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混罪③

 



 喰われて消失した箇所を能力によって再構成。さらに皮膚の付属器官である筈の鉤爪を強引に再現して一閃。童話に語られているような、地を割る竜の斬撃とまでは行かないものの、地面に深い爪跡を刻み、氷砂の砂塵を巻き上げる。


 煌く粒子を斬り裂いて、黒影が飛翔。掌打を構えたエルジンが、胸郭の中に収まる【諧謔】へと飛燕のように迫る。それを迎え撃とうと反対の左の鉤爪が掲げられる。

 同時に、竜骨の背後からルシファーが地を這うように走る。疾走の勢いを緩めることなく、背上で剣を旋回。擦れ違い様に竜の後ろ脚を切断。

 突然四肢の1つを失い、必然的にバランスを崩した竜の体が傾く。振るわれた鉤爪はエルジンの傍らを通り過ぎて空振り、またエルジンの虎爪も狙いを外し、右前脚の上腕部を削り取る。


 攻撃に失敗した【諧謔】は、咄嗟に振るった前脚を崩れかけた体勢を支える為の支柱とする事で転倒を防ぐ。しかし間髪入れずに、その腕をルシファーの斬撃が切断。

 支えを失い完全に転倒したところに追撃の刃が迫り、胸郭内の【諧謔】の腕を切断し、即座に後退。切断された義腕が変形した獅子の反撃から逃れ、直後に襲来したエルジンの掌打を受ける。

 【暴食】の口に得物が喰われる前に、剣を翻して弾き返し、斜めに跳ねる。その後を追ってエルジンが反転しようとして、停止。巨躯に反した身軽さで跳躍した竜の下敷きとなる事を、寸前で回避。


 氷原に亀裂を入れて身を沈める竜の内部から、【諧謔】が能力を使って失った義腕を修復すると同時に、外殻を再構築。竜を模した骨格標本が能力の影響下に置かれて変異。翼は四肢と共に退化する一方で、長い首は胴体に併せて肥大化し、尾もまたそれに続く。また全身の隙間を埋めるように、個々の骨も増大。隣接する骨と触れて結合し、肉を再現。さらに滑らかな表面に微妙な起伏が形成されていく。

 完成するのは、肉や鱗も骨で表した大蛇――否、頭部だけは竜のそれのままである為、亜竜目に属する蛇竜と呼ばれるもの。あくまで贋物であるのにも関わらず、まるで本物のような動作で鎌首を擡げ、上空から牙を剥き出しに襲来。

 蛇の外見からは想像もつかない俊敏な動作を、ルシファーが横に跳ねて回避。即座にその後を、水平移動に移行して追撃。呑み込もうと開かれた大口を刃で受け、突進の勢いを殺し切れずに後方に押し込まれ、地面に轍を刻む。


 しばらく蛇行を続けていた蛇竜が、顎を跳ね上げ相手を掬い上げる。予期せず宙を舞う羽目となったルシファーの後を、鎌首が上空まで追い縋る。白濁色の顎が閉じられ、牙が赤く染め上げられる。

 空中で大罪王の腕が一閃。達人の太刀筋が自身の体を拘束する楔を首から切断。そのまま解放される筈が、顎の力は微塵も緩まない。

 それどころか、切断された頭部が喰らい付かれた大罪王ごと落下を始めた直後に、胴体の断面から繊維の束が伸びて頭部の断面と繋がり、収縮して元通り接合する。


 あくまで蛇竜の姿は能力によって再現された、仮初の物。例え生物にとって致命的な斬首を受けようとも、魔力による遠隔操作によって動く偽造生命体にとっては致命傷足り得ない。

 供給される魔力が尽きぬ限り、その活動を止める事は無く、その拘束を振り払うのは困難を極める。


 だが、大罪王にも不可能な芸当を可能にする、人ならざる者がその場にはもう1体。


「【舌食ぜっしょく】」


 接合したばかりの頭部が、荒々しい断面と共に地面ごと接合部を抉られて再び分離。頭部を失った胴体と共に力無く落下し転がる。

 自律的に動いていたように動いていたのも、内部に収まっている【諧謔】の魔力があってこその事。操作の為に張り巡らされていた魔力も根こそぎ喰らわれた為に、一時的にとはいえ支配が効かなくなり、接合するもできなくなる。


