予期できた結末
「……久しぶりだね、ジン君」
空気が揺らぎ、アキリアが姿を現す。
赤みの掛かった長い髪を一纏めにした、スレンダーな体型の背の高い姿。
間近で見たのは初めてだが、遠目に確認していた姿の通りだった。
「参考までに、どうして気付いたか聞いても良いかな?」
「……自分で考えろ」
空気の屈折率を変えることで姿を隠す、風属性の【迷彩化】の魔法。
それを使っていたからこそ、気付けた。
その魔力の働きによって屈折率の変えられた空気は、右眼に目立つほど映っていた。
それでいてその下にあるはずの魔力が、まるで感じられない。
完璧すぎるほどの魔力隠蔽。そんな芸当ができる奴を、そしてここに来る動機のある奴をおれは1人しか知らない。
「……そっか、ちょっと残念かな」
凪だった。
何も感じられなかった。
無能者の如く、いくら探っても魔力が微塵も感じられなかった。
遠くから確認したのは、平時での魔力隠蔽。
ならば有事の際の、本気で魔力を隠蔽しようとすれば、果たしてどれ程のものなのか。
そうかつて抱いた事のある疑問の答えが、目の前にあった。
「ついさっき、シアちゃんから手紙が届いてね。内容を確認してみたら、吃驚したよ」
聞いてもない、用意に推測できる事を話し始める。
そう、推測できた筈だった。
簡単に予期できた筈だった。
シアが知ったのならば、その姉であるアキリアにも自動的に伝わる筈だと、予想してしかるべきだった。
だが現場にはシアは単独で現れ、事前にいつでもあった気付けたチャンスが完全に潰えた。
わざわざ時間差で届く手紙を利用したのは、万が一にでも邪魔されたくないからか。
「そして現場に来てみて、また吃驚。ユナちゃんとシアちゃんは居なくて、叔父さんをジン君が倒しているし。2人の魔力はちょっと離れたところに感じられるけど、生きてるのかな?」
「……生きてる」
「……良かった」
アゼトナの死に言及した時は少しも揺らぐ事のなかったのに、2人の無事を聞いた途端に安堵のそれが伝わってくる。
「それにしても、叔父さんを倒すなんてね。ちょっと予想外だったよ、正直言って。もっと早く来ていれば良かったかな?」
「あんたは――」
「あっ、待って。話す前に、1つだけ言わせて欲しい」
手を突き出して遮られる。
「また会えて嬉しいよ。これは、本心からの言葉」
「本心、ね……」
何も感じなかった。何も感じられなかった。
何も異常な筈がないのに、何故かチグハグさを感じる。いや、感じるというよりは思えてくると言ったほうが正しいか。
会話をしている筈なのに、会話をしている気がしない。
まるで出来の悪い幻影を相手に話し掛けられているような、そんなチグハグさ。
それが酷く気持ち悪くて、堪らなく怖い。
「……ベル」
『何ダ?』
アキリアに悟られないように、俯いて口元を隠して会話をする。
「おれの体を、少しでも良い。動かせる状態にできないか? 乗っ取るとかそういうのは無しで」
『頼んでるくせに注文付けるなヨ。できなくもねェガ』
「時間は稼ぐ。魂でも何でも喰わせてやる。頼む」
『……言ったナ、何でもッテ。後で撤回するなヨ』
高くついたかもしれないが、仕方がない。
風が吹く。それに紛れて、どこからか鈴の音が運ばれて来る。
「……ねえジン君、やめないかな。私は君とは戦いたくないよ」
鈴の音が微かに響く。その音を掻き消すというよりは、上乗せするようにアキリアが言葉を紡ぐ。
「君が何をしようとしているのか、どんな理由で動いているのか私は正確には知らないし、独りよがりで導き出した確証のない憶測でものを言うつもりもないよ。
それに仮に全部正確に知っていたとしても、きっと私は何かを言える立場でもなければ、そんな資格も無いんだろうね。
それでも、君にはこれ以上の事をやめて欲しい。
君と戦いたくないし、君を死なせたくない」
「戦えば自分が必ず勝つってか。大した高慢だな」
殺したくないという言葉が、嘘だとは思えない。少なくとも今はという言葉を頭に追加する必要があるが。
何せ、殺気を微塵も感じない。
