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死神は嗤う

 



 意識を失っていたのは、精々が数秒ほどだろうか。

 おそらくは爆発によって負傷した際の痛みでショック死しないように、自己防衛反応が起きて強制的に意識を遮断され、痛みを感じられないようにされたのだろう。

 つくづく、人間の機能というものは合理的にできていると思う。


 だがそれでも、主に背面部を中心に全身を掻き毟られているかのような痛みに襲われ、思わず苦鳴を漏らしてしまう。

 耳鳴りが酷く、また視界で星が舞い踊り光が立て続けに点滅している為に自分の状態を把握する事ができないが、それでも上手く動かす事ができない時点で大体の予想はできる。


 痛みが原因か、それとも別の要因があるのか、強張り意思で止められずに震える手を動かして手探りで腰に収まっている【促進剤アッパー】を手に取る。

 そうなるように細心の注意を払っていたとは言え、それでも幸運にも無傷だったそれを握り込み、腹部に刺してピストンを押し込み、中の薬液を体内に注入する。

 途端にそれまでの痛みが嘘だったかのように消え失せて動けるようになり、両手を使い身を起こす。

 しかしあくまで痛みを感じなくなっただけであり、ダメージはそのままであるが故に直立しきる事ができずにふらつく。

 だが辛うじて踏ん張ることに成功し、やや前のめりになりながらも、地に足を着けたままにする事に成功する。

 視界も明滅をしばらく続けていたが、辛抱強く待っているとそれも徐々に収まり、やや狭まっているものの周囲を見れるだけの視界を確保できるようになる。


「ベスタ……」


 直前まで下敷きにしていたベスタの、無事な姿を確認してひとまず安堵する。

 見た限りでは目立った傷は見受けられない。わざわざ壁になった甲斐があると言うものだ。


「おい、起きろ」


 声を掛けて軽く揺すってみるが、反応が無い。

 攫われたという以上は何かしらの方法で昏倒させられた事は容易に想像できるが、もしその方法が仮に薬の類を用いた事によるものだった場合、しばらくの間は眼を覚ますことはないだろう。


「ジェメインの、奴は……」


 未だ鳴り止まない耳鳴りを堪えて振り返り、爆心地の辺りを視界に納める。

 最初に眼に入ったのは、見覚えのある黒い棺。中には外からは見えないがザグバの死体が収まっている。

 あれだけの大爆発に曝されたというのにも関わらずその表面には傷も曇りも無く、一体何の素材で作られているのかという疑問を抱かされる。

 そしてそこからやや離れた位置に、芋虫のように見苦しく蠢く影が1つ。


「ガヒュッ、ガヒュッ……」

「……しぶといな」


 気管を塞ぐ血塊と胃の内溶物、そして肺より漏れ出した空気を間断なく吐き出そうとする、うるさいくらいの声。

 おそらくはおれが目覚めた時からずっと周囲に響いていたのだろうが、ようやく耳鳴りの度合いがマシになって来た事で、辛うじて聞き取れるようになる。


 そこには先ほどまでの体積の大半を失ったジェメインの姿があった。

 元々ベスタが収まっていた左下腹部を中心に体構造の大半が吹き飛び、衝撃で千切れた上半身と下半身が反対の方向を向いた状態で転がっている。

 そのうちの意識の宿っている上半身は、下腹部はおろか腹部全体、胸部の下部まで吹き飛んでおり、その断面から脊椎の一部が臓物の残骸と共に飛び出しており、また這いずる動作に従って地面に擦り削られ汚い跡を刻み付ける。


 爆裂は紛れもない弱点であった筈だが、火力不足だったのか、それとも相殺現象が起こってしまったのか、仕留めるには至っていなかった。


「キュール、キュール! どこに居る、キュール! 一刻も早く、ワタシの元に、来い……!」

「キュールは近くには居ねえよ」


 少なくとも、おれの感覚が及ぶ範囲にキュールの魔力は感じられない。どうやら爆発に巻き込まれたらしい。


「おのれ、貴様ぁ……!」


 おれの声に反応したジェメインが上体を反転させて仰向けとなり、腕だけを伸ばして自分の下半身に触れて能力を発動。手のひらから同化を始めて下半身の血肉を取り込んでいく。


「何故、あの者の場所が、分かった」

「答える訳が無いだろうが」


 ワイヤーを括り付けたナイフを投擲し、張り巡らされた罠の本当の目的はジェメインの動きを封殺する事ではなく、体内のどこにベスタを保管しているのかを把握するのが目的だった。

 張り巡らされているワイヤーが、どれも特注のもので僅かな圧力を掛けられるだけでも対象に牙を剥く事に変わりは無い。だが注意深く観察してみれば、その張り巡らされたワイヤーによって作られた隙間の中に、子供が頑張って身を縮こませればワイヤーに触れる事無く通り抜けられる幅のものがある。


 戦闘を通じてジェメインについておれなりの分析を重ねたが、その結論から言えばジェメインは偏った完璧主義者で、それでいてかなり自己顕示欲が強い。

 別にそれが悪いとは言わない。だが利用できたから利用した、それだけの事だ。


 通常その手の人種は、得てして愚かで小物と相場が決まっているが、なまじジェメインには高い能力がある。それ故にその人間性から来るであろうありがちな失敗を、ジェメインは犯さない。

 そんなジェメインがワイヤーの罠に引っ掛かった時、それが自分に対して意味を成さないという事を把握すると同時に、即座におれが意図的に作り出した隙間に気がついた事だろう。

