混罪者と従妹/聖女と理脱者
「ぐッ、あうう……うあッ、あぎぎ……」
痛い、痛い。
腕が痛い、足が痛い、腰が痛い、背中が痛い、腹が痛い、胸が痛い、首が痛い、頭が痛い。
全身持て余す事無く、痛くないところが皆無で痛くて痛い。
特に頭と胸が痛くて割れそうで痛くて張り裂けそうで痛くて千切れそうで痛くて痛くてイタい。
痛過ぎて掻き毟ってでも痛みは取れなくて掻き毟って新しい痛みが生まれて手に新しく血が付いていて身が捩れる。
「眼ェ、腕ェ、胸が、心がァ……」
何かが足りない気がするけどそんな気がするだけで足りてないものはない気がするのも同じで痛くて自分は今倒れてて。
違う倒れてない世界が傾いただけで自分は立ってる筈でも立つってどういう事だっけ。
頭が割れて中身がいやいや割れてない痛いだけで頭は無事なんだろうけどガンガン内側から何かが打ち付けられてておれの大事な……。
「大事な……大事な……」
大事な、何だっけ?
それがどうなるんだっけ?
いやそもそも大事なものなんてあったっけ?
分からない、分からない、分からない。
不明。意味が、行方が、自分が。
おれはオレはお前は俺はボクはキミかもしれなくてでもわたしでもあって。
人称は誰かでもなくて一体何だっけ。
「エルンスト……」
そうだ。エルンストだ。
おれはエルンストの弟子でエルンストを殺した奴らを殺して復讐するのが目的で。
そうするのはエルンストを殺されたからでそれが憎くて堪らなくて他の奴らにもいつも言ってる今更の事の筈だ。
その筈で。
筈なのに。
筈だったのに。
「ああッ、消えるな! 尽きるなァッ!」
胸の奥が空っぽになって行く。その感覚が堪らなく怖い。
補うように頭を叩き付ける。その痛みと共に反芻した事を刻み込む。
そうでもしないと消えてしまいそうで燃え果てずに治まってしまいそうで。
燃やしてたものがまた外に……。
「消えろ! 消えろ! 燃えて消えて失くなれェッ!」
知らない知らない、知りたくない。
足りない火種が怒りと憎悪の燃料が注いでも注いでもまだ足りなくて邪魔なものが一緒に燃えなくてもっと必要だ。
もっともっともっともっともっともっともっともっともっと!
寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ!
――違うなァ。
「うるせえ……」
――それらはそういう為のものじゃない。
「うるせえ!」
――怒りは燃え上がらせて満たすものだ。
「うるせえって言ってんだよ!」
――憎悪は燃え上がらせて四肢を動かすものだ。
「黙れェ!」
――何かを消す為に燃やすものじゃない。
「うるせえ黙れ静かにしろ口を開くな喋るな話し掛けるな!」
消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ!
「あああああああ、違う、違う! 消えるな! 違う消えろ! 燃えて無くなれ! 全部燃え尽きろ! おれの中からァッ!!」
もっと痛みを!
耳障りなものが消えて失くなる程の痛みを!
死に物狂いの憎悪を!
一心不乱の苦しみを!
必要なものを全ておれに寄越せ!
――まったく、何というザマだ。
――【憤怒王】が見れば呆れ果てるだろうな。
――まるで憤怒というものを理解していない。
「うるせえんだよォッ!! 消え消え消えろろろろろろろっ!!」
体の節々から軋む音が聞こえて来る。音に合わせて体の構造が変化していくような、強烈な痛みと不快な感覚に襲われる。
それら全てが他人事のような、そんな気がするのがとても愉快。
「愉快でユカイでかゆいかゆゆ……コツコツ、こつり……」
――取って付けたような感情の激発で、また振り返して来たか。
――紛い物のものとは言え、ここまでくれば真になって来るな。
――人間は相変わらず奇妙奇怪だ。
――高慢でなくとも、こうも外面を取り繕い真実に変えられるのか。
「耳の側でざわざわ、頭の中でひそひそ。あっちでカツカツ、そっちでズルズル。
ひぃやひぃや、声が這って、見上げて、赤くて丸い月。届きそうだった、ので、手を伸ばしてみました」
あれ、月は赤じゃなくて金色だったっけ?
