王都襲撃⑰
「【万死万獣晩陰王國】!」
少女の発動した闇魔法が現界に干渉を始め、地面が闇よりも濃い影に侵食され始める。
いくら日が沈んだとは言え、明かりは皆無ではない。
少なくとも人が出歩くのには不自由しないだけの十分な光量が存在する。にも関わらず、影は僅かたりとも淡くなる事なく激流のごとく侵食を続ける。
「あれはぜってーやべえって!」
諜報員としてそれなりに生き延びて来たディンツィオの言葉は正しく、ユナとシアも異論は無かったが、影の侵食の速度は尋常では無かった。
既に魔法が発動された時には遅く、それまで堰き止められていて自由を得た激流のごとく猛威を振るう。
「逆行!」
影が3人を呑み込む寸前で、間に合わないと判断したシアは逃亡の選択肢を即座に破棄して能力を発動。
すると何故か影はシアを中心とした円形の領域を侵食する事はなく、後方へと流れていく。
いや、注意深く見てみれば、その円形の領域の縁では影が進んでは戻るという波のような動きを小刻みに繰り返しているのが見て取れる。
それはシアの固有能力である【時間支配】によって、彼女を中心とした能力の及ぶ範囲内の時間を巻き戻しているが故の現象だった。
「うぎぎぎ……!」
当然ながらそれは並大抵の所業ではない。
仮に同じ能力を持った者がそれを行おうとしても、並の者では数秒ほどで昏倒を通り越して衰弱死する。
そうとならないのは、シアの保有する大量の魔力を絶えず燃料として注ぎ込んでいるが故だ。
しかしそれさえも、あまり長くは持たない。
少女の持つ、人ではあり得ない魔族の魔力抵抗力はシアの魔力の消費にえげつないほどに拍車を掛けていき、その残量を貯水庫に空いた穴のごとく減らしていく。
「能力じゃなくて、闇魔法だった訳か。そりゃ心当たりが無くて当然だね」
軽口を叩いて余裕を見せようとするシアの表情は、能力の維持に伴う苦痛の他に隠しようもない喜悦が共在していた。
「魔族と戦うのは初めてだけど、すっごいね、これ」
「感心してる場合じゃないでしょ。どれくらい持つ?」
「あんまし。範囲もこれ以上は広げられない」
「そう。なら方法は、これしかないね!」
ユナが腕を振り、結晶化させた血液の刃を飛ばす。
大きさもまばらな、だが殺傷能力だけは確かな決勝の群れはしかし、地面から現れた何かが咥え取る。
「何あれ?」
「獣……みたい」
海面で跳ねる魚のごとく、全身真っ黒な、だが凶悪なフォルムだけはハッキリと分かる流線型の獣が次々と飛び跳ねては結晶を空中で咥えて地面に沈む。
「闇魔法って確か、基本的に影を始めとした暗いものを媒介にするのが多くて、中には命を吹き込んで擬似生命体を生み出すものもあるんだっけ。属性は違うけど、原理的にはユナちゃんの炎鳥の魔法や地の人形魔法と同じだと思う」
「要するに、この状況は……」
記憶を掘り起こすシアに対して、ユナは周囲に視線を巡らせる。
絶えず時間が巻き戻っている、シアの能力が及ぶ範囲を取り囲んでいる影の海からは水面を割って、黒一色の絶えず蜃気楼のように輪郭の揺らいだ獣たちが次から次へと顔を出していく。
その数は数百を優に超えており、それほどの数が明確な殺意を持って彼女たちを取り囲んでいるという事実に震える。
「……凄くドキドキして来た」
「うん、分かってた」
野犬か、オオカミか、それとも別の猛獣か、シルエットだけで細部の判断のつかない、だが多種多様な外見の獣たちがどの種のものかも判別がつかない咆哮を上げて黒い地面を蹴り疾駆し始める。
そしてほぼ同時にユナの腕が振るわれ、唸り声が赤い飛沫と共に駆け巡り、先頭を走っていた獣数十体が一瞬にして両断される。
ユナの【流血刃】によって両断された獣の残骸は、そのまま原材料に覆われた地面に落ちて溶けて混ざり合う。
「ありがとね、ユナちゃん」
「気にしないで。それよりも……」
ユナの【流血刃】による攻撃も、焼け石に水と表現しても差し支えない。
