開花する種
あの時の事は、今目の前で起きているの事のように思い出せる。
あの日はエルンストとは別々に依頼を受け、先に仕事を終えたおれは、予め取っておいた宿の部屋でエルンストの帰りを待っていた。
そんな折に、唐突に訪れて来たカインから伝言を聞いた時に、言い様の無い胸騒ぎを感じた。
普段ならば、そんな事はあり得なかった。
例えどんな事態に巻き込まれているのであろうとも、エルンストは最強であり、自力で鼻歌を歌いながら切り抜ける――そんな根拠の無い確信を抱いていた。
カインの言う通り、本当にエルンストが「遅くなる」と言ったのならば、言葉の通り遅くなる事こそあれど、戻って来ない等という事はあり得ない筈だった。故におれは、その時はただエルンストが戻るのを待てば良いだけの話だった。
だがその時に限り、その根拠の無い確信はどこかへと露となって消え失せていた。代わりに、これでもかという程の不安が、次から次へと胸中から全身へ湧き出ていた。
それは泊まっている宿が、王都でこそ無いものの、そこから非常に近いティステア国内のものであった事も関係しているかもしれなかった。
あるいは、伝言を聞いた時に何気なく問い詰めたカインの反応が、珍しく煮え切れない、それでいて何かを隠そうとしている事に気が付いた事が関係しているのかもしれなかった。
正確な事は一切分からなかったが、いずれにせよ、非合理的とも言えるそれに突き動かされるように宿を飛び出したおれは、新月の闇に閉ざされた夜の下を走った。
道中で雨が降り始め、それによって体が濡れて体温が奪われる事すら意に介さず、ひたすら走り続けた。
エルンストを探して、王都を目指した。
そして、瀕死の状態にあったエルンストと対面を果たす事となった。
『オイ、ジン……』
外部へと通じる門の付近に立ち、シアの能力の影響を一部受けている外の景色を眺めながらその時を待っていたおれの頭の中に、ベルの声が響く。
『警告しとくゼ。今ならまだ間に合ウ。引き返セ』
「何でだ?」
唐突とも言える、それも警告という内容の発言に問い返す。
『何でもダ。見ればオマエハ、きっと戻れなくなル。まだ遅くは無いかラ、そうなる前に引き返せという事ダ』
「……まるで、これから何が起こるかを知ってるかのような口振りだな」
『いいヤ、知らねェヨ』
揚げ足を取ったおれの言葉を即座に否定し、ただナと続ける。
『こちとらオマエに引き摺り出されるまデ、外界の事は一切知らネェ。それはオマエも知っているだロ? だが知らねェからこソ、推測して分かる事があル。それが分かるからこその警告ダ』
「そうか。わざわざ無駄な事を、ご苦労な事だ」
『良いから黙って聞ケ。いいカ――』
「黙るのはお前の方だ、ベルゼブブ!」
鬱陶しい意見を、押し殺した声でもって封殺する。
「お前、いつからおれに指図できるようになった?」
『…………』
「おれが上で、お前が下だ。それを忘れるな」
今となっては形骸化してに等しい関係を挙げて、それ以上の意見を許さない。
「おれには確かめる必要がある。そしてその権利がある」
仮説が当たっているのは、まだ半分だけだ。
残る半分が当たっているのか、それとも外れているのか、それを確かめない事には先に進めない。
散発的に響いて来ていた戦闘音は、徐々に近付いて来ている。それは即ち、過去のエルンストが今のおれが居る位置へと近付いて来ている事を示している。
だが、そのエルンストがおれが居る位置まで辿り付く事は無い。それは他でもない、おれが良く知っている。
幻の雨の勢いはますます強くなり、さらに何度目かの戦闘音が響き、天から巨大な雷が落ちた後に静寂が訪れた頃になって、ようやく目的のものが視界に入る。
『アレがオレと会う前のオマエカ。ガキじゃねェカ』
外套で身を包み、雨の中を必死な表情で走る、今と比べて幾分小柄なおれの姿。