 ジェメインにとってベスタはティステアから脱出するのに必要不可欠ではあれど、究極的には能力を行使させることができる状態であれば良く、極端な話をすれば手足は一切必要ない。

 だが偏った完璧主義者であるジェメインは、目の前に手足を始めとした生存に不必要な体構造を切り捨てる必要が無くなる道が存在すれば、ほぼ間違いなくそれに飛び付くだろう。それがおれの思惑通りであるとは微塵も考えずに。


 罠がワイヤーによる拘束を目的としたものではなく、そう思い込ませる事を目的の1つとした罠であるという事に気付かれないかどうかは賭けだったが、同時にそれも同じくジェメインの人間性からそう悪くない賭けだと踏んでいた。

 偏っている完璧主義の視点は、自分が導き出した結論が相手の思惑を覆し自分の優位を確約するものであるならば、それが間違いなのではないかと疑う事は早々無い。

 結果、ジェメインはまんまとおれ思惑通りにその隙間にベスタが収まっている部位を滑り込ませ、おれに対して自らベスタの位置を教えてくれる事となった。


 後は周囲に分割されて転がったジェメインの体構造の中から、最も大きな容積を誇る部位に収まっているベスタを、キュールの死体と交換すれば良い。それに関しては不本意な使い方だが、レヴィアタンの右眼が役に立った。

 持たざるものと持つものを交換する権能は、本来ならば素手で引っ張り出す事など不可能な筈のジェメインの体内に収まっていた命のあるベスタを意図も簡単に引き摺り出し、その代わりに既に命を持たない死体を面白いように収納してくれた。


 その交換の際に関しても、ジェメインの強い自己顕示欲が味方をした。

 もしおれがジェメインの立場だったならば、おれが近付いて来た瞬間にそれを見過ごさず、即座に能力による干渉を行っておれが近付いた体構造に触れた瞬間に同化を開始するか、もしくは地面に同化して地中へと退避している。

 だがジェメインはあえてそれを行わず、おれにベスタと死体を交換させる猶予を与えたばかりか、その直後の能力による反撃も警告程度で済ませていた。

 ジェメインの【同化】がそういう芸当のできるものだと、おれは知識として知っていた。その上でジェメインはそうして来るだろうと踏んでいた。

 それが自分の能力と現状におけるおれとの相性が悪い――向こうにとっては相性が良い事から来る優越感によるものであり、その優位性が確約されているからこそ、それをおれに対して誇示せずにはいられないだろうという思惑の元で取った選択だったが、まんまとその通りに嵌まってくれた。


 むしろ思惑通り過ぎて、笑えて来るぐらいだった。


 しかし、思惑通りなのはそこまでだ。

 問題なのは、そこからが誤算となった事だ。


「そうか、ならばそれで構わないとも」


 同化と全身の修復を終えて、本来の体躯と同じ姿となったジェメインが立ち上がり、自分の胸部に手を突っ込んで引き抜く。

 引き抜かれた手に握られていたのは、見覚えのある剣。万が一にでもおれに奪われないように同化させたと思い込んでいたが、思いの外そうではなかったらしい。早速2つ目の誤算だ。


「その者を返してもらおうか」

「最初からお前のじゃねえだろうが」


 最大の誤算は、キュールの死体爆弾によって確実に仕留めるつもりでいたのにも関わらず、ジェメインがしぶとく生き残っていた事だった。

 もう手持ちに癇癪玉はない。当然だ、余らせるぐらいならばその分キュールに1つでも多く撒きつけ、ジェメインを葬る確率を上げている。

 そしてそれが尽きた以上、おれにこれ以上の決定打はない。

 剣は折れ、キュールの生み出した剣は取り込まれ、あるのはナイフくらい。素手で触れれば、即座に同化される未来が待ち受けているだろう。


 ジェメインもそれが分かっているらしく、激昂しかけていた表情が、多少の落ち着きを取り戻していた。

 もっとも、内心では文字通り腸が煮え繰り返っているだろうが。


「ならば力ずくで奪い返すのみ!」


 ジェメインの身軽さは未だ健在だ。

 直進して来ずにその場から跳ねたと思えば、付近の瓦礫を蹴って上空へ。

 そこにおれが投擲したナイフが飛来するが、ナイフは影を捕らえられずに壁に突き刺さるだけで終わる。そのナイフを置き去りにしたジェメインは、垂直の壁を地上のように走り寄り、壁を蹴って急接近。

 初撃の斬撃こそ回避するが、直後の擦れ違い様の蹴りは腕で弾かざる得ず、弾いた瞬間に何かが勢い良く剥がれる音が響いて痛みが走る。

 一瞬にも満たない、素手で蹴りを弾いた際に触れた腕の部分が、皮膚とその下の肉を抉られて血を流していた。

 それがほんの一瞬の隙に行われた同化による結果だと気付くのは、あまりにも容易だった。


「チッ!」


 新たなナイフとジェメインの剣が交錯し、思い手応えに腕が痺れる。いくらアルトニアスの剣と比べて質が良いといっても、単純に質量の差や、根本的な用途の違いがある。にも関わらず必要以上にナイフで斬撃を受けるのは、無用心としか言いようが無い。