じゃあ赤いのは太陽だっけ?
いや違った気がする。もっと身近に赤いものはあった気がする。
試しに手を掴んで指を食い込ませて見た。爪が皮膚を食い破って肉を抉ってとても美味しそう。
開いた穴からほら、真っ赤な血が溢れ出して良い香り。
試しに舐めてみたらとても深い味わいがあった。血は甘露だったのかもしれない。元からそうだったのか、そうなったのか。
――ほら、今なら聞き入れるか?
――お前は本当は何だったんだ?
「自分は何? ボク? ワタシ? オレ? それとも誰か?」
――お前自身なんぞどうでも良い。
――お前がしまっていたものだ。
――誤った使い方をしてまで、燃やし尽くそうとしていたものは何だったのかという問いだ。
「燃える? 燃えたかな? ううん燃えてない。早くなくなれば良いのに。こんなものは邪魔だよぅ……」
――邪魔ならば捨ててしまえば良いだろう。
――そうしないのは何故だ?
――捨てられなかったからだろう。
「捨ててたよ? なのに戻って来るんだよぉ。何度捨てても、捨てても、戻って来るんだよぉ。
置いて行っても、振り向いたら追って来る。耳を塞いでも、コツコツうるさい。足音が、止まらないや……」
――それは気のせいだ。
「気のせいなんかじゃない」
――いいや、気のせいだ。
――ただお前が勘違いしているだけだ。
「嘘だ」
――嘘じゃない。
――お前はそれが追って来てると思い込んでるが、実際にはお前が拾い直してる。
――それを認めたくなくて、外側を取り繕ってるだけだ。
「違うよ、そんな筈がない。だってそれはそんなものじゃないもの」
――ならどんなものだ?
――何が、どうしてそんなに追って来る?
「何が? これが? これはぽっかりしてて、掴めなくてさ……」
頭の中に話し掛けて来るこいつは誰?
こいつはそうなのか?
いいや、きっと違うに決まってる。むしろこれはもっと別の何かだ。
ずっとずっと、自分は独りきり。2人にもなれない、ひとりぼっち。
「……寂しいよぅ」
――それが本音か。
本音? 知らないそんな事。何を言ってるのか分からない。
だってそもそも自分にはエルンストしか居ないもの。居なかったもの。
「シロもベスタも違う。アベルもミネアも違う。あいつらは能力者だ無能者じゃない。おれにはエルンストしか居なかったのに、エルンストは死んだ。もう居ない」
――結果、独り孤立したか。
「どいつもこいつも他人だ敵ばかりだ。おれは何もしていない、何も貰えてないのに、あいつらは奪おうとする。おれに味方は居ない。居なくなった。もう誰も守ってくれない、もう誰も理解してくれない。返せよ、返してくれよ。何でもするからエルンストを返してくれよ。独りは寂しい、独りで生きるのにはこの世界は辛すぎるよ」
――辛いならば、逃げれば良かっただろう?
――そうするのは簡単だった筈だ。
「駄目だよそれは」
――駄目なんて事があるものか。
――その命はお前自身のものだ。
――それをどう扱おうとも、お前の勝手だろう。
――なら、逃げてしまっても構わんだろう?
「駄目だ駄目だ、駄目なんだ。おれにはやるべき事がある。それなのにそんなのは駄目だ」
――その目的がお前の首を絞めて苦しめる。
――追い続けるだけ無駄な事ならば、楽な方に行けば良いだろう。
「それでも駄目だ」
言われた通り、逃げてしまえば楽になれる事は分かっている。こんなにも辛いのなら、逃げてしまった方がマシだっていうのも分かっている。
「生きろって、言われたんだ……約束、したんだ……」
エルンストと分かれてから、それにずっとしがみ付いて生きて来た。
どんなに醜くても、見っとも無くても、最後まであがき続けて。エルンストと再開した時みたいに腑抜けた顔は、2度としないように。
どんな手を使ってでも、どれだけ罵られて謗られようが、生き延び続けて来た。
交わした約束を、破らないように。
無能者であるという事でさえ、おれはただの紛い物だ。エルンストと違って、生まれついての無能者では無い。
そんなおれにとって、それだけが、残ったエルンストとの最後の繋がりだ。それだけは絶対に、失いたく無い。
――そんな約束に何の意味がある。
――それがお前の孤独を埋めてくれるとでも言うのか?
