道化の遊戯②
揺蕩う視界に、全身を隈なく突き刺して来る冷気。
一歩を踏み出す度に、足下から霜柱を踏み割るかのような音と感触が伝わって来る。それが霜柱でない事は、他でもないおれの視界が教えてくれる。
また一歩、また一歩を確かめるように、すぐに怠けたがる全身を叱咤して踏み出し前進していく。視界の先に広がるのは、人が頑張れば2人は並べそうなぐらいの幅の道。その道は何故か支柱も無いのに虚空に浮かんでいて、道の下を見下ろせば、そこには底の見えない闇で満たされた奈落が広がる。
ずっと見ていると、物理的に吸い込まれそうに思えて顔を上げる。視界の先には、曲がりくねりながらも上方へと確実に伸びている、終わりの見えない道。
また一歩を踏み出す。足が地面を踏み割る音。
持ち上げて、また一歩。踏み締めた足が、何かを砕く感触が伝わる。
また一歩――踏み出そうとして、後ろ足が持ち上がらない。
振り返って見れば。足首を掴む手。地面から伸びている、肉も皮も無い、正真正銘の骨だけの手。それが骨だけとは思えないような剛力で足首を掴み握り締めている。
それを見ている間にも、その手は手首から腕を、肩を、そして胴体を、地面から現していく。勿論、それらのパーツの全ても骨のみで構成されている。
眼球の存在しない、暗い眼窩に赤い炎が灯り、おれの顔を射抜く。口が開き、怨嗟の声が溢れ出す。
「よくもよくもよくもよくも、よくも殺したな」
声帯も肺も無い筈なのに、明瞭な発音を行える事が奇怪に思える。
だが進むのには邪魔なだけなので、蹴り砕こうとして阻まれる。見れば反対の足にも、また別の骸がしがみ付き始めていた。
いや、そいつだけではない。
次から次へと、新たな骸が地面から這い出て来てはおれの足に、膝に、腰にしがみ付いて来る。そのどの膂力も、信じられないぐらいに強い。
いや、表現にはいささか誤りがあった。こいつらは別に、這い出て来ている訳ではない。ただ、身を起こしているだけだ。
おれが今立っている場所も、今まで通って来た道も、そしてこの先に続いている道も。
その全てがこいつら骸の、骨だけで構成されていた。
「おまえがおまえがおまえのせいで!」
「おまえが居なければあんな事は引き起こらなかった!」
「おまえがあの災厄を呼び寄せた!」
「おまえが仲間を殺した!」
「子を殺した!」
「親を殺した!」
「兄弟を殺した!」
「無能者のくせに!」
「咎人のくせに!」
「何故我らがおまえに殺されなければならなかった!」
「弱かったからだろ」
聞くに耐えない、実に耳障りで、煩わしい声。
「お前らは何だ? おれが殺した奴らか? それともおれが引き寄せた災禍に巻き込まれた奴らか?」
「我らなど覚える価値も無いと言うか!」
「高慢者め! 苦しみ死に絶えろ!」
「首を刎ねられる痛みを思い知れ!」
「体を刻まれる痛みを思い知れ!」
「四肢を捥がれる痛みを思い知れ!」
「知るかよ」
足が動かないので、胴へと手を伸ばしていた骸を拳で粉砕し吹き飛ばす。
続けて拳を振るい、腰を、膝を持つ骸を吹き飛ばす。
「んな量産品みてえな見た目で個人の判別をしてもらえると思ってんじゃねえよ。ついでに言えば、お前らの恨み言なんざも知ったことじゃない」
最後までしつこく足を掴み続けている奴を、力任せに蹴り飛ばして砕く。
拘束を全て振り払って自由を取り戻し、歩みを再開させる。
物を言う骸に足止めを喰らうのは、もう何度目の事なのか。数えるのも億劫で、随分前にやめている。
歩みを再開しても、やはり道中に骸が立ち塞がるが、こいつらは力は強くとも動きは緩慢で、排除するのにさしたる労力は必要ない。
拳を振るって跳ね除けて、終わりの見えない道を進み続ける。
一体どうして自分は歩き続けているのか、その理由は分からない。
それどころか、どうしてここに自分が居るのかも分からない。
あの骸どもが、自信が言うようにおれに殺されたものであるというのならば、ここは死後の世界という事なのか。では、何故そこにおれは居るのか。
ここに来る前の記憶を遡ろうとして、失敗する。何も思い出せない。ただ、思い出そうとすると酷く頭が痛む。
頭だけではなく、胸もまた同じかそれ以上に痛む。耐え難いほどではないが、平然とできるほど生易しいものでもなかった。
その痛みの理由さえも分からないままに、ただひたすらに前へと進む。
やがて辿り着くのは、二股に別れて伸びる道。
右手側へと伸びる道は、平坦で進むのには然程苦労しないだろうというもの。
対して左手側へと伸びるのは、これまで以上に急激な坂が終わりなく続いている道。
このうちどちらかはハズレなのだろう。もっとも、何が正解なのかなど、おれには分からないが。あるいは、どちらを進んでもおれにとっては好ましくない結果が待ち受けているのかもしれない。
ならば、どちらを選んでも同じ事だろう。どちらを選んでも同じならば、明らかに楽に進めるであろう右手の道を進むべきだ。
だからこそ、あえて左の道を選ぶ事にする。
「そこは素直に楽な道を選べ。相変わらずテメェは捻くれてやがんな」
そんなおれの前に、誰かが立ち塞がる。
それまでの骸とは違うというのは、すぐに分かった。だが、それ以外の事は碌に分からなかった。
おそらく声からして、男なのだろうという事は分かる。だが輪郭全体に霞が掛かっているようで姿は判然とせず、また声にも聞き覚えが無かった。
「誰だ?」
「誰だって良いだろうが。俺が誰だか、テメェにとって重要なのか?」
「……いいや」
「なら問題ねえだろ。それでも納得いかねえってんなら、テメェ自身が生み出した幻影って事にしとけ。あながち間違いでもねえ」
ならそうさせてもらおう。作り出した覚えはないが。
「そういう訳だ、素直に楽な道を進め」
「なんで指図されなきゃいけない」
「どうせ、どっちを選んでも同じとか考えてんだろ? なら、構わないだろうが」