 勿論即座に内部の【諧謔】が魔力を張り巡らせれば済む話だが、その前に牙に囚われていたルシファーも、咬合力が緩んだ隙に脱出。


 離れた場所でそれを実行したエルジンは、既に反対の手を振り被っている。その手の平にも、同様に【暴食】の口。


「【吐轟どごう】」


 舌先から放たれた、指向性を持った魔力の奔流が、一度は力無く倒れながらも、魔力によって再び身を起こした首無しの胴体を呑み込む。


 本来ならば【操骨】の能力の耐性の高さ故に、大した効果は望めないであろう筈のその一撃。

 だが放出した魔力量が多かった故か、はたまた侵食が相当に進んでいた為か、その威力は耐性を軽々と上回るほどとなる。奔流が収まった後には胴体の残骸の影も形も無く、徹底的な破壊の後が広がるのみ。


「嗚呼足りないわぁ、あとどれくらいかしらぁ。ねえ、歪んでるよお? それはどっち? きっと世界の方だ、ボクは悪く無い。それじゃ駄目だ、おれだけじゃ敵わない。死ぬな、死にたくない、死なないで、1人にしないで、返せ、出セッ! オレをここから出セッ! おれに返せよォッ!!」


 互いに邪魔者は居なくなったとばかりに、混罪者と大罪王が激突する。

 大剣と鋼刃が衝突。翻って腕が突き出され、鋼刃が大罪王の眼球を狙う。紙一重で身を捻ってそれを避けた大罪王の刃が、カウンターとして叩き込まれる。直前に鉄の皮膜が胴を覆うも、斬撃はその皮膜を突破。

 即座に切り口が【暴食】の顎に変じ、歯で刃を挟み込む事で両断される事を阻止。腕を払って相手の頚動脈を狙うも、超反応で大罪王の腕が捻られ、拳が腕を弾き飛ばす。


 剣を挟まれながらも、腕力だけで相手を持ち上げ、地面に叩き付ける。衝撃で咬合力が緩んだ隙に刃を引き戻し、切っ先を頭を目掛けて突き落ろす。

 間一髪で回避したエルジンが、上体を持ち上げ咬撃。首の肉を頚動脈ごと喰い千切る。血が噴出して体が揺れた隙を突き、腕で足を払い転倒させる。


 直後に、傍らに転がっていた蛇竜の頭部が断面からイバラが噴出。幾条もの白縄が地に転がる両者へと殺到し、まるで明確な意思が宿っているかのように、近い距離に居合わせている両者のうち、片方には目もくれずに混罪者を呑み込み、捩り合わさって一体化して行く。

 当然エルジンも、為されるがままではない。自分の体に絡み付くそれらを喰らい、引き千切って抵抗する。だが処理能力にもあっさりも限界が訪れる。


 結果、その場に巨大な大樹が形成され、その内部にエルジンは取り込まれる。

 現実のものに当て嵌めれば、樹齢数百年は超えるであろう巨樹であるが、色は白濁したものであり、また樹表には取って付けたような同色の蛇竜の頭部が生えている。その中に捕らわれたエルジンは、唯一首から上だけは呼吸の為か露出していたが、それ以外の体構造は樹木の中に完全に収まっている。


「バーカ」


 それまでのくぐもったものとは違う、良く通る澄んだ声が響き渡り、場違いな蛇竜の口が上下に開く。

 内側から顎を押し広げ、普段身に纏っている装甲の全てを外した【諧謔】が飛び出し、着地。しゃがんだ体勢のまま新たに装甲で身を包み、手で素顔を覆って振り返る。

 指の間から覗く、切れ長の猛禽類を想起させられる眼光が、樹木に捕らわれたエルジンを見据える。


「無駄だ。いくら喰おうが、こっちの魔力が尽きない限り、すぐに魔力が供給されて修復される。少なくとも当分の間はそのままだ」


 朗々と言葉が紡がれる間にも、樹木の中でエルジンは周囲の壁を削り飲み込むも、即座に周辺の残る骨が肥大し隙間を埋める。


 勿論、それだけの事を成すには相応の魔力が必要となる。いくら【操骨】が然程魔力を必要としない能力であろうとも、その行為は穴の開いた容器に水を注ぎ込み続ける事に等しい。