ユナが血を放ち、手元に戻す間にも爆発的な速度で獣たちは数を増やしていき、さらには今しがた葬った筈の獣たちすら何事も無かったかのように地面から再度命を吹き込まれて顔を出して来る。
その数は数百を通り越して数千にも及び、さらに時間を費やせば万にも届きかねない。
どこまでも単純な、圧倒的なまでの数の暴力がそこにはあった。
初撃で出鼻を挫かれた事を微塵も意に介していない獣の集団が、間断なく距離を詰めて来る。
その動きは外見通りに獣のごとく俊敏で――いや、下手をすればそこらへんの獣よりも遥かに速い動きで地を掛ける。
当然ユナもそれら指を咥えて見ている筈も訳もなく、腕を振って【流血刃】で迎え撃つ。
幸いにして知能は低いのか、それともそもそも存在しないのか、ただ愚直に直進してくるのみな為に当てる事自体はそう難しくはない。そして当たりさえすれば、ユナの【流血刃】の持つ殺傷能力は極めて高いために一撃で葬る事ができる。
加えて密集度が尋常ではない為、1度の攻撃で多数の敵を捉えられる為、撃破数だけは面白いぐらいに増えていく。だが全体で見ればやはり微々たるもので、さらには全方位から迫り来る獣たちに対してまるで対処し切れていなかった。
「【風刃牙牢】!」
シアが残る演算能力を駆使し、前方に風の刃が無数に渦巻く不可視の壁を顕現させる。
停止する事無くその壁に飛び込んだ獣たちは、片っ端からその場で渦巻く不可視の刃に切り刻まれ削られて、粉微塵となって消失する。
「【鋼網生成】!」
「固定」
さらにディンツィオが多数の鋼糸を網状に編み込んだネットを生み出し、それの時をシアが止める。
結果シアの生み出した不可視の壁と、原理こそ違えど似たような結果を生み出す壁がその場に生み出され、やはり同様に停止する事無く頭から突っ込んできた獣たちはサイコロ状に切り刻まれる。
これで四方のうちの2方向から迫る獣たちについては、ひとまずではあるが一応の対処ができていた。
もっとも、それがその場凌ぎである事は誰の眼にも明らかだったが。
「【朱雀乱舞踏】」
100近い朱雀の群れが、隊伍を組んで飛翔。
不死鳥と比べれば頼りないほどに小さな体躯であったとしても、内包するエネルギー量は人を焼き殺すのには十分なもの。
加えて獣たちは数こそ多い反面、個々の力はそれほどでもないようで、1羽1羽が確実に1体1体を葬っていく。
しかしそれでも、炎鳥たちの数は総勢で100を超える程度。対して獣たちは数千にも及ぶ。
物量という差が生み出す結果は圧倒的で、瞬く間に100程度の炎鳥たちはその数を減らし全滅する。
ではそれが無意味な足掻きだったのかと言えば、そうでもない。
僅かな時間であっても獣たちの歩を阻む事で稼がれた時間は、ユナが次の行動に移る為に有効に活用される。
「【血化晶】……」
ユナが取り出したのは、赤い液体に満たされたガラスのビン。
中に自分自身の血を、特殊な薬品と一緒に詰めているそれを取り出した傍から地面に叩き付けて割り、中身を外へと出す。
外に出て空気に触れた血は、即座に彼女の能力の影響下に置かれて独りでに動き出し、シアの作り出す陣地の外側へと向かう。
そして頭上を獣たちが跳び越えた瞬間に、それぞれが細長い無数の針として隆起し、獣たちを串刺しにする。
1本1本を見れば直径が1ミリにも満たない、酷く頼りないもの。
だがユナの能力下に置かれたそれの硬度は鋼を凌ぎ、何より数が多い。
獣1体に対して過剰なまでの数の針が殺到し、全身を貫いてその場に固定し、瞬時に形を保てずに溶解するまで追いやっていく。
さらにユナの行動はそれでは終わらず、所有しているビンを全て割り終えると今度は銀色の細長い筒を取り出す。
鈍器として使うにしては長さも質量も足りないであろうその銀筒の先端を捻ると、蓋になっていた部位が外れて下から横一文字に空けられた暗い空洞が姿を現し、その銀筒の中から鼻を刺す臭いが伝わるよりも先に赤い泡が溢れ出る。
そしてその血泡が容器を伝って地面に零れ落ちるよりも先に、ユナが銀筒を握ったまま両腕を交差させるように一閃。
