潜伏していた刺客
左腕に力を込めて筋肉を収縮させ、一時的に出血を押さえ込む。
折角快癒したばかりだというのに、その矢先に新たに怪我をする自分の不運さを呪いたくなる。
壁から剣を持った腕が生えた――そんな酔っ払いの戯言と一蹴されそうな光景が広がったかと思えば、その腕が独りでに動いて壁際に居たシロを、続いて聖女ティエリアの首を刎ねようとした。
それに咄嗟に反応して2人を致死圏から脱出させたは良かったが、唐突かつ想定外の事態に自分まで無傷という訳にはいかなかった。
「惜しいね。知り過ぎた情報屋の女と、あわよくば面倒な聖女の1人をと思ったのだがね」
「欲を掻き過ぎなんだよ」
余裕を感じさせる言葉と共に、天井からそいつは降って来る。
と言っても天井を突き破ってという訳ではなく、文字通り天井から姿を現したのだ。
「違いない。と言っても、欲を張る事が必ずしも損失に繋がるとは限らないがね」
橙色の分厚い生地でできた丈の長い服を纏ったその男は、おれの左腕を切断した幅広の長剣を片手に優雅に微笑む。
「てめえっ!」
シロが吼えて隠し持っていたナイフを投擲。そのシロの態度から、こいつがベスタを攫った奴だろうと当たりを付ける。
シロの投擲したナイフを男が手に持った剣であっさり打ち落とすのと同時、アルトニアスが反対側から突進し掴み掛かる。
室内戦で剣は不利だと判断しての無手の突進は、間合いの不利を無くす為に剣が完全に振られ切ったタイミングを狙い澄ましての接近。
その判断力と行動力は、前に行動を共にしていた時と比べれば目を惹くものがあったが、相手の男の方が一枚上手で裏手で伸ばされた手をあっさりと払い除ける。
「フッ――!」
さらに続く蹴りも後方に宙返りを打って危なげなく躱し、直後に壁を蹴って天井へと体を戻す事でシロの投げたナイフを壁に置き去りに。
かと思えば天井を蹴り付けて剣を逆手に強襲。
「くッ――!」
「むッ――!?」
狙われたアルトニアスは動かない。
男のその意表を突くような変幻自在な動きに惑わされて動けないというのもあるだろうが、仮にその動きを追い切れて対応できたとしても、おそらくアルトニアスは動かなかっただろう。
自分の右足が剣に貫かれ、切っ先が床に届いて固定されるのを承知で歯を食い縛って耐え、男の顔面に握り締めた拳を突き込んだ。
「遅いね」
だがその程度では相手の意表を突き切れず、結果的には男が自ら拳に突っ込む形となっていても対応できるだけの猶予を確保されてしまう。
もっともそれは、そのまま拳が進んだならばの話だが。
「なんとッ!?」
拳を握りこむ際に一緒に握り込んでいた小さなナイフが、指の間から切っ先を怪しく光らせながら飛び出して来る。
それに、放たれた拳打を手で受け止めようとしていた男が眼を見開く。
相手の意表を突く事を主な目的とした、別段珍しくも難しくもない小細工の類の技術。
だが大よそ騎士の名を冠する神殿騎士には似つかわしくなく、また事前に両手を開いて掴み掛かって来た際に、その手の中には何も無いという先入観を植え付けられていたが為に不意を打たれる。
「しかしまだまだ温い」
剣を握る腕に力を込めて突進の勢いを減殺。
平行して反対の手を受け止める為のものから捉える為のものへと変化。タイミングがずれて僅かに宙を泳いだ隙を突き、その手首を掴んだまま一回転して両足を地に着ける。
そして掴んだ手を捻り上げながら反転。剣を引き抜いて胴体目掛けて振るうのと同時に、アルトニアスのもう片方の手が交錯。
「残念」
アルトニアスの無手取りは男の剣を弾かされる。
男の手から離れた剣はちょうどシロを目掛けて飛び、ナイフと衝突して床を転がる。
