死神vs超人③
「――!!」
冷気の衣が包み込み奈落の底へと沈んでいく中、拘束から逃れようとザグバがもがく。
その力は凄まじく、少しでも気を抜けばあっさりと振り解かれかねない。
ただ締め付ければ良いだけのおれとは違い、周囲を満たす水によって膂力と呼吸に大幅な制限を受け、またおれの拘束によって力を発揮しきれない体勢を強いられ、挙句他でもないおれという重石を受けながらもそれだけの抵抗のできる膂力は驚異的だ。
だが現状は、辛うじておれが優っている。
加えて時が経過するにつれて増していく水圧もおれの味方となる。
本来は山中に存在する水場に引きずり込む予定だったが、ザグバの掘り当てたその水場の供給源ともなっていたこの水源は深度も水量もその水場とは比較にもならず、未だに底に到達しない。
より深いところに到達するほどのし掛かる圧力は増大し、ザグバの自由を制限していく。
あとはそれらと共にザグバの拘束を続けて、どっちが先に力尽きるかの根比べをするだけだ。
おれの水中下での最大活動時間はおよそ5分強。ただしこれは何もせずに居る場合の話であり、現状に当て嵌めた場合はもっと短くなるだろう。
おそらく浮かぶ事を抜きに考えても、あと3分持つかどうか。
ザグバの異常な膂力が肺活量にまで及ぶかどうかは不明だが、勝算は決して低くはない筈だ。
「――ッ!?」
足に走った苦痛にくぐもった悲鳴を上げそうになり、無駄な酸素の消費をしてなるものかと堪える。
そのまま視線だけ動かせば、大幅な制限を受けた狭い可動域の中で腕を動かし、ギリギリで届く左の太腿を指で掴んでいるのが見えた。
片手全体を使って掴んでいる訳ではないが、例え指だけであってもその力が異常な事に変わりはなく、その下にある大腿骨までが軋み悲鳴を上げるばかりか、圧力に耐えきれずに指の第2関節までが服を貫き肉の中に沈んでは、周囲の透明度の高い水に朱色を混ぜていた。
「ギ――ッ!!」
その痛みは強烈ではあったが、歯を食い縛って耐える。比較すればさっきまで受けていた痛みの方がさらに苛烈で、決して耐えきれない程ではない。
何よりこの状況が――この千載一遇のチャンスを逃せば勝ち目はないという状況が、襲い掛かって来る苦痛を凌駕した。
「――!!」
おれの拘束が少しも緩まなかった事に無駄だと悟ったか、ザグバが5指を抜き取る。
直後に冷たい水が穿たれた穴へと流れ込むが、その刺すような痛みが逆に心地良い。
対するザグバは先程よりも抵抗が若干弱まっており、天秤がおれの方に傾いて来ている事を教えてくれる。
左腕の動かせる範囲内では、肩を封じられている以上は今しがたの左太腿以外に手が届く事はない。
では右腕はどうかと言えば、左腕以上に可動域は狭く、その手がおれの体に届く事はない。
つまり、先程の攻撃がザグバが現状でできる最大の抵抗だった。
「……?」
そう結論を出した折に、視界に大量の朱色が混ざるのが映る。
その色合いはおれの左足の傷口から漏れ出したものでは説明が付かない程で、一瞬出処を把握する事はおろか、それが血であると認識する事もできなかった。
だがすぐにそれが紛れもない血である事と、そしてその血がザグバのものであるという事を把握する。
ザグバが自分の左胸に手を置き、その下の心臓を抉り出そうとするかの如く貫いているのが見えた為に。
「――ッ!?」
そんな事をする理由が分からず、自殺かという考えさえ脳裏に浮かぶ。
しかし程なくして、徐々に弱まっていたとは思えない程の、それまで以上の膂力を発揮して激しい抵抗を始めたザグバに、原理はともかくそうした理由については理解する。
そして状況を把握できないなりにそうはさせまいと力を込めるが、直後に左腕に鋭い痛みが走り、一瞬とは言え力が緩む。
その隙を逃さず、ザグバは嘲笑うかの如く内側からおれの拘束をこじ開け、振り払う。
直前に腕の筋を痛めていた事が、こんなところで裏目に出た。
それでもその痛みが、ザグバによって齎された外的なものならば耐えられた。
だが自分から力を込めた結果によって生まれた痛みは、ほんの一瞬、下手をすればそれよりも短い間とは言え拘束が緩まるという結果を生み出した。
ここが水中でなければあらん限りの罵声を吐き出し、目一杯の舌打ちをしていただろう。
「――ッハ!」
内心に渦巻くものを全て抑え込んで蓋をし、浮上していくザグバを追い掛けて自分も水面へと向かう。
そして新鮮な空気を味わう暇も惜しんで陸地へと体を持ち上げると、少し離れたところにザグバがいるのを確認して懐に手を突っ込み、そこに収まっていた最後のナイフを纏めて掴み投擲する。
碌に狙いを定めずに大雑把に投げただけのナイフの群れは、それでもザグバを射線上に捉えて飛ぶ。
1本は左の足首に、もう1本は左の肩に刺さる。
だが最後の首へと伸びていった1本は、苦痛を堪える為に食い縛られていたザグバの口が開いて受け止める。
「ぐ、あ、あぁ……!」
送られる力のままに顎が閉じられていき、受け止められたナイフが噛み砕かれて血混じりの唾液を生み出す。
しかしそれも、すぐに口内から溢れ出した蒸気の代わりに止まり消える。
いや、口だけではない。
ザグバが押さえている左手の下からも口内のそれとは比較にならない程の量の蒸気が上がり、同時に足首と肩口に刺さったナイフが独りでに抜け落ち、そこからも蒸気が上がる。
