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理脱者①

 



「いや、いや、びっくりびっくり、実にびっくりしたかもしれないね」


 そこにあったのは、魔界を再現したかのような光景だった。

 天高く燃え盛る炎のすぐ隣には分厚い氷に覆われた地面が広範囲にわたって広がっており、隣の炎の熱を受けながらもいささかも溶ける事無く、炎から放たれる光を反射して輝いている。

 さらにその氷土を挟んで反対側には、地獄の釜湯でさえも生温いだろうと思えるような灼熱の溶岩が湖を生成しており、その湖の上からは拳ほどの雨粒が引っ切り無しに落ちてきては気化し、小規模な水蒸気爆発を引き起こしている。

 挙句空では雷鳴が轟き、暴風が荒れ狂っているという自然界にはあり得ないちぐはぐな光景。


「実に危なかったかもしれない。けれど危なくなかったのかもしれない。もしかしたら僕の本音は、このどっちかに含まれるのかもしれないね」


 光り輝く氷土の上に薄い色の霞のようなものが集まっては寄り添い、変形していく。それが人の輪郭を象り、それに色が付いて、実体化し終わるのにおよそ5秒。

 5秒後には氷の上に危なげなく足を下ろし、内心の読めない薄っぺらい表情を浮かべたシェヴァンが現れる。


「これは思わぬ伏兵が居たのかもしれない。ただの腰巾着という一方的な先入観は、改めてみるのも一興と言えなくもないね」


 周囲の異常な環境など眼中に無いと言わんばかりに足元に氷の台を作り出し、その上に腰掛け、口元を手で覆い視線を彷徨わせる。


「あれは、そう……昔戦った【死なずのミズキア】と同等か、あるいはそれ以上という可能性も無きにしも非ずかもしれない」


 その普段からの断定形を用いない口調故に、覆われた手によってくぐもった言葉が、本当にそう思って危惧しているのか、それともおちゃらけてそう言っているのかは判別が付かない。

 付かないが、覆われた手の下に隠された口が作り出しているのは、懐人もかくやという笑み。


「ほんっと、あの道化野郎といい、彼といい、粛清したらさぞかしすっきりするんじゃないかという期待が持てる見込みがあるかもしれないね」


 口から手を離したシェヴァンは、悠然と歩み始める。


「だから、この王都から生きては帰さないように善処してみようか」










「そんな事をさせる訳がないだろう」


 大きく後退したリグネストと入れ替わるように、そしてリグネストから瀕死の状態にあるエルジンを庇うかのように赤髪の悪魔アスモデウスが、さらにその反対側、リグネストの背後には白銀の堕天使ベルゼブブが降り立つ。

 双方共に表情は穏やかなものではなかったが、特にベルゼブブの方は露骨であり、普段の凶暴さや好戦的なものとは一線を画した荒々しいものを剥き出しにしていた。

 アスモデウスもあくまでベルゼブブと比べればマシであるというだけで、その相手を射抜くかのような視線は普段の人当たりの良い態度からは想像もつかない程に鋭く、ベルゼブブとは対照的な静謐さを湛えた荒々しさを宿していた。


 そんな違いはあれど、双方共に抱いているリグネストに対する敵意は隠しようも無い。

 【暴食】と【色欲】を司る大罪王という、魔界の中でも10指に入る力を持つ、現在における魔族側の最高戦力の2柱から敵意を向けられる、それがどれだけ危険で絶望的な状況であるかは考えるまでも無いだろう。

 他でもない当事者である、リグネストもそれを理解していた。にも関わらず、その顔に浮かべたのは笑み。


 自分が置かれている状況も、今自分が相対している者たちがどこの誰なのかも、そして何故自分に対してそんな敵意を向けてきているのかも、全てを理解していながらも何とも思っていない者が浮かべる笑みだった。

 いや、何とも思っていないというのには些かの語弊があった。

 何とも思っていない訳ではないが、かと言って特別視している訳でもない。彼が今までに敵対して来た数々の者たちと同一に見ている者が浮かべる、怪物の笑みだった。


「正面には【色欲王】アスモデウス、背後には【暴食王】ベルゼブブか。カインに言わせるところの前門の虎、後門の狼と言ったところだろう。普通に考えれば、逃れようの無い絶望的状況下にあると言える」


 リグネストの左の親指が、ベルゼブブによって刻まれた傷口を拭い赤く染まる。


「だがそれは他の者がこの立場に立った場合の事だ。オレにとってはこの状況やこれから始まる劇など、文字通り子供の戯れ、児戯に過ぎる」

「ベルゼブブ、分かっているとは思うけど――」

「ウダウダ言ってんじゃねェヨ。ンな暇ねぇだろうガ」


 リグネストの不敵な言葉に反応を示す事はなく、ベルゼブブとアスモデウスは互いに目配せをする。

 その双方のやり取りを見たリグネストは、彼女らの意図する事を瞬時に把握する。

 把握した上で嘆息して見せる。


「無駄な事だと、一応忠告しておこう。それが親切心と言うものだからな」


 リグネストの笑みは怪物の笑みから、相手の無知さ加減を哀れむ憐憫の笑みへと変わっていた。


「お前たちのやろうとしている事は、決まった結末を先送りにする行為でしかない。こういう場合、問題を先送りにするよりも、大人しく受け入れるのが常だと認識しているのだが?」

「ゴタゴタとうるせぇんだヨ!」


 直線ではなく、左右交互のジグザグな軌道を描きながら接近したベルゼブブの掌底とリグネストの逆手に握られたナイフが交錯。甲高い金属音が鳴り響き、ナイフの切っ先が手のひらに生まれた唇の無い口の内部に生え揃った牙によって上下から挟み込まれる。