一方の男は捻り上げた手首をさらに引っ張り、空いた手を丹田に置き、負傷した足に自分の足を絡ませて払う。
そしてタイミングを合わせて掴んでいた手首を離すと、アルトニアスの体は面白いように持ち上がって宙を舞う。そこに翻った靴底が放たれ、腕を交差して作ったガードと激突。アルトニアスの小柄な体は壁に衝突する。
「【ゾルバ式戦闘術】――!」
多少変則的な入り方ではあれど、それは紛れもなく【ゾルバ式戦闘術】によるものだった。
おれだったら足を払う時点でその足をへし折っているが、男のはそれをする代わりに距離を必要以上に稼いでいた。
そうして空いた空白の時間を埋めるように、男の浅葱色の双眸が隙を窺っていたおれの両目と交錯。
次の瞬間には巧みに体を動かし、放った蹴りの余った勢いの一切を損なう事無くおれを目掛けて迫り来る。
「ぬッ!?」
そして致死圏に足を踏み入れる。
男を取り囲むように、立体的空間にいくつもの不定形な靄が生じる。
1つ1つを見れば拳大程度の大きさのそれらは、男の動きによって発生する空気の流れによって揺らぐ事無く、全方位から男を取り囲む。
そしてそれらを生み出した術者であるアスモデウスは、静かな目で男に向けて掲げていた右手を握り締める。
「【闇哭握鬼掌】」
発動するのは魔族にだけ扱える、極悪な闇属性魔法。
既に術式の構築も現象の発現も終わっており、あとは結果が生じるだけの回避不可能な絶対の間合い。
そして威力は術者がアスモデウスである以上は折り紙つき。よしんば辛うじて直撃を避けられたとしても、まず即死は免れないだろう。
「やめろシュマ!」
だからこそ、本名よりもこちらの名前の方がより確実に動きを止められると判断して怒鳴る。
それが功を奏したかアスモデウスがおれの声に身を竦ませて、一瞬だけ動きを完全に止める。
その隙を逃さずに男は上に身を躍らせて天井を蹴り、壁を蹴って床を踏みつけて急停止。
直後に浮かんでいた靄が自分の体を伸ばして近くの靄と連結。同時に体積を急膨張させて回転する球体となって弾ける。
そうして残ったのは、ギリギリその黒球の範囲内にあった床と壁と天井が滑らかに抉られている跡のみ。万が一範囲内に留まっていれば、どうなっていたかは火を見るよりも明らかだ。
「これは驚いた、とんだ化物が居たものだな。だがしかし――」
その光景に意識を奪われる事なく、淀みのない動きで次の行動へ。
曲芸師のような身軽さと変則的な動きを発揮して、再びおれに接近し、跳躍して身を捻る。
初手の後ろ回し蹴りはフェイク。少し動けば容易に回避できるように放ち、続く次の本命の蹴りを鞭のように撓らせて肩口を目掛けて叩き込んで来る――直前で軌道が僅かに変化して側頭部へ。
見れば初手の蹴りはただ単にわざと外しただけではなく、そのまま壁まで届かせて爪先を垂直の壁に引っ掛ける事で、その壁を強引に次の蹴りの軌道を変える為の足場にしていた。
それもまた変則的でこそあったが、やはり【ゾルバ式戦闘術】によるものだった。
故に驚きこそはしたものの、辛うじて無事な右腕を入れて直撃を避ける。
「ぐッ――!?」
足場と呼んで良いかどうかすら迷うほどに頼りない壁に軸足を置いていたのにも関わらず、その蹴りの威力は相当なもの。
魔力循環による身体能力の強化もあるだろうが、どうやって動かせば効率的に威力を相手に伝えられる蹴りを放てるかどうかを完璧に理解しているというのもあるのだろう。
そのままその場に踏み止まって耐えれば、返って腕に対して必要以上の負荷を掛けてしまい、折角完治した矢先に新たな負傷を受ける羽目になる。
既に左腕を失っているのはさて置き、それを嫌って自ら跳んですぐ傍の壁に受身を取りながら叩き付けられる。
揺れる事を避けた脳をフル回転させて痛みを押し込みつつ、視線を男から外さずに追撃に備える。