右手首の傷口から、そして銀筒の中から血が溢れ出し、高圧を掛けられた刃として縦横無尽に駆け巡る。
「それ使うんだ」
「使わないと追いつかない」
自分の【流血刃】が失血のリスクも孕んだ技であるという事を踏まえて、毎日少しずつ抜いた血が保存してあるビンと銀筒は言わば保険のようなものだ。
特に銀筒の方は本体に比べて保存しておける血の量は圧倒的に少なく、また血を関係から容器の口は最低限の大きさを確保せねばならず、自分自身の体から血液を放つよりも範囲も威力も欠ける。
つまりは切り札の類では無く、使わないに越した事は無いいざという時の為の緊急手段なのだ。
言い換えれば、それだけいまの状況は追い詰められているという事になる。
四方から押し寄せて来る数の暴力は勿論だが、何より3人の立つ足場をも侵食しようとする影が1番厄介だった。
獣たちに関しては、ユナが保険を用いて2方面を受け持つ事で持ち堪えられてはいる。
だが侵食して来る影を絶えず巻き戻し続けるのには、さすがのシアの保有する魔力量を持ってしても限界がある。
仮に3人のうちで誰が最初に破綻するか予想するならば、その場の全員がシアの名を挙げるだろう。加えてその残り時間は、そう多くはない。
このまま拮抗している状況が続くだけでも、遠からず決着が付くのは目に見えている。
だが今回は、相手がそれを待つ事は無かった。
「ううっ、ひぐ……うぅぅ……」
未だに嗚咽を漏らす少女が、片手にぬいぐるみを抱いて涙を拭いながら歩を進め始める。
その進行方向には当然ながら獣が地を埋め尽くす程に居るのだが、少女が近づいて来ると堰を切ったように左右に割れていき道を作り出す。
その様はまるで、癇癪を起こした少女という王の行進に頭を垂れて跪く忠実な臣下の絵のようだった。
「はやく、いなくなってよぉ……」
可愛らしい筈が実態を伴う途端に恐ろしさに反転する泣き言。それが零された瞬間、3人の周りの地面から影が粘体生命体のように盛り上がり取り囲む。
「……マジかよ」
ディンツィオが掠れた声でそれだけ零す。
持ち上がった状態で、見るからに不安定に揺れるそれが次に取るであろう行動を容易に想像できたが為だった。
「おしつぶされちゃえ……!」
そしてそれらの相当量の体積の影が、シアの展開する領域に侵入しようと一斉に崩れ落ちてくる。
「ふんぎぎぎぎぎ……!」
それらは崩れ落ちた瞬間には崩れ落ちる寸前の状態に戻るという奇妙な状態変移を、秒間に数十回単位で繰り返しながらその場に停止する。
反面、シアの表情は苦痛と苦悶で歪み、演算能力の限界を超えた能力の行使に、脆い毛細血管が圧力に耐え切れずに破けて鼻から血が流れ落ちる。
「ちょっ……さすがに、これだけの質量は不味い……てぇっ!?」
そんなシアの苦労など、影に取り囲まれて内部の様子が見えない為に一切知る由など無いが、それでも術者たる少女には目論見通りにはいっていないのが分かるのか、さらに歩を進める。
そして縮まる距離に比例するように、シアが受けている負担が増していく。
「無理無理無理無理、これ以上は絶対に無理だって!」
術者である少女に内部の様子が分からないように、内部にいる3人にも外部の様子は一切分からない。
だがそれでも徐々にだが大きくなって来ている少女の嗚咽や、おぼろげながらも感じ取れている少女自身の自分たちの誰よりも膨大な量の内包する魔力の大よその位置から、少女と自分たちとの距離が周囲の影と関わり合っている事を察する。
その上でそれ以上距離を詰められるのは不味いと、シアが悲鳴とも喜声ともつかない声をどこか外れた表情で叫ぶ。
「ユナちゃん、いける?」
「5秒稼いで」
「……合点」
ただでさえ一杯一杯であるというのにも関わらず、無茶振りとしか言いようのないユナの要求に対して、シアは文字通り死力を尽くして応じる。
歯はこれ以上ないくらいに力強く食い縛られ、一緒に噛み締められた唇が切れて血が流れ出す。
鼻血は止まるどころかさらにその量を増やし、彼女の着ている衣服に簡単には消えないような染みを次々と作り出す。