「……良いだろう。お前たちの心意気に免じて、少し相手をしてやる。別にお前たちの心意気など欠片たりとも理解できてなどいないが、そうするべきなのだろう」

「【吐舌とぜつ】!」


 リグネストを吐き出された魔力の柱が呑み込む。

 さらにその火柱が収まるよりも先に、左手が構えられる。その手のひらに生まれた口から出る舌の先には、急速に膨れ上がっていく魔力の集まりである球体。


「【吐轟どごう】!」


 ただ集められるだけだった魔力が、指向性を持って直線状に放射。未だに火柱の中に居るであろうリグネストへと、容赦なく放たれる。


「やる時はとことん派手だね。昔からそういうところは変わらない」


 瀕死のエルジンを抱え、ベルゼブブの戦闘の余波の及ばぬ場所までアスモデウスが移動。一時の間だけとは言え、安全な場所に避難し担いでいたエルジンを地面に下ろして状態を検分。顔を顰めて口を開く。


「そこで自分に被害が及ばないように縮こまっているキミ、出て来たまえ。そして今すぐ全力で彼を治療するか、それともボクに殺されるか、どちらか好きな方を選びたまえ」

「私としても前者を選びたいけど、でも無理。あと縮こまってるんじゃなくて、へばってる」


 アスモデウスの眼光に射抜かれたシアは、怯えも見せず、ただ疲労困憊であるという事だけはありありと伝わって来る表情で、気絶したユナの傍にへたり込んでいた。


「言い訳は聞きたくないね」

「いやいや、言い訳とかそんなんじゃなくて、本当に無理なものは無理なんだって」

「……魔力が足らないのなら、ボクのを使えば良い。ボクの権能を使えばそれは可能だ」

「確かにそれもあるけど、それでも無理」


 頑なに首を横に振るシアに対して、業を煮やしたか剣呑な光を眼に宿し始めたアスモデウスが、ふと表情を引っ込めて合点がいったように盛大に溜め息を吐く。


「……やれやれ、実に難儀な事だね。いや、驚くべきなのは彼に対してかな。人間が良くぞまあ、あれほどまでの力を手に入れたものだ。今までに先例があると言えども、本来はあり得る事じゃないんだ」


 末恐ろしいという念がありありと篭った愚痴を零し、弱々しく頭を振って切り替える。


「キミに尋ねるけど、キミのその固有能力とやらの範囲はどれくらいだい?」

「……周囲を対象から取り除いて、ジン兄だけに絞っても、大体さっきまでの距離が限界」

「……そうか。厳しいという以前の話だね」


 少なくとも、アスモデウスが直に触れて権能下に置いている限りエルジンが死ぬ事は無い。だがそれはあくまで維持であって、状態を改善させるものではない。

 かと言って、問題を根本的に解決するには問題があるのも事実だった。


「……このままこの場で危険を承知で治療に移るか、それとも間に合わない可能性があるのを承知で向かうか」

「それか共倒れとなるかだな」


 先ほどまで訪れていた大聖堂のある方角へと視線を向けて思案に暮れていたアスモデウスの背後から、言葉の知りに繋ぎ合わせるかのような声が掛けられる。


 ほぼ反射的に術式を構築し、振り向き様にそれを放とうとして、それが幾重にも交差する鈍色の軌跡によって散らされる。それに少なくない驚きを覚えながらも視線を上げたアスモデウスが、予想通りの人物が眼前に立っているのを見る。


「ああ、そう言えばもう1つ、見捨てて逃げるという選択肢があったな」










「ミネ、ア……」


 数秒間は自分の娘の口から出て来た言葉の意味を咀嚼するのに時間を要し、それでも呑み込んで理解する事ができず、ただ信じられないという気持ちで自分の――ミネアに刺された腹部より流れ出た血に染まった手を伸ばす。

 これは何かの間違いだ、そんな希望的観測に満ちた手はしかし、ミネアに触れる事なく空を切る。

 より正確には、触れるより前にミネアが、汚らわしいと言っているかのような眼で手を一瞥して身を引いた為に何も掴めずに終わる。


「どう、して……」

「ああ、もう、相変わらず鈍いですね。とても私の実の父親とは思えない。それはつまるところ、私が母親にであるという事の証左でもあるのですから、それ自体には悪い気はしません。ですが、今この時においては苛立ちを覚えるだけです」


 隙を見て再び懐に潜り込み、腹部に突き刺さっているナイフの柄を掴んで捻り上げ、一気に引き抜く。


「そんな鈍い貴方の為に解説してあげますと、貴方にこれ以上の利用価値が無くなったんですよ。厳密に言えば、利用の仕方次第では十分な利益も見込めますが、それよりも必要なものを奪って切り捨ててしまった方が得られる利益は遥かに多い。それが確定した時点で、貴方に対する殺意を隠す意味はどこにも無い」


 子供が親に向けるものとは思えない――それどころか、間違っても向けてはならないような静かな殺意を、相手を虫けらとすら思っていない底冷えする視線と共にミネアはテュードへと剥き出しにして向ける。


「3年前のあの時から、どれほどこの時を待ち焦がれた事か。10年以上も前から、貴方の事をこうしてやりたくて堪らなかった」

「お前は、何を、言って……」

「アゼトナさんとは、随分と仲が良かったそうじゃないですか!」


 それまでの月下の水面のような静けさから一転して、渓流のように激しい感情に満たされる。


「私はジンさんに1つ嘘を吐いた。ジンさんにとって貴方は、理由は違えど紛れもない復讐対象だった。それを私は伝える事ができた。ですが、それをしなかった。貴方自身を、どうしても自分の手で殺したかった。今日の今までずっと、殺したくて仕方が無かった。それを抑えてまで良い子を演じて来たのも、ひとえに貴方に利用価値があったからだ」


 そしてその価値が、メリットを下回った。だから殺すのだという、実に単純明快な損得論。


「全てを知ったらジンさんはどうするんでしょうかね。私に対して怒るでしょうか、私の事を蔑むでしょうか。それも良いでしょう。そうなった場合は私の全てをもってして詫びましょう。私の命でもって濯ぎましょう。貴方を殺して得られるもの全てを捧げて許しを請いましょう。その為にも――死んでください」