そんなおれを嘲笑うかのように、男は着地して即座に距離を詰める――と見せかけておれの傍の壁を蹴りつけて反転。反動を存分に活かして疾駆。その先に居るのは聖女であるティエリア。
おそらく本命は、最初から聖女だったのだろう。
考えてみれば本来この部屋の中に居て然るべきなのは聖女ぐらいなもので、おれやアルトニアスは異物でしかない。
シロの後をつけてここに辿り着いたという事ぐらいは容易に想像ができるが、それでもおれやアルトニアスが居る事までは事前に把握するのは不可能なはずだ。
つまりは一連の流れの全ては、裏に何かしらの意図が無い限りは行き当たりばったりな行動でしかない。
「トーニャや他の方に対する攻撃は全てフェイク、狙いは最初から私でしたか」
そしておれと同じ結論に行き着いたのだろう、聖女が椅子を前に倒して障害物としながら後退。
途中で落ちていた剣を拾い、さらにその椅子を払い除ける事で僅かなラグを生じさせながらも、男は瞬時に詰め寄る。
それはおれから見ても――明らかな悪手だった。
「実に愚かな事ですね」
「ぬおッ!?」
男が踏み締めた床から、勢い良く金色の炎が吹き上がる。
ギリギリで察知できた男は突進の勢いを完全に殺す事ができなかった為か、後方にではなくて前方へと跳ねて天井に手を付き、クモの如く数歩だけ這って壁際に移動して降りる。
「……金色の炎は魔法ではあり得ないとなると、能力によるものという事になるが……聖女は、癒しを与える存在ではなかったのかね?」
「その通りです。そして同時に、無辜の民に対して悪意を振り撒くような存在を決して許しません。必要とあらば、排除も厭わない」
内心の聖女に対する、甘いという評価は修正せざる得ないようだった。
完全に翻す訳ではないが、ある程度であれど道理は弁えられている。そして何より、実力も伴っていた。
いまこの場において、魔族であるアスモデウスを除けば、最も強いのはこの聖女だった。
「誰か!」
聖女のその言葉は、この場の誰かではなく扉の向こう側に居るであろう神殿騎士たちに対するものであろう事は、容易に想像がつく。
既に扉に掛かっていた防音の魔法は、打ち合わせもしていない筈のアルトニアスによって解除されている。
あとは外で待機している騎士たちが入って来るだけだ。聖女を守るという任に就いている騎士たちが、他でもない聖女の呼び掛けに答えない訳がない。
「無駄だとも」
だが半ば予想通りにそうなる事はなく、男が優雅に微笑む。
「既に外の者たちはワタシが全員殺した」
おれであっても、仮に無能力者であると仮定してもサシ以外の状況では戦いたくないと思わされるような精鋭6人を、シロが入室してからの僅かな時間に、室内に居る誰にも異変を察知される事なく殺す。
男の答えを予想しつつも、それが示すその事実に内心では緊張を隠せないでいた。
「罪を重ね過ぎれば、それを償うのが辛くなるばかりですよ?」
「問題ないとも。ワタシは神など信仰していない」
「……罰当たりな」
「いまのところ、その罰が下った事はないがね」
聖女を始めとした面々に――そして何より、当人が化物だと認識しているアスモデウスにまで囲まれていながらも、男は優雅な微笑を浮かべた表情を動かさない。
「確かに、聖女の命までを狙ったのは欲を掻き過ぎだったな。大人しく知り過ぎた女だけを仕留めておけば良かったのだが、結果がこうとはね。まさしく、二兎を追う者は一兎も得ずとやらだ。彼の言葉は中々言い得て妙だね」
どこかで聞いた覚えのある言葉を述べて、男がじりじりと後退する。
そして足元で金属が擦れる音が響いた瞬間、重心を沈める。
「だが、予期せぬ形で次善の成果が得られた」
