小僧がこっちに来るのを待つ……応対するのがめんどくさい。誰かに……つうか、考えるのもめんどくさい……」