まだこの頃は両目とも黒く、髪も同色で、また常に腰には剣を提げていた。動きも今と比べれば大分遅く、そして何より焦燥に駆られている為か、その姿は隙だらけだった。
その姿を見る。どんな些細な変化も見逃すまいと、右眼を見開いて凝視する。
変化が訪れたのは、過去のおれが門を潜った瞬間だった。
「何で……」
仮説が実証される。これ以上ない、明確な形を持ってして。
「何でお前が……」
過去のおれが門を潜り抜けた、その一瞬をさらに分割した、刹那の瞬間の出来事。
普通ならば見逃していた。たまたま通り掛かり、その瞬間を見ていただけならば間違いなく見逃していた。
ただ、おれの本来のそれとは比べ物にならないほどの動体視力を齎す、大罪王の右眼があったからこそ捉える事ができた。
「何でお前が居るんだよ……!」
ちょうどおれの背後の虚空から、音も前触れも無く出現した姿。
灰色の髪に赤い瞳を持った、細過ぎる体躯のそいつは、上半身だけを身を乗り出すようにして顕現させ、その針金のような腕を伸ばしておれに触れていた。
その触れた箇所を通じて、おれの体内へと何かが流れ込むのが視えた。
一連の瞬きよりも短い間の出来事が、右眼には不思議と鮮明なまでに捉えられた。
嘲るかのような歪んだ表情を浮かべた、見覚えのある顔を目にする事ができた。
「レヴィアタァァァァァァンッ!!」
その姿は気のせいだったかのように、出現時と同様に唐突に消え失せ、過去のおれは一連の出来事に気が付くこと無く走り続ける。
そして当時は気付かなかったが、未だに戦闘音は、エルンストの戦闘は継続したままだった。
『……クソガッ、だから言ったんだヨ』
頭の中に響いて来る、吐き捨てるようなベルの言葉もどこか遠くのものに感じられる。
「あ、あああ……」
全身が震え始める。寒気を覚えたのではなく、怒りを覚えた訳でもなく、我知らずのうちに震え始める。
その動作を齎しているのは、最も根源的な感情、即ち恐怖だった。
事実が指し示す現実の非情さ、認める事の残酷さを理解している事から来る恐怖だった。
体重を両足では支えられなくなり、膝を地面に付ける。
それでも止まらない体を、外壁に手を付ける事で辛うじて支える。
「誰の、せいだ……? これは一体、誰のせいだ?」
誰のせいでエルンストは死んだのか。
何が原因でエルンストは死んだのか。
その原因を呼び寄せたのは誰なのか。
したくない、考えたくない自問が重圧を生み、目に見えぬ重石として全身に圧し掛かって行く。
あの一瞬、レヴィアタンが何をしたのか、その目星は付いている。
想起されるのは、カルネイラという男が口にしていた言葉。
エルンストのその強さを、無限のものへと昇華させる無尽蔵の体力。それが成立していたのは、【傲慢】であるが故にだ。
傲慢なものは他人に弱みなど見せない。どれほど疲れていようが、その疲労は表には出ない。表に出ないのならば、それは無いのと同じだ。
故にその体力は無限だ。
強くなる為ではなく、ただ戦いをより長く楽しみたいが為だけに用いられた、エルンストがかつて倒し屈服させた【傲慢王】ルシファーの力。
他にも数多の使い道があったであろう筈の力の一切合財を封じながら、唯一封じる事無く行使していたそれが成立しなくなった。
その体力は有限のものとなった。
何故か。考えるまでも無い、とても簡単な事。移し変えられたのだ。
屈服させ、おそらくはベルと同様に亜空間に置かれていたルシファーの使役権を一時的に。
さぞかし移し変えやすかった事だろう。何せ長年共に居たおれとエルンストとの間には、一方的な嫉妬の関係が成立し得る。
実際にしているかどうかは関係ない。成立し得るという事実さえあれば良い。
それさえあれば、例え移し変える対象が同じ大罪王であっても、権能を行使できる。
それさえあれば、例え移し変える元があのエルンストであっても、権能を行使できる。
それさえあれば、無能者であるが故に抵抗力を持たないおれに、意図も簡単にその使役権を移す事ができる。