金属音と共に男の肩に担ぎ上げられたのは、ザグバの死体が収まっている、おれが鎖を括り付けて運んで来た黒い棺。
それを軽々と持ち上げて、男が壁に背を付ける。
「加えて極めて希少な【移転門】の能力者。これらで望みうる限りでの最大とは言わないが、決して少なくない益が我が祖国に齎されるだろう!」
付けられた男の背が壁に沈み始めるのを見て、舌打ちしながら接近。
登場の仕方を見れば同じように脱出できる筈だと理解できた筈だった。冷静でいたつもりだったか、突然の事態にどこか平静さを失くしていたのか。いずれにしろ、我ながら鈍感過ぎる。
「彼に危害を加えて、大人しく逃がすと――」
「いや、待て」
途中で足を止めて、追撃の強烈な一手を放とうとするアスモデウスを静止する。
今度は術式が紡がれる前であった為、特に何かが現界する事もなく、その間に男は肩に担いだ棺ごとまんまと部屋から脱出し終える。
侵入して来た時と言い、壁にも何重にも施されていた魔法がまるで意味を成していない。そういう能力だった。
「……何故止めたんだい? あそこでキミが止めなければ確実に仕留められていた。納得のいく説明を求めるよ」
「ちょっと待て。シロ、確認だがベスタを攫ったのはあいつで間違いないんだな?」
「ああ、そうだ」
アスモデウスの言葉はひとまず置いておき、おれの中では確信事項となっている事柄を一応確認しておく。
そして得られた想定通りの裏付けのお陰で、一層どういう事なのかが分からなくなって来る。
「……ジンさん、少々聞きたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」
「何だ?」
一連の流れの中で唯一、戦闘に参加せずに壁際で観察に務めていたミネアが、おれの切断された腕を抱えたまま問い掛けて来る。
「あの方をご存知なのですか?」
「知っていると言えば知っているな」
「つまり、知り合いではないと」
「そういう事だ。こっちが一方的に、何度か顔を見た事がある程度なんでな」
アルトニアスの「寄越しなさい」という要求に、何故か腕を抱えたまま無言で、頑ななまでに要求を跳ね除けるミネアに返せと右手で要求しながら答える。
「【レギオン】ですか?」
「ああ。つっても、確かジェメインって呼ばれていた事と、あとは能力が変異系統のものだって事ぐらいで、団員ナンバーさえも知らないがな」
もっとも能力は本人に聞いた訳でも、同じ【レギオン】のメンバーから裏を取った訳でもないが、そう外れてはいない筈だ。
「違う……」
そこで口を挟んだのはシロ。
「そいつがジェメインって名前なのはそうだが、所属は【レギオン】であってそうじゃない」
「……なるほど、そういう事ですか。理解しました」
渋々といった風にアルトニアスに腕を差し出したミネアが、得心がいったというように手を打ち鳴らす。
そして直後に、不愉快そうに表情を歪める。
「さてジンさん、貴方はこの後どうしますか?」
ティステア王都の貴族街にありながら、煌びやかなイメージからはかけ離れた雰囲気を醸し出す一画。
その区画にはその雰囲気を具象化したかのように、人の気配といったものがない。
それは現在王都において避難勧告が出されているというだけではなく、常日頃からその区画には、必要以上の人が寄り付かないが為だった。
そしてその理由はひとえに、その区画がエミティエスト家の者が利用する区画であるからに他ならない。
「……よお」
「おや……」
そのエミティエスト家の連中が利用する、現在は無尽に限りなく近くなっている区画におれは立っていた。
片手にはアルトニアスから拝借した剣を、そしてシロから受けとった装備を身に着けた状態で、たったいまエミティエスト家の敷地を囲む壁からヌッと現れ出た男――ジェメインを見据える。