彼女にとっては永遠にも感じられた、だが現実に即して見れば瞬く間である5秒の時間は過ぎ去り、ユナが術式を構築し終える。
「【鳳凰不死炎舞】」
それは彼女のオリジナルであり、そしていままで何度も使って来た魔法。
その気になれば即座に展開できる筈のそれをわざわざ5秒も掛けて構築したのは、費やす魔力量を普段のそれに比べて格段に増やしたが為。
ユナがいま持ち合わせている魔力のありったけを注ぎ込まれた炎鳥は通常の3倍以上もの大きさで現れ、その大きさに比例して内包するエネルギー量も多く、シアの展開する領域内という限定された空間の要領の大半を埋め尽くす。
当然傍に居る3人も無事では済まず、すぐに皮膚が溶け爛れて泡立ち始めるが、同時にシアの展開する領域がその損傷にさえも干渉を始め、即座に過程を巻き戻されて元通りとなる。
「【爆裂砲】」
ユナが炎鳥を手近な壁に向けて羽ばたかせ、ほぼ同時に平行して紡いでいた魔法を炎鳥の背後に撃ち込み、意図的に爆発させる。
その魔法の衝撃によってある程度の指向性を持たせて炸裂させられた炎鳥のエネルギーは、その大部分を取り囲む陰の突破に費やしながらも、一部は反対側にいた3人に対して襲い掛かろうとし、寸前でディンツィオの生み出しシアが固定した壁に遮られる。
そしてエネルギーの炸裂が収まると、そこには人が優に潜れるほどの大きさの風穴が空けられていた。
「いまのうちに!」
シアが能力を解除した途端に急速に崩れ落ちる動きの一環で穴を塞ごうとする影の動きを、時を止めてほんの一瞬だけ止める。
だがそれも、少女の魔力抵抗力の高さ故にほんの一瞬の事。その一瞬を有効に使い、最初にシアがその穴を潜って囲いから脱する。
間髪入れずにユナもまた脱出し、僅かな差ではあるが崩れ落ちきるよりも先にディンツィオが脱しようとして、体を硬直させる。
「あらら?」
困ったような、観念したような表情を浮かべて視線を下ろす。
そして視界に映ったのは、影で作られた蛇が自分の足に喰らいついて捉えていた光景。
気付いてしまえば、彼であってもその蛇を仕留めるのは容易い。事実、次の瞬間には蛇は刻まれて消滅していた。
しかしそれによって稼がされた時間は、ディンツィオが潜るべき穴を塞ぐのには十分過ぎた。
「まいったまいった、勘弁してくれよ本当に……」
着地する寸前に地面の時を一瞬だけ止めては足場とし、留まらずに即座に蹴って再び宙を舞う2人の耳に届いたのは、影が崩れ落ちる前に発せられたそんな言葉。
そして影が完全に崩れ落ちて、ディンツィオはその下敷きとなって姿が見えなくなる。
「やっと、ひとり……」
少女が呟き、赤い双眸を距離を稼いで行くユナとシアの2人へと向ける。
「あと、ふたり……」
「ッ!?」
その言葉と同時に、進行方向一杯に獣たちが地面より顔を出して退路を塞ぐ。
ギリギリのタイミングで着地点を基点に時を巻き戻したシアは、それでも既に地面が侵食されていたが為か先ほどの領域よりも狭い範囲の時しか巻き戻せず、跳躍の勢いを膝を曲げる事で完全に殺して動きを止める。
「巻き戻す範囲が狭くなった分、消費する量も減ったは良いけど……」
ちらりと背後に展開する獣の軍勢を見て、次に特に急いだ足取りでもなく、だが確実に歩を進めて近付いて来る少女を見て、最後に自分のすぐ傍に降り立ったユナに視線を向ける。
「ユナちゃん。さっきのあれ、もう1回できる?」
「無理。魔力が足りない」
「だよね」
「そっちは?」
「うーん、ユナちゃんの8割くらい?」
いずれにしろ半分は切ってるという発言に対して、ユナは相変わらずでたらめな保有量だと呆れ混じりの溜め息を吐き出す。
だがすぐに表情を改め、腕を振って飛び掛って来る獣たちを裁断する。
不幸中の幸いは、円周が短くなった事でカバーするべき範囲が縮まった為にシアの負担が激減した事と、辛うじてだがユナ1人でも対応ができるようになったという事か。