考えていたのは事実だ。事実だが、かと言って選ぶのはおれであって、他者ではない。
「まあ従わないなら従わないで、力づくで従わせるだけだがな。テメェも力づくで押し通ろうとするだろうが、よく考えてみろ。そうする事が得策か?」
「…………」
得策か否かで言えば、勿論否だ。
何と無くだが、こいつはそれまでの骸とは違う気がする。それは戦闘の面での話だ。
歩く事すら億劫な今の体調で、結果がどう転ぶにしろ、食って掛かるのは合理的とは言えない。
「そうだ、それで良い。そっちの道がテメェにとっての正解だ。こっちはテメェにゃまだ早い」
背中にそんな声が投げ掛けられる。おれにとっての正解が何なのかを、まるで理解しているかのような口振りだった。おれでも理解していないというのに。
その事について問い返そうと思った矢先に、全身が揺られて体勢を崩す。
地鳴りが響き渡り、上方から砂礫が落下してくる。空間全体が上下に激しく揺れていた。
「オラ、さっさと行け。手遅れになるぞ」
「…………」
言葉の意味は、まるで理解できなかった。
だが唐突に起こったその揺れの規模は尋常ではなく、その言葉の有無の言わせなさを強く後押ししていた。
痛む体に鞭を入れて、全力で駆け出す。
道中に骸が立ち塞がる事は無く、やがて道の先に、光を放つ穴が空いているのを見付ける。
途端に、さらに揺れは強くなり、足下の地面に亀裂が走り始める。それを認識している間にも亀裂は広がり決壊し、奈落の底へと落ちていく。
間一髪で地面を蹴り、一瞬遅れて直前までおれが走っていた道が倒壊。その穴の中に身を投じる。
転倒に備えようとするも、衝撃は一向に来ない。代わりに、眼を閉じていても眩しいと感じるほどの光。
堪らず一層強く目蓋を閉じたところで、唐突に平衡感覚が消失。上下左右の判別が付かなくなったと思ったのも束の間、意識が暗転した。
「あっ、目を覚ましましたか」
耳鳴りと頭痛と全身の倦怠感に鈍痛。ここ最近は下手をすれば、生涯の伴侶になるんじゃないかというぐらいの頻度で付き纏っている不快な感覚を振り払い、目を無理やり開ける。
「ミネ、ア……?」
「はい。貴方の忠実な奴隷であり、永久の花嫁であるミネア=ラル・ウフクススです」
「死ね……」
内側からの不快感に加えて、言葉による不快感を与えられて、現実と虚構の間を彷徨いたがっていた意識は急速に覚醒に向かっていく。
もしかしたらミネアのその言葉は、そのおれの反応を計算した上での気遣いを含んだ言葉だったのかもしれない……いや、間違いなく深読みのし過ぎか。
というか、仮にそうであったとしても、どの道不快である事に変わりは無かった。
腹筋に力を入れて上体を起こす。どうやらおれは仰向けの状態で、頭をミネアの膝に乗せられた状態にあったらしい。凄まじく不愉快だった。
「ここは……何で、お前がおれの傍に……」
経緯は良く分からないが、おれはいつの間にか移動をしていたらしい。
無駄にだだっ広い面積と高さを誇る薄暗い室内には、古ぼけて埃の被ったテーブルと椅子が散在し、壁には一般的な四角形のものではなく、円形の開く事のできない窓が嵌め込まれており、その窓からは荒れた天候に覆われた外の景色が見える。
加えて不規則に、微かに上下に揺れる安定しない足場と、微かに聞こえてくる波の音。それらから自分が居るところが洋上で、船内であると推測できる。
何故おれがそこに居るのかは良く分からないが、そこまでは良いだろう。
おれの傍にミネアと、少し離れた場所に仏頂面で頬杖を付いて座っているシロに布で顔を含む半身を覆っているベスタ。それとどこか退屈そうな表情で、テーブルの上に腰掛けて足を縁から下げているアスモデウスに、椅子を絶妙なバランスで積み上げ、その上にしゃがんでいるベル。
ここまでも、まあ、まだ良いだろう。
問題なのは、それ以外の室内に居る面々。
おれから見て右手側に固まっている面々の内約は、アキリアとシアに、こっちに殺気と共に視線を寄越しているユナ。灰色の髪の男女に、ディンツィオと見覚えのある、膨大な魔力を内包している年端も行かない少女に、それと見覚えの無い碌な魔力も持ち合わせていないような少女。
灰色の髪の男女は見覚えこそ無いが、相当量の魔力を持ち合わせている事と、アキリアたちと一緒に居る事から5大公爵家の関係者だと推測しておく。おそらくはあながち間違いではない筈だ。
だがディンツィオとその傍の少女はともかく、見覚えのない少女に関しては良く分からなかった。
保有する魔力量はザグバと良い勝負。この時点で自然と5大公爵家はおろか、貴族関係者でもないと断言できる。
ならばアキリアたちの誰かが保護した一般市民と考えるのが普通なのだろうが、そうなると、こっちに視線を向けている理由が分からない。いや、見ているのはおれではなく、おれの周りに居る誰かに対してか? それならば、良くも悪くも注目を浴びやすい面々が揃っている為、納得がいく。
ふと、シアと目が合う。ニンマリと笑い、手を振って来る。無視。
何故居るのか、どんな事情を抱えているのか分からない構成だったが、左手側に居る集団よりはまだマシだ。
左手前方に居るのは、いつも胃痛の絶えそうに無いアベルに、ミズキアにギレデアにヴァイスにカインのクソ野郎にレフィアとキュールの姉弟に……
「ちょっと、ジンさん! 気持ちは分かりますが、気絶して現実逃避しようとするのは辞めてください!」
後頭部をミネアに支えられる。不愉快だから離せ。
あまりにも酷い面子が並んでいた為か、一瞬脳が現実を受け入れるのを拒否しようとしたらしい。できればそのままフェードアウトしたかった。
何故【レギオン】とティステア所属の者たちが同じ空間内に居るのか。記憶が正しければ、双方は襲撃を仕掛けた側とされた側で敵対していた筈だったが、まるで訳が分からない。訳が分からないが、とりあえず凄まじく混沌とした状況だというのは理解した。できればしたくなかった。