 その無茶苦茶を成立させられる程の膨大な魔力を【諧謔】は保有していたが、それでも長い間は持たないだろう事は明白だった。


「邪魔者を消す間、ジッとしていろ」


 顔に張り付いた手の下で仮面が作られ、素顔が覆い隠される。それが合図であったかのように、体から殺気が放射され、粘液めいた不快な感覚を周囲の空気に満たす。

 その殺気を向けられた大罪王は、僅かに身を震わせる。感情の殆どを宿していないのにも関わらず見せたその反応は、姿を模した対象故のものなのか。


「「「【諧謔】ゥ……」」」


 押し潰された、だが間違いなく複数の発声源によって紡がれた言葉が空気を震わせる。

 だが聞く者に感じさせるその違和感は、振り返る理由とするのには十分。反転した【諧謔】が目撃したのは、しばしの間は持つだろうと考えていた拘束が、幾本もの舌で削られ、舐めとられる光景。


「不味いし固い」

「こんなンじゃ全然足りネェッ!」

「血ヲッ!」

「もっと寄越せ渡せ返せ!」

「肉ヲッ!」

「化物め……」


 頬に、首に、腹に、本来備わっているのとはまた別に口が生まれ、それぞれが独立して言葉を紡ぐ光景。

 それぞれが【暴食】の権能によるものである事は、疑い余地もない。しかし、同時に本来の権能の持ち主であったベルゼブブに、個々の口に独立した意志を持たせ、言葉を紡がせる等という芸当はできない。

 裏返してみればそれは、それだけ侵蝕が進んでいる、人でなくなっている事の証左でもあった。


 いずれにしろ、余人にとってそれは、醜悪としか言いようの無い光景であり、それを見た【諧謔】も微かな嫌悪感を滲ませていた。


 もっとも、そんな感慨を抱いたのは【諧謔】だけであり、その隙を好機と捉えてルシファーが襲い掛かる。

 否が応でも対応する為に、迷いを振り払って剣を受ける。

 必然背を向ける形となった【諧謔】へ、容赦無くエルジンが襲撃。先程までよりも、更に数段上の速度で突進。迎撃の為に振るった左の裏拳を、肘ごと捥ぎ取る。


「くッ……!?」


 一旦距離を取り、義腕を再生させようにも、張り付いたルシファーがそれを許さない。それどころか、エルジンの速度に適応し、更に速度を上げて追撃。隻腕で全てを受け切る事は困難で、撃ち漏らした剣戟が胴体の装甲の随所を割り、鮮血が溢れ出す。


 舌打ちして、体の前面から獅子と竜の従魔を連続生成。更に背面から、骨組みだけの蝙蝠を幾羽も生み出し、エルジンを牽制。強引に距離を取る。


 さらに腕の再生と並行して、新たに骨格の死神を創造。高さにして5メートル近い巨躯が瞬く間に完成し、大鎌が振り被られる。

 三日月の弧を描く鎌の斬撃を、ルシファーが受ける。凄まじい轟音が響き、氷原の大地に亀裂が刻まれる。

 両者が噛み合ったのは一時のみ。すぐにルシファーに軍配が上がり、大鎌が跳ね上げられる。死神の体勢が崩れた隙を逃さず一閃し、縦に両断。


 崩壊し落下する骨格の残骸の隙間を縫い、【諧謔】が落下強襲。ルシファーの刃が迎え撃ち、反動でもう一度跳躍。

 遅れて横から襲い掛かった混罪者が、大罪王と交錯。互いの体を貫き合った瞬間、落下していた骨格の残骸が震え、隣接する残骸と結合して体積を増やしつつ変形し、両者を捉える檻となって地面に深く根を張る。