「ミネ、アァ!」


 テュードには、ミネアの言っている事が未だ理解できていなかった。

 ただ1つだけ、自分が自分にとって最愛の娘であったミネアから本気の殺意を向けられている事だけは理解できた。

 そして自分が、そのまま抵抗しなければどうなるかも簡単に予測ができた。


 故にテュードは、ようやく動き出す。

 場合によっては実の娘を自分自身の手で殺めなければならない――その事を彼自身が理解しているかどうかは不明だった。

 だがいずれにしろ、最低でも相手の自由を奪い制圧しようと無手の腕が伸ばされ、そして肘より先が宙を舞う。

 遅れて動脈から血が噴出したところで、テュードが自分の腕を切断された事を理解し、同時にそれが背後からの奇襲である事を把握して前方に跳びながら反転。

 振り向き様に背後の奇襲者に向けて能力を発動させようとして、滞空時間が不自然に長い事に違和感を抱き、そして着地できずに背中から地面を転がる。

 最初に腕を切断したのは、直前までテュードとヴァイスの中間地点に立っていた筈の【諧謔】。その手に握られていたのは、成人男性の身の丈ほどもある、刃から柄までやや濁りのある白一色で構成された長大な大剣。全身を甲冑に包んだ、平均から幅も高さも大きく外れた【諧謔】が握れば相対的に小さく見えるものの、相応に質量もある筈のそれを軽々と扱う様は、その特異な色も合わさってその大剣が玩具であるかのような印象を与える。

 しかし現実として鍔の無いそれは白濁した剣身を鮮血で赤く染め上げ、テュードの腕を切断し、間髪入れずに彼の両足を膝から切断していた。全てが半瞬にも満たない間で行われ、切断された事に気付くのにも遅れてしまうほどの早業だった。


「なん――ッ!?」

「筋書きから外れるような真似は慎め」


 容赦なく地面に転がったテュードの頭部を篭手に覆われた手で鷲掴みにした【諧謔】が、そのまま軽々と持ち上げ、くぐもらせて発言主の情報を読み取るのを非常に困難なものにしている声をついでのように投げ掛ける。

 頭部だけを掴まれ、さらには腕と両足を切断されて釣り上げられたテュードは、その意図の掴みかねる言葉に答える事ができなかった。

 頭部を掴むついでに残る隻眼も覆い視界を埋め尽くすという相手の行動に対して、テュードは能力を発動させて視界を塞ぐ指を砂へと変えようとするも、先ほどと同じように何の成果も上がらない。

 結果として選択肢を封じられたテュードにできる事は、四肢の切断と宙吊りにされた苦痛に呻く事だけだった。


「ああ、駄目ですよ【諧謔】さん! 殺してはいけません!」


 視界が塞がれた事によって鋭敏となった彼の聴覚に、直前まで殺意を向けていたとは思えない、まるで唐突な事態に焦ったかのようなミネアの言葉が届く。


「殺す前にやらなければならない事があるんですから! それと、私が依頼したのは私自身の身の安全のみであって、敵の排除ではありません! 勿論必要ならばその都度頼みますが、その人は私が殺すんです!」


 そして一瞬だけ湧いた希望は、儚く打ち砕かれる。

 テュードがそんな絶望を味わっているとは露知らず、また知ろうともしないミネアは、抗議をしながら【諧謔】へと詰め寄り、同時にナイフを握る手とは反対の手を懐に入れる。


「さて、ではその指をどけてください」

「…………」


 依頼主であるミネアの言葉に、【諧謔】は頭部を掴んだまま指だけをずらし、テュードの視界を開放する。

 ひとまず視界が開けて選択肢を取り戻したテュードだったが、頭部は固定されているが故に視界は限定されており、またミネアがあえてそうしているが為に視界にミネアの姿を捉える事は叶わなかった。

 そして間違っても視界に入らないように、慎重に回り込んだミネアは続けて懐から手を抜き取り、素早く自分の父親の眼前へと持っていく。


「ギッ――ッ!?」


 視界に銀色の何かが入り込んだかと思った瞬間、テュードの視界は闇に沈み、喉奥からは身を引き裂くかのような絶叫が溢れ出す。


「がぁぁあああああああああああああああああああッ!!」


 右眼に続いて、左の眼窩から滂沱のように赤い血を流して絶叫する父親を他所に、ミネアは銀の匙を片手に、その上に載った視神経が付いたままの瑞々しい眼球を、実に嗜虐心に溢れる微笑を浮かべて満足そうに眺めると、続けて懐から液体に満たされた瓶を取り出し、その中に沈めて封をする。


「これは有効活用させて頂きます。勿論貴方があの人に対してやった所業に比べれば、贖罪にすらならないちっぽけなものであるのは事実ですが、当然の報いです」


 笑みを引っ込め、ナイフを釣り上げられて無防備なテュードの左脇へと突き立てる。

 そのまま、新たに溢れ出す絶叫など無いかのように淡々とナイフを動かし、肋骨の隙間を縫って、だが心臓には刃が触れないように繊細な手つきで前面へとナイフを動かしていく。

 そして胸骨に刃が当たったところで思い切り捻り、股間部に向けて背骨の側部に沿って一気に刃を下ろして体に縦の切れ込みを入れると、ナイフを捨て、両手を立て付けの悪い扉にそうするかのように切れ込みに差し込み、魔力を循環させて強化された膂力で持って押し開いていく。


 半オクターブ上がる悲鳴にすら心地良さそうに眼を閉じ耳を澄ませながらも、ミネアは止まらない。腹腔から臓腑が簡単に零れ落ちて行くほどに開腹し終えると、そのまま手を弱々しく脈動する心臓へと持っていって掴むと、一気に引き千切る。


「……なるほど」


 完全に自分の父親の動きが停止するのを見届けると、手に持った肉塊を地面に投げ捨て、それまでの行動を反芻するかのように呟く。


「中々スッキリしますね。今まで不合理な事であると一方的に決め付けて来ましたし、その評価は変わりありませんが……度合いは変わってきますね。経験則に基づかない先入観はかくも恐ろしいという好例……そう言ったところでしょうか」