巧妙に隠されているだとか、大き過ぎて逆に感じ取れないとかではない。
文字通り微塵も発していないのだ。
殺気だけでなく、何もかもを。
それがとにかく気持ち悪い、気味が悪い。
やたら怖くて恐ろしい。耐え難い程に。
その感覚は覚えがあった。懐かしくすらあった。
2年前に【暴食】の大罪王である、悪魔ベルゼブブと相対した時の感覚に酷似していた。
「高慢、か。確かにそうかもしれないね。
でも、それならそれで構わないよ。例え私の言ってる事が高慢であっても、私の意思は変わらないから。
ここはひとまず大人しくして欲しい。今回の件を誰かに言うつもりはないし、君に対して危害を加えるつもりもないよ。君の存在も他言しない。だから投降してくれないかな?」
「はっ、見逃すって選択肢は無い訳か」
「さすがに、この状況じゃね……」
視線は原型を留めてない死体へ向かう。
事情は分かるし下された判断は合理的だが、それはあくまで相手の立場での話だ。
おれからすれば、大人しくはいそうですかと従う事はできない。
鈴の音が遠くから響く。
小さく儚げな音が聴こえてくる。
目の前の相手がとにかく怖い。
強いからだとか、圧倒的だからとかいう理由じゃなく怖い。
異質だから怖い。
歪だから怖い。
怖い怖い怖い。
恐い恐い恐い。
これはもっと根源的なところから湧き出て来るものだ。
だから排除しなければならない。
とにかくそれを実行しなければならない。
頭が割れそうだ。
『オイ、何をトチ狂ってんダ。さっきからオマエおかしいゾ』
「…………」
おかしい――確かに言われてみればそうだ。
恐怖心を抱いているのは確かだが、そんなに大きなものじゃない。
不気味に思ってるのは確かだが、そんなに酷いものじゃない。
精神的干渉を受けた様子は……ベルが何も言ってないなら無いのだろう。
想定外の自体に焦ったか。
普通にやれば勝てない、それだけは確かだ。
だから恐怖を感じる。
だから不気味に感じる。
それだけで良い。無用な詮索などするだけ無駄。それよりも打開策を模索しろ。
「……ベル、初撃だ」
『オウ』
勝機がある否か、全ては初撃に掛かっている。
初撃で【無拳】を打ち込んで泥沼に持ち込む。そうすれば勝機が生まれて来る。
問題なのは、アキリアが【無拳】を見ていたかどうか。
もし【無拳】を見ていたのなら、決めるのはほぼ無理だろう。
だが、見ていたかどうかを推測するには情報が足りない。
少なくともユナとシアの安否を聞いて来たのなら、来たのはその後という事は分かるが、その後のどのタイミングか絞り込むのは不可能だ。
仮に【無拳】を見ていたのなら、そして決められなかったら、それは囮にする。
勝ちを諦めて、1回当てての逃走に移る。
それが最も生存率が高い。
それが1番合理的な判断だ。
1番合理的な戦う理由だ。
『いいカ、良く聞ケ。今からやる事に逆らうナ。何も乗っ取ろうって訳じゃなイ。ただ共有しようって話ダ』
「…………」
『オマエはただ体を動かそうとすれば良いだけダ。そうすれば共有状態にあるオレにもそれが伝わル。後はオレがオマエのしようとしている動きを代わりに再現すル。
ナニ、違和感は感じる事はねェヨ。オマエは自分の意思で動かしているのと何も変わらない感覚しか抱かない筈ダ、言っちまえバ、自分が人形だと気付いていない意思を持ったマリオネットになるって事ダ。
しかも今なら出血大サービスデ、内側からオマエに優位に働くように弄くってやル。単純だロ?』
正直言えば土下座してでも遠慮願いたいが、背に腹は帰られない。
そんなおれの内心を知ってか知らずか、ただ、とベルは続ける。
『言っとくがオレからすれば他人の体である以上、これっぽっちも労わんねェゼ。共有状態が解けた時は地獄を覚悟するんだナ』
ああ、何の問題もないさ。
むしろその程度の代償かと、拍子抜けするくらいだ。
「構わない。好きにしろ」
『そうさせてもらウ』
その言葉と同時に、剣を握る手から全身へと絞られるような痛みに包まれる。
ほんの数秒の間に侵食とも言うべきその痛みは治まり、代わりに全身に甲冑を装備したかのような、なんとも言えない不思議な感覚に包まれる。