「うるせえ黙れ」
――目を背けるな。
「黙れそれ以上口を開くな」
――認めろ、矛盾しているって。
――碌に取り繕えていないのに、しがみ付き続けるな。
「うるせえ適当な事を言ってんじゃねえ! おれには必要ない平気だ黙ってろ!」
辛い苦しい寒い違う寂しい嘘だ平気だ不要だそんな物は捨ててしまえ。
痛い痛い体中が痛い頭が割れそうだ寂しい暗い見えない聞こえない。
頭がガンガンする。何かが足りてなくて、孤独感がひどく恐ろしく思えて来る。
声は止んだ。一体なんだったのか分からない。あるいは自分の弱さが生み出した幻聴なのか、それとも別の何かなのか、いずれにしろ必要ない。不要だから捨てれば済む事。
とにかく寒い、血を流し過ぎた。手足の震えが止まらない。慣れ切った筈のベルの声が聞こえない。何故か物足りない。あいつはどこに行った? 戻って来い。
胸の奥に不思議な虚しさがある。適当なもので埋めておこう。寂しく感じているのは気のせいだ。
「ジン兄……」
冷え切って感覚が半ば消え失せていた体に、ふと温もりが伝わって来る。
誰かがおれに触れている。熱が体の下に移動して、這っていたおれの体が持ち上げられる。背に、顔に、胸にも温もりが伝わって来る。誰かがおれを抱擁している。一体誰だこれは?
「大丈夫だよ、ジン兄。今まで寂しかったよね、辛かったよね。ごめんね、助ける事ができなくて。でもジン兄は1人じゃないよ、ここに私が居るから。ミネアチャンだって居るし、お姉ちゃんだって居るよ。皆が居るよ。だから泣かないで、絶対に助けるから」
泣き声で紡がれた言葉が聞こえる。何と言っているか良く分からない。こいつは誰だ、何で泣いている?
それともこれも幻聴か? おれが作り出した、まやかしのものなのか?
「邪魔」
なら不要だ。邪魔なだけだ。弱さなど必要ない。
捨ててしまえそんなもの。
「ジンっ、兄……!」
手が柔らかな腹を貫いて、暖かい血肉と内臓を掻き回す、いやに鮮明な感覚が伝わる。良くできた幻覚だ。
「大ッ、丈夫、だから……」
声が消えて行く。耳障りな幻聴だったが、捨てた以上はもう聞こえて来る事も無いだろう。これですっきりした。
じゃあ、戻るとしよう。
地上よりも遥かに高い階の、窓際に置かれた椅子の上に腰を掛け、窓辺に肘を置いて下界を眺めたまま、リグネスト=クル・ギァーツは微動だにしない。
そしてその姿を、10歩ほど離れた位置で、ティエリア=メリア・ルートゥレアは見ていた。
(一体、いつまでそうしているつもりなのでしょうか)
それが彼女が抱いている、目下の疑問だった。
常人なら死んでいるような重傷の状態で、リグネストが治療を求めて来たのが数日前。
即座に王都に対して襲撃を仕掛けて来た者たちの1人だと、彼女は気付いたものの、相手が傷付いている以上は断る理由もなく治療したのが数日前。
その後から今に至るまで、リグネストはひたすらその場に居座り続けていた。
と言っても、迷惑が掛かっている訳ではない。何せリグネストは、彼女が提供した食事を取る時でさえも動かず、精々が湯浴みの時に移動する為に動くぐらいで、それ以外の時はずっと下界を眺めているだけなのだから。
それ故に、迷惑だと言って追い出す事も――仮に迷惑だったとしても、言わなかったであろう事は想像に難くないが、ともあれ奇妙な同居が続いている状態にあった。
「ティア、入るわよ」
そこに沈黙を破るかのように、アルトニアスが入って来る。
聖女に与えられている私室故に、本人が許した者しか入る事はできず、そして例え親しい間柄である彼女でさえも、武器を携帯して入る事は許されない。
それ故に今までリグネストが居る事が騒ぎになっていないのだが、さすがに丸腰でリグネストに挑むほど無謀ではないようで、それでも入室時にリグネストが居るのを見て、あからさまに顔を歪める。
「……あんた、まだ居たんだ」
「ああ、邪魔をさせて貰っている」
明確な敵意と嫌悪感を向けるなど、彼を知る者からすればとてもできないような偉業を行い、そして向けられている者自身もどこ吹く風で、淡々と「家主に許諾を得ているからな」と続ける。