「おれのせい、だよな。おれのせいで、エルンストは……!」
そして逆説的に、その関係が成立しなければ、それはできなかった筈だ。
成立し得るとしても、移し変える先が近くになければ、それはできなかった筈だ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
自身に対する怒りが、抑え切れない悔悟の念が喉奥から登り出ては溢れて行く。
あの時、カインの言葉に従っていれば。
あの時、エルンストを信じて待っていれば。
あの時、もう少し到着するのが遅ければ。
エルンストは、死ななかった筈だ。
「でも、本当にそうか……?」
おれのせいでエルンストは死んだ。疑いようも無い事実だ。
だがそれだけだろうか。
おれのせいである事は事実だが、果たしてそれだけで片付く事なのだろうか。
「おれだけの、せいなのか……?」
ティステアでエルンストが死んだ時に、その犯人に5大公爵家を挙げられなかった理由。
ゾルバの使者を名乗る男が告げて来た時に、即座には信じられなかった理由。
エルンストの実力ならば、例えティステアの守護家が相手であっても、切り抜けられると信じていた。
そもそも移す奴が居なければ、エルンストは死ななかった筈だ。その体力と実力を持ってして、あの程度の集団は切り抜けられた筈だった。
「レヴィアタン……!」
疑問が更なる疑問を呼び、連鎖的に答えを導き出して行く。
そもそもおかしいと思うべきだった。
おれという【願望成就】の固有能力に加えて【災厄の寵児】という特性を生まれ持った場所に、都合よくアキリアという無能者の存在が、それも血筋に裏付けられた場所に同時に居合わせていた事を。
「どう考えても、あり得ないだろうが……!」
姉が一切の魔力も能力も持たない一方で、その妹は、宗家の倍の魔力と4属性持ちという類を見ない適性を兼ね備えている事を。
まるで2人分の持ち物を、1つに束ねたかのようなその有様を。
まるで妹が、姉の持っていたものを根こそぎ奪い取ったかのようなその結果を。
まるで何者かが、姉が持っていたものを妹に移し変えたかのようなその現状を。
少しでも疑問に思うべきだった!
「クソったれがああああああああああああああああああッ!!」
握り拳を作り、そのまま外壁へと叩き付ける。
何度も何度も、内側に燃え始めた炎を吐き出すように叩き付ける。
外壁に亀裂が入り、拳の骨が砕け、肉が叩き潰れようとも、止めずに腕を振り続ける。
そうでもしなければ、気が狂いそうだった。
「ふざっけんな!」
おれは気付けた筈だった。材料は、全ては最初から揃っていたのだ。
にも関わらず、全ては偶然だと、おれの【災厄の寵児】という特性が招いた事だと安易に片付け、それ以上考える事をしなかった。
全てに気付いた今ではもう遅い。
今更気付いたところで、エルンストは返って来ないのだ。
「クソッ、クソッ、クソがァッ!」
右拳を通じて全身に行き渡る痛みでさえ、おれには生温い。
右眼だけでさえ……大罪王の体のほんの一部だけであっても、持つものを持たざるものへと移せる権能があるのだ。大罪王当人であれば、より高位の事ができて当然だった。
仮にエルンストが死ぬ時までに間に合わなくとも、その後にさらに推測できる材料を手にしていたのだ。それにも気付かず、張本人から施された事にも築かず、マヌケ面を晒していたのだ。
もう少しまともな頭がおれにあれば。
神の叡智も、万能の頭脳も要らない。ただ少しでもマシな知能があれば良かった。
それがあれば、事態は違っていた筈だった。
胸がざわめく。
自分の物でない物が収まっている胸の下で、行き場を探して怒りが彷徨う。
「クソッ、クソッ、クソッ……!」
何十回目かの拳は、それまでとは違う感触と、比較して弱い痛みと衝撃を齎す。そして足りない分を補うかのような音が鳴る。