「起きたか……」
ミネアの手を振り払い、再び上体を起こすと、神妙な表情でアベルがこちらに歩いて来る。
咄嗟にミネアが間に立ち塞がるが、立ち上がって肩を掴んで静止。要らぬ心配と後方へ追いやる。
「本っ当にすまなかった!」
アベルが近くまで来たところで、唐突にその場に膝をついて頭を勢い良く下げる。床に額が当たったのか、物凄い音がしたが、本人は額を床に擦り付けたまま微動だにしない。
「うちの団長と団員共が多大な迷惑を掛けた! 言い訳のしようも、詫びの入れようもないが、それでも謝罪だけでもさせてくれ!」
「随分と虫の良い話じゃないか」
アベルの突然の行動の意味を理解できないうちに、明らかにおれに対して行われた謝罪に対して、何故かアスモデウスが応じる。それも受け入れ拒否という形で。
「キミは迷惑という表現だけに留めているが、実際のところ、彼は殺されかけた。それも複数人のキミの身内の手によってね」
「それも承知の上だ。全ては手綱を握れていなかったオレに責任がある」
「いや、手綱を握れる以前に、人望がふがふが」
「ちょっと黙っとけウェイン。今のあいつをおちょくるのは大分マズイから。キレたら手がつけられねえから。誰にも止められねえから、主に実力的な問題で」
離れたところでは、白髪の少年――ウェインというらしい少年が、カインに羽交い絞めにされて口を塞がれていた。
「別に気にしてない。だからあんたが頭を下げる必要も無い」
「……本当にすまなかった」
謝罪の理由に見当が付き、その必要性の無さを端的に伝える。
ザグバにしろリグネストにしろ、どちらもアベルの意思が介在しないところでの戦いだった。さらにジェメインに至っては、むしろこっちが戦闘を仕掛けた側だ。そのどこにも、アベルの非はない。
「事が運ぶ前に、あの団長に接触して止めるのが最善だったんだが、誰も接触できずに――」
「あっ、ボク会いましたよ?」
「進展して……って、はぁ!?」
アベルが首を物凄い勢いでとんでもない角度まで捻る。人間の首があそこまで速く曲がる事を初めて知った。
「いつの話だ!?」
「11番さんが殺されたすぐ後ですねぇ。団長さんがおっ始める直前です。あれ、言ってませんでしたっけ?」
「言われてねえし聞いてねえよ!」
「……あー、すいません、忘れてました」
「ふざけてんのかテメェ!」
「ふざけてませんよぉ。まあ、過ぎてしまった事を今更とやかく言ったところで無意味ですし、置いておきましょうよ。その話をしようが、その時きちんと報告してようが、ボクが副団長になれるかどうかには関係ありませんし。
というかぶっちゃけた話、ボク個人にとっては凄まじくどうでも良いです」
ブチリと、何かが切れる音がハッキリと耳に届いた。
「テメェぶっ殺してやらぁ!」
「落ち着けアベル!」
激昂してギレデアに掴み掛かろうとしたアベルに、ミズキアが飛び付いて抑え付ける。
それでも抑え切れず、それを見て慌ててヴァイスとカインも加勢し、3人掛かりでようやく抑え込む事に成功する。
「ちょっ、力強ッ……!」
「副団長、とりあえず落ち着いてください。ここで暴れても、それこそ不毛なだけですから」
「それが無理ってなら、まずオレを殺せ。まだストックはある」
「離せテメェら!」
いや、成功したと言えるかどうかは怪しい。3人を相手にもがけるだけの余裕がアベルにはあり、下手をすれば拘束を振り解きかねない。
「きゅ、キュール! 増えろ! 今すぐ増えて手伝え!」
「えっ? い、いやだし」
「テメェ!」
「お前までキレてどうすんだよミズキア!」
「離せぇ! あいつを殺す! あいつを殺してオレも死んでやるぅ!」
「マジでじょーちょふあんてー者だな。昔あいつがせーしんびょーとーに入ってたって噂も、あながち嘘なんじゃねーのかもな」
「どこの誰だ! そんな根も葉もない噂を流しやがったのは!」
「なんと言うか、随分と、その……騒がしい面々だね」
「いつもの事だ」
アスモデウスの言う通り見るに堪えず、聞くに堪えない内輪揉めだったが、嘆かわしい事に、これがおれの知る【レギオン】の日常風景だったりもする。
相も変わらず、アベルは色々と苦労をしているらしい。そう言えば前までは髪は短かったのに、今はそれなりに伸ばしている。別段珍しいような事でもないが、それがアベルとなると、あの下に脱毛症を患っているのではないかと疑わずにはいられない。
「はい、楽しい内輪揉めはそこまで――ッ!?」
「あ、やべッ……」
余りにも自然で違和感の無い流れで、そんな声が唐突に広間に広がり、続けて拍子抜けするような失態を犯した声が響く。
その前者が、誰も居る筈のないおれの遥か背後から響いて来た事に――声が耳に届くまで、その辺りに何者かが居た事に気が付けなかった事に驚きながら振り返れば、別種の驚きにそれは塗り潰される。
そこに居たのは、糊の利いているフォーマルな衣類をだらしなく着崩した、斑色の髪の男。
その男が声を発した張本人なのだろうが、振り返って見た時には既に、その喉に深々とナイフが突き刺さっていた。
「やっべー、マジやっべー。勘の通りにナイフ投げたけど、イゼルフォンの当主じゃねえか。遂にオレの勘も焼きが回ったか」
「否定したいところですが……申し訳ありません。私も少し、お兄様の勘に対する信頼が揺らいでいますわ」
「それが正常な判断だ、気に病む必要はねえよ」
どさりと、重たい音を立ててうつ伏せに男が倒れる。その重い音は男が一切の受身も取れなかった事の証左でもあり、そして受身が取れない状況に陥ったという事の証拠でもあった。
つまるところは、死んでいた。
急所をナイフで穿たれた事による、即死。
それを灰色の髪の男がやった事は、本人の言動からしても明らかだ。明らかである事にも関わらず、結果が出てからようやくその事に気付けたという事実に驚愕する。