「……末恐ろしい限りだねえ」


 それまで沈黙を保っていたヴァイスが、ようやく声を絞り出し、ミネアがそれに反応する。


「事情は知らないけども……1つだけハッキリさせたい。このまま戦うかい?」

「ご冗談が好きですね。私が貴方と戦う訳が無いじゃないですか、叔父様」

「叔父様……ね、ちっとも敬意が篭っていない気がするけども、まあいいか。その回答は百も承知さ。私が言いたいのはそうではなくて、彼を……」


 オレから私に戻ったヴァイスが、【諧謔】を視線で指し示す。


「私にけし掛けるつもりはあるのかという事さ」

「それも含めての、私の回答ですよ。これでも貴方には、それなりに感謝と敬意を持っているんですよ?」

「そうは見えないんだけどね……」

「それならそれで構いませんよ。所詮は個人の主観ですから」


 それ以上は言う事は無いと、踵を返して歩き始める。

 おそらくは雇用関係にあるらしい【諧謔】も、無残に殺されたテュードの死体を放り捨ててそれに続こうとしたところで、2人にヴァイスが言葉を放つ。


「ちょっと待ってくれるかい?」


 だが2人とも、そんな言葉は聞こえないかのように足取りを止めずにさらに歩いたところで、言葉は畳み掛けられる。


「君に言っているんだよ【諧謔】」

「…………」

「一体、どういうつもりなんだい?」


 事と次第によっては、という言葉が続きそうな問いに対して、呼び止められた【諧謔】からは表情も雰囲気も読み取れない。


「特に何も……良い舞台が演じられた、ただそれだけだ」


 数秒の沈黙の後に告げられたのは、そんな言葉。


「舞台?」

「気に入らないのならば、劇でも良い。いつもの事だろう?」

「…………」

人喰いカニバリズムや近親相姦に続く、人類の最大の禁忌とされる3つのうちの1つである親殺し。それを題材にした劇がどう受け取られるのは人それぞれだが、今回のは大層な喜劇だった。そうは思わないか?」


 表情は見えないが、面頬の下でハッキリと笑っているのがヴァイスにも理解できた。


「感動を呼ぶ恋愛劇よりも、陰惨な結末になる悲劇の方が人気が出やすいのが舞台の常で、今回のもまた随分と悲惨な結末だが……中身を検分してみれば何て事は無い、ただの茶番に過ぎない。これを喜劇と言わずに何と言う?」

「相変わらずだね。相変わらず君の性根は、腐り切っている」

「斬り裂き魔に言われるとは、世も末だ」


 ヴァイスの揶揄も意に介さない。


「今回もそういった舞台を整えた、ただそれだけの事だ。イチイチ目くじらを立てる事でもない」

「私としては目くじらを立てたつもりはないのだけれどもね。ただ、君は相変わらず楽しそうだと、そう言いたいだけさ」

「楽しそう、か。そう見えるのだとしても、その認識は誤りだ」


 ヴァイスが述べたのが皮肉であるという事を理解した上で、特に意に介す事も無く投げ返す。


「別に楽しくも何とも無い」


 その言葉を最後に、立ち止まった【諧謔】の事などお構い無しに先に進んでいたミネアの後を追い掛ける。

 それを何とも言えない表情でヴァイスは見送り、うんざりしたような、あきれたような表情へと変化させる。


「ああ、嫌だねえ。本当に相変わらずだ。相変わらず、敵か味方か分からない奴だよ」











「実に厄介な権能だ」

「それはどうも。褒め言葉として受け取らせて貰うよ」


 まるで嬉しくない褒められ方ではあるけれどもね。

 第一、傷の1つも付けられていない現状でそんな事を言われても、皮肉にしか聞こえない。例え本心からの言葉だったのだとしてもね。


「そろそろ諦めたらどうだ? いい加減無駄だというのは、嫌でも理解しただろう」

「あのさぁ、キミ、直前の自分の発言と今の発言との間に整合性が存在しないっていう自覚、持っているかい?」


 ますます皮肉にしか思えなくなったよ。


「そもそも、元を正して考えてみれば、オレがここに居るという事はオレの前に立ち塞がったベルゼブブが敗北を喫したという事に他ならない。にも関わらず、そのベルゼブブよりも劣るお前がオレに勝てる道理など無いという事ぐらい、少し考えてみれば分かる事だろう。その時点で、戦わずとも如何にこれが無意味な事なのかぐらいは理解できて然るべきだ」


 立て続けの答えになっていない返答は、ボクの会話による時間稼ぎに付き合うつもりは無いという迂遠な主張のつもりなのかな。そうにしろそうでないにしろ、ボクにとってはあまり好ましくないのが実情なのだけれども。


「いや、ボクとしては、おそらくは瞬殺されたであろうベルゼブブと比べて相当粘れているその優秀さに対して、称賛の1つでも欲しいところなのだけれどもね」

「自惚れるな」

「――カッ、ハッ!?」


 気が付けば視界が塞がっていて、呼吸が途絶する。

 瞬時に距離を詰められて、ナイフを胸に突き込まれたとその時になってようやく理解するけれども、その時には既に相手は刺突の勢いのままに押し込み突き飛ばした後だった。

 胸からナイフが抜けて、地面を二転三転したところでようやく止まり、跳ね上がると同時に権能を行使する。


「ぜ……ゼロ!」


 ボクには見向きもせず、まっすぐに彼の元へと向かおうとした相手の進行方向周辺を纏めて範囲に含む事で無理やり阻み、動きを強制的に止める。

 それが限界で、堪えきれずに激しく噎せる。権能を発動させて胸の傷を消そうとするも、呼吸が途絶したのと、完全に心臓を破壊されている為か中々上手くいかない。

 それでも気を抜けば相手に好き勝手を許す事になるから、気を抜かずに視界の中央に納めたまま外さない。


 こちらの会話には付き合わないのかと思えば、それを即座に裏切る言動をしたりと、どうにも相手の意図が掴めないね。

 まあ、会話に乗ってくれたらくれたで、随分と端的且つ手痛い一言と一撃だったけれども。


「オレがベルゼブブを即座に畳めて、お前に対して手間取っているのは、単純に相性の問題だ。

 突き詰めてしまえば、オレはベルゼブブの手の内とその対処法を知っていて、お前の手の内をちっとも知らなかったというだけの事。そこにお前の実力も関係なければ、相対的にベルゼブブよりもお前が強いという事にもならない。お前たちを客観的に比べれば、ベルゼブブの方が上だという評価が覆る事は無い」

