理をも逸脱する者
夜闇の帳が落ち、人工的な光と月の光が混じり合って照らす街中でエルジンは片膝をついて蹲っていた。
その体勢は傍から見ていても今にも倒れるのではないかと心配になるほど不安定で頼りなく、事実その体勢はたまたま体重を支えきれずに崩れ落ちた際に体がそうなっただけで、決して可能ならば立ち上がろうという意図が存在するものではなかった。
本来ならば黒い瞳の眼球が収まっている筈の左眼には黒い眼窩が赤い血潮と共に顔を覗かせ、その下には顎に掛けて一直線の傷が走っている。
喉には幾筋もの傷が刻まれ、どれも致命傷でこそないものの浅くはなく、湧き水のように止まる気配のない血がコンコンと溢れ出している。
地面に付ける羽目になっている左足は無残にも破壊され、また反対の右足も股関節から膝に掛けて深く抉られている。
左腕は肘から滑らかに切断されて断面からはやはり血が垂れ流され、切断された肘から先は彼の場所から数歩離れた場所に無造作に転がっている。
右腕は左腕と比べれば損壊がマシなものの、小指と薬指が消失し、肩の関節から上腕にも傷が刻まれている為に、まともに動かせるかどうかも怪しい状態であり、剣は握られているというよりは引っ掛かっていると表現するのが正しい。
挙句の果てには胴体には肝臓と膵臓、両腎臓と両肺が下に収まっている部位にそれぞれナイフで突かれた傷があり、何より心臓の収まっている胸にはただ刺しただけではなく抉り回した穴が空いていた。
そんな全身傷だらけのエルジンの胸は微かに上下していた。
口からはか細い呼気が短い感覚で吐き出され、それに合わせるように口角からは血泡が膨らんでは破裂し、液体となって顎を伝って流れ落ちていく。
そしてそれを含めた全身の傷口からは、傷の酷さに反比例するように流れる血の量が少なかった。
今も流血は止まる気配を見せないのは確かだが、その量はあまりにも心許ない。その流れを供給する体の方に収まっている血が、底を尽き掛けている為だった。
それほどの傷を受けながらも、エルジンは不恰好な命を繋いでいた。
心臓という人間共通の鍛えようのない急所を抉られながらも、即死に直結こそしないが破壊されれば死は免れない急所となる臓器を破壊されても、生きるのに必要な酸素を満足に取り込めないほど細い呼吸しかできなくなっていても、それでもエルジンは生きていた。
常人ならばとうの昔に――いや、常人でなくとも死んでいるほどの傷を負いながらも、辛うじてではあれど命を繋いでいられる理由は何なのか。
別に不死性を身に付けている訳でもないのにも関わらず生きていられる理由は、本人ですら定かではない。
その代わりに分かっているのは1つ。自分が敗北を喫しているという結果のみ。
大陸の西では【死神】と呼ばれ忌み嫌われると同時に恐れられ、無能者でありながら能力者とも渡り合える実力を持った、紛れもない強者である筈のエルジンが完敗していた。
「悪くはなかった」
対面側数歩の距離に、エルジンとは対照的に自分自身の両足で安定した姿勢を維持した状態で立つリグネストが称賛にも似た言葉を吐く。
やはり顔には嘘くさい微笑が貼り付けられており、頬には一筋の赤い線が付けられ、そこから一滴の血が道を描きながら垂れ落ちていく。
防刃素材でできている訳でもないただの衣類の上には鎧の類を一切身に付けておらず、その衣類は所々が汚れ裂けてはいるものの、それ以外に目立った損傷というものはない。
「オレに血を流させたのも見事だ。身内の連中であっても、それを実現させた者は殆ど居ない」
ナイフを逆手に握ったままの手が動き、頬を伝う血を拭い取る。
「エルンストのものを真似ながらも、ただなぞるだけでなく他の者のいくつもの太刀筋をも取り込み織り交ぜて自身独自のものへと昇華させた、精緻さと苛烈さを兼ね備えた剣技。
【ゾルバ式戦闘術】による蹴り技を始めとした、各国の軍隊式の格闘術。
オレの能力を前に間合いでの戦いは不利だと判断して使用した、同じく【ゾルバ式戦闘術】による投げ技と関節技。
それを決断できた歴戦の経験から来る判断力と、小細工を弄する駆け引きを厭わない、勝つ為の手段を選ばない形振り構わなさと非情さを併せ持った合理的思考。
そして何より、絶対に勝てないと分かっていながらも尽きる事のない闘志と戦いを続けられる精神性……これはエルンストと何度も戦って来た経験から来るものだろうな。