「それで、何時まで居座るつもり?」
「……心配する必要は無い」
数度目に渡る問いに対して、明確な答えを得られた事は無い。
だが今回に限って戻って来たのは、それまでの定型文とは違っていた。
「距離と徒歩の速度、それと警戒の厳しさから計るに、今日中ないし明日までには到着するだろう。そうすれば、ここにオレが身を潜めている理由もなくなる」
「つまり、早ければすぐにでも立ち去るという事ですか」
「そうなるな」
リグネストの回答を意外に思い、つい内心の言葉をティエリアが吐露する。
その言葉を不快に思う事もなく、リグネストも嘘くさい微笑を深めて答える。
「結局さ、あんた何の為に襲撃なんて仕掛けて来た訳?」
「トーニャ」
「構わない。抱いて当然の疑問だろう」
物怖じしない態度を気に入ったのか、憮然とした態度での問い掛けを窘めるティエリアを、リグネストが制する。
「襲撃の理由の半分は、それがゾルバからの依頼だからだ」
「それ、言って良い訳?」
「問題ないだろう。依頼の条項に、守秘については無かったからな」
本来ならば書くまでもない事を、書いてないのを良い事に、あっさりと肯定する。
「もっとも、それを主眼に置いて動いている奴など、オレはおろか身内にも居ないだろうがな。そっちはあくまでおまけで、もう半分が本命だ」
「あなた方には別の理由があり、その隠れ蓑として都合が良いからゾルバの方から依頼を受けたのであり、それ故にそれをバラしても問題がない……そういう事ですか?」
「少し違うな」
多少の呆れを含んだ言葉を、リグネストが訂正する。
「まず、先なのはゾルバの依頼の方だ。結果的にそう見えるというだけで、ここに来た本命の目的はその後に見付けたものだ。
そしてオレとオレ以外の奴とで、本命の目的は違う。身内の連中の目的は、オレの目的の妨害だからな」
「はあ? 仲間なのに、一体何でそんな事をする必要があるのよ?」
後半の言葉が余程意外だったのか、思わずアルトニアスが声を上げる。ティエリアも内心は同じようで、その無礼な物言いを窘める余裕も無いのか、驚きに微かに目を見開いていた。
「仲間の方が止めようとする程の、あなたの目的とは何なのです?」
「昔、良く自分を探した時期があった」
ティエリアの言葉に返って来たのは、何の脈絡も無い言葉。言いたい事の意図が掴めずティエリアは眉を顰め、アルトニアスに至っては、ついに狂ったのかという突拍子も無い事を考え始める。
「自分探しとは、思春期の少年少女が行うものだ。自分は何者であるか、自分とはどんな人間なのか、自分はどんな大人になりたいのかという枠組みを模索する、通過儀礼みたいなものだろう。オレにもまた、そういう時期があったという事だ」
2人の反応などお構いなしに、リグネストは淡々と言葉を続ける。
「ただ、殆どの少年少女は自分を探すという事に成功する。稀に見付け出せずに大人になる者も居るが、そんな者は少数派に属する。だが、オレという少年は少しばかり前提条件が違っていた。
まず、オレにはどうにも他人の行う、理由すら語る事もできないほどに当然の行為も、自分に対して適応させる事に違和感を感じて仕方がなかった。別に面倒であるとか、嫌であるという訳でもないが、とにかく実感というものが欠如していた」
そこに来て両者は、ようやくリグネストが行っている事が、自分語りであると気付く。唐突にそれを始めた理由も、ここに来た理由の本命に関連しているのだろうと考え、動揺を仕舞い込んで聞き入る。
「殴られれば痛いし、快楽だって感じる。人間には喜怒哀楽があり、それは自分にも当て嵌まる事であり、それら全てが他人に対して適応されるという事も理解できていた。
人間的欠陥を抱えた者――所謂サイコパスには感情の欠如があり、それ故に他人の気持ちが理解できないと良く語られているが、少なくとも自分がそれに当て嵌まらないと断言できる。当然、サイコパスでないというのにも同様だ。他人の気持ちが理解できるし、分析もできる。
ただ、それら全てに実感が伴わず、自分の事とは思えないという事が問題とも言えた」