 いよいよおれが決定打を欠いたことを確信したのか、徐々にジェメインの表情に余裕と優越感が舞い戻って来る。

 蹴りを終えて着地してからの振り向き様の一閃がナイフを打ち据え、衝撃を殺しきれずに手から零れ落ちて宙を舞う。

 続く太刀が鼻先すれすれを掠めながらも回避に成功し、一歩後退したところでジェメインが手を伸ばし、その表情をすぐに憤怒へと染めなおす。


「ジン兄!」


 空を重く掻き分ける音と同時に響いて来た、不本意ながら聞き覚えのある声。

 その声に従ってという訳ではないが、唸り声を上げて飛んで来る物体を素手で掴み、視界に引き寄せて正体を確認してから相手の剣を迎撃。


「小娘が、余計な真似を!」


 投げ渡されたのは、シルエットだけを見ればベルにそっくりな鈍色の大剣。

 形は勿論の事、リーチも質量も殆どベルと差異が無い。皆無という訳でもないが、殆ど誤差の範囲だろう。

 随分と久しぶりに感じられる、実に手に良く馴染むその感覚と共に即座に剣を翻して相手の首を狙う。

 その敵もあっさりと反応こそするが、おれとジェメインの剣とが衝突した瞬間、ジェメインの剣の方が明後日の方角に弾かれる。

 当然だ。薬無しの時点で膂力は俺の方が上なのに加えて、現在【促進剤アッパー】を2本使用していて、尚且つ武器の質量という面でも上回っているのだ。むしろその結果にならない方がおかしい。


 さらに返す剣が相手の左肩を深く割る。その時点で左腕が動かなくなる筈だが、消耗しながらもジェメインの能力は健在で、ダメージを負う前と比較しても遜色のない速度で再生する。

 しかしさらに畳み掛けるおれの斬撃の雨に、ジェメインは完全には程遠い程に反応し切れていない。

 3回の斬撃に対して、反応できているのは1回程度。残る2回の斬撃は確実にジェメインの体を刻む。


 それは2度に渡る【促進剤アッパー】の投与の結果でもあったが、同時に純粋な技量の差の表れでもあった。


「体術と比べれば剣技は未熟に過ぎるな」

「生ッ、意気な……!」


 先刻の自分の発言を揶揄したものであると即座に察したジェメインが、表情を赤く染める。

 その際に湧き出た怒りが生じさせた隙を突いて、おれの剣がジェメインの剣を握る右の手首を切断。さらに空中で回転する剣を打ち据えて、切り離された手から引き抜き遠方へと弾き飛ばす。


「この――ッ!?」


 弾かれた剣は一瞥するのみで、先に斬り飛ばされた手首へと手を伸ばした矢先に、4重に発動された【爆裂砲】の魔法がおれとジェメインを目掛けて殺到。双方共に飛び退いた後の地面を穿ち、粉塵を撒き散らす。

 急速に悪化した視界に頼る事を放棄し、感覚を研ぎ澄ませてジェメインの魔力を探る。

 そしてそれらしきものを探知した瞬間、粉塵を裂いて飛来する唸り声に咄嗟に伏せ、頭上に高圧水流の刃が通り過ぎるのを感じ取る。

 間髪入れずに飛んで来た、さらに2重に紡がれた爆裂がそれぞれおれとジェメインへ強襲。

 視界が晴れるどころか、さらに悪化したという結果に軽いもどかしさを覚えながらも粉塵の蔓延する空間から脱出し、建物の屋上に降り立って振り向いたところに殺到して来る、10羽前後の小さな炎鳥の群れ。


「面倒だな……」


 いつもの癖で咄嗟に斬ろうとして思いとどまり、建物の向こう側へと飛び降りる。直後に炎鳥の群れは建物に次々と衝突し、粉砕を通り越して溶解させて炎上、倒壊させる。 


 先ほどの爆裂攻撃もそうだが、おれかジェメインのどちらかを狙い、もう片方がそれに巻き込まれたというよりは、最初からどちらとも狙っているかのような攻撃だった。


「この、小娘共が!」


 その推測を裏付けるように、同時に狙われていたらしいジェメインが皮膚の表面に火膨れを作った状態で、倒壊した建物の向こう側から姿を現す。

 おれの追撃が止まっている隙に確保したらしい、切断された手首を断面に押し当てて瞬時に繋ぎ合わせ、苛立ちを露に憎悪すら篭もった視線を明後日の方向へ。

 その先に居るのは、平常時の10分の1にも満たない程の魔力しか持ち合わせていない程に消耗しているらしいユナ。


「余所見している暇があるのか?」


 そんなあからさま過ぎる隙を逃す筈がなく、距離を詰めて斬り掛かる。

 歯噛みして後退しようとする相手を逃さずにさらに踏み込み、手元で剣を旋回させて柄で相手の顎を打ち抜く。


「打撃も効果が無いか」


 脳が全身に同化されている以上は半ば分かっていた事だが、まるで堪えている様子のないままに後退するジェメインに舌打ちが漏れる。

 やはり殺すのならば爆裂か、可能ならば炎が望ましい。


「……やはり汝からだ」


 顎を打ち抜かれたせいで切ったのか、口の端から血混じりの唾液を垂らしながら、ジェメインが拳を握り腰を落として来る。


「あの小娘も目障りだが、所詮は羽虫。汝こそが真っ先に叩き潰すべき対象だ!」


 全身のバネが発揮され、ジェメインの真骨頂たる身のこなしを駆使した突貫による正拳が炸裂し、おれが前面に突き立てた大剣の剣腹と衝突し轟音が響く。


「なっ――!?」

「その型は、最初に数手を掛けて相手の体勢を崩す事から始まる」


 巨大な鉄塊に思い切り打ち付けられた為に砕けた拳を呆然と眺めるジェメインに、無意味であると宣告してやる。


「そうして重心が崩れ、倒れるのを防ぐ為に踏ん張った瞬間――即ち重心の移動を自分の思惑通りに相手が完了させた瞬間を狙って、お前曰くの必殺の蹴りを叩き込んでからの連撃が目的という訳だ。