 しかし、両方にとってそんなものは、拘束し得るものに足り得ない。即座に破壊され、檻の中から飛び出す。一瞬遅れて【諧謔】が上空から落下し、もぬけの殻となった檻にトドメの一撃を当て、完全に破壊する。


 結果として、ルシファーとエルジンに挟撃される位置へと、自ら飛び込んだ形となる。

 そして当然のように、着地した隙だらけの瞬間を逃す事は、例え理性を失っていてもあり得るはずも無い。


「愚図が」


 【諧謔】が短く吐き捨てると同時に、混罪者と大罪王、挟撃しようとした両者の動きが止まる。両者の足には、従魔の蛇が地中より頭を出し、牙を喰い込ませていた。


 その従魔は、檻と同様に先程破壊された死神の残骸を用いたもの。

 直前の檻は、両者の拘束を目的としたものではなく、視界を制限し、散らばった残骸の一部を従魔として再利用する瞬間を、見られないようにする事が目的だった。


 上と来たら下という、戦いにおいて常道の戦法。ある程度の実力を持つ者が相手ならば、早々そんな戦法は通用しない。ましてや、その手法に慣れている者ならば尚更だった。

 だが【諧謔】が相対する者は、片方は人ならざる大罪を司る悪魔の成れの果てであり、もう片方は元人間ではあれど、現在は正気を失った人ならざる領域に足を踏み入れし者。例えこのうちの後者が同じ手を少し前に喰らっていたとしても、その記憶など残っている筈もなく、魔族が人の戦法を知る由も無い。


 加えて【諧謔】はは今までにおいて、再三に渡って正面、あるいは上方からの攻撃を仕掛ける一方で、下からの攻撃は一切用いなかった。

 そうして両者の無意識のうちに、下方からの攻撃は無いという認識を刷り込んだところでの、この一手。その手は両者に対して、【諧謔】が想定した通りの結果を齎した。


 もっとも、次からは同じ手は通じない。それは【諧謔】も理解している。だかこそ、決定的な機を窺っていたのであり、確実に決める覚悟だった。


 背後の大罪王には目もくれず、目指すは正面にて動きを止めているエルジン。得物である大剣を持つ右手ではなく、左手の五指に力を込めて構える。

 狙うのはその胸の中に収まる心臓を抉り出す事。


 既に戦いを通じて、心臓をただ破壊したところで決定打にならない事は理解している。ならば体外に排出してしまえばどうかという、勘にも近い推測による決断。

 しかしその手は、知る者からすればこの上なく正しい一手でもある。


 今のエルジンに至る変異を齎した原因は、他でもない大罪王の体構造である。その原因を取り除けば元通りとなるなどと単純なものではないが、それらの均衡が崩れ去り、人の領域を侵食されて人としての存在を保てなくなったことが、大雑把な概要だ。その領域を侵す勢力の根源が取り除かれれば、人の領域は元の領域を取り戻し、元の存在に戻り得るだろう。


 だが正しくはあれど、上手く行く保証は無い。そもそも混罪者に至る事自体が、本来ならばあり得ない事なのだ。

 通常ならば人の領域は瞬く間に魔の領域に侵食され、呑み込まれて変異を来たす。だがエルジンが複数の大罪王の体構造をその身に宿していたが故に、互いの体構造が互いに牽制し合い、一時的に新たな均衡状態を生み出す事で人としての領域を保てているからこそ、そうなる筈の結果には至らず現状に落ち着いている。

 心臓を抉り出せば、少なくとも【暴食】の領域は消えて無くなり、あわよくば【憤怒】もそれに続き得るだろう。だがそうしてできた空白地帯を、人が己がものとできるかどうかは、また別問題だ。

 下手をすれば、残る魔の領域のいずれかがその領域を全て侵食し、そのまま他の魔の領域や、人の領域さえも全て呑み込みかねない。そうすれば待っているのは、人ならざるものに変異するか、もしくはそれに耐え切れずに死ぬかのどちらかのみ。


 そうでなくとも、また新たな均衡状態が築かれ、混罪者のままであり続ける事になるだろう。そして仮に人として取り戻す事ができたとしても、心臓を抉り出されたという事実が無くなる訳でも無い。その時にエルジンがどのような状態にあるかは不明だが、仮に再生能力を失っていれば、やはり死ぬしか無い。