最後の言葉を、どこか寂しそうな口調で語り、即座に普段通りの嘘くさい笑みで上塗りする。
「言わば、常に他人を見ているかのような感覚だ。リグネスト=クル・ギァーツという人間が別に居て、自分はそれを常時観測しているだけに過ぎない、そんな錯覚すら覚える感覚だ」
言ってしまえば、究極的な客観性だった。自分を主観を微塵も交えずに見る事ができる、そしてそれが意図せぬ結果であると言っていた。
「そして調べてみれば、実際にそういう精神的異常を抱えた人間の症例も出て来る。最初は、自分がその類なのかと思ったが、分析してみれば違う。そうした人間に共通して、感情というものが沸き上がらない特徴があるからだ。そしてその事を疑問に思いながらも、自分自身を疑問に思う事は無い。当然だ、でなければ自分の抱える問題に対する答えを得られないのだから」
「だけど、あんたは違うって?」
どこか猜疑心を含んだ言葉。無理も無い。既にそれまでの話だけでアルトニアスにとっては、リグネストが自身の語った異常者の仲間にしか見えなかった。
リグネストもそれを察しながらも、気を悪くした素振りも見せずに頷き、肯定する。
「さっきも言った通り、オレには感情がある。喜怒哀楽がある。他人の気持ちも分かるし、理解できる。例えば――」
それまでずっと座していたリグネストが、その日初めて動き出す。
いつの間にか移動したのか、それをその場の少女たちはまるで分からなかった。代わりに結果として、抜き見のナイフをアルトニアスが首筋に、何時でも殺せるという意思表示の為に押し付けられているという事だけは理解できた。
「こいつを殺せば、お前は酷く悲しむだろう」
リグネストの言葉はティエリアに向けられていた。
「親しい者、あるいは近しい者が死んだ時の悲しみは、決して言葉で形容し切れるものではない。悲しみは胸を物理的に引き裂きそうなほどで、涙を流し、何かしらの後悔と自責の念に襲われる。その後も一生残る爪跡を残す。ましてやオレは、他人がそれに襲われているのを楽しむような、異常性癖も持ち合わせていない」
ナイフを引っ込め、何事もなく椅子へ戻り、腰を下ろす。その際ティエリアには、彼が微かにだが寂寥感に襲われているようにも見えた。
「だが、それでもそれらを、自主的に覚える事ができない。大抵の者は、そうした事態に遭遇した時、即決的感情としてそれらを抱く。だがオレには、即決的ではなく、何かしらの過程を経ねば抱く事ができなかった」
そこで一端言葉を切り、勘違いしないで欲しいがと、付け加える。
「オレが冷徹な計算の下、そういう演技をしている訳でもない。ましてや、平時において感情を忘れているという訳でもない。常に自分の物としてそれは側にあり、状況に応じて自然と出て来るものだ。
単にその自然に出る際に、一拍必要と言うだけで、それ以外は他の者と何1つとして変わりはない」
そこだけを抜き取れば、全ては自身の問題であり、表面的な面だけを見ればおおよそ一般人と大差ない、平凡な人間だという主張。
その主張も、続く主張によって即座に翻される。
「違うのは、主観がある一方で、他人事のように覚えるという余計な点だけだ。ひたすらに実感の湧かない、だが紛れもない現実味のある世界に生きて来た。そしてそれを、オレは幼少期から自覚していた」
リグネストにとり、それこそが最大の問題だった。
「話は戻るが、オレの自分探しとは、何故自分がそうであるかというのを探すものだった。殆どにおいて決まっている筈の方向性から、大幅にずれているそれを強いられざるを得ず、また皮肉な事に、大人になっても見付かる事はなく、それ故に大人になってからも続いていた。
傭兵になったのも、それが理由だった。野蛮な職だと思われがちだが、その実傭兵は、他人との接点が非常に多い職だ。雇用主に、仲間に、敵に、荒事を通じ幾つもの国を越えて繋がるのが傭兵だ。そして何より、自由が利く為に寄り道も容易な職だ。
そうして多くの他人を見ていれば、そのうち自分というものを見付けられる日が来るかもしれない……そう思ったのが切っ掛けだった」