「…………」


 本当に手痛い言葉だよ。

 そんな事は、当の昔に身に染みて良く分かっているというのに。


「が、仮にお前の実力がベルゼブブを凌駕していようとも、結果は変わらない。そもそも全盛期にあったベルゼブブでさえ当時のエルンストには勝てなかったというのに、その時のエルンストよりも上の力を持っているオレに、そんな消耗した状態で勝てる訳が無いだろうが」

「大きな、お世話、だよ……」

「要らぬ世話だと文句を言うのなら、その世話を焼かせないように、まずは自己改善を図るべきだろう」

「繰り返して、言うが、大きなお、世話だ……」


 これは相当不味いね。かなり的確に心臓を破壊されている。

 権能が上手く発揮できない為に出血が止まらないのはそうだけれども、それと一緒に、魔力の流出が止まらない。


「分からないな。実に理解に苦しむ。勝てないという事を理解しておきながら、避けられる戦いを避けようともしないというのは不合理の一言に尽きる」

「それは、君の、価値観だろう……」


 時間が経過すればする程、より一層追い込まれる事になる。

 おそらく相手もそれが分かっているんだろうね。でなければ、こうも的確に心臓を破壊したりはしないだろう。

 となれば、会話を重ねるのは時間の経過と共にボクが弱るのを待つ為とも考えられる。

 逆に考えれば、望まずとも時間稼ぎを達成できるという事にもなるが、同時に良策とも言えない。いくら時間を稼いでも、現状を打開できる要素を手に入れられなければ、最終的な収支はボク自身の弱体化のみというマイナスとなってしまう。


「ならばお前の価値観の中には、あいつに命を賭けるだけの価値があるとでも? 理解しているだろうが、このままオレと敵対を続けるのならば、確実にお前は死ぬ。それは絶対に避けられない事実だ。

 厄介な権能だったのは事実だが、もう大体見切った。殺すのにそれ程の手間は掛からない」

「……まったく、これだから、理脱者りだつしゃって奴は、嫌なんだ。規格外に、過ぎる」


 ボクの権能を見切ったという言葉は俄かには信じ難い。だけれども、軽々に扱って良い言葉でもないだろう。

 少なくとも相手が相応の……いや、それを遥かに上回る力を保持している事は事実なのだからね。

 理脱者というのは、そういう存在だ。


「それでも尚も立ち塞がると言うのならば、こちらとしても遠慮はしない……が、客観的な観点から言ってしまえば、大人しく引き下がるべきだな」

「何度、問い掛け、ても、変わら、ないさ……」

「……分からないな、実に理解し難い。不合理の一言に尽きる、理解するのに苦しむ行為だ。

 どの道、お前がどんな選択をしようとも、最終的な結果としてそいつが死ぬ事に変わりはない。百歩譲って、勝てないにしても立ち塞がる事で結末が変えられるのであるならば、まだ分からないでもない。だが、現実的に見てそうはならない。

 いくら奮戦しようが、仮に時間を稼いだ事で他者の助けが入ろうが、同じ事だ。オレからすれば、どう転んだところで児戯、余興以上になる事は無い」


 これまた、随分な言い様だね。もっともこの場合、大言壮語でもなんでもないのだけど。


「理解、し難いと、言った、けども……」


 結局この場においては、会話を引き延ばす事で時間を稼ぐ事を選ぶ。

 自分にとって都合の悪い結果の確定した先よりも、少しでも不確定な先を選ぶのと並行して、稼いだ時間を胸の傷の修復に回す。


「ボクから、すれば、キミの行動、の理由こそ、理解、し難い。こう言っては、何だけど、彼に、キミが固執、するだけの力は、無い筈、だ……」

「だから言っただろう。余興だとな」


 ボクの問いは、その言葉だけで片付けられる。


「【諧謔】の言ではないが、宴を確実に成立させるには、絶対に必要な事柄だ」

「宴、だって……?」

「答える義理は無いし、ついでに言うつもりも無い。だが、余興ついでに、お前の言葉の羅列に付き合ってやろう。普通はそうするのだろうからな」


 きっちりとバレているみたいだ。しかも、看破しておきながらそれに付き合うとはね。

 もっとも相手からすれば、その程度、高慢でも傲岸でも、不遜でもない。


「さっきも言ったとおり、お前の行動はオレからしても、そして一般的な観点から言っても理解のし難いものだ。

 いや、理解し難いなどというものではなく、理解できないと言っても良い。あまりにも合理性を欠いた行為だ。一体どうして、何が理由で、お前は立ち塞がる?」

「どうして、か……」


 その眼には疑問が宿っていた。その視線に射抜かれて、自問してみる。


「どうして、だろうね……」


 そして出て来たのは、そんな言葉。別にふざけている訳じゃなく、自然と零れて来た。


 相手の言っている事は正しい。このまま戦い続ければ、ボクは必ず死ぬ。傷はようやく修復し始められたが、仮に修復し終えることができたとしても敵わない。

 そして引き下がってしまえば、彼を見捨ててしまえば、ボクは死なずに済むだろう。

 ボクだって、それは理解している。理解した上で、彼を死なせない為に戦っている。ボクがそうするだけの、相手の言うところの価値が彼にはある。

 なら、その価値とは何なのだろう。


「当たり前、過ぎて、何気なさ、過ぎて、考えた事も、無かったよ……」

「何だそれは。当たり前の事だったとしても、その事柄が当たり前である理由はある筈だろう」

「かも、しれないし、そうじゃ、ないかもしれない、ね。何で、生きていると、聞かれて、答えられる、のかい?」

「普通に考えて、この世に生まれたのならば当然そうするだろう」


 ああ、そうだったね。キミはそういう奴だった。いや、彼の記憶から知っただけの知識でしかないのだけれども。

 他人がそうするから、大衆にとって当然の事だからそうするんだったっけ。


 まあ、ボクにはそんな事は関係ないし、興味もない事なんだけれども。それでもボクにとっては、目的も無くただ漫然と生きるだけの行為は当たり前過ぎて、そうであると思う事すら無い。