 確かに何も知らなければ有効な手だが、成功させるのには初手からの牽制撃が決まる事が必要不可欠。そうと分かればいくらでも対処できる」


 地面から剣を引き抜き、完全に停止して隙だらけとなっている相手に向かって縦横無尽に走らせる。

 【促進剤アッパー】によって強化されたおれの膂力は、剣におれの思い通りの軌跡を描かせてジェメインの体を7つに分けてバラバラにし、地面に汚く散らばらせる。


「理屈はともかく、冷静に思い返してみればエルンストに散々喰らった事のある型だ。それをわざわざ、おれにも見えるように再現してくれれば、猿でも理屈を理解できる」


 機会があれば、今度再現してみるとしようか。


 剣を振るい、付着した血糊を払う。

 ようやく一段落と息を吐く暇もなく、視線は背後へ。

 タイミングよく姿を現したユナと視線が交錯し、相手の表情に濃い疲弊を上書きするかのように陰鬱な笑みが刻まれる。

 直後に感じ取る違和感。


「この程度でワタシが死ぬ訳がないだろう!」


 赤くグロテスクに脈動する肉塊が持ち上がり、おれの左腕に付着し急速に浸透し始める。

 それと同時に他の肉塊もまた付近の肉塊と融合を始め、程なくしていい加減見飽きた形へと変化していく。


「チェックメイトだ。この距離ならば、汝が自ら腕を切断するよりもワタシが同化を終える方が早い」


 既に肘の辺りまで侵食を完了したジェメインが、膝を付いた状態でおれを下から見上げ、嗜虐的に笑う。


「そしてそちらの小娘も、迂闊に動かない事だ。妙な真似をすれば、即座にこの男を殺す」

「……本当にシアちゃんの言ったとおりになった。で、それが何? 勝手にやりたければやれば?」


 ジェメインの的外れな発言に、まるで珍種を目の当たりにしたかのように眉を顰めて言う。


「強がるな。ワタシは知っているぞ、この男が汝の実の兄であるという事を! だからこそ介入して来たのだろうが!」

「アホかお前」


 終始一貫して思い通りの展開に、欠伸すら出てくる。

 もういい加減、聞いている事さえも苦痛に思えて来て仕方が無い。


「中途半端な知識は破滅を齎すという好例だな。おれが人質になり得る訳がないだろうが」


 左腕のまだおれの管理下に置かれている部位に力を込め、一体化しているジェメインの体を一本釣りの要領で持ち上げて眼前へと投げ出す。

 その行動に眼を白黒させながらも同化を再開し始めるが、もう遅い。

 それよりも一瞬早く、ユナが高速で編んで完成させた術式によって誕生した不死鳥が、金切り声を上げながら飛来。


 必要なものが手元に無ければ、他のところから取り寄せれば良い。

 現地調達は傭兵の基本だ、マヌケめ。










 本来の威力には程遠くても、ユナの不死鳥を生み出す魔法は強力過ぎる。

 内包するエネルギー量も尋常ではないが、それを接触の瞬間に炸裂させるという点が凶悪極まりない。

 これで炸裂したのが本来の大きさだったら、あるいは塵すら残さずおれは消え失せていただろう。輻射熱だけで重度の火傷を引き起こす辺りから大体の想像はできていたが、やはり熱量が尋常ではない。

 間にジェメインを置いて楯にしたとは言え、その膨大なエネルギーが至近距離で炸裂したという事実に代わりはない。折角【促進剤アッパー】でハイになって消し飛んだ痛みが、倍以上になって舞い戻って来た。


 視界はいつもよりも狭く、左眼は明滅以前に闇以外を映しておらず、ほぼ間違いなく失明している。

 被害は左眼だけではなく、現在進行形で焼けているのではないかと思うくらいに全身が熱いが、おれの口からはくぐもった呻き声しか漏れない。苦鳴を漏らそうにも、それをおれの意思に反して口が吐き出す事を許さなかった。

 もしかしなくとも、溶けた皮膚が癒着しているのではないかと思って無理やり口を開くと、引き攣った新鮮な痛みと共に皮が破れる音が響き、その予想が正しい事を告げる。と同時に、他の熱を持っている部位を確認するのが怖くなって来る。

 それを押さえつけて首をもたげ確認してみれば、右眼に広がるのは醜く焼け爛れ、溶けて衣類と混じり合った皮膚とその下の肉。

 衣類の下に隠し仕込んでいたナイフは衝撃に晒されて粉々になって爛れた肉を容赦無く刻んでいるばかりか、熱に晒された為に半分溶けて肉と一体化すらしている。

 そんな自分の体ながら眼を背けたくなるその悲惨な状態もさる事ながら、何よりジェメインと一体化していた左腕は肘から先が消失していた。

 それは同時に、おれの体からジェメインが完全に分離した事の証左でもあったが、炭化した断面からどす黒い液体を垂らしているその腕の状態を見ると素直には喜べない。


「きょ、狂人、共め……」


 そして失った腕の先に居た筈のジェメインは、やはり死んでいなかった。

 下半身は勿論の事、散々な状態にある左腕と連結していた右腕は肩まで消失するだけに留まらず、胸部にまで及び右肺も一部が辛うじて原型を留めた状態で断面から零れている。

 極め付けは頭部で、顎から耳までの側頭部は抉り取られ、その上は消し飛んでおり下にある筈の脳は見えない代わりに空洞が存在していた。推測するに全身に脳を同化させている結果なのだろうが、その光景には嫌悪感しか沸かない。