続けて胸の下で動いている心臓が、前に増して力強くの脈を打ち始める。
おれの耳にもハッキリと届くほど大きく、しかし決して脈拍数が多くなっている訳ではなく、1回1回を強く踏みしめるように脈を打ち、全身に熱を送る。
『オマエの妹のやってた事を参考にさせてもらッタ』
つまり、1回の鼓動あたりの血液運搬量を増やし、運動能力の引き上げを行ったという事か。
なるほど、確かにこれはありがたい。
併せて【憤怒王の心臓】も起動する。
全身の血液を変質させ、皮膚の下にも鎧を着込み、現状で整えられる限りで万全の準備をする。
その場を動かず、全身に力を込めてみる。
【促進剤】の副作用である倦怠感は勿論、ダメージも感じていないかのように体が軽い。
代わりに別の副作用である体温の上昇があるが、むしろ体を温める手間が省けて良い。
絶好調とまでは言わないが、それでも6割前後の動きはできると確信して立ち上がる。
「……やっぱり、こうなるんだね」
おれが臨戦態勢に移った事を受けて、心から悲しそうにアキリアが言う。
その姿から読み取れるのは、やはり言葉に表せないチグハグさ。異常と思えない事が異常であると思える不気味さと恐ろしさ。
ベルと対峙した時を引き合いに出したが、まさにそれだ。
人間と相対している気がしない。
それが果たして、人智を超えた膨大とも莫大とも生易しい量の魔力が齎すものなのか、それとも【願望成就】という固有能力が齎すものなのか、判然としない。
どちらでもある気がするし、どちらでもない気がする。
それこそどっちでも良い。
「……ベル」
アゼトナとの戦闘を見られたかは分からない。だがユナとシアとの戦いを見られていないのは確かだ。
ならば、アキリアの知らない奥の手はある。
どこからか、それまでとは違うハッキリとした、甲高い鈴の音が1回だけ響く。
それを合図にして、動く。
「吐き出せ!」
地面に刺したままの剣を引き抜くと同時に振り抜く。
さっき放ったのよりも大分規模は小さいが、振り抜いた軌跡をなぞる様に圧倒的物理破壊力を誇る爆煌が、津波の如くアキリアに押し寄せる。
「うわっ、と……【空壁】!」
その名称の通り、空気の層を形成して障壁とするその魔法は、通常は飛来する矢を防ぐ程度の強度しか持ち合わせていない。
しかしアキリアの展開したその壁は、どれ程の魔力を込めたのか、少なくとも周辺を吹き飛ばすのに十分すぎるエネルギーを内包したその奔流から完全にアキリアを守り切っていた。
だがその程度は想定範囲内。
それぐらいの事が、できない筈がない。
「はぁっ!!」
地を抉り破壊を齎す魔力の奔流の陰にピッタリと張り付いて距離を詰め、盾が無くなると同時に裂帛の斬撃を放つ。
魔力の放出はただの目眩ましだ。かなり贅沢な使い方だが、だからこそ意表を突ける。
どれほどの魔力が込められていようが、所詮は魔法。暴食の王であるベルゼブブの化身たる剣にとっては紙くず同然だ。
「速い、ね……っ!」
首を狙った斬撃も膝を落として回避される。だがそれも狙い通り。
本命は剣を握る右手とは反対の拳による、肝臓を狙った突き。
それにアキリアは右手を掲げて受け止めようとする。その動きは完全に突きを警戒したものだった。
「フェイクだ!」
拳が受け止められる直前に、付け根を突き出すように手首を折り曲げ、密かに握り込んでいた投擲用の小さなナイフを押し込む。
鍛造式の特注品の刃は思惑通り、アキリアの手のひらを貫き引っ掛ける。
手のひらを貫かれて僅かに動きを止めたその隙に、そのままナイフを持った左手を捻り上げ、アキリアの右腕を明後日の方向へと持っていく。
そうしてがら空きとなった右脇に、翻した剣を叩き込む――途中で手放す。
「えぇっ!?」
自分の得物を自ら手放す――と言うよりはすっぽ抜かせると言った方が正確なくらいあり得ない動作に驚くも、放られた勢いに乗ったまま飛んで来る剣に左手を掲げて片手での白刃取りをやってのけるのは、さすがとしか言いようがない。
だが忘れてもらっては困る。