右手首の傷口と、左手に持った銀筒を駆使して襲い掛かって来る獣を一手に引き受けていたユナだったが、両断した獣の1体が唐突に爆ぜた事で動きが止まる。
「【鋼糸綱格子】」
そしてその隙を埋めるように、ユナに迎撃を任せている間に紡いでいた術式を発動。
先ほどディンツィオが同じ術式を多重に紡いでやってのけた芸当を、1つの術式で全方位をカバーして発動。直後にその鋼糸の時を止める。
「何もしなければ喰らいついて来て、かと言って対処すれば爆発するっていう訳だね。趣味が悪い」
「所謂特攻兵ってやつかな。でも合理的ではあるよね。
あの影の動物はあの子の命令に絶対服従で、爆裂魔法の術式を抱えての突進だろうが他の何かだろうが何だってやる。
しかもその動物の数は膨大で、材料となる影次第だけど、いまの日の沈んだ時間帯ならば多分万に上る。それだけの数の動物を完全に従える、絶対王政の独裁国家を作り出す魔法は物凄く厄介だよ」
「お願いだから楽しそうに言わないでよ」
爆風によって裂け、爆熱によって焼けた肉が完全に巻き戻るのを確認して数回振る。
「……全部終わった時が怖いな」
「終われるかどうかは不透明だけどね」
あくまでシアの領域内で起こっているのは、その場における時間の逆行。つまりは1歩でも領域内から出れば、それまで巻き戻っていた時間は再び元通りになる。
当然ながらその際に巻き戻された傷も戻って来る。それも全て一斉に。
もっとも、少なくともいま現在においてそれを心配する必要はないだろうが。
「全部跳ね返って来る前に、あの子を何とかしなくちゃいけないしね」
歩を進めて来る少女がもう1度先ほどと同じ事をすれば、今度こそ2人に打つ手はない。手を打つのには双方共に消耗が大き過ぎた。
それでもシアは、不敵でいてどこか外れた笑みを浮かべる。
「にっひひ、楽しいな、楽しいな」
シェヴァンの提案によってアベルは、シェヴァンの先導の元で有事の際に即座に対応できる最低限の距離を保ったまま移動をする。
「この辺りで良いかな」
「ここなら全力で戦えるって訳か?」
立ち止まったのは、王都に存在する公園の中でも最も規模の大きな中央公園。
ウフクスス家の多大な寄付金によって作られたその公園を、シェヴァンは戦場に選んだ。
アベルはシェヴァンの高い所が苦手だという言葉を頭から信じた訳では無い。むしろ、真っ赤な嘘だと根拠こそ無いが確信していた。
それでも誘いに乗り、仲間と離れて1対1のサシの戦いに応じたのは、アベルもまた外壁の上では十全に実力を発揮できないからだ。
「いえいえ、僕が場所を変えたかったのは先ほども言いましたとおり、高い所が苦手だからだけです――ッ!?」
あくまで他意はないというシェヴァンの言葉を遮ったのは、虚空から唐突に現れて降り注いで来た橙色の業火。
放たれるというよりは噴射されたという方が正しいほどに勢いがあり、また自然界のものとはくらべものにもならないほどの熱量を有したそれは、まさしく竜の息吹と呼ぶに相応しい代物だった。
その炎がアベルの頭上より、シェヴァンを呑み込もうと放射状に噴射される。
「……さすがは傭兵。不意打ちをする事に何の躊躇いも無いみたいだね」
その炎を遮ったのは、数メートルもの厚さを誇る巨大な氷の壁。
莫大な熱を浴びた筈のそれはしかし、表面が多少溶けていた程度で、その溶けて発生した液体も氷本体の冷気に当てられたが故かすぐに凍り癒着する。
「氷か……火と水の2属性持ちという訳でもないだろうし、それが能力か」
「まあね。僕の能力は【氷結】。大気中の水分を凍らせて氷を生み出す、ただそれだけの、実に単純かもしれない能力だよ」
それまでの、少なくとも表面上は丁寧な口調を収めた説明と同時に、アベルを包囲するように鋭利な先端の氷柱が無数に生み出されて射出される。
たかが氷柱であろうとも、人を貫き殺すのには十分過ぎる殺傷力を秘めたそれらを、アベルは一瞥しただけで再度炎を生み出す。
今度の炎はその前のものとは違って勢い自体はそこまでではないが、熱量は変わらず、代わりに炎とは思えないほどの柔軟さを発揮してアベルの周囲を変幻自在に舞い踊り、氷柱を1本も残さず溶かし尽くす。