 いいや、無かったと、過去形で言うのが正しいのだろうか。


「そう、だね。冷静に、考えて、みれば、確かに……実に奇妙な事、だね……奇妙で、面白い」


 自然と堪えきれなくなって、喉奥から笑いが零れ出て身を振るわせる。とても痛い。

 そんなボクを見る相手の目には、怪訝な色。当然の事だ。当然だと思い納得する一方で、何故か憐れにも思えて来る。


「キミには、分からない、だろうね……」


 こんなもの、当たり前とすら思えなくて、当然だ。

 当然の事だったというのに、今まで自覚できていなかった事が奇妙で仕方が無い。そして同時に、実に興味深い。


「ありがとう……その、たった一言の、言葉が……ただの、声帯と空気の、振動が……ボクにとって、どれだけ、ありがたかった、か……」


 そうだ、分かる訳がない。というよりも、相手だけに限らずとも、大半の者は分からない場合が殆どなんじゃないだろうか。

 それぐらい、一般的な価値観からは外れているという自覚はある。


「それでも、初めての、事だった……」


 あの時のボクにとっては、全てが初めての事だった。

 それまで疎ましくて、苛立たしくて仕方が無かったボクの権能が、司る大罪が、ボク自身の存在が。

 あの時になって初めて、ほんの少しだけ、好きになれた気がした。胸を張って誇れるようになった気がした。


 ほうら、案の定、理解できないという表情だ。


「理解しかねる。理解しかねるし、納得できないが、それでも無理やり咀嚼するのならば、差し詰めは感謝や恩義といったところか」

「感謝や恩義、か……少し、違うね……」


 それも勿論あるのは事実だ。だけど他にもある。

 自分でも当たり前過ぎて、そして同時によく分からないモヤモヤとしたそれに言葉を当て嵌めるとするならば、それは、


「羨望と……それと、嫉妬、と言ったところ、かな……」


 ますます困惑の色が強くなる。ちょっと愉快だ。

 直前まで完全に主導権を握られていたのに、その権利を少しばかり取り返す事ができていた。


「羨望ならばまだしも、嫉妬か。よりにもよって、【色欲】を司るお前がか?」

「その、通りさ……」


 奇妙で奇怪な事は百も承知。

 だけどボクには、あの時からボクが抱いていたものに当て嵌められる言葉が他に無い。


 その純粋さも、そのひたむきさにも、その目的意識も、そしてそれらの根幹的要因を与えてくれる存在を持っているという事実も。

 それら全てが眩しくて羨ましくて、憧れた。


「憧れると、同時に、心の底から、嫉妬した、よ……」


 ボクが持っていないそれらを持っている事に対してじゃない。ボクが羨望の念を抱いた彼が選んだのが、ボクではないという事実を目の当たりにさせてくれる彼女に対してだ。

 別段その事に不満がある訳ではないのだけれども、それでも叶うのならば、1つだけ知りたい。1つだけ彼の口から教えて欲しい。


 一体どうして、ボクでは駄目だったんだい?


「やはり理解できない。できないし、できるようになりたいとも思えないな。ただ1つ断言できるのは……愚かだ」


 そうだろうね、全く持ってその通り。

 当人以外の立場からすれば、ボクの口にした理由なんて、到底命を賭けるに値しないだろう。


「何よりもくだらないのは、お前が愚行を犯す原因である奴が、ただの人形でしかないという事だ。穴が空いていて、それを塞ぐ事もせず、かと言って認めるのでもなく、ただ否定しかできない、中身の伴っていない虚ろな人形でしかない。

 どれだけ自己意識を語ろうとも、自己価値観を語ろうとも、それはあり得ると定められた言葉の中から選び、あるべきように喋らされているに過ぎない。操り手が居なくなっても尚、その事を認めたがらない憐れな操り人形でしかない」

「それは、訂正して貰おうか……」


 思わぬ方向に進みはしたけれども、概ね目的は達成できた。完全ではないけれども傷は修復でき、一通りの行動に支障は無くなった。

 その事を確かめる為にも立ち上がって、反駁する。


「彼は人形ではない。1人の、個を持つ人間だ。断じて物なんかじゃない」

「何を言っても無駄な事でしかない。事実は絶対に覆らないからだ。

 ヒヨコが居て、それをお前が竜だと認識し、いくら声高らかにそれは竜であると主張しても、それがヒヨコであるという客観的な事実は覆らない」

「その客観的な事実に基づいて、彼は人形なんかじゃない!」

「その主張をしている時点で、主観が多分に混じっていると理解するべきだ」


 その言葉をそっくりそのまま返してやりたいのは山々だったけれども、それは遮られる。相手がまるで心の底から悲しむような、それもボクに対してではなく、かと言ってこの場の誰かでもなく、どこかの誰かに対して嘆くような表情を浮かべた為に。


「エルンストに間違いがあったと仮定して、敢えてその例を挙げるとするのならば、挙げられるのはその事ぐらいなのだろうな。それだけが間違いと言える可能性があるのだろうな。

 人形を人形のままに、それ以上にする事ができなかった。あるいは最初はそうでなかったのかもしれないが、結果として人形にまで貶める事となった。それが間違いで、愚行だった」