「ジン兄、もう辞めて!」
気だるさを感じながら見れば、おれの拳を両手で受け、止め切れずに壁に叩き付けられて骨の折れた両手のシアの姿があった。
「いくら治癒魔法でも限度があるよ! これ以上続けたら、本当に右手が使えなくなっちゃうよ!」
何が言いたいかと思えば、そんな事か。
シアの手を振り払う。そんなのはどうでも良い事でしかなかった。
とにかく内側に荒れ狂う、名状さえし難い混じり合った感情の塊を吐き出さねば、耐え切れそうになかった。
手が2度と使い物にならなくなる? それがどうしたと言うのか。
転がってる答えに気付けなかった無能には、それぐらいが丁度良い。
「駄目だよ!」
折れた手に構わず、今度は手首を掴んでおれの行動を遮る。
「ジン兄。私は何があったのか分からないし、教えてくれるとも思わない。例え教えてくれたとしても、きっと分かち合う事もできない。ジン兄の苦しみは、ジン兄にしか分からない」
何故か泣きそうな顔をして、必死におれの腕を抑え込む。
魔法を使えば簡単だろうに、おそらくはそれを思い付かない程に、こいつは動揺していた。
「でも、お願いだから、これ以上自分で自分を傷付ける事は辞めてよ……!」
「…………」
尚も抑え続けるシアの手を、膂力の差に物を言わせて無理やり振り払う。
だが、それ以上腕を動かす事はしなかった。
「……してやる」
代わりに、おれの中で激しく渦巻いている感情を吐き出す。
この吐き気を催す程の憤怒を、憎悪を、差し向けるのに相応しい相手へと叩き付ける。
「殺してやる! 殺してやるぞ! クソ悪魔がぁあああああッ!!」
できるできないの問題ではない。どれほど困難な事であったとしても、何年掛かろうとも、どれ程の犠牲を払おうとも、必ず成し遂げてやる。
【嫉妬王】を殺す。どんな手を使ってでも、絶対に殺す。
喉を、全身を引き裂く叫びを上げ続ける。
一体どれ程の時間、そうして居たのかは分からない。
気付けば映像の投影はとっくに終わっており、周囲には静寂と、現実の正しい光景が戻っていた。
右手を見てみれば、砕けて潰れてぐちゃぐちゃになっていた筈のそれは、元通りの形に戻っていた。痛みもなく、まるで全ては夢だったかのような気さえして来る。
だが夢ではない証拠に、側の外壁には蜘蛛の巣状の亀裂と、拳の形の血痕が残っている。
「……ジン兄、大丈夫?」
控え目な態度で、恐る恐るといった具合にシアが声を掛けて来る。
「…………」
大丈夫か大丈夫でないかで言えば、答えは後者だった。
落ち着いたようにも思えるが、内心では今でも濃密な憤怒と憎悪が息巻いている。
にも関わらず、冷静に周囲と自身の状況を考えられるのは、一周回った結果だった。
煮え滾っていた憤怒と憎悪をさらに煮込み、煮詰まったが故の状態だった。
「……一体、何を見たんだい?」
「アスモデウス……」
赤髪の悪魔が――【色欲】の大罪王がおれを、外壁を、シアを、そして再びおれを見る。
気のせいかもしれないが、発せられた言葉は、微かに震えが混じっていたようにも感じられた。
その姿を見て、ふと新たな疑問が芽生える。
「お前は、知ってたのか?」
普通に考えれば、状況を訪ねるのに相応しい言葉は「何があったのか」が正解だろう。
何故わざわざ、視覚に限定した問いを発したのか。
「キミは何を――」
「知ってたのかって聞いてんだ!」
「そ、れは……」
言葉に詰まる。
その反応で理解する。
「知っていたんだな」
「…………」
返答は無い。答える事を拒否する為の沈黙ではなく、こちらの言葉を肯定する為の沈黙だった。
「知っていて、黙っていた訳だ!」
「知れば、キミは彼女に立ち向かおうとするだろう! だけど、そんなのは自殺行為でしかない! そんなのは容認できない!」
何だそれは。何だその、まるでこちらの事を慮ったかのような言葉は。
悪魔風情が、他人の事を気遣っていたとでも言うつもりか?