どのタイミングでナイフを投じたのか、ナイフがいつの間に自分の横を通り過ぎて行ったのかまるで分からず、さらには自分が、男に対して自分が微塵も警戒心を抱いていなかったという事に気付き戦慄する。
客観的に考えてみて、男はアキリアたちと同じ集団に居る以上は5大公爵家の関係者という可能性が高く、加えて感覚に捉えられる保有魔力量もアキリアやシアと比べるのは酷だが、それでも【レギオン】の者たちと比べても遜色が無い以上、決して警戒を怠って良い相手ではない。
むしろこちら側が相手の人物像を知らない以上は、警戒して当然だ。事実、男の妹と思しき女に対して、自分はきちんと注意を払っていた。
そこまで認識していたのにも関わらずに、男を警戒せず、あまつさえそれを不自然だと思わなかった事はどう考えても奇妙だ。
おれが立て続けの出来事に疲弊していて、偶然にも男に対して注意を払う事を忘れていたという可能性も、確かに無くはない。
だがそんな不確かで、自分にとって都合の良い憶測を信じるほど、おれは楽観主義者ではなかった。
「あれは……カルネイラさん……」
「あれが……」
ミネアの呟きを耳にして、相手の名前と素性を理解する。
カルネイラ=ラル・イゼルフォン。イゼルフォン家の現当主で、3年前の情報統制を一手に担った者。どういう訳か、おれに対して間接的に襲撃を嗾けて来た者。
そして、エルンストの仇の1人。
「…………」
動き出したくなるのをグッと堪える。既にミネアがカルネイラと呼んだ相手は死んでいて、相手が居ないというのもある。だが、もしおれの予想が正しいのであれば、これで終わりにはならない。
「痛いなぁ。いきなり殺すなんて、しかも広義的には身内と言える相手に殺されるなんてッ!?」
予想を裏付けるようにして、喉を穿たれて死んだ死体の傍に、瓜二つの容姿を持った男が現れる。
そして間髪入れずに、今度は頭部を吹き飛ばされて後ろに倒れる。
「……キュールと同じ能力か?」
「そ、それは、違うと、思う」
やったのはアベルだった。
直前までの荒ぶりがなかったかのように平静な態度で、振り抜いた腕を戻しつつ、疑問を差し向ける。差し向けられたキュールが発したのは、否定の言葉。
「こ、根拠は、勘だけど、あ、あれはボクの能力とは、違うと、思う……」
「勘、か……合理的じゃねえ根拠だ」
その勘が当たっている事を理解しているのは、おそらくはおれだけだ。それをアベルに伝える事はできる。だが、それをする事は避けるべきだろう。
理由は2つ。1つは、アドバンテージを失う為。
正解だと明言する以上は、それ言う根拠を求められる。それに答えるにしろ、答えないにしろ、カルネイラ本人に対して疑念を抱かせる事となる。最悪、疑念では終わらずに確信さえ抱かれる事になる。
知っている事とは大きな優位性だ。自分だけが知っているという事は、自分にとって大きな益となる。それをわざわざ話して優位性を失う必要性は見出せない。
今は無理にしろ、いずれ殺す相手だ。優位性は保っておいた方が良く、漏洩の危険を考えれば、今は独占しておいた方が良い。
そしてもう1つは……
「が、信じよう」
そもそも、伝える必要がないであろうから。
「いいいい痛い痛い痛い痛い! ちょっといきなり何をするんッ!?」
言葉の途中で、ミズキアの足刀とヴァイスの左拳が強襲。カルネイラの体が2つに分割。間髪入れずに首に裏拳が入り、明後日の方向へと折れ、床に首とその下とが別々の動きをしながら転がる。
「……妙だな。還元できねえ」
「能力ですか? それは使えない、という事ですか? 本当かどうかは分かりませんが、もしそうならば厄介ですね」
「いや、使えている。魔力も回収できてんだが、妙に還元できている量が少ない。それに加えて、能力の還元ができていない」
「なるほど……」
ヴァイスが顎に手を当てる。
「単純に考えますと、還元できた魔力の量が少ないのは、保有する魔力の大部分が、原理は不明ですが不死性を発揮させている能力の維持に裂かれているためかもしれませんね。
そして能力が還元できないのも、不死性次第では、この状態は死んでいるとは認識されていない……とも考えられますね」
「その仮説なら、キュールの言っている事の裏付けは取れるな。少なくともキュールは、殺せばその個体の能力を還元できる」
「答え合わせはさせてあげなッ!?」
新たに登場したカルネイラの頭部が、ミズキアの後ろ足によって爆砕する。頭部を失った死体は、その前に殺された死体の下半身に折り重なるようにして倒れる。
「なら、殺すだけ無駄か?」
「あのねあのねのね、いくら僕自身は死なないって言っても、痛いものは痛いんだよ? 本当だよ? 何せ痛覚だけを遮断するのって、すっごく手間が掛かって面倒なんだからさ。だからもう少し人の痛みを理解してッ!?」
「つまり、殺せないにしろ、殺し続けていけば痛みで壊せるという訳だ」
5人目のカルネイラは、ミズキアの手首の腕輪から発生した強烈な雷撃によって黒焦げとなって死ぬ。
ミズキアが全身に魔道具を身に着けているのはいつもの事だが、その時に使用された手首の魔道具は、早々お目に掛かれないほどに強烈で膨大な魔力が内包されていた。一体誰が造ったのかは知らないが、トンでもない代物だ。
「やめとけ」
現れる片っ端から殺す、そんな意思を言葉抜きに表明していた2人を静止したのは、2人目のカルネイラを自らの手で殺していた筈のアベル。
先程までの興奮は完全に消え失せ、普段通りの、【レギオン】の筆頭副団長としての冷静さと理知さを取り戻しての発言だった。
「単に手間が掛かって面倒なだけで、やろうと思えば痛覚は遮断できるだろう。できるんなら、当然壊れる前に遮断する。つまるところ、徒労に終わるだけだ。
それよりも、何か話があるらしい。ちょうど行き詰ってたところだ、聞くだけ聞いてみるのもアリだろ」