「血を分けた、実の兄妹でありながら、躊躇いも無く殺しに掛かるなど、正気の沙汰ではない……!」


 ジェメインは唯一残っている、しかしそれすらも無傷ではなくボロボロの状態にある左腕だけで、本来のそれと比べれば大分軽量化に成功した体を引っ張って移動していた。


「挙句、それを当たり前のように受け止め、利用するなど、こんなリスキーな選択をするなど、狂気の沙汰だぎゃッ!?」

「おれも色々な経験をして来たという自負があるが、さすがに下半身を丸々失った経験はない」


 残る最後の【促進剤アッパー】を使って楽になりたい欲求を堪えて立ち上がり、剣を杖代わりに近付き、短い胴体を貫いて地面に縫い止める。


「是非とも教えてくれよ。下半身を失うってのは、一体どんな気分なんだ?」

「貴ッ、様ぁ……!」


 痩せ我慢もそれが限界で、堪らず膝を付く。

 しかしそれでも視点はジェメインよりも上で、うつ伏せの状態から首だけを捻っておれを見るジェメインを見下ろす形となる。


「そう言えば、お前は面白い事を、言っていたな。確か、実力で言えば【忌み数ナンバーズ】に匹敵するんだとか……」


 周囲で燃え盛る炎の熱が水分を飛ばしたかのように乾いた、引き攣った笑みを浮かべるジェメインの眼を覗き込む。


「笑わせるなよ」


 そこに映っていたのは、我ながら随分と醜く歪んだ表情を浮かべた自分の顔だった。


「【忌み数ナンバーズ】の連中がそう呼ばれているのは、単純な実力によるものだけじゃない。勿論それも1つの要因ではあるが、それ以上にあいつらは全員が、頭のネジが外れている精神の怪物なんだよ」


 脳裏に同業者のほぼ全てが共通して挙げるであろう6人の顔を思い浮かべ、各々に対する見解を刃として刺し向ける。


「ミズキアの自己を危うくする意識の省みなさは誰にも真似できないし、キュールのように意識の分裂と死の苦痛の共有を肯定して受け入れられる奴など滅多に居ない。

 レフィアの享楽性やヴァイスの凶暴性は同じ人間性の持ち主の中でも飛び抜けた異常性を誇っていて、ザグバの闘争心はその道理を外れた膂力以上に道理を外れた域に達している。

 そして何より、【諧謔】の見る世界には何者も存在する事は不可能だ」


 方向性はそれぞれ違うが、どいつもこいつも共通して、進んでどころか間違っても関わりたいとは到底思えない精神を有している。

 個々人について口で語るのは簡単で、そして聞いても理解できない場合が殆どだろう。

 だが1度でも遭遇すれば、1度でも関われば嫌でも理解する。させられる。

 そして同時に、今まで関わる事が無かったという事がどれほど幸運な事だったのかを思い知らされる事になる。

 【忌み数ナンバーズ】の連中とは、そういう存在なのだ。


「そいつらと比べれば、お前の精神など脆弱極まる。キュールを取り込みながら能力を行使しないのが良い証拠だ。

 つまるところ、お前はキュールの能力である【増殖】に伴う意識の増化と感覚の共有化、そして自己の同一性が危うくなる事を極端に恐れている。

 だからこそ、体を複数の部位に分割された時も、常に意識は頭部を有する部位に存在していた。

 お前の【同化】とキュールの【増殖】が組み合わされば、限りなく無敵に近い力を発揮できた。それ以前に、祖国から受けた任務とやらを確実に達成するには自分自身の数を増やし、他の自分におれと戦わせている間に水晶とベスタを運び出せば良かった。仮にそうせずとも、数にものを言わせて畳み掛ければおれになす術は無かった。祖国に対して絶対の忠誠心があり、何が何でも任務を達成するという気概があるのなら、それこそが躊躇い無く実行するべきであろう手だ。