「くはっ、ははははははははは……」
片腹痛い。随分と笑わせてくれる。
「ふざけるなよ、この腐れ悪魔が!」
一体何様のつもりだ。
一体何の権利があって、その事を黙っていたというのか。
「それとも、グルだったとでも言うつもりか!? 同じ大罪王だもんなぁ、考えられねえ話じゃねえ!」
「それは断じて違う! ボクはキミの事を――」
「思っての事だった、か? 笑わせるな!」
ドス黒い、怒りと憎悪を混ぜ合わせた粘液めいた殺意が内側でとぐろを巻く。
煮詰まる事で、辛うじて器の中に留まっていた殺意が、器さえも壊して外に出て来そうだった。
「どうか落ち着いてくれ! 今のキミは冷静じゃない! 判断を誤ってはいけない!」
「近寄るな!」
近付いて来ようとしたアスモデウスに怒鳴り、動きを止めさせる。
その隙に踵を返し、アスモデウスの立つ場所とは反対の方角へと遠ざかる。
【色欲】の権能を持つ奴を相手に、物理的に距離を取る事にどれ程の意味があるかは分からなかったが、とにかくその場にそれ以上居たくはなかった。
「ほらね、当然の末路だ」
毒の滴るような笑みを浮かべたカルネイラが、室内にて一連のやり取りを見物し終え、そう評する。
「所詮、人間と魔との間に、もっと言えば異種同士の間に、友情だの親愛だのなんてものが成立するはずが無いんだよねえ。成立したように見えても、それは真っ赤な偽物以上にはならない。だから壊すのはとても簡単だ」
「こうなる事を、望んでいたのですか?」
同じように出来事を見つめていたイースが、好奇心本位で尋ねると、カルネイラは否定する。
「まさか。ただ僕は、いずれ訪れる筈の結果を、ちょっと早く来るようにしただけさ。僕が望もうが望まなかろうが、そもそもこうなる事は不可避だったんだからね」
でも、と続ける。
「結果自体はともかく、それを早く来るようにしたのは、その方が面白いと思ったからさ。だって考えてもみなよ」
視線は変わらず室内の壁に――正確には壁に投影された、エルジンの映る映像に固定されていた。
「真実を知って、そこに間髪入れずに追い撃ちを掛けられて、今の彼の内側はボロボロだ。でも、脆化していても、詰まっているものが危険なものである事に変わりは無い。ましてや彼には、色々と混じっているからね」
呵々と笑う。悲劇も惨劇も全てを受け入れ、その上で心の底から楽しもうという意図が見え隠れする、おぞましい笑みを浮かべる。
「打ちのめされた彼は、果たしてどんな行動を取るだろうね。どんな結末を招いてくれるだろうね。何も予想する事はできないけど、でもそれはきっと、楽しめる筈さ」
どれくらいの時間を、距離を走っていただろうか。正確なところはまるで分からないし、分かっても足を止める気は無かった。
とにかく何もかもが、何が何だか分からなさ過ぎて、気持ち悪くて堪らなかった。
「……ベル。一応念の為に聞いておくが、お前は知っていたのか?」
『いいヤ、知らねェヨ』
予想通りの返答。そしてそれに嘘は無い事は良く分かっている。
完全に外界から隔絶された空間に監禁されていたこいつに、外の世界の事を知る事は不可能だ。そしてこいつがそこから自由を得て脱出したのは、エルンストの死後に、おれが訪れた後の事だからだ。
「なら構わない」
どこからどこまでが敵で、どこからどこまでが味方なのかも分からなかった。
いや、そもそも味方など最初から存在していたのかどうかも怪しい。
居るのは敵と、利用できる奴らの2種類しか居ないのかもしれない。いや、その方がむしろ都合が良いのかもしれない。
ややこしくなくて、何よりとても分かり易い。単純で良い事だ。
「マモンは……」
『マァ、知ってただろうナ。話さなかったのは単純ニ、面倒くさかっただけなんだろうガ』