 かと言って、他に手がある訳でも無く。そもそも【諧謔】自身にそんなややこしい事情など知る由も無い。

 ならばそうと決めた以上はそうする為に動く以外に、選択肢は無い。


「遅い」


 エルジンも、そしてルシファーも足に喰らい付いている従魔を排除しようとするが、僅かに【諧謔】の方が速い。

 相手の懐に入り込み、貫き手が狙い違わず胸を貫く――寸前で停止。突如身を震わせ跳ねる。


 あと少しで目的を達せたのにも関わらず、1度限りのチャンスを不意にしてまで、その行動を取らざる得ない程の圧倒的死の予感が、背後から迫っていた為に。


「誰だ――ッ!?」


 反転した【諧謔】を目掛けて迫る影に対して、誰何しようとして、そんな僅かな余裕さえも瞬時に吹き飛ぶ。


 いつの間に現れたのかも分からず、ただただ圧倒的な速度で迫るその影は、余りにも速過ぎた。

 【諧謔】の動体視力と反応速度を持ってしても、その接近する輪郭の端しか捉えられず、影が手に自分が握っているような抜き身の巨大な剣を携えており、尚且つそれが自分に放たれようとしているという事を、何とか理解できたのみ。

 そして理解できていても反応が追いつかず、また防御も間に合わない。辛うじて能力で装甲を急増させ、厚くするのが精一杯。だがそれすらも、おそらくは無駄な足掻きにしかならないだろう。


 まるで【超感覚】の能力に目覚めたかのように、突如として全てが遅く動きながらも、思考だけは正常に働く世界に置かれて、その一連の考えを巡らせた【諧謔】が選んだのは、相手の放つ攻撃への対応を一切合財放棄する事だった。

 その代わりに得られる、僅かばかりの時間的余裕の全てを、相手に対して剣を振る事だけに費やす。

 相手の斬撃を防ぐ事はおろか、命を繋ぐ事さえも放棄する代わりに、せめて一矢報いる事を、あわよくば相打ちに持ち込む事を目的とした行動。


 その行動も、振るった剣が相手の影を捉えるのと同時に、その影が霞のように消え失せる事で無意味なものとなる。


「……は?」


 仮面の奥で目を見開き、呆然とした表情でマヌケな声を漏らす。

 その反応は眼前で起きた現象が予想外のものだった為――ではなく、非常に馴染みの深いものであったが為。


 ある程度の実力を有する者が放つ殺気が、相手にまやかしの感覚を掴ませる事はままある事だ。

 そしてそれを徹底的に突き詰めると、殺気を向けた相手の五感全てを完全に騙し、存在しない幻影を生み出す事さえも可能とする。

 その幻影が非現実的な存在である以上は、相手に傷を付ける事は叶わない。だが五感を完全に騙されている相手は、実際には斬られていないのにも関わらず斬られたと無意識に思い込み、更には自分の死すら錯覚して現実のものにしてしまう事すらある。


 そしてたった今【諧謔】を襲ったのも、それと同様の現象だった。

 咄嗟に相討ちを選び、影を斬った時の余りもの手応えの無さ故にその事に気付けた為に、その身に幻影の斬撃を受けても死を錯覚する事も、幻痛を受ける事も無かった。


 それだけの殺気を放てる者は、そう多くはない。最低限の前提条件として、理脱者並みの実力を有していなければ、そんな芸当は不可能だからだ。

 現時点において、理脱者と呼べる者は大陸全土を探せども、片手で数えられるかどうかという程に少ない。そのうちの1人が、【諧謔】が属している【レギオン】の団長、リグネスト=クル・ギァーツだった。


 だからこそ、それがそうであると理解できた。既に幾度となく、同じような体験をし、また見て来たが故に。

 だが【諧謔】に、種が分かり、命拾いした事に対する安堵の感情は無い。

 幻影への対応に費やされた時間は、拘束を受けた両者が戒めから脱するのに、十分過ぎる時間だった。


「……クソったれ」


 苦いものの中に、苦笑めいたものを混ざらせて、それだけ吐き捨てる。

 直後に3つの影が重なり、混罪者の手が【諧謔】の頭部をもぎ取り、大罪王の太刀が上半身と下半身を両断する。もぎ取られた頭部も、権能によって完全に喰い尽くされ、消失する。