「聞き、捨て、ならない、な……!」










「駄目だ動くな! 本当に死んでしまうよ!」

「放ッ、せ……!」


 息も絶え絶えに、自らの意思で止める事さえもできない震えを身に纏い、原形を留めていない体構造を駆使し、エルジンが身を起こす。

 そこに心からの焦りを露にアスモデウスが駆け寄るが、その手は無常にも払われる。

 そのたった腕を振るという動作だけでエルジンの全身には激痛が迸り、堪え切れない嘔吐感に抗えず、折角起こした体をくの字に折り曲げて胃袋の中身をブチ撒ける。

 だが胃の中には、もはや固形物などありはしない。変わりに吐き出されるのは、内蔵の損傷に伴って流出し体内に溜まった血と、胃液の混ざった吐瀉液。

 地面を汚したそれが汚溜まりを形成し、そして足が踏み下ろされて周囲に新たに斑点を作る。

 しかしそこまでが限界で、体を支えきれずに前のめりとなり、倒れ切る前にアスモデウスの腕がその体を優しく支える。


「エルン、スト、は……」


 それでもせめて言葉は気丈にと、縺れる舌が動き、か細く補給される空気がほぼ機能していない肺から押し出され空気を振るわせる。


「間違い、など、犯して、いない。何1つと、して、間違って、なんか、いなかった……今の、おれが、どうであろうと、も……それは、何も関係が、無い……!」


 全身を絞るかのように、無理やり身を起こす。

 当然のようにそれを妨げようとするアスモデウスを、視線だけで制して、顔は俯かせたまま何事かを紡ぎ上げる。

 それは音はおろか、口元の動きさえリグネストに届く事は無かったが、それでもアスモデウスが眼を見開く。

 その反応が何から来るものかは定かではないが、それでも彼女は逡巡し、やがてエルジンの血に塗れた腕を彼から離す。

 支えを失ったエルジンはふらつき、変わりに剣を突き立てて身を支え、その際の振動が齎す痛みに呻き、また呻き声を上げた事による振動で視界を赤く染め、それでも奥歯が砕けんばかりに食い縛り堪える。


「何も、碌に知らない、あんたが……」


 剣を僅かに前に倒し、柄を逆手から順手に握り直す。


「エルンストを、語るな!」


 自らの足ではなく、地面に突き立てた剣を起点に突貫。その動きは万全の時と比べれば、呆れるぐらいに遅い。

 もはやそれは悪あがき。一矢報いる為のものでさえもなく、子供が認められない事実を前にこねる駄々と同じようなもの。

 それを把握したリグネストは嘆息し、何も特別な事をする訳でもなく、ナイフを持ち上げる。


 そして振り上げられた剣に対して、回避行動を取る事さえもせず、ただ剣が自分の身に届くよりも先に逆手にナイフをエルジンの上腕に突き立てる。

 直後に、彼の腕はナイフが突き立った場所を起点に爆砕し消失する。

 周囲には肉片の1つも無く、ただ支えを失った剣が勢いのままにあらぬ方向へと回転して飛んで行き、地面に突き立つ。


 それはエルジンにとっても、別の驚くほどの事ではなかった。彼の左足は、そうやって破壊された。

 だが彼が驚かなかった理由は、それではなかった。


「ああああああああああああああああッッ!!」


 残る腕を失ってもエルジンの気迫は衰えず、雄たけびと共に、本来は剣を握っていた腕の残る部位が振るわれる。

 無残な状態を晒す断面からは、ただでさえ少なくなっていた彼の体内の血をさらに零し、振るわれた勢いに乗ってリグネストの顔へと飛んで行く。

 上手くいけば、あるいは視界ぐらいは潰せたかもしれないその飛沫を、リグネストはただ首を背後へと傾けるだけでいなす。

 視界を潰す事も無く、鼻腔に入り込む事も無かった飛沫は鼻筋に付着して流れ落ちて跡を付け、その跡が間髪入れずに歪む。


 その時のエルジンとリグネストの差は、知っていたか、そうでなかったかの違いだった。

 エルジンはリグネストがそんな芸当ができると知っていて、また同時に、アスモデウスができる芸当についても知っていた。

 一方でリグネストは、アスモデウスのできる事を完全に把握していた訳ではなく、またエルジンの右腕が、彼の物ではなくなっているという事も知らなかった。


 振り上げられた腕は、伸ばし切られる直前で反転し、軌道上にあるリグネストをなぞろうとするかのように振り下ろされ始める。

 ほぼ同時に、その腕の荒々しい断面など無かったかのように、それどころか元々の損傷さえ無かったかのように、傷の1つもない、全身の負傷に対して気持ち悪いぐらいに綺麗なままの腕がそこに唐突に発生し、手が鉤爪を作った状態で振り下ろされる。


 いくらあらゆる感覚から手に入れた情報を脳内で高速に処理し、結果的に視界に広がる光景がゆったりと経過していく世界に身を浸しているリグネストであっても、彼の中で時が止まっている訳ではない。

 そしてまた同時に、その遅く経過していく世界の中で、彼だけは本来の動きができる訳ではない。

 常人の一瞬が彼にとっては100倍であろうと、1000倍であろうとも、反応できる範囲には限界がある。ましてや、直前に首を背後に傾けて重心がズレたばかりだ。そのズレが僅かなものであろうとも、やはり限界が存在する。


 その場面だけにおいては、エルジンは完全に読み合いに勝っていた。勝った上で得たその一瞬にエルジンが放った虎爪は、完全にリグネストを射程に捉えていた。

 常人がやっても切り傷を作る程度の一撃であっても、脳の抑制の存在しない彼が放てばそれは、肉を引き千切り、骨を削り、命を抉り取る一撃と化す。

 その虎爪は寸分違わず、人体の急所たる頚動脈へと向かう。


「……ッ!?」


 だが、それでも相手はリグネスト=クル・ギァーツだった。

 現在において、傭兵間はおろか、紛うことなく人類の頂点に君臨するであろう男。


 自分の持つ能力を駆使し、万にも、億にも届こうかというフレームの中でその都度自分の体を動かし、限界の効率で自らの体を既に傾いている方向へと倒す。


「……これは驚いた。本当に驚いた」


 結局、エルジンの虎爪がリグネストの喉元を抉る事は無かった。

 それでもその場に両者を、そうでなくとも、リグネストを知る者が居たのであれば、エルジンに対して万雷の拍手と称賛を送っていただろう。


 リグネストの左頬には、中指と薬指の爪が刻んだ2本の傷。

 そこから新たに血を流したリグネストが、それを確認するかのように手の甲で拭い取り、視界に納める。


 最初にエルジンが付けた傷は、終始手加減された状態で、それでもやっとの思いで付けたもの。

 それでも相当に難しい事は事実だが、今度は間違いなく臨戦態勢に、本気の状態に入っていた状態のリグネストに傷を刻む事に成功していた。


 それを確認したリグネストは、そのまま甲に血の付いた手をエルジンの眼前へと持っていく。

 親指の腹で中指の爪を押さえ他の指は上空へと立てた状態で力を溜め、そして放つ。


「ッ――!!」


 リグネストがやったのは、子供が悪戯でやるような攻撃――俗にデコピンと呼ばれるもの。

 馬鹿にしていると取られかねないその攻撃はしかし、リグネストの超絶的な技量と能力とが合わさり、エルジンの額の一点を的確に打ち据え、衝撃を内部にまで効率的に伝え、脳を激しく揺らしていく。