「さてさて、一体どうして汝がここに居るのかね? 行き先を漏らすような愚を犯したつもりはないのだが?」
「ゾルバとティステアは、双方共に100万の兵力を保有している」
ジェメインの問いに対する答えになっていないようで、繋がっている解答を述べてやる。
それは一種の情報収集の要素もあり、同時に答え合わせでもあった。
「ところがゾルバはその兵力が完全に中央に集約されているのに対して、ティステアはガタガタも良いところだ。にも関わらず、ゾルバが迂闊に手を出せない理由は何か。
勿論、ゾルバ以外に隣国に敵対国も脅威となる国も居ないティステアに対して、ゾルバは西側にゼンディルの支援を受けている小国連合を抱えているという面もある。迂闊にティステアに手を出せば、そいつらに、さらにはその背後に居るゼンディルに足元を掬われかねない」
だが、それは要因の1つでしかない。
本当の理由は、もっと単純かつ面倒だ。
「ゾルバとティステアとの間にある、最大の違い。それは能力者の差だ。
それは質であり、同時に量でもある。そこで疑問なのは、一体どうしてこの2国間でそこまでの差ができるのかという事だ。
かつてティステアが大陸統一を果たし、長い歴史に裏打ちされた強大な能力者を輩出する貴族の血筋があるというのも、勿論あるだろう。だが現在ではゾルバとティステアの国力自体はそう差はない。加えて領土という面でもほぼ互角で、やろうと思えばゾルバも各地から能力者をかき集める事は可能だ」
ジェメインの顔には、変わらず優雅な微笑が浮かんでいる。
それは心理的な余裕から来るものなのだろうが、お陰でおれでは内心が読めない。
「にも関わらず、ゾルバがティステアに対して能力者の質も量も後塵を拝んでいる最大の理由、それが赤月の夜にのみ使える特殊な魔道具である【選別の水晶】だ」
赤月が浮かんでいる時にのみ、触れた者の魔力を本人や周囲に対して一切の被害を及ぼす事なく呼び起こすばかりか、その者が持つ固有能力の解析や属性の適性判別まで行ってくれる水晶。
通常能力の有無を問わず、魔力を使うには外部からそれを呼び起こす必要があるが、仮にその際にその者が保有する魔力量が膨大なものであった場合、周囲や呼び起こされた本人を問わずに無差別に破壊を齎される事になる。
それが原因で命を落とす事は少なくないどころかむしろ多く、加えて能力者は大抵の場合、能力を行使できる為なのか保有する魔力量が多い為、それらを乗り越えられる能力者というのはそう多くはない。
それは超大国であるゾルバであっても変わらず、それを解決する【選別の水晶】はエミティエスト家が作り出した、ゼンディルでさえも開発に成功していない宗家のみに伝わる門外不出の技術の産物なのである。
「だからもし仮に、ゾルバが安全に能力者を確保できる術を手に入れて、尚且つ5年、10年が経てば両国の間に存在した差など引っ繰り返る。だからこそ、ティステアにとっては何が何でも【選別の水晶】は盗まれる訳にはいかない」
ここまでくれば、あとは簡単だ。
どうにかして【選別の水晶】を手に入れたいゾルバは、自分の息の掛かった者を差し向けて奪わせる事にした。
だがただ奪っただけでは不完全だ。
奪った事が発覚して、そしてそれが自分たちの仕業であると分かれば、ティステアは形振り構わずに攻めて来る恐れがある。でなければ、いずれ自分たちが呑み込まれるからだ。
そうなれば反対側にゼンディルの息の掛かった敵を抱えているゾルバとしては、あまり好ましくない展開となる。
だからこそ、最低限水晶の研究ぐらいはできる時を稼ぐ為にも、ゾルバ以外の者が関与していると思わせる必要があった。