「話が通じるみたいで助かるよ」
6人目のカルネイラは、それまでのカルネイラが現れた場所とは、おれたちを挟んで反対側に現れる。
その新たなカルネイラに全員が注目し、そして血の気の多いミズキアやレフィアが動こうとして、それを察したのか大きく飛び退いて距離を取る。
「さすがにこれ以上は殺されてあげないよ」
声に凄みを持たせる。それが効いたのかどうかは不明だが、アベルが2人に対して制止の声を上げる。
「やめろと言った筈だ」
「へいへい」
「…………」
ミズキアは掲げていた腕を引き戻し、レフィアは浮かしていた腰を元に戻す。
ようやく全員が聴衆と化した事を確認できたのか、上機嫌そうに頷き、優雅に一礼してから話し始める。
「それでは皆さんには、ゲームをやって頂きます」
「おい殺して良いか?」
「ミズキア……」
冒頭から話を折ろうとしたミズキアに、アベルが溜め息混じりに窘める。
それにミズキアは、両手を挙げて軽い調子で応じて見せ、その反応にアベルは再び息を吐く。
傍から見れば、そのアベルの嘆息は疲労から来るものに見えただろう。だが、おれの位置からは良く見えていた。アベルの首の裏に、力みから来る血管の浮上が発生しているのを。
理由は不明だが、どうやら相当に機嫌が悪いらしい。
「と言っても、僕が説明するような事は余りない。この後にルールを書いて提示するから、後で各自で読んで理解しておいてね」
「ふざけてんのかオイ。もう1回殺して――」
「ミズキア」
「分かった分かった」
曲がりなりにも、自分よりも立場的にも実力的にも上であるアベルが言うからこそ、渋々と従っている。そんな不本意さがありありと見えていた。
もっとも、気持ちは良く分かる。あのカルネイラという男の口調や態度、そして話の内容などは相手を苛立たせるのには十分だし、何より非常識過ぎる。
「わざわざ僕を殺すのを止めなくても、あまり変わらないよ? 何故なら、どう足掻いても君たちが行き着く結末は、2通りしかないからね」
カルネイラが2本の指を立てて掲げて見せる。
「ゲームに勝って、生きてここから出るか」
中指が折られ、人差し指だけが残る。
「もしくはゲームに負けて、全員死ぬか」
残る指も折られて、握り拳が作られる。
そしてこれから起こる事に対して、溢れんばかりの期待を込めているかのような、心の底から楽しそうな顔を作る。
「――ハハッ!」
それに対して、そんな哄笑を最初に上げたのはミズキアだった。
次の瞬間には、カルネイラの上顎より上は引き千切れて後方へと飛んで転がる。残る下顎が歯並びを見せ付けるかのように前倒しに倒れて動かなくなる。
「まあ、そういう訳さ」
今度は姿を現さず、どこからともなく声だけが響いて来る。
それが合図だった訳ではないだろうが、本来は音楽隊が並び舞曲を演奏する筈の舞台に降りていた、群青色の紗幕が一斉に燃え上がる。
「ゲームはもう、始まっている」
勢い良く燃え上がったと思った紗幕は、次の瞬間には急速に鎮火し、広間には静けさが取り戻される。
カルネイラの声も、先程の言葉を最後に途絶えて一切届かない。こちらの状況は現在進行形で把握ぐらいはしているのだろうが、同時に今のところ、これ以上直接的な介入はして来るつもりはないのだろう。
残されたのは、火で紗幕に刻まれた、焦げ跡で書かれた文章。
『1、船内全体が舞台となる。外に出る事はできない。
2、舞台内には鬼が居る。鬼に捕まった者は捕らわれの身となり、以後ゲームに参加する権利を失う。
3、鬼は鬼以外の者を全て捕らえなければならない。鬼が全ての対象を捕らえた時、鬼の勝利とする。
4、捕らえられる側は、捕まる前に鬼を見付け殺さねばならない。鬼を殺した時、捕らえられる側の勝利とする。
5、鬼が勝利した場合、捕らわれた者たちは全員死ぬ』
カルネイラの発言からして、この文章が、カルネイラの言うゲームのルールなのだろう。より正確には、この領域干渉計の能力によって定められているルールと言うべきか。
おそらくは、ルールを提示する事自体も定められていた事項だ。でなければ、わざわざ自分の優位性を失うような真似はしないだろう。
この手のものは、譲歩する代わりに、術者にとってさらに大きな優位性を成立させられるという特徴がある。
「……おい、ヴァイスはどこに行った?」
アベルが声を上げて、ようやくいつの間にか、言葉の通りヴァイスの姿が消えている事に気が付く。
魔力を探ってみるも、広間のどこかに隠れている気配も無い。アベルが視線を向けて来るので、首を振って答えて見せる。
「ゲームは既に始まっている、か……」
原因として考えられるのはそれ。
如何なる手段かは不明だが、多数の実力者が一同に集まっている中で、【レギオン】の団員の1人であり【忌み数】にすら数え上げられているヴァイスを、誰にも気付かれずに捕らえたという事になる。
「……面白えじゃねえか」
「どこに行く?」
「提示されたルールによれば、捕らえられる事と殺される事は同義じゃねえ」
アベルの問いにミズキアは扉を開け、首だけ振り返って答える。
「なら、全員捕まる前に鬼とやらを殺せば助け出せるだろ? 安心しろよ、テメェらの出番は無い。すぐに殺して来てやる」
それだけ言い残し、アベルの返答も聞かずに扉を閉めてどこかへと行く。
そのミズキアの行動に、アベルは沈痛な面持ちで溜め息を吐き、眉間を揉みほぐしながら首を振る。大分疲れているようだった。
そのアベルの脇で、テーブルに両足を乗せて踏ん反り返っていたレフィアが、虚空を見上げながらポツリと零す。
「っかしーなー。何通り未来を見ても、あいつが無事に戻って来るやつが1つも無い」
「4時間経ったよ」
「ありがとよ。さすがは時の能力者だ、体内時計は正確か」
「でしょでしょ? これって結構重宝してるんだよね!」