 そうして生み出される結果は、最小の労力による意図的な脳震盪。


 脳を揺らされて平衡感覚を狂わされたエルジンは、その場に横転して中空を見上げる羽目となる。

 自分が何故倒れたのか、その事を理解できているかも怪しい表情で、ただそうしようと意思だけは露に起き上がろうとする。

 だが脳が激しく揺さぶられている状態でそれが叶う筈も無く、その無様に転がるエルジンを、リグネストが見下ろす。


「……人形という言葉は、訂正しておこう」


 無理な動きで痛めたのか、首をしきりに撫でながら、リグネストが口を開く。


「まるで獣だ。2度も、それも今のオレに傷を付けるのは、奇跡やまぐれではあり得ない。それだけの事を成し遂げられるだけのものが、お前の中にはあった。だが――」


 視線はそのままに、ナイフの切っ先だけをアスモデウスへと向ける。たったそれだけの動作で、動き出そうとしていたアスモデウスの行動は、完全に制限させられる。


「虚無の穴の在り方は、幻想でも虚構でもない。その穴は狩った獲物の死体をいくら投げ込んだところで、決して塞がる事はない。今のお前に、塞ぐ事などできない」


 視線には哀れみと、そして初めて敵意が同在し始める。またナイフの切っ先は、アスモデウスからエルジンへと。

 対するエルジンは反応を返す術を持たず、ただ向けられたナイフの切っ先と同じか、それ以上に鋭利な眼光を向け返す事しかできなかった。


「お前はオレを、何も碌に知らない者と評したが、それは断じて違う。オレはお前よりも遥か前から、20年も前からあいつを知り、そして同じくらいの歳月を待ち侘びて来た。こういった物事は、単純に長さで測れるものではないというのも当たり前の考えなのだろうが、かと言ってお前にそう言われる理由も無い!」


 アスモデウスが動き出すよりも早く、迅雷の如くナイフは振り下ろされる。

 その迅雷よりも早く、まさしく閃光の如く、鈍く重い衝撃音が響き、リグネストの全身を揺らして吹っ飛ばす。


「なん――!?」


 尻をつくような愚行は犯さず、空中で巧みに身を捻って両足から着地したリグネストの両目には、尚も混乱の色。

 彼の能力によって鋭敏化した、どの感覚にも捉えられる事の無かった唐突の事態と、自身を襲った謎の事象に対する混乱が表層に溢れ出た結果だった。


 そして加速した思考が正答を導き出すよりも先に、追い討ちの一撃。

 先ほどは右の脇腹を抉るかのような一撃だったのに対して、今度は真正面から、鳩尾辺りに拳大の何かが埋まる感覚と共にリグネストの体がくの字に折れ曲がって持ち上がる。


「それ以上、私の生徒に手を出すのは辞めて頂こうか」


 現れたのは、少なくとも外見年齢は40代に差し掛かったかどうかという、肌に潤いを十分に宿している、服の上からでも分かる鍛え抜かれた肉体と白い顎鬚を持った人物。

 唐突な登場であるからこそ、その不可解な事象の原因がその人物にあるという事は、容易に想像が付いた。


「あんたか……メネケア=ラル・エミティエスト、堕ちた理脱者」


 唇の端に血の混じった唾液を浮かべたリグネストが、打ち抜かれた腹部と脇腹を左腕で抑えながらナイフを逆手に構える。


「悪いが、一昔のあんたならばいざ知らず、今のあんたに用は無い」










「レディース・アーンド・ジェントルマーン、本日はお集まり頂き、真にありがとうございます」


 芝居の掛かった口調と動きで、カルネイラが彼の所有する邸宅の屋上にて仰々しく一礼する。

 そんな彼が頭を下げた先に居るのは、イースとウェスリアのコンビを含む、数人の男女。


「今宵はこれより、相手に対する嫌がらせという名の、最高の劇場の幕が上がります」


 カルネイラが広げた腕の先には、破壊され荒廃し、尚も戦闘音と破壊音が断続的に響いて来る王都の街並み。

 それを指し示すカルネイラの顔には、心底楽しそうな笑みが浮かんでいた。


「舞台はここ王都、観客は僕1人。役者は彼らで、監督やその他舞台の裏方は君たちだ」

「…………」


 カルネイラの常人には理解の及ばないであろう言葉に対して、向けられた側は一切答えない。

 ただ応えない理由は理解できなかったからではなく、他人の発表を遮るような、マナーのなっていない事はできないという、理解できているからこそ生まれる理由だった。


 その一行の反応に満足したのか、カルネイラはさらに笑みを深めて宣言する。


「それじゃあ、今宵の今世紀最大級の大舞台、それを盛り上げるのに必要不可欠な余興を始めようか!」











次回予告

理の体現者は老将の築き上げた栄光を崩さんとする中、軍団と守護者、死神と悪魔たちは道化の遊戯に巻き込まれていく……みたいな。



くっそ遅くなってしまい申し訳ありませんでした。これでも大分急いだほうなんですよ、具体的には結構構想を削ったりとかしたよ……なんて言い訳してみます。

まあ色々と私生活のほうでごたごたしていました。ぶっちゃけるとそういう事です。ちょっとずつ更新ペースは上げていきたいと思います。


それと余談ですが、当作品がOVL大賞の一時選考を通過いたしました。これも応援してくださった皆様のお陰です。今後ともにがんばりたいと思いますので、よろしくおねがいします。

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