そしてその条件に【レギオン】は打って付けだった。
勿論普通にやれば、すぐに【レギオン】を雇ったのがゾルバだというのは発覚するだろう。
だが【レギオン】は、ただの傭兵団でありながら大国の軍団にも匹敵する戦力を――言い換えれば一国に匹敵する戦力を内包する戦闘集団だ。
それでいて小回りの利く少数部隊は、容易に相手の王都に入り込んで大きな騒ぎを引き起こせる。
その混乱規模にもよるが、騒動の最中で1つぐらい水晶が消えたとしても、すぐに発覚する可能性は限りなく低い。そして発覚する頃には、研究するのには十分な時間が経過しているだろうから。
「だからこそ、まずお前はベスタを誘拐した。お前の能力である【同化】は生物無生物を問わずに一体化できるものだが、どんなものでも無条件でという訳にはいかない。そしてそれでは、エミティエスト家の張る警備魔法を掻い潜る事はできない。
ところが【同化】の能力は、仮に取り込んだ人間が能力者だった場合は、そいつの能力を行使する事が――厳密には行使させる事ができる。
領域干渉系でありながら高い汎用性を持つベスタの能力が使えれば、そしてそこに自身の能力が加われば、幾重にも張られた高度な魔法を掻い潜る事も容易という訳だ」
「正解正解、よく読めたね」
正確には、読んだのはおれではなくミネアだ。
おれとシロから齎された材料を組み合わせて、ジェメインの――ひいてはその背後にあるゾルバの狙いを読み取っておれに伝えた。
あとはミネアに伝えられた通りに現場に向かえば、いまにように遭遇する事が可能となる。
いま思えば、おれがエルンストの弟子であるという情報はこいつから漏れたのだろう。
こいつが加入した正確な時期は知らないが、1年は経っていても2年は経っていない。それはおれが真相を知る時期と重ねて綻びがない。
「ついでに付け加えるなら、ザグバの死体も研究の為に拝借した訳だ。
その理屈じゃ説明できない、無能力者でありながら【忌み数】にまで数えられるような圧倒的膂力が、人外の者によるものとはいえ技術で成り立っているのならば、研究次第じゃ再現が可能となるかもしれない。そしてそうなれば、ゾルバの軍事力は爆発的に跳ね上がる」
もっともそれは、アスモデウスから言わせれば魚がティータイムを楽しもうとしているようなものらしいが。
つまりは、やるだけ無駄だという事だ。
それもその筈で、ベルフェゴールの生み出したものをそうと知らずに確保して研究しながらも再現不可能と断じられた魔道具の類は数知れず、にも関わらずそれよりも遥かに難度が高く、ついにはベルフェゴール自身が匙を投げた研究を人間が再現できる訳がない。
「それもその通りだとも。さてさて、それを知った汝はどうするのかね? 汝はワタシの祖国に雇われている立場だ。その関係を解消してまで、ワタシを喰い止めるかね? ゾルバに力を付けられてティステアを呑み込まれるのは、自分以外の手で復讐が達成されるのは我慢ならないかね?」
「勘違いするな。別におれは、おれ以外の手で5大公爵家の連中が殺されようが何も構いはしない。勿論おれ自身の手で仕留められるに越した事はないがな」
「ほう。では何故、ワタシに対してそんなに殺気を向けている?」
「それこそ簡単な事だ」
分かっている事をわざわざ答えさせようとするその態度が気に食わない。
「ベスタは渡さない」
「故にワタシと敵対しようという訳だ。だが、不毛な事だな」
微笑は崩さずに、おれの言葉をやんわりと否定する。
「キミの戦い方は知っている。そしてワタシにとっては幸運な事にも、キミはいま、自分の武器である魔力を無為にする魔剣を持っていない。