 それをしなかったのはお前の精神が薄弱な為で、それを思いつかなかったのはお前の根底にある臆病さが無意識のうちにその結論を避けていたからだ」


 現状で可能な限り、力一杯嘲笑ってやる。


「お前は最初から、自分の所属や偽物の忠誠心を振り翳して楯にし、その影にこそこそと隠れて居ただけの負け犬にすら劣る畜生なんだよ」

「黙れッ!」


 地面に縫い止められたまま残る腕を振るい、そして会話で縛っている間におれが剣から手を離して握り込んでいたナイフが煌き、手のひらを貫いて胴体同様に地面に縫い止める。


「汝の言葉は根拠のない、ただの憶測に過ぎん! それはワタシに対する正当性無き侮辱だ!」

「スパイとして盗みを働いて、他人を簡単に人質にするような奴が、自分を棚に上げて賢し気に正当性を主張するな」


 おれの発言こそ自分を棚に上げているのは百も承知。だからどうしたで片付けられる。

 所詮は他人事だからこそ、好き勝手に言えるのだから。


「程度の低さが知れるな。その胴元である帝国も含めて」


 先程のやりとりでもそうであったように、所属国をこけにされると、こいつはやけに憤る。

 それは自分が忠誠を捧げている祖国を侮辱されたからという愛国心から来る義憤――などでは断じてない。

 帝国を拠り所にしているのではなく、帝国を拠り所にしている自分を拠り所にしている事から来る怒りだ。


「黙れと、言っている! 我が祖国まで愚弄するのは、決して許された事ではないぞ!」

「許されない? 何だそれは?」


 それはむしろ、こっちの台詞だろう。


「お前こそ身勝手で利己的な理由でベスタを巻き込んでおいて、許されるとでも思っているのか?」


 剣の柄を再度握り、捻り上げる。内側から体を抉られる痛みに、ジェメインが悲鳴を上げてのたうち回る。

 いや、のだうち回ろうとして縫い止められている為に失敗する。


 どうやらおれは、自分で思っている以上に苛立っているらしかった。


「お前には地獄がお似合いだ!」


 ジェメインの腹の下で魔力が動く。今さらのように地面と同化して逃げようとしているらしいが、もう遅い。

 言葉で縛っての時間稼ぎはもう終わっている。


 地を踏み締めて体を起こし、剣を引き抜き振り抜く。

 その剣の動きに従って地面から切っ先に引っ掛けられて持ち上げられたジェメインは、剣が振り抜かれた瞬間に切っ先から放り出されて宙を舞う。

 その先に、唐突に虚空より扉が出現する。


「灼熱の大河に落ちて身を焼かれてろ!」


 両開きの扉が開かれ、その向こう側への道を生み出す。

 その先に存在するのは、魔界に流れる水の代わりに溶岩の流れる灼爛の河川。

 溶岩は全てを溶かして燃やし、その内部には周囲の環境に適応した凶暴な魔獣が回遊している為に、落ちれば万が一にも助かる事はない。


「特選隊の序列8位たるこのワタシが、こんなッ、こんな終わり方ぁぁぁああああああああああああああああああああ!!」


 そんな捨て台詞と共に扉の向こう側にジェメインが消えて行き、そして扉が閉じられる。


「お前程度が8位か。安心したよ、今後差し向けられかねない刺客も、大した事が無さそうだ」


 エルンスト曰く上位7人が多少骨の折れる相手で、そのうちの半数ほどがエルンスト自身の手によって始末されている。

 あまりエルンストの戦力評は当てにはならないが、極度に警戒する必要は無さそうなのも事実だ。


「……おい」


 一段落した為か全身から力が急速に抜け始め、前のめりに倒れそうになったところを右腕を掴まれて支えられる。


「まだ、倒れるな……」

「……ああ」


 ベスタがおれの横に立ち、腕を掴んで支えてくれてはいるものの、その小柄な体躯ではやや荷が重い。

 まずは自分の四肢に力を込めて大勢を整え、剣を改めて地に刺して支えとする事で安定した姿勢を確保する。


「礼を、言う……」

「お互い様だ」


 謝意を述べた割にベスタが視線を前方に向けたまま微動だにしないのは、その視線の先に決して無視できない脅威がある為だ。

 視線の先には、足下と頭上に顕現している扉に挟まれる形にあるユナの姿。

 わざわざおれが長々と語っている間に手出しをして来ないように、ベスタも病み上がり早々に苦心してくれていた訳だ。


「一体どういうつもり? 邪魔するなら、容赦はしないけど」

「そうか……なら、お前と、私は……敵同士、だな……」


 客観的に分析するならば、ベスタが負ける要素はないだろう。

 経緯は良く分からないが、右眼で見てもベスタ消耗しているようには見受けられない。

 対するユナは魔力が殆ど枯渇しており、顔色や動悸など欠乏症の初期症状が表れている。

 この場はベスタの領域テリトリーでこそない為に、現状でベスタが能力を十全に発揮する事はできないだろう。だがそれでも、ベスタは十分に強い。


 そういう分析を頭の中で並べ終えた途端に、全身に刻まれた疲労とダメージが急激に重く圧し掛かってき始める。


「……ベスタ」

「……何だ?」

「あとは頼んだ」

「…………」


 返事は返って来なかった。いや、もしかしたら返って来たのかもしれないが、耳に届く事はなかった。

 とにかく、痩せ我慢も限界だった。










 次に眼が覚めたのは、時間にして僅か数分後の事だった。

 体感的にまだ2本目の【促進剤アッパー】の効果がまだ切れておらず、より正確には意識が落ちてから2分か3分程度。たったそれだけの時間しか経過していないのに、おれの意識は覚醒した――より正確には引き上げられた。


「――!?」

「うっわわわっ!?」


 気分的には、眼を開く前の段階から二日酔いだという自覚が出ている時のそれに良く似ている。

 ガンガンと耳鳴りと頭痛が響いているあまり快適とは言えない気分のまま重い目蓋を開き、視界が開けた瞬間に右手に未だに握ったままだった剣を振るっていた。


「もー、いきなり危ないじゃん」


 上体だけを起こして変化した視点の先には、直前まで眼前に居た筈のシアの姿。

 おそらくは時を止めて回避したのだろうが、それでも完全ではなかったようで、首筋に薄っすらと真新しい赤い線が走っている。おれの腕もまだまだ捨てたものじゃない。

 シアもそれに気付いたのか、手をやってそこに付着した血を見て笑う。


「うんうん、やっぱこれでこそジン兄だよね! そんな事が言えるほど、今のジン兄を知ってる訳じゃないけど!」


 そこで表情をころっと変えて、唇を尖らせて不満を主張し始める。


「でもでも、ちょっと酷いよ。折角人が治療してあげたのに」


 そう言われてようやく、左腕が再生している事に気がつく。

 左腕だけではなく、光を失ったはずの左眼も、そして不死鳥の炸裂によって受けた上半身を中心とした重度の熱傷らも概ね回復しており、残りのこの程度ならば傷跡も残らないだろうという程度のものばかりだった。