「対応が早い。魔法じゃなくて能力……【吐竜息】ですか。僕の氷を簡単に溶かすのは、さすがは竜の息吹と言ったところかな」
数ある固有能力の中では比較的保有者が多い、竜の息吹を生み出すもの。
自身の知識と過去の経験からシェヴァンは、アベルの持つ能力がそれだと検討を付けていた。そしてアベルは肯定こそしないものの、否定もしない。
「相当に強力みたいだね。でも、それだけらしいよ」
シェヴァンが余裕を感じさせる笑みを浮かべた瞬間、再度炎が噴射される。
それを先ほどと同様に唐突に現れた分厚い氷が遮る。
竜の息吹の直撃を受けていながら、やはり僅かに溶けているぐらいしか目立った変化はない。その耐熱性は氷の性質を考えれば不自然極まりなかった。
「僕の能力は氷を生み出すだけの単純な能力だけど、でも単純故に強いって事もあるんだよね。
例えば氷ってさ、火に弱いみたいなイメージが蔓延しているらしいよね。実際のところ熱に当てられれば溶けるだろうから、あながち間違いじゃないんだろうけど、でも火を防げないかと言えばそうでもない。
確かに氷で火を防げば、その熱で氷は溶けるよ。でも、溶けて気化しただけであって無になって消える訳じゃない。だから僕の能力を使って、溶けた片っ端から再度氷を生み出せばそれは防げているのと同義だ。実際炎は僕には届いてないんだから」
再三の炎の息吹も、やはりその氷壁を崩せずに防がれる。
シェヴァンの言をそのまま受け取れば、その氷壁を維持する為に消耗する魔力量と得られる結果の採算が明らかに合わないが、それでもアベルの繰り出す竜の息吹を完全に防げているのは紛れもない事実だった。
「まあ、とんでもない力任せなやり方だっていう自覚は無きにしも非ずだよ。でもほら、僕って幸か不幸かウフクスス家の人間らしくってね、保有する魔力量には少し自信があるかもしれないんだよね」
断定形を用いない、人の神経を逆撫でるような口調。
その口調のまま、人当たりだけは良さそうな笑顔のまま挑発とも取れる言葉を発する。
「良かったよ、君が相手でさ。僕って同じウフクスス家の師団長の中ではミソッカスらしくってね、あまり強くないんだよ。
でも君が相手なら、ミソッカスの僕でも十分みたいだ」
「……言ってろ、若造」
アベルが両手をポケットから抜き取る。
とそこで4度目の炎を顕現させて放つ。
だが今度の炎は先ほどまでとは違い、中々途切れる事なく次から次へと発生しては氷壁へと押し寄せる。
「だから無駄かもしれないんだって」
「本当にそう思うか?」
業火が空気を震わせ氷壁にぶつかる唸り声に重ねるように、アベルがそう告げる。
そして同時に、抜き取った手を氷壁へと差し伸べるように向ける。
「お前が言った氷と炎の関係の世間的な先入観と同じように、竜の息吹も何故か炎であるという妙な先入観が存在するとは思わないか?」
噴射される炎が急速に勢いを弱めていき、輻射熱によって揺らいだ空気を通した光景が視界に入って来る。
と同時に、その不規則に揺らいでいた空気が唐突に掻き回されたかのように慌しく動き、氷壁が横一文字に両断される。
当然、その向こう側でアベルのする事を無駄な行為だと高みの見物を決め込んでいたシェヴァンもその被害を受け、腹部から胴体と下半身とが分断されて地面を転がる。
「ところが現実的には火を吐くのは火竜のみであって、他の種の竜が吐き出すのは炎の代わりに強酸だったり、猛毒だったり、ガスだったり、雷だったり、土砂だったり……あるいはカマイタチだったりする」
不意打ちで放たれた風竜の息吹を再現したカマイタチが、目標であるシェヴァンを氷壁ごと斬り裂いた事を確認してアベルは踵を返す。
「……なるほど、最低でも君は2属性持ちだったかもしれないっていう訳だね」
「…………」
意識が無くなる前の言葉を、一応は聞いておこうかと一端返した踵を元に戻したアベルは、その双眸をスッと細める。