投げ技と関節技――とりわけ寝技は粗が目立ち、良いところが2流止まりだが、それを踏まえた上でも卓越した技量を持っていると言って差し支えない。こと魔力を用いないという条件ならば【レギオン】内においても3指に入る。あのエルンストの弟子という以前に、カインが執着する理由がよく分かる」
終始手加減して引き出しを開かせ観察した戦いを振り返り、リグネストは分析をする。
「だが、それだけだ」
そしてそれらを賞賛した上で、バッサリと切り捨てる。
「そんなものは表層のみ。一皮剥がせばその下にあるのは、大きな2つの穴を含む無数の虚無の穴だ。それがお前の本質だ。
特にその2つの大きな穴が何なのかは分からないが、それらの穴こそが、お前の実力の根幹であり精神の根源だ」
最終的に導き出されるのは、残酷な宣告。
「お前はあまりにも多く欠落していて、あまりにも多くのものを捨て過ぎている。
それが強さの理由でもあるが、所詮は歪に成り立っている代物。それではあの純粋な狂戦士だったエルンストには永遠に届かなければ、そのエルンストやこのオレ、そして【願望成就】の能力を持ったあの女と同じ領域に立つ事さえも夢のまた夢だ」
「黙、れよ……」
エルジンの内側の大部分を占めるものを否定するその宣告を、鋼鉄の声で遮る。
「そんな、ものは、戯言にもなりは、しない、無意味な妄言、だ……」
生殺与奪権を握られた状況下で、相手の意見を否定するのは自殺行為に等しい。
だがそれでも、エルジンは否定しなければならなかった。
否定しなければ、それまで自分がやって来た事の全てが無意味であったという事になってしまう為に。
「捨てて、来たのは、必要なかった、からだ……切り捨てて、来たのは、必要だった、からだ……。
おれはそうやって、力を手に入れて来た……強くなって、来た。そこにくだらない、妄言や精神論が、介在する余地は、ない……!」
言葉を発するという何気ない行動ですら、今の彼にとっては命の終わりを早める事に繋がる。
それでもエルジンは文字通り血を吐く叫びを上げ、残る右の赤い瞳でリグネストを睨み上げる。
「残念ながら、妄言でも精神論でもない。それは良く分かっている筈だ。
こういう場合は、哀れむべきなのだろうな。お前にとっての師は、エルンストはあまりにも強大過ぎた。それ故の結果なのだろうが、お前自身が在り方を変えてその穴をどうにかしない限りは、お前はその場で永遠に足踏みし続けるしかない」
「黙れと、言って、いるんだ……!」
喀血し、さらには全身の傷から新鮮な血を外界に送り出し、骨格を軋ませて筋肉を押し潰しながらもエルジンは立ち上がる。
当然すぐに自重を支え切れずにぐらつくが、即座に剣を突き立てて支えとする。
もはやわざわざ身を起こす事に意味などない。
虚勢とするにしてもあまりにも稚拙で威が無く、ましてやその場から1歩踏み出す事はおろか、指1本動かす事もできない。
それを理解していながらも、そうまでして立ち上がったのは、ただの意地でしか無かった。
それが今のエルジンにできる精一杯の事で、絶対に曲げられないものだった。
「あんたの、根拠の皆無な戯言など、知った事じゃ、ない……誰が何を言おうと、おれはおれ、だ。おれ自身が選んで、今までそうして来たんだ。
そしてそれは、今までそうであった、ように、これからだって、ずっとそうだ……!」
耐え切れずに咳き込み、血塊を吐き出す。
もはやそれほどの量の血が、そのボロボロの体の中のどこに収まっているのか不思議なくらいだった。
しかしさすがに限界なのか、それから顔を上げる事は叶わず、ただでさえか細かった呼吸は虫の息ほどにもなり、音の抜けた調子外れの笛の音を奏でる。
「必要、ならば、強くなれる、のなら……目的を達成、できるのなら、他人だろうが、神だろうが、悪魔だろうが、何だって、利用して、やる……」
いや、もはや限界になどとうの昔に達していた。
それでも尚、未だにエルジンを意識を繋いでいられるのは強靭な意志力と、その意志が力を発揮する為の強大な拠り所のお陰だった。
「だが、生憎と現実は非情なものだ。何もかもが絶妙な加減でうまくいかないようにできている。
知っている筈だ、土壇場で力に目覚めるなんてものは現実にはあり得ないし、誰かの思いが限界を越えて尚も突き動かすなんて事もない。
思いの数だけ強くなれる? 仲間の意志を背負っているから負けない? 努力は報われる? 信じていればいつか必ず勝てる?