その白刃取りをした剣は、他でもない【暴食王】の化身だ。
「あっ……!」
触れたところから急速に魔力を吸われ、アキリアの動きがまた止まる。
常人ならばその時点で既に欠乏症状を通り越して干乾びているが、アキリアに実害はない。精々が未知の感覚に驚いたという程度だろう。
その隙はおれを次の行動に移らせるのに十分。
右の袖口に隠していたナイフを放り抜いて掴み、一気に突き入れる。
狙うは急所である心臓。
「……ふふっ」
その刹那、アキリアと眼が合う。
その時アキリアは、確かに笑っていた。
妹のようにどこか外れたような笑顔ではなく、心から嬉しそうな、ニコリとした笑みを。
そして突き出したナイフは狙い通り心臓へと迫り、服を突き破り、皮膚を裂いて体内に侵入し、心臓を抉った。
「……はっ?」
呆気に取られたのはおれの方だ。
おれの読みでは、まだこれでは決まらなかった。
突き出したナイフを後退して回避するなり、あるいは手のひらが引きちぎれるのを構わず左手を持っていって防いだり、あるいは足を持ち上げて弾き飛ばすなりする筈だった。
どの対応が来ても構わないが、その瞬間に左手を引き戻し、ナイフに対応した為に完全に崩れた体勢の隙を突いて左拳から始まる連撃を叩き込むのが狙いだった。
ところがいざナイフを繰り出すと、あっさりと心臓を抉った事におれは呆気に取られ、次の行動に移る事をやめてしまった。
動きを止めてしまった。
「つっかまっえたっ♪」
ナイフを繰り出した右腕を、剣を手放した手で掴まれる。
そして握り締められる。
「ッ!?」
とんでもない握力。当然だ、それだけ保有する魔力が多いのだから。
あと一瞬でも抵抗が遅れれば、手首を砕かれていた。
「あーっ、ちょっと痛いね……」
ナイフは確実に心臓を抉っていた。手応えから言っても間違いない。
即死だ。人間ならば間違いなく死んでいる。
そう、相手が人間ならば。
「ゴメンね。その程度じゃ私は死ねないんだ」
咳き込み、唇の端から大量の血を流しながらも、アキリアは笑う。
落ち着いた、余裕を感じさせられる笑みを見せ付けられる。
その笑みを浮かべたまま、自然な動作で当たり前のおれの心臓の上に手のひらを置く。
「まあ、この程度で許してもらおうだとか、そんな虫の良い事を言うつもりはないけどね、でもこの傷は甘んじて――喜んで受けるよ」
躱そうにも、手を体の中で固定されて手首を押さえられた状態では、満足に動く事もできない。
ならばと、左手を地面に落ちて突き立った剣に向けて伸ばすが、圧倒的に遅かった。
「【光射】」
ベルの吐き出したそれよりもずっと柔らかく静かな光芒が、おれを貫く。
胸の上から心臓を穿って、背後に抜けていく。
放たれた光芒が、胸に直径10センチはある風穴を開けて飛んでいく。
「あっ……」
全身から力が抜け落ちる。
【促進剤】の副作用の倦怠感とはまるで違う、むしろ体が喜んでそうするかのように力が抜けていき、膝を付く。
『オイ、冗談じゃねェゾ! 何でこいつガ――』
ベルの慌てたような声が響く。どうもおれの有様に慌てているというよりは、別の何かに気を取られている気がしてならない。
上を見上げてアキリアの顔を睨んでやろうと思ったら、地面が見えた。いや、おれが突っ伏したのか。
よくもまあ、こんな短時間に何度も突っ伏せるもんだ。
しかし、どうしておれは突っ伏しているのだろうか。
『ざっけんナ! これだけは避けたかったってのにヨ!』
おれにはどういう意味だか分からないベルの声が聞こえる。
いや、言葉の意味どころか、何故か何と言ったのかすら判然としない。
「……あぁ」
思い出した、胸を貫かれたんだった。
心臓に風穴を開けられたんだった。
何が【憤怒王の心臓】だよ、役割を碌に果たせてねえじゃねえか。
「チク、ショウ……」
首を洗って出直して来い死神ども。
おれはそっちには行かない。おれは絶対に死なない。死んで堪るかよ。
約束を破って堪るかよ。
一昨日来やがれクソったれ。
……どこからか、微かに鈴の音が聞こえた気がした。
気のせいか、懐かしい音のように思えた。