結局、ミズキアが戻って来る事はなかった。レフィアの予言は、実に的を得ていたという訳だ。
まあ、それは良い。そしてこの後の事について、各勢力間で話し合っておきたいというアベルの提案も、まあ良いだろう。理屈は理解できる当然の事だったし、何よりアベルの申し出を無碍にするのは、さすがに気が引ける。
多少の恩程度、踏み倒すのに何の躊躇いもない。だが、さすがにアベルから受けた恩は多少どころの話ではない。
「結局戻らなかったか。やられたと見るのが妥当だな」
「つ、ついでに、増えて探索してた僕も、軒並みやられた、みたい。そ、その瞬間は、視認、できてないけど……」
それでも、限度はある。
「アベルさん、何でおれが参加する必要が?」
「お前らの集団の代表を務められるのが、お前ぐらいだからだ」
円形のテーブルを中心に、右手には【レギオン】側を代表してアベルと、その護衛兼補佐としてカインとキュールが。
左手にはティステア側の代表としてアキリアと、その護衛兼補佐としてシアと灰髮の少女が。
そしておれの護衛兼補佐として、アスモデウスと、凄まじく不本意だがミネアが。
計9人がテーブルを囲っていた。
「断言するよ、あんたの目は腐ってる」
「お前、その発言が遠回しに自分がまともじゃねえと言っている事に気付いてるか?」
「この場に立ち会わずに済むなら、まともじゃなくても構わない」
「いいや、お前はまともだ。だから立ち会ってくれ」
一見お願いしているように聞こえるが、要するに言いたい事は「オレが負担する被害を分散させる為にも、人身御供になれ」という事だ。できれば遠慮願いたい。
「まあまあ、ここは引き受けておきましょうよ、ジンさん。その方が得策だと思いますよ?」
「お前が勝手に決めるな」
「いえいえ、決めてなどいませんよ。ただ、そういう案もあると提示しただけです。貴方がそれさえも不愉快というのでしたら、それもただいまを持ってして、口にするような事は控えます。私が貴方にとって不利益となるような事をしないのは、貴方もご存知の通りです」
「前科があるだろうが」
白々しい顔をして嘘を吐きやがる。
「何を言っているんですか。それは未遂でしょう。未遂で終わったからそう言えるのであって、実際には未遂で終わらなかった場合にも、やはり貴方にとって不利益となるような行動は慎んでいましたよ?」
「口ではどうとでも言えるんだよ」
「つまり貴方は、私に悪魔の証明をしろと? 中々鬼畜ですね、そんな鬼畜なところも素敵ですよ。貴方のお望みとあらば、どんな要望にも応えてみせましょう」
「冷静にこれまでの会話を思い出してくれよ。おれは多くを望んじゃいない。ただ、今すぐにでもお前が死んでくれればそれで本望なだけだ」
「どうしてそんなにつっけんどんなんですか。素直になれない照れ屋さんなんですか?」
「おおっと、新しい反応だな。もう1度同じ事を言わせたいのか?」
いつでもおれは自分の欲望を忠実に吐き出してる筈なんだがな。
「お前ら、痴話喧嘩なら後にしてくれ」
「つまり、私たちが恋仲に見えると。素晴らしいですね、さすがは【レギオン】の筆頭副団長です。傍らの方とは大違いだ」
「やっぱあんたの目は腐ってるよ」
アベルの傍らのカインが、苦々しい表情でミネアを見る。ミネアはその視線に、唾を吐くジェスチャーで応える。
個人的には、アベルに対して毒を吐き出す事に何の異論も無いので、わざわざ注意をしようとも思わない。
だが、いつまでも無駄話に興じられる程余裕がある訳でもない。必要性は皆無とは言わないが、そろそろ切り上げるべきだろう。
「よくもまあ、こんな状況で不毛な対話を繰り広げられるもんだな」
「あんただって乗ってたろ。それに、全く不必要な訳でもない」
意図的に始まったものではないが、切り上げようと思えばできるのを、そうしなかったのも事実だ。
「常在戦場は傭兵の常だが、四六時中それでは精神を病む。だからこそ、ある程度の悪ふざけという名の息抜きは意識的に行うべきだ」
他愛の無い会話や、傍から見ればふざけているとしか思えないようなやり取りであっても、当人たちにとってはまともに生きるのに必須な要素だ。
いや、正確にはまともに生きたいと思い込む為のものだが。
「傭兵と快楽殺人者との根本的な違いはない、だったか」
「傭兵間で語り継がれている格言の1つだったな」
おれの言葉に【レギオン】の副団長も共に賛同する。
「どっちも他人を殺して生き延びる。そこに報酬が絡もうが、悦楽が絡もうが、動機を持っていようがいまいが、殺している事実は変わらない」
「だからこそ、殺人者との明確な区別を行う為に、くだらない話で自分がまともであると言い聞かせる訳だ」
カインの言葉を引き継ぎ、その皮肉さに笑う。
それを意識的に実践している時点で既に手遅れであり、気付けていない者こそが救いようがある。
「で、そろそろ建設的な話に入りたいんだが?」
「おれが代表であるという意見はともかく、あんたの無駄な争いはやめようという提案そのものには、こっちは賛成する」
両手を上げて賛意を示してみる。そして同時に、譲歩できるギリギリの範囲も提示する。
「が、それを他の奴らに強制する事も、それ以上に協力する事も確約できない。特にシロの協力を仰ぐ事は、ほぼ不可能だと先に言っておこう」
「……ま、それは仕方が無い。日頃の行いが行いだからな」
「俺だけを見てもな」
忌々しそうに睨んで来るアベルに対して、カインは苦笑と共に言う。自覚はある一方で、自分だけのせいでは無いと言いたいらしい。無責任な奴だ。
「まあ、それだけでもこっちにとっては十分過ぎる。あまり積極的には敵対したくないんでな……」
「こっちも特に問題は無いかな」
アベルの視線はアキリアへ。対するアキリアも、あっさりと了承する。
それは傍らの者にとっても意外だったのか、灰髪の少女が何かを言いそうになったところで、アキリアの手がそれを先に制す。