予想できていた答え。今更聞いたところで落胆も何も無い。
元よりそれほど信用などしていなかった。おれは人間で、あいつは悪魔であり大罪王だ。頭から尾まで丸まる信用する奴の方こそどうかしている。
『凄ェ面構えだなオイ。悪魔よりもよっぽど悪魔らしいゼ』
「なら正常だ。これだけ腸が煮え繰り返る状況下で、殺意の1つも抱けないような腑抜けじゃねえ事の証明だからな」
もう何もかもがどうでも良いとすら思えて来る。そしてそんな虚無の思いを塗り潰す程の圧倒的な殺意が、体を動かす原動力と化していた。
それもまた良いだろう。憎悪もまた目的意識となり、それは邁進するのに必要なものだ。
ギリギリのところで、正気を保っている自覚はある。だがそれも些細な事でしかない。
全てが憎くて堪らない。殺意を向けるのに正統的な理由があるのならば、尚更のことだ。
「……そう言えば、そろそろ来てもおかしくなかったな」
怒りのせいだろうか、いやに研ぎ澄まされた感覚に引っ掛かるものがある。
距離にしてかなり離れているが、それでもそれが、膨大な魔力を持っているという事が分かる。むき出しになった魔力が空気を伝わって来て、感覚どころか肌を痺れさせるような刺激を与えて来る。
そんな魔力の持ち主が、高速で接近して来ているのが分かった。
心当たりは1つしかない。
「いいだろう。レヴィアタンの前に、テメェを殺してやるよ……!」
元とはいえ、同じ大罪王が近付いて来ているという事実に、そいつがおれを狙っているという事実を前に、新たに底無しの憎悪と殺意が湧き出て来る。
このまま到着するのを待っても良いが、辿り着くまでに殺意を抑え切れる自信がない。
ならば逆に、こちらから行ってやるのも悪くないだろう。遭遇までの時間が大分短縮されるのは間違いない。
前に遭遇した時は、降りかかる火の粉を払うために戦った。今度は、憎しみと殺意を持ってこちらから殺しに行く。
「……何の用だ」
いざ向かおうとすると、進行方向の先に、見覚えのある姿が立ち塞がっていた。
骨を原材料とした、白く濁った色合いの鎧で全身を固め、手には同じく骨によって生み出された同色の大剣を携えている、おれよりも一回りも大きな巨躯を持った人物。
それは少し前に見たばかりだったが、同時にそれは偽者――過去の記憶の産物であり、実物と再び見えるのは久方振りの事だった。
「退けよ」
「少しこのまま、待て」
相変わらず性別も年齢の判別も困難な、くぐもった声音で、理解不能な言葉を紡ぐ。
「このまま待てば、舞台は整う」
「退けって言ってんだよ!」
剣を顕現させ、迷い無く踏み込み斬撃を浴びせる。
だが【諧謔】もさるもので、こちらの剣を自分の持つ大剣で当然のように受け止める。だがそれはこちらも予想通りであり、そのまま力任せに振り抜く。
「待てと言っている」
「退けっつってんだろうが!」
【諧謔】を明後日の方向に吹き飛ばし、その隙に先を急ごうとするが、それよりも先に【諧謔】が手に持った大剣を投じてこちらの足止めをし、その隙に再び進行方向に立ち塞がる。
「……いいだろう」
こいつが何の目的で、こんな事をしているのかはさっぱり分からなかった。分からないし、理解するつもりもなかった。
ただ大事なのは、こいつがおれの邪魔をしようとしているという事だけ。
それさえハッキリしていれば、十分だった。
「邪魔をするってんなら、お前から殺してやるよ!」
次回予告
失意の果てに立った王は、殺意と闘争の応酬を交わし、虚無と対面する……みたいな。
死神vs諧謔は次の次から。
早い段階からあからさまに提示していて、いつ突っ込まれるかと冷や冷やしていた初期設定が結局バレずに明かせて嬉しいような困惑しているような。
次話は明日までに投稿すると思います。