多方面に突出した能力を発揮するリグネストには、無数の選択肢があった。そしてそのどの選択肢であっても、歴史に名を残すほどに大成したであろう事は、想像に難く無い。
にも関わらず傭兵として生きたのは、思春期の延長線上、自分探しの旅の一環だったという、同業者からすれば首を傾げるであろう理由からだった。
「国の定める法から、ある程度解放される傭兵となってからは、様々な事をした。困難に直面した他者を助け、心を通わせた事もある。助けた女が恩返しとして献身的に世話をしてくれ、情が湧き、愛を語らい一夜を共にした事さえもある。それに対する感想も、おおよそ一般人のそれと変わりが無い。
そして同時に実感が湧かず、他人事のように思えていた事もやはり、変わりが無かった。主観と客観が常に両立し、歳月を追うごとに自分が正常からは外れたという事を、やはり他人事のように強く感じて行った」
「あなたの話を纏めますと……」
話が終盤に近付いている事を感じ取り、推測で行き着いた結論を先回りする。
「今回のこれも、その延長線上であると、そういう事ですか?」
「概ねその通りだ」
「何よそれ。どう考えても、狂人の理屈じゃない」
嫌悪感たっぷりに吐き捨てるアルトニアスの言葉にも、やはりリグネストが不快感を示す事は無い。それどころか、我が意を得たりとばかりに首肯する。
「その通りだろう。大衆の共通した価値観からは、明らかに外れている。そんなオレは普通からは懸け離れた異常なのだろう。何せ傭兵という世界の価値観でさえも、オレは外れている。一般的観点から言えば尚更だ。それぐらいは自覚している」
アルトニアスに事実を突き付けられたとしても、それ自体が既にリグネストが自覚している事であり、痛痒を今更覚える事でもなかった。自分の言葉に相手は一切堪えていないと分かり、臍を噛む。
一方で感情が先走った彼女とは違い、ティエリアの目にあるのは、冷静な分析の色。
「あなたは確かに異常です。ですが、少なくとも狂人では無い」
その言葉に、初めてリグネストがティエリアに対して、興味の色を宿す。
「少なくともあなたは、社会において何が悪い事で、越えてはいけない一線というものを理解できていて、それらを遵守できている。社会に迎合する事ができる」
「それらを実践している、所謂潜在的サイコパスという者も居る筈だが?」
「あなたが自分自身で言ったように、あなたは決してサイコパスなどという安易な存在ではない」
試すかのようなリグネストの問いにも、ティエリアの瞳に揺らぎは無い。
「良心が欠如している訳でもなければ、必要ならばそうできるだけで、他者に対して冷淡でもない。確固たる意思で自制が利き、責任感も持ち合わせている。
何よりあなたには、人の心がある。計算ずくのものではなく、本心で他人に対して優しさを向け、実践できる。そんな方が狂人である筈がない」
「だが、異常ではある訳だ」
「上手くは言えませんが、あなたには、何と言うか……」
迷う素振りを見せて、自分の頭の中で、最適な言葉を模索して行く。
「主体性が無いのです。究極的なまでに、それが欠如している」
リグネストの目が見開かれる。瞳はティエリアを見据え、続けて何かを探るかのように、明後日の方向へと向けられる。
「主体性が無い、か。幼馴染もまた、オレをそう評したな。言い得て妙だ。確かにそれが、自己分析の結果に最も合うものだろう」
「あなたは話始める時に、自分探しを、思春期の者が行う通過儀礼――言わば、行って当然のものと定義しました。それこそが、あなたがそれに同調して行ったという内心の表れの、証左に違いない」
他人がそうするから、そうする。そして探しものを見つけるのが当たり前であり、それが未だ見付かっていない。だから延長線上として、今も尚探し続けている。
リグネストの話を集約すると、それだけの事に尽きていた。
「ただそれだけの事で、そこまで行き着いた貴方は、狂人ではあり得ません。良くて異常であり、人の定義では当て嵌められない。まるで――」
「怪物のようだ、か? 良く言われる言葉だが、理解の放棄から出た言葉に他ならないな」
少し前にも同じ事を言ったなと、嘘くさい苦笑を浮かべる。