「だけど条件がある」
「当然だな。内容は?」
「現状までにおいて、そっちが把握している情報の開示。それと今後の協力体制における、互いに得られる情報の共有と一部こちら側の情報の秘匿の容認」
「……いいだろう」
「それが認められるなら、特に異論は無いよ」
アキリアの要求は、度を過ぎているとは言えない。少なくともおれにとっては、そして傭兵を生業としている者ならば当然の要求だ。むしろ、一方的に情報を要求せずに共有を提案する辺り、良心的な要求とも言える。
にも関わらずアベルの口が引き釣っているのは、あまりにも的確な相場を踏んだ要求が予想外だった為か。
「なら、まずはこっちが把握している事についてだ。嘘はつかないつもりだが、真偽はそっちで判断してくれ」
「それなら、おれは退席させてもらう」
椅子から立ち上がり、ミネアとアスモデウスに退がるよう手で伝える。
「把握しとかなくて大丈夫か?」
「協力を確約できてない状況で、一方的に情報を得るのは、貸しとしとくにはでかすぎる」
「こっちは特に気にしないが?」
「こっちは気にする」
それ以上留まれば、さらなる追求を受けかねない為に、そうそうに立ち去る。
そして広間の隅で固まって待機していたシロたちと合流し、短い対談で決まった内容を伝える。
「という訳だ」
「向こうは気付いてたか?」
「さあな。他の奴だったら確実に気付いただろうが、アベルだからな」
多少リアリストな部分があるとは言え、本来は傭兵がやっている事が信じられないほどの、根っからの善人だ。さっきの情報の開示も、善意でやろうとしていた可能性は十分にある。
「だが、仮に気付いてたとしても問題ないだろう」
「まあな」
普通に考えれば、こちらが知らない情報を知っている【レギオン】と、ましてや向こうから情報を開示しようとしているのにも関わらず距離を取るのは、余り得策とは言えない。
だが、それは普通の立場からの意見だ。
例え【レギオン】から距離を置くことになっても、相互不干渉の条件を引き出したと考えれば、また見方も変わる。
こっちには何せ、シロが居る。
「場合によっては、アベルに対してなら情報は流しても構わないよな?」
「必要性は余り感じないが、少しでも早く解決するなら、それで良いだろ」
提示されたルールがその通りならば、もうこちらの勝ちは確定しているも同然だ。
他の集団は別だが、少なくともおれたちにとっての勝利条件は、生きてこの能力から脱する事。そしてそれは、どんな展開に転ぼうが、アベルを有した【レギオン】と同じ場所に閉じ込められた時点で確定している。
どこのどいつだかは知らないが、命知らずにも程がある。
「じゃ、適当に見張っててくれ。おれは外に行く」
「待てジン、オレも行ク」
「待つのはキミだ、ベルゼブブ」
扉を開けて外に出ようとしたところで、付いてこようとしたベルを、アスモデウスが呼び止める。
「少し、話がある。構わないかい?」
面倒くさそうに反応したベルゼブブに、用件を端的に伝え、その許可をおれに求めて来る。
「構わねえよ」
何の話かは不明だが、元々ベルを連れて行くつもりはなかった。
同じ大罪王同士、積もる話もあるだろう。それを妨げるほど野暮ではない。
「という訳で、基本的には待ちの姿勢になると思う」
対談を終えたアキリアは、ティステア側の者たちにその内容を簡潔に伝える。
「そうなるだろうな。鬼とやらを叩く必要はあるが、その鬼がどいつなのかは現時点じゃ不明だからな」
「ただ、それでも最後には能動的に動く必要性は出て来るだろうけどね」
テオルードの発言にアキリアは賛意を示し、さらに補足をする。
少なくとも【レギオン】側の調査によれば、船内に食糧の類は存在していない。比較的保有する魔力の多い彼女らは、それでも常人よりは長く持つが、補給も無しに生きられはしない。
「だから私たちの基本方針は、彼らに適宜協力をしつつ、チャンスを待つっていう方向になるかな」
「あの~」
そこにディンツィオが手を挙げて、発言権を求める。
「その私たちに、俺っちも含まれる訳?」
「まあ強制はしないよ。その子を連れて、無事で居られる自信があるなら他に行っても構わないし」
「……無理かねえ」
自身の袖をギュッと掴み、怯えるように震えるセエレを一瞥し、苦笑しながら言う。
元々は【レギオン】に属し、49番の団員ナンバーを与えられていたセエレだったが、その他でもない所属集団に切り捨てられた事実は記憶に新しい。
拠るどころが自分を助けたディンツィオ以外になく、またそのディンツィオ自身も大した力を持たない以上、勢力の間を渡り歩くのは悪手以外の何物でもない。
「その鬼とされる相手についてなのですが……」
そこでオリアナが、視線をもう1人の場違いな人物へと向ける。
「そちらの子がそうであるという可能性はございませんの?」
「…………」
「この子は違うだろ」
オリアナの指摘にセエレとはまた別の理由で縮こまり、唇を噛んだ少女を、その指摘をしたオリアナの兄が庇う。
「勘だが、この子は違う。理由あって巻き込まれたのは、領域干渉系の能力である以上は間違いないだろうが、少なくとも術者側の奴じゃねえ。理由までは分からないがな」
「……いえ、十分ですわ。お兄様の勘がそう言っているのであれば、疑う余地はありませんもの」
妹のオリアナにとっても、そしてアキリアたちにとっても、テオルードの異常な勘の鋭さは把握済みだ。そのテオルードがそう言うのならば、彼女らにとって疑うのは愚行でしかない。
唯一事情が分からないディンツィオとセエレだけは、その言葉に首を傾げてはいたが。
「疑ってしまって、申し訳ありませんわ。よろしければ、あなたのお名前をお聞かせ願えないでしょうか?」
一転して柔軟な物腰に、少女の頭は混乱に包まれるも、徐々にその警戒心は薄れていく。