 頭部を失って、尚も生存できる人間など存在しない。今度こそ【諧謔】の分割された体は倒れ、ピクリとも動かない。


 だが残る2体が、それで動きを止める事はない。

 彼らからすれば、邪魔な敵のうちの片方が死んだだけという認識であり、まだ敵自体はその場に残っている。故に敵を倒したという余韻に浸る事さえもせず、標的を変えて再び動き出す。


「よう、楽しそうじゃねえか」


 その常人が近付く事さえも争いの最中に、まるでピクニックに来たかのような気楽さで、呑気に声を掛けて乱入する影が1つ。


 闇に紛れる事を目的とした外套を被った姿は、性別が男であったとしても、平均を大きく上回る体躯。その外套の下からは、特定の行動に特化して鍛え込まれた腕が覗く。

 微かに確認できる口元には、誰が見てもそうと分かる喜悦に塗れた、非常に暴力的な笑み。

 乱入した場に居る者たちの正体を知った上での事なのか、いずれにしろ、今まさに激突する寸前の両者の間に割って入るという、勝機を疑うような行動と、状況に対して不釣り合いな表情。


 突然の乱入者に対して、理性を失っているが故に疑問を差し挟む事もなく、ただ単に前進する上で邪魔である為、両者ともに一時的に標的を変更。乱入者に対して、剥き出しの殺気を向ける。


 例え戦いに身を置いた事のない常人であっても感じ取り、そのまま心臓を止めてしまいかねない程に強大な殺気を受けても、乱入者の表情は崩れない。

 それに対して躊躇う理由も無く、大罪王が大剣による斬撃を、混罪者が【暴食】の牙による掌打を放つ。どちらも、例え歴戦の兵であったとしても、反応すら許されない速度の一撃。


 それらを乱入者は、躱すどころか、素手で掴み受け止める。

 大罪王の刃は五指で挟み込まれて完全に固定され、持ち主が例えどれほど力を込めようとも、微塵も進まず、また引かない。

 一方混罪者の掌打も、命中する前に手首を掴まれ固定され、さらにその掴む手を喰らわんと新たに牙を形成しても、圧倒的握力でもって、顎が開く事を許さない。


「いよっ……と」


 やや気の抜ける掛け声と共に、そのまま片手で双方を引き寄せ、互いに衝突し合わせる。衝撃で両者が一瞬揺らいだ隙を逃さず、交互に蹴りを入れて吹き飛ばす。


 蹴りの際の力の強弱によるものか、あるいは体勢の問題か、大罪王の方が僅かに早く身を起こす。しかし半瞬早く距離を詰めていた乱入者が、襟首を掴んで地面に引きずり倒す。

 さらに背後を見る事もなく、襲い掛かって来た混罪者の顎を蹴り上げ、振り向き様に殴り倒す。直後の斬撃も、やはり見る事無く回避し、剣を握る腕自体を掴み骨肉を握り潰す。


「ハハッ、何だそりゃ? 誰の真似のつもりだ?」


 苦し紛れの拳も余裕で受け止め、嘲笑と共に拳を叩き込む。

 拳が打ち込まれたと思った次の瞬間には、反対の拳が叩き込まれ、さらにその次にはと、連続した拳が叩き込まれて行く。その回数、計23発。


「無拳」


 ついでのようにそう呟くと同時に、手を背後へ。戻された時には既に、外套の下に隠されていた剣が握られており、眼前に居た筈の大罪王は判別不可能な程細かく斬り刻まれ、血潮と肉片を撒き散らす。


「一丁あがり……っと」


 【レギオン】の団員であり、同時に【忌み数ナンバーズ】に数え上げられていた筈の【諧謔】でさえ、拮抗した戦いを演じる事が精一杯だった2体の人外を相手に、圧倒し、当然のように片方を滅ぼすという偉業を達成しながらも、本人の口振りは軽い運動をしたという程度のもの。