「お前の言う通り、少なくともオレは異常ではあるのだろう。そして皮肉な事に、だからこそ本来は収まっている筈の理の領域から、逸脱する事となった」
そう返すリグネストの目には、冷徹な分析の色。
目の前の苦々しい表情を浮かべるティエリアを解剖し、理解しようという研究者のものとなっていた。
「オレをお前は異常と評したが……オレから言わせれば、お前こそが異常であり、正常ではない何かだ」
「なッ、あんた、ティアに何て事を――!」
「それはどういう意味でしょうか?」
友人を貶める言葉に激発し掛けたアルトニアスを制し、冷静に問い返す。
「オレは今まで傭兵と生きて、4738人の強者と、163体の魔族、さらには1207体の知性ある高位の魔獣と、他数万から数十万もの相手と関わって来た。それらを区分分けした時、お前が当て嵌まるのは……」
男が言い淀み、続ける。
「身内に【忌み数】と呼ばれている連中が居る。早い話が、世間一般が言う頭のネジが外れた連中の、さらに数倍ぶっ飛んだ存在だ。お前を振り分けるとするならば、その区分だ」
「それはつまり、私もまた怪物であるという事でしょうか?」
「だからそれは、理解の放棄から出る言葉でしかない。そしてオレは放棄したつもりはない」
【忌み数】――ミズキアやレフィアを筆頭とした、異常者集団と同類と認定できた時点で、理解はできているという判断の下、認識の誤りを訂正する。
「問うが、何故お前はオレを治療した? オレが今回の騒動の首魁であると、理解できていただろう?」
「それが当然の事だからです」
「当然として受け止めた、その理由を問うている。やらねばならない義務感でもなく、立場から来る体外的面子を守る為の行為でもない。かと言ってお前には、聖女と呼ばれながらも、信仰心など欠片たりとも持ち合わせていないだろう?」
「…………」
「にも関わらず、お前はオレを治療し、あまつさえ自分の私室に居座る許諾を与えている。そうすれば、オレが害悪を周囲に振り撒くであろう事は想像に難く無い。おまえ自身に何もメリットはなく、不利益しか齎さない。だが結果は現状の通りで、それを心の底から当然の事と思い込んでいる。一方でその思い込む根源が曖昧で、正常から余りにも乖離し過ぎている」
「……あなたは」
誰にも明かした事の無い、肩書きを考えればあり得ない信仰の欠如まで指摘され、またそれを数日で看破したリグネストに対する警戒を向けながらも、相手がそんな疑問を抱いているという事に対する反抗心で、言葉を紡ぐ。
「あなたは知っていますか? 何の見返りも求めず、それどころか知らなかったという事を差し引いても、結果として自分の一生を左右する不利益を被ってまで、他人を救う事ができる人が居るという事を」
ティエリアは目を閉じ、過去の情景に思いを馳せる。
『大丈夫だ、君は死なない。絶対に助ける』
そんな言葉を反芻し、目を開く。
「私は信仰心を確かに持っていない、それは事実です。何故なら神など信じていません。ですが、教義は信じている。例え人によって俗世の欲に塗れたものであっても、その文だけは信じる事ができる。それが私の揺るがぬ信念であり、あなたの疑問に対する答えです」
「不合理だな」
確固たる意思を持って紡がれた言葉を、リグネストはあっさりと切り捨てる。
「そんな事をしても、殆どの者にとっては得にならない。そんな事は理解できている筈だ」
「それでも私の信念に、変わりはありません。そもそも、それら全ては不特定多数に対してではなく――」
言葉の途中で、リグネストが弾かれたように窓の方へと振り返る。それに気を取られて、ティエリアも言葉を切ってしまう。
「……やっと来たか」
次に浮かんだのは凶暴な笑み。それも普段の嘘くさいそれではなく、真に迫ったものがあった。
「来たぞ来た。ようやく始まるぞ。宴が、20年越しの本祭が!」
次回予告
理脱者たちは追憶の場にて酒杯と議論を交わし、時を越えた場で語り合う。他方で老将は意思に殉じようとし、竜の主はそれを阻まんとする……みたいな。
戦闘パートに一区切り付いたらまた戦闘パートになるそんな話。