たっぷりと数十秒の間を開けて、辛抱強く待っていたオリアナに、おずおずと口を開く。
「……レイニア」
もしこの時、エルジンがアベルの申し出を受けていれば、もしくは断ったとしてもその場にもう少し長く居座っていれば、あるいは違う展開を迎えていたのかもしれない。
だが幸か不幸か、その時点でその場にエルジンの姿はなく、故にその少女の名前を知る事はなかった。
「レイニア・クラウン」
「そう、良い名前ですわね」
オリアナの言葉に、褒められたレイニアは無邪気に微笑む。それはこの場に来てからようやく浮かんだ、初めての表情だった。
誰がどう見ても無力な一般人であり、事実その通りでありながら、疑われる要素しかなかったが故に向けられていた疑念は、知らず知らずのうちに本人の精神を削り取っていた。
その負担が、ここに来て軽くなった事によって出て来たものだった。
「和んでいるところを悪いが、オーリャ」
「何でしょう?」
「兄ちゃんな、この後しばらくしたら脱落させてもらうわ」
「……それは一体、どういう意味ですの?」
脱落するならばともかく、させてもらうというのは、まるで自ら離脱をすると言っているようなものだった。
そしてそれは、まさしくその通りだった。
「言葉の通り、鬼とやらに捕まえてもらう」
「それも勘ですの?」
「ああ。捕まればオレは死なない、そう勘が言っている。逆にオーリャ、お前は絶対に捕まるな」
真剣な表情で、妹の目を見てしっかりと忠告する。
「話はこっちでつけておく。間違っても敵と遭遇すらするな。したらお前は死ぬ。そしてオレが捕まろうが捕まらなかろうが、多分その時に、オレが助ける事はできない」
「お兄様がそう言うのでしたらそうしますが……話をつけておくとは、一体誰に対してですの?」
「後で分かる」
明言せずに視線を外し、一仕事終えたとばかりに腰を椅子に下ろし、息を吐く。
「お前は絶対に死なせない。だから安心しとけ」
「クソっ!」
元通りとなった左拳を壁に叩き付けて、その痛みが脳天を貫く。その痛みさえも、気を紛らわせるには役不足だった。
再びの敗北。それも完膚なきまでの。
最近アキリアを相手にそれを喫したばかりだったが、だからと言って慣れる感覚ではない。
「分かってんだよ……」
絶対に勝てなかった事ぐらいは。
アキリアのように、戦ってから理解したのではなく、戦う前から理解していた。
あれがリグネスト=クル・ギァーツ。【絶体強者】と呼ばれ、かつてエルンストと並んで最強と呼ばれ、2日2晩に渡って戦った末に僅差で敗れた、現人類最強の男。
勝てる要素など、何1つとしてなかった。終始手加減されて遊ばれて、当然の相手だった。
それを理解していても、実際に体感させられるのはまた違った。
あれこそが理脱者。かつてエルンストが到っていた、この世の理から逸脱した領域に立ちし者。
おそらくは、アキリアもその領域に到っている。そしてそのアキリアよりも、リグネストはおそらくは強いだろう。
どちらの万全からは程遠いコンディションでの戦いだった。だが、そんなものは言い訳にすらならない。
アキリアにすら手足も出ずに無様に敗北したのだ。リグネストに対して敗北して、それに対して何かしらの感慨を抱く方が、おこがましいとすら言える。
「だが、それでも……!」
そうと分かっていても、そうと理解していても、そうとする事などできない。なれない。
本来の目的からは外れた、道草の戦い。その戦いにすら敗北し、挙句自己まで否定され、反論すら許されず、またできなかった。
おれがエルンストを越えられない? そんなのは分かっている。
おれがエルンストと同じ領域に立つ事などできない? そんなのは分かっている。
全て分かりきっている。誰よりも長くエルンストと共に居た自分が、最もそれを理解している。
それでも認められる訳がない! 納得できる訳がない!
それらができないにも関わらず、足掻く選択肢を持てていなかった。
結局のところ、認められない事を認めようとしていなく、それを気付くなと自分に言い聞かせて上辺で覆い隠していただけなのだと、自覚させられ思い知らされた。
「――ッ!?」
背後に唐突に動く魔力の気配を複数感じ、前方に跳びながら反転。襲い掛かって来た刃を頭を沈めて回避し、腕を伸ばして柄を掴み、着地と共に突き込む。
ハルバートと呼ばれる槍と斧が一体化したそれの石突で相手の鳩尾を貫き、それに呻いた瞬間を突いて、間合いを詰め、襲撃者の首を掴んで圧し折る。
「なッ――!?」
瞬間、周囲の景色が一変する。
それまでは確かに通路に居た筈なのに、いつの間にか先程まで居た広間のように広い室内に立っていた。
その突然の変化に驚いているおれを他所に、その襲撃者たちは驚く素振りも見せずに、迅速におれを取り囲もうと進んでいく。その数は総勢で20名弱。
全員が統一された鎧と、両手にハルバートを持つその姿は、どこかの軍隊を想像させられる。事実、その動きに淀みはなく、整然としている。
それだけの連携が取れる者たちを相手に、包囲戦をされるのは非常にまずい。そうはさせまいと離脱しようとするが、その前に急接近して来る敵影が1つ。
前の者とは数段ほど違う身のこなしを相手に、回避の選択肢は早々に消え失せる。咄嗟に始末した襲撃者の腰から、予備の長剣を引き抜いて上段からの振り下ろしを受けるも、その重い手応えに全身が砕けそうになる。
何とか踏み止まり、押し込もうとして来る相手のハルバートを押し返してそれを防ぐ。その間に完全に包囲されるが、押し切られて死ぬよりはマシだ。
代わりに、そうされざる得なかった相手の顔を覗き込み、思わず硬直する。
「久しぶりだなぁ、死神ぃ!」
次回予告
道化の悪意は亡者の今際の言葉を呼び起こし、それが死神の影に纏わり付く……みたいな。
忙しい時期を過ぎて一段落したので年末年始は比較的暇なんだと信じたい。更新ペースアップしないかなぁ(他力本願)