 余裕を見せつけるように関節を回し、凝りを解しながら振り返る。


「随分とイカした格好じゃねえの?」


 へらへらと言う視線の先には、首に、背に、腹に、腕に、手に、幾つもの子供の落書きのような口を形成し、怨嗟と飢えの声を上げるエルジンの姿。

 到底イカした姿程度で片付けられるような有様ではなかったが、乱入者はお構いなしに、言葉を並べる。


「背が大分伸びたじゃねえか。元気か? 飯はちゃんと食ってんのか? 女はできたか? どうせテメェの事だ、碌に周りの事も見ずに勝手に視野を狭めてんだろ。身の程を弁えて、周囲に頼るって事ぐらいは覚えたか?」

「うるさい!」


 まるで古くからの知り合いであるかのような言葉の羅列に、何かしらの反応を示す事も、示せるだけの意思も残っていない。

 あるのはただ、内側に荒れ狂う、出所の不明な感情に任せて暴れるという目的のみ。

 その目的に従って、迷いなく踏み込み距離を詰め、貫き手を放とうとして腕を掴まれる。


 攻撃の失敗という結果に対しても、微塵も気にする素振りも見せず、言葉を続ける。


「誰だお前は、人の事をごちゃごちゃと」

「誰の事を語っている」

「耳障りで不愉快だ、気持ち悪い」

「ボクに構うな、関わるな」

「どうして邪魔をする」

「今すぐどケ、消え失せロ!」

「邪魔をするならば殺してやる!」

「ああッ!?」


 相手の言葉を煩わしく思い、拒絶する言葉の後に続くのは、支離滅裂な言動。それらを不愉快そうに聞いていた乱入者が、最後の言葉に目元をひくつかせる。


「おい、聞き間違いか?」


 突如としてドスの効いたものに変化した声音で、掴んだ腕を握力だけで握り潰し、更に懐に半歩潜り込み、拳を握り込む。


「誰が!」


 そのまま拳を打ち出し、人体を殴ったとは思えない音と共に腹部を打ち抜く。余りの速度に、咄嗟に【暴食】の顎を生み出す事さえも叶わず直撃を喰らい、その凄まじい威力に全身が後方へと吹っ飛びそうになるも、握り潰されたまま固定された腕がそれを許さず、即座に次の拳が打ち込まれる。


「誰を!」


 二撃目は顔面を痛烈に打ち抜き、折れた歯の破片と骨の砕けた鼻腔から噴出する血が宙を舞う。


「殺すって!?」


 間髪入れずに強烈な回し蹴りが炸裂。直前に重い一撃を喰らい、足腰から力が抜けていた事を差し引いてもあり得ない角度と距離で宙に体が浮き、後方へと勢い良く吹き飛ばされる。


「少し見ねえうちに、師匠・・に対して随分と偉そうな口利くようになったじゃねえか……って、もう聞こえねえか」


 伝わって来る音から、辛うじてその方向に吹き飛ばされたのだろうという予測は立つが、どれほど目を凝らそうとも視認は不可能な程、エルジンは遥か彼方へと吹き飛んで行った。


「ああっと……イマイチ加減が掴めねえな。あれぐらいの強さで蹴っ飛ばしても、あいつ大丈夫か? 昔のあいつなら間違いなく即死なんだが、今の状態がどんなもんか良く分からねえからな……」


 やっちまったと、僅かな後悔が含まれた声を漏らし、外套の上から頭を掻く。


「まあ良い」


 だが即座に気分を切り替える。外套の頭巾を鬱陶しそうに取り払い、外界の空気に素顔を晒し、それを楽しむように眼を細める。


「例え元弟子だろうが、俺のお楽しみの時間を邪魔する事だけは、絶対に許されねえ。なあ、リグ?」


 凶暴な笑みを浮かべ、【死神エルンスト】は歩みを再開させた。











次回予告

混罪者は地を這い囁きに囚われ、無邪気な少女はそれを包み、聖女と理の化身が戯れ合う……みたいな。



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