その細められた視界に入り込むのは、断面から僅かばかりの血を零すのみで平然としているシェヴァンが、両手を駆使して下半身の元へと移動し、断面を合わせて繋げるという何とも不気味な光景。
「ふう、危なかった気がするよ。もう少し下だったら、ベルトとかズボンとかの関係で絵的に色々と酷い事になっていたかもしれないね」
「……ペテン師め」
切断された肉体はおろか、それを包んでいた衣類まで元通りに戻っているという現象を眼にして、アベルが面倒くさそうに吐き捨てる。
「いきなり酷い言い草かもしれないなあ。僕は君の事を騙した覚えは無きにしも非ずだよ?」
繋がりを確かめるように、腰に手を当てて軽く回す。
程なくして納得がいったのか動きを止めると、打って変わって軽薄そうな表情をアベルに向けて告げる。
「でもやっぱり良かったかもしれないよ。本来ミソッカスの僕じゃ、君と同等の力量を持った相手と戦うなんて自殺行為も良いところだからさ。
だけど手の内が分かったいまでも、やっぱり僕と君とじゃ相性が良いみたいだ。勿論、僕の方にね」
「良かったのか?」
「んん? 何が?」
ウフクスス家の師団員の証であるジャケットを羽織った金髪翠眼の青年――ルヴァク=リヴァ・ティトニエスの言葉に、外套を頭から被ったままの小柄な人物は聞き返す。
「わざわざ別々の場所に散った事だよ。あっちはサシの勝負になった。まだ2対3の混戦の方が勝ち目はあっただろう」
「あひゃひゃひゃ、まるでアベルが負けるよーな言い草。あいつが誰なのか知ってるのかよ?」
「知ってるさ」
さりげなく1歩詰め寄る相手に対してルヴァクは1歩下がって距離を保ちながら、朗々と語る。
「アベル=アプス・ステュルクス――【レギオン】の第1師団長で団員ナンバーは2番。
【レギオン】という集団が結成された当時から存在が確認されている人物であり、同時に【絶体強者】リグネスト=クル・ギァーツの右腕と呼ばれている人物。
あまり戦闘に参加する事が無い為に実力は不明だが、あの【レギオン】の団員で、尚且つ最古参のメンバーとして副団長を務めている時点でお察しといったところだろうな」
「ストーカーかよ、このどーせー愛者め」
からかうような挑発の言葉を、ルヴァクは無視して続ける。
「相当に強いんだろうな。だが、うちの師団長の方がさらに強い。繰り上がりじゃなくて正規の手順でその座についた、現行の中でも最強の師団長だ」
「……へえ、随分な身内贔屓。でもまるで関係がない」
ニハァと、息が吐き出されるのと同時に外套の下から覗く口が釣り上げられる。
「死んだら死んだで、お前ら殺した後にこっちで殺しておくから」
両手が持ち上げられ、目深に被せられていたフードが剥ぎ取られる。
現れたのは、まだまだ幼さの残る少女の顔。
150に満たない小柄な体躯は、子供であるという事を差し引いても肉付きがあまり良くない。
それに加えて顔色が真っ青や蒼白を通り越して白いのは勿論の事、肌の色も、そして肉の薄いからだとは対照的にボリュームのあるクセッ毛も総じて白く、人の形をしてはいるがパッと見だと人であると確信を抱くのは難しい。
外套の色が黒い事がよりその白さを際立たせている中、唯一モノクロから外れた紫色の瞳を持った両目が爛々と光を放っていた。
「……ヴィズさん、そいつは先を視る。気を付けろ」
「分かっておる」
アスヴィズも腰から剣を抜き放ち、正眼に構える。
そのアスヴィズの背後に隠れるようにルヴァクが位置取りをする。
「人の頭の中を勝手に覗くなよ、この覗き魔め!」
地を這うような突貫からの低空蹴りが剣腹で受け止められ、続く回し蹴りも同じように剣で受け止められる。
直後に自分の蹴りを受け止めたその剣を、弾くというよりは踏みつけるように足場にした少女が自分の小柄な体を持ち上げ、そのまま剣腹に軸足を乗せたままアスヴィズの側頭部を目掛けて強烈な後ろ回し蹴りを叩き込む。
「……あひゃひゃ」