いいや、そんな事はない。そうならないのが現実だ。それは理解しているだろう。傭兵ならば、誰しもが理解している事だろう?」
リグネストの言葉に感情は篭っていない。
当たり前だ。自分の主義を主張している訳でも無く、ただ淡々と子供でも分かる当然の事を語っているだけだからだ。
「この世の中は、ただあり得る結果しか起こり得ない。戦いに逆転はあっても、奇跡の大逆転は起こり得ない。下剋上はあっても、大革命はあり得ない。
勝ち目の無い戦いがあり得ない方に傾く事は無く、そうなったように見えるのは、ただそうなり得る要素を見落としていただけだ」
何かを記憶から掘り出すようにリグネストの瞳が明後日の方向を向き、そして戻される。
「お前は過去にクレインを倒し、そして【諧謔】と引き分けた事があったが、それとて同じ事だ。
実力で勝るクレインにお前が勝てたのは、いくつもの幸運な偶然が積み重なって始めて生まれた、針先ほどの微小な可能性を手繰り寄せられただけだ。
お前が【諧謔】と引き分ける事ができたのは、あのマヌケがその前に大きく消耗していたからだ。
そして、お前があの【雷帝】に勝つ事ができたのは、エルンストが事前にあの男の腕を斬り落としていたからだ」
事態の把握を正確にできている者など、片手の数ほどにしか居ない筈の事例を、当てずっぽうでも何でもなくハッキリとした確信を元に吐き捨てる。
「過去に【雷帝アゼトナ】とは遭遇し交戦した事があるが、あれは本来お前程度では絶対に勝つ事はできない筈の力を持っていた。
大陸最強の国家の、軍事力を司るアルフォリア家の2枚看板と呼ばれていたアゼトナとシャヘル。この2人は何故か知らんがカインからの評価は低いが、相性を差し引いても、オレでも殺すのには相当に骨が折れるであろう相手だった。
それほどの相手に勝てたのは、クレインを相手に勝利や【諧謔】を相手に引き分けの結果を残す事ができたのは、お前の純粋な実力によるものではない」
「そん……言わ……ない……」
残酷な言葉の刃に身を斬り裂かれながらも、命を吐き出すように血塊を吐き出し、朦朧とする意識を叱咤する。
「だが、それでも、やるしか、ないんだよ……! 所詮はただの、自己満足に、過ぎなかろうと、やるしか、ないんだ……!」
「そうだ、やらなければ何もなりはしない。それもまた事実だ。そのやった事の殆どが水泡に終わるがな」
リグネストがナイフを握り締める。
その表情には哀れみさえも浮かんでは居ない。
「悔やむ事に意味は無い。後悔したところで、過去は取り戻せない。それはこの世界における絶対にして普遍の理であるからだ。
それと同じ事だ。自分で名乗っている訳ではないが、オレが【絶体強者】と呼ばれているのは、戦いにおいてオレが文字通り絶対だからだ。それも同じく、普遍の理だ」
高慢とも、自意識過剰とも、様々な批判的意見を言われかねない言葉だったが、リグネストの言葉は淡々としたままだった。
それは言葉の通り、自分で名乗った訳ではなく他人が彼を評価した結果であり、そして同時に誰の目にも明らかな事実であるが故だった。
誇張も何も必要なしに、現在においてリグネストは絶対の体現者だった。
「所詮は理を外れる事などできはしない。そんな事ができるのは、神か悪魔ぐらいのものだ。そしてお前は、そのどちらでもない。だから……」
握り締めたナイフが振り被られ、欠片たりとも躊躇いも慈悲も宿さずに振り下ろされる。
「死んだという結果だけを残して去ね」
そして不定形の靄が突如として出現し、ナイフの切っ先を包み込んで受け止める。
その直後に、リグネストは力ずくでその靄を貫こうとはせずに身を翻して後退。遅れて足元の地面が唐突に抉り取られ、リグネストの頬に刻まれた傷を上書きするかのように、猛獣に襲われたかのような傷が3本刻まれる。
「そんな事をさせる訳がないだろう」
次回予告
終わりの見えない不死者と秩序の番人の戦いの最中に、狂言を真に変える乱入者が現れる……みたいな。
今回の文字数もそう少ない訳じゃないのに、連続して読むと短く感じてしまう不思議。