 視線を移動させてみれば、やや離れた場所にうつ伏せで倒れているユナの姿。

 後頭部からは血が流れ、傍には血が付着した状態でひん曲がっている鉄の棒が転がっており、おれの意識が無くなっている間に一体何が起きていたのかを推測するのに十分過ぎる材料を提供してくれる。


「……ベスタ」

「文句は、後で、受けよう……だが、今はひとまず、納得して、くれ……」


 不満の矛先を向けると、ベスタは否定せずにそう言う。


「あのまま、放置して、いれば……お前は、死んで、いた……」

「…………」


 そう言われて、おれは否定の言葉を返すことはできなかった。

 自分がどんな状態に陥っていたのかは、他でもないおれ自身が良く理解している。その上で、ベスタの言葉が正しいという事も。


「そうそう、つまり今の私はジン兄の命の恩人って事だよね。これとさっきの剣も合わせて、後々返さなきゃ駄目だよね!」

「……そうか、なら踏み倒そう」

「それが、妥当か……」


 一方的に頼みもしていないのに押し付けてきた恩など、返す義理の欠片もない。

 これはおれに限った話じゃなく、同業者間でも同じような認識が一般的に通っている。

 踏み倒せるような貸しをつけた方が悪く、踏み倒せないような恩を受けた方が悪いのだ。

 勿論全員が全員ともそうである訳ではないし、そう認識しているのと同じぐらいの数の同業者が正反対の認識を持っているが、その辺りはおれも、そしてベスタもシビアだ。


「ついでに根拠の皆無な勘だが、お前は放置しておくとそのうち実害がありそうだ。

 勿論そうならない可能性も十分あるんだろうが、ここで潰しておけば少なくともおれは精神的安息が得られる。ただでさえ訳の分からない事態に巻き込まれている現状で、不安の芽は摘んでおく事に越した事はない」


 さらに付け加えるのなら、この騒ぎの中でおれが直接的に手を下そうが、おれの仕業だと辿り付ける可能性は極めて低いだろう。

 そんな状況下で消耗して楽に捻れる獲物が2匹も居れば、狙うのは極めて自然な事の筈だ。


「むぅ、酷いなぁ。私は放置しておいた方が、後々でジン兄の利益にもなるのに」


 そう言えば、そのような事を前も聞いたような気もする。

 が、結果がどう転ぼうとも現段階でそれを鵜呑みにして信用するのは馬鹿がやる事だ。

 利益になるかどうか、それを決めるのは当事者であるらしいおれであるべきだ。


「それじゃあさ――」


 シアが何かを言おうとして、言葉を切る。

 その理由は推測するまでもない。既におれの知覚範囲内に、答えがあったからだ。


「これ、は……」


 おれはまだしも、シアも感じ取れる程に莫大な魔力量。

 いや、それだけではない。それだけでも十分過ぎるほどに驚嘆できる要素だが、それ以上に、突如として無酸素空間に放り出されたかのような、それでいて悪竜の口腔に唐突に呑み込まれたかのような重圧と、本能を刺激する絶対的な死の臭い。

 そんな要素の元凶は、パチパチと気の篭もった拍手を静けさに包まれた空間に出現した異物の如く放り込みながら近付いて来ている。


「個人の力だけではないとは言えど、ジェメインをも倒したか。状態が万全でない事を差し引けば、概ね自力で倒し得たと判断して差支えがないな」


 少なくとも、直前までおれの感覚に引っ掛かっては居なかった。なのに知覚の及ぶ範囲の、かなり懐に近い位置に唐突に現れていた。

 それは直前まで完全に魔力を隠蔽していたからでは無い事を、おれは良く知っている。

 向こうが行った事は実に単純明快。おれの近くの及ばない遥か遠くからこちらの様子を眺め、タイミングを計り、そしてたった今、瞬間的に移動して来たのだ。

 語る分には人智を超えたあり得ない行為だが、同時にそれは間違いでもある。


 その程度の事は文字通り児戯に等しいだろうから。


「では次だ。お前にとってはどうだかは知らないが、オレにとっては差し詰め……ドリンクと言ったところだろうか。オードブルはもう味わい終えたからな」


 この男――【絶体強者】リグネスト=クル・ギァーツにとっては。


「こういう場合は……そう、少し遊んでやろう。こう言うんだったな」










「ぎぃ、げぇ、がぁ……」


 やや離れた場所の、誰も居ない急速に寂れた街中に奇妙な呻き声が響き渡る。


「ぐ、ぐぎ、ぎぎぎぎ……!」


 戦闘を生業にしている者でなくとも、その声が地中から響いていると判断できるのには十分過ぎるほどの時間が経過して、地中からヌッと現れる物体。

 浅葱色の瞳を持った、片腕が欠損状態にある上半身のみのその男は、魔界の彼方に落ちていった筈のゾルバ帝国のスパイであるジェメインだった。


「こ、これが、死の痛みか……! きゅ、キュールは、いつもこの苦痛を受けているのか……! この苦痛を受けていながら、平然と、しているのか……!」


 ジェメインは地面から姿を現したかと思えばすぐに沈み、そして再び、潜った場所と比較してやや離れた地面から頭を出すという行為を繰り返す。

 それは下半身を失っている為にまともな移動ができず、代わりに能力によって同化と分離を絶えず繰り返すことによって、擬似的に地中を泳ぐという芸当を実現させた事による移動行為だった。