その蹴りがいつの間にか剣から離されていた片手に受け止められ、同時にルヴァクが狙っていたかのように蹴りを放つ直前には投擲していたナイフが、蹴りを放つ為に一端反転していた顔の前に迫っていたのを咄嗟に口で受け止め、舌を切らないように笑う。
「随分と精度の高い未来が視えるらしいけどな、無駄な事だ。こっちはそのお前が視た未来ごと視る。
そして当然それに合わせて行動するから未来は書き換わる訳だが、それもまたこっちは視る。常に後出しができる訳だ」
ルヴァクが新たな投擲用のナイフを取り出し、手元で弄んで見せる。
「既に確定した事と不確定な不特定多数な先、どっちが有益かは考えるまでもない。
どれだけ精度が高くて先の先を見通せようが、こっちはそれを読める。同じ魔眼系統でも、未来視と読心とじゃ後者の方が上位だ」
「……ちょーしに乗るなよ、雑魚め」
「言ってくれるな。まあ、侮ってくれる分には好都合だからいくらでも構わないがな」
見下された事に怒りを露にする事も無く、何ともなさそうに淡々とアスヴィズに告げる。
「それじゃあヴィズさん、粛清を始めよう」
「ええ」
構えを正眼から腰溜めへと変える。
太刀筋がある程度事前に絞り込まれる代わりに、振り被るという動作を必要とせずに振るうという斬撃を放つまでの流れが短縮される構えへと。
相手が先を見通せる以上は、太刀筋を推測されないようにする事に意味はないと判断しての事だった。
「ウフクスス家第2師団団員、ルヴァク=リヴァ・ティトニエス」
「同じくウフクスス家第2師団団員、アスヴィズ=ロニ・ディスケンス」
「覚える必要はない。ただ規則で取り決められているだけの、くだらない前口上だからな」
「いーや、そーでもないと思うよ。むしろ良い規則かもねー。だってさ……」
腰を落とし、両足を撓める。
それと同時に、相手には見えないように外套の裾を後ろ手に持ち上げる。
「墓碑に刻む名前に困らないもんね!」
そして溜めた力を解放。
保有する魔力量が多いのか、それとも魔力の浸透率が極めて高いのか、先ほどの突貫よりもさらに速く接近して地を跳ね、アスヴィズに首を刈り取るように蹴りを放つ。
それを速度の変化に驚きを覚える事もなく、余裕を持って見切り1歩下がる事で回避したアスヴィズが、僅かに眼を見開いて首を限界まで傾ける。
「ヴィズさん!」
ルヴァクの警告は一瞬遅く、外套の裾から踊り出た何かがアスヴィズの頭部を目掛けて振るわれ、頬をザックリと抉る。
「あっひゃひゃひゃ、思考が読めてもどんなものでも完璧に回避するって訳じゃないってね」
着地した少女の外套の裾から現れたのは、2本の先端に鋭利な刃の取り付けられた尻尾。
それが生来の物でない事は、尾の肉感が皆無な無機質さが証明しており、おそらくは後付けされた魔道具の類であると推測できる。
「便利だろ、これ? ただちょっと念じるだけで後は勝手に動いて、狙った相手を斬り刻んでくれるんだ。軌道とかは一切あたしは考える必要がない。ただ念じるだけで良いから、読んでも意味がない」
その事を証明するかのように、少女は後付けされた2本の尾をその場で縦横無尽に振るわせ空を斬り裂く。
ルヴァクはその軌道の一切が少女の思考に浮かんでいない事を確認し、舌打ちを1つ小さくする。
「ああそれとさ、さっき墓碑に刻む云々言ったけど、本気にすんなよ? 何せ墓碑を発注する金が勿体無いし、襲って来たお前らを弔う義務なんて無いからさ」
「こっちにもねえから安心しろ。報告書を書く必要はあるけどな」
「そう? なら、あたしの名前は知っといた方が便利かもなー」
両目から藍色の光を放ちながら、少女は凶暴に笑う。
「あたしはレフィアだ、なぜか知らんが回りからは【凶星】って呼ばれてる。良かったなー、自分たちを殺す奴の名前が判明して」
分割しようかと思ったけど結局1話に纏めた結果文字数が偉いことに。
前回の感想にてリグネストやそれに勝ったエルンスト化物だろうと言われましたが、2人が戦ったのは作中で10年以上前の事ですので、現在と比べれば弱いです。
まあそれでも当時既に最強と呼ばれてたのですが。