それではワタシをただ斬るしかできない訳だがね、それではワタシの体の中に取り込まれている【移転門】の能力者まで斬りかねない。そしてそうなれば、汝は助け出すどころか逆に殺してしまう」
なるほど、どうも自分の圧倒的優位性を確信していると思えば、それが理由か。
確かに言われてみれば、その通りだ。納得がいった。
「あの魔剣があれば、あるいは取り込んだ者を傷付けずに分離させる事は可能かもしれない。だがそれがない以上、所詮は無能者である汝に取り込まれた者だけを傷付けずにワタシを倒す事など不可能に――」
そして、全く持ってくだらない。
「勘違いするなと、言った筈だ」
ジェメインの纏っている服の分厚い生地は防刃繊維の塊で普通にやれば斬るのに苦労するが、その程度、エルンストから散々叩き込まれた児戯を使えば紙切れ同然だ。
どうもおれが攻撃して来る訳がないと決め付けていたようで、右の脇腹から左の肩まで、途中の心臓も含めて簡単に斬り裂く事ができた。
そこでようやく現状を把握して慌てて後退するが、その隙にさらにもう一太刀、傷口をなぞる様に深く抉る。
「どうもおれは、既にゾルバから切られている臭いからな。それなのにベスタの能力を大人しく渡してやればどうなるか、分からないほどおれはマヌケじゃない」
その日からおれは夜も眠れない日が続き、そう遠くない先に殺されるだろう。
そしてそれは、シロも同じだ。
シロ自身の腕はそう高い訳ではなく、いままでベスタの領域内という不可侵に近い空間にいたからこそ安全を確約されていたのだ。
「だからこそ、ここでお前を殺す。勿論ベスタを助け出せる事に越した事はないが、それは結果的にそうなった場合で構わない。
最低でもベスタを殺して能力を使えないようにし、可能ならばお前も殺す。それが優先順位だ」
それこそが合理的な、おれにとって最善の選択肢だ。
その程度は、傭兵をやっている奴ならば誰でも同じ結論に行き着く。
そしてベスタ自身も、そうするべきだと納得して割り切るだろう。そういう世界に生きている。
ところがジェメインは【レギオン】に潜入して日が浅い為か、それとも元が軍属だからなのか、あるいはその両方なのか、その考えには行き着かなかったらしい。
その証拠に、傷口を押さえながらおれの言葉に眼を白黒させている。
もっともその程度の傷は、変異系統である【同化】の能力を使えば簡単に塞がれるだろうから、致命傷にはなりえないが。
人質云々以前に、ベルの奴が居ないとおれがジェメインに致命傷を与える事は難しい。
故に、最優先事項がベスタの奪還ないし命を奪う事なのだが。
「……そうか」
ジェメインが傷口を塞ぎ、ついでに衣類の損傷も継ぎ直す。
浅葱色の瞳からはおれに対する侮りの色が消え、代わりに理知的な色が宿る。
「かつてはクレインを倒し、あの【諧謔】と引き分け、そして先ほどザグバに勝利したのだったな。その実力は【レギオン】の構成員と比べても遜色がない」
懐かしい名前に、懐かしい出来事だった。
少なくともこいつは、おれがクレインを殺した時には既に【レギオン】に属していたという事か。
厳密に言えば、ザグバには勝った訳ではないのだが。
「良いだろう。いずれ汝は祖国にとって無視できぬ脅威となるかもしれない。ならばこそ、全力を発揮できないであろういまの内に仕留めるのが最善だ。全力で刈り取ろう」
最初の頃から出ていた選別の水晶がやっと再登場。今後何かとキーワードになったりならなかったり。
主人公が最近空気になりがちな中、ようやくスポットが当たって一安心。
ちなみにこの章の続きは前話までのどれかの終わりに続いていたりいなかったり。
何か書いていて思ったけど時系列がめちゃくちゃだなと。筆者はどれがどの順番で展開されているのか分かるけど、読者の方はちゃんと付いていけているか心配です。