「や、奴もまた、狂人だ……奴だけでなく、他の連中も、残らず狂人だ。関わるべきでは、ない」


 魔界の彼方に落ちた筈のジェメインが生存している理由――それは直前で、保険として体内に脳を始めとした必要最低限の体構造のみを残しておいたキュールの能力である【増殖】を使ったが故だった。

 今まで1度も使った事の無いそれを、土壇場でしようしてもう1人の自分を作り出し、地中へと逃しておいた。

 結果、片方は魔界に放り出されて灼熱の溶岩の中に落とされ、その死の痛みをもう片方が受けているという状態にあった。


「何は、ともあれ、血肉を調達、せねば……」


 増殖した時点で体構造の大半を欠損していた為、増えた個体もまた大きく体構造を欠損させた状態で生まれていた。

 それ故にこうした移動を行っているのだが、こうも頻繁に連続して能力を行使し続ければ、遠からぬ先に魔力が枯渇するのは眼に見えていた。

 そしてそれは、この王都から脱出するよりも遥か前に訪れるであろう事は想像に難くない。


「何としてでも、祖国に戻らねば……!」


 しかし、ザグバの死体こそ奪還されはしたものの、最も重要な【選別の水晶】は増殖した際に受け取った事により確保できていた。

 だからこそ、まずは体を再生させる為にも血肉を得る事が先決だった。

 元通りの体を取り戻しても無事にゾルバに戻れる可能性は、ベスタが居ない以上は限りなく低いが、それでも体を元通りにしない事には始まらない。


「むっ……!」


 そんな事を考えながら泳ぎ続けていたジェメインの顔に、1枚の紙が張り付く。

 かなり質の良いその紙は、元は何かのノートの一部だったのか上部に破かれた後があり、その面には素人目にも達筆だという感想を抱く見事な筆跡で『お疲れ様』と書かれていた。


「おお、汝だったか」


 顔からその紙を引き剥がしたジェメインが、途端に表情を綻ばせる。

 視線の先にいるのは、片手に見るからに高級な羽ペンを、もう片手に分厚いまっさらな上質の紙のを束ねて作られたノートを持った人物。

 伸びた髪をまとめている訳ではなく、灰色の髪の一部だけを伸ばしている特長的な髪形をしたその人物の顔は逆光によってハッキリとは分からないが、ジェメインと比べて小柄でいて丸みを帯びた体型から、少なくとも性別は女であるという事が分かる。


「実にちょうど良いところに来てくれた。まずは汝に頼みたい事が――」


 ジェメインの言葉は突如として地中から引き摺り出され、ほぼ同時に残る左腕も切断されて宙を舞う事で遮られる。


「なっ、き、きき……」


 腕とはまた別にくるくると宙を舞う達磨状態のジェメインが、しばらくは理解不能という表情を浮かべるも、仰向けに地面に転がったところで、やがて表情を怒りに染め上げる。


「貴様ぁ! 何をする!」

『来るべき時が来た』

『ただそれだけの単純な事』


 ジェメインの咆哮に、その人物は手元のノートにペンを走らせて破り取り、ジェメインへと次々と放り投げる。


『元々君がゾルバのスパイだという事は分かっていた』

『分かっていた上で受け入れた』

『そうすれば逆にこっちが情報を掴めるから』

『でももう不要』

『裏切り者には死を』


 最後の文を読み終えたジェメインの眼が見開かれ、直後に額に、穢れの無い指先が突き刺さる。


「あぎゃぎゃががががががががッ!!」


 人差し指の第2関節までが頭蓋に入り込み、ジェメインが苦悶の悲鳴を上げる。

 【同化】の能力者であるジェメインに対して素手で触れるという自殺行為をしている筈なのに、苦しんでいるのはジェメインであり、それを行っている人物に変化は見られなかった。


「まままま待て待て、ははははは話せばわわ分かるるる!」

『やだ』


 片手だけで器用に書き終え、破らずにノートごと見せ付けると指を引き抜く。


「ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!」


 四肢を引っ張られて千切られたかのような悲鳴を上げると同時に、額に空いた穴を中心に、ジェメインの顔面が不気味に隆起し変形していく。

 その変異は瞬く間に全身に及び、表面積を急速に膨張させていく。

 そして程なくして限界は訪れ、パンという派手な音を立てて破裂する。

 周囲に一瞬だけ赤い霧が生じるも、それもすぐに風に吹かれてどこかへと飛んで行き、その場には血肉の欠片も残らない。

 唯一残ったものといえば、重い音を立てて地面に転がった【選別の水晶】のみ。


『さようなら』

『ばいばい』


 そう書いた紙を千切って風に乗せて飛ばすと、続いてペンとノートをしまい込み、地面に落ちた水晶へと両手を伸ばして慎重に掴んで持ち上げる。

 それをしげしげと満足そうに眺め回すこと数分、唐突に眺めるのをやめてペンとノートと同じようにしまい込み、鼻歌でも歌いだしそうなほどに上機嫌な表情を浮かべてあっけらかんと口を開く。


「良い手土産ができたね♪」


 











次回予告

圧倒的な実力でエルジンを追い詰めたリグネストの口から、残酷な宣告がなされる。

「お前はエルンストに届く事は永遠にできない」


次回予告の文体を模索中。前話までの形式とどちらがよろしいでしょうか?


今回も今回で前話と同じくらい詰め込みました。前後編にすれば良いのではないかという意見も頂きましたが、じゃあどこで切れば良いのかという自分の構成力の無さを嘆いているここ最近。

次話に関しましては今日か明日中に投稿します。短いです。というか今までが長過ぎました。

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