「ケハッ、ハハハッ……溺れたのは、初めての、経験だ……うあッ!?」
「何、だ……!」
蒸気が上がるのと合わせて骨が軋み、布が裂け、枯れ木の折れる音が響く。
それらの音に合わせてザグバがもがき苦しむような仕草を見せたのも束の間、すぐに何事も無かったかのように動きを止める。
濛々と上がっていた蒸気も急速に勢いを弱め、すぐに収まる。
その下に現れたのは、痛々しい傷跡の残る素肌。
「無能力者じゃ、無かったのかよ」
いや、仮に能力者であったとしても、その能力を運用させる魔力がない。
治癒魔法など言うまでもなく、人間にはあり得ない傷の治り方だった。
「お前が言うかよ」
ゆらりと立ち上がったザグバが、血の付いた顔で獰猛な笑みを作り出す。
「それにしても最ッ高だ! 本当に最高だ! ここに来て良かった、今日だけでこうも立て続けに好敵手と遭遇できるなんてな!」
上体を反らし、大仰に両手を広げて哄笑を上げる。
ひとしきり笑って満足したのか、落ち着きを取り戻して元の体勢に戻ったザグバの表情は平静そのものだった。
「感謝しようか。少しだけ、ほんの少しだけ答えが分かった気がするぜ!」
「ッ!?」
瞬間的に距離を詰められて拳が振り下ろされる。
慌てて転がって回避した直後に拳は岩盤を粉砕し、水の中へと沈める。
「クソッ――!」
立ち上がろうとして失敗し、膝を付く。
左の太腿に受けた傷は外傷だけではないようで、その下の大腿骨にも異常があった。
折れてはいないようで、おそらくは罅でも入ったか、いずれにせよ機動力を殺されていた。
「少しばかり、勝手が分からないな。一気にここまで来るのは久しぶりだからな」
「…………」
そう呟きながら振り返るザグバの姿は異常だった。
成長している――そうとしか言いようが無かった。
華奢である事に変わりはないが、身長も、手足の長さも、明らかに直前までよりも成長していた。
「再生……か?」
考えられるのはそれ。
傷は治癒したのではなく、再生させたのだ。新陳代謝の加速によって。
どうやってかは不明だが、全身の代謝機能を圧倒的な速度までに加速させた。
先程の蒸気は、それによって行われる傷の再生によって発生した熱を排出する為に発生したものだろう。
そしてそれに伴い、自身も成長した。
拘束を振り解いたのも、それが原因だろう。
例え華奢なままの体躯であろうとも、体が大きくなれば必然的に全体の筋量も増加する。
それが常人ならば微々たるものであっても、ザグバはその常識には当て嵌まらない。
それを知っていたザグバは、自ら代謝の加速を促して成長する事で膂力をさらに高めて振り解いた訳だ。
「さてね、俺自身も原理はよく知らないんでな!」
拳の砲弾。それも理屈で考えれば威力は増大しているのだろうが、そもそもの威力が凄まじい為に比較はできない。
ともかく、回避しようと無事な右足だけで地面を蹴って転がるが、その次、さらにそのまた次が続かなかった。
何とか立ち上がるも、その頃には既にザグバは距離を詰めて拳を振り被っており、ギリギリのタイミングで軌道を逸らす。
次撃の拳が放たれるよりも先に相手の腕を取り、肩に担ぐと同時に足を払って投げに移行するも、軸足の左足が負荷に耐えきれずに途中で崩れ、それを幸いとばかりに腕を振り解いてザグバは離れる。
そうしている隙に地面を踏み締めたザグバが、拳をおれに向けてではなく、地面に打ち下ろす。
先程のような地脈の解放という意図も溜めも無いその拳に疑問を挟む余地を与えられる事もなく、衝撃でたたらを踏んで後退したおれの背に硬い感触が伝わる。
「しまっ――!」
自分が岩に背を預けてしまったと気付き、硬直する。
我に返り慌てた時には、既にザグバの間合いに捉えられていた。
「終わりだ」
退路が完全に絶たれた状態で、顔面に狙いの定められた拳が引き絞られる。
それに対しておれは、両腕を交差させて打点の間に入れる。
負傷した左足では回避は不可能で、また逸らそうにも間に合わないと判断した結果だった。
いまの状態のザグバの拳が果たしてどの程度の破壊力を誇るかは不明だが、腕でガードを作ったまま衝撃に備えて構える。
直撃を避けて拳を受け切り、カウンターで喉笛を食いちぎる。それだけを狙う。
もはや策でも何でもない、相討ち覚悟の破れかぶれの一手。
それ以外に手は思いつかなかったが、それでも微かに存在する可能性に掛ける。
「…………」
時間が限界まで引き伸ばされ、結果が訪れるのが主観の中において先送りとなっている――と最初は思っていた。
だが仮にそうであったのだとしても、予想していた衝撃がいつまで立っても訪れないのが奇妙に思えて、構えていた腕を下ろす。
「…………」
既に踏み込みは完了しており、引き絞られた拳は打ち出される直前の瞬間を捉えている。
表情は凶暴そのもので、怒りも怨恨も微塵も混じっていない純粋な殺意を眼に宿し、肉食獣もかくやという歯を剥き出しにした笑みを浮かべていた。
そして瞳孔は間違いなく散大しており、降り注いでいる日差しや水面に反射している光が視界に入っている筈なのに、対光反射は起きていない。
ザグバは――【超人】ザグバ・バグドールは、紛れもなく死んでいた。
おれに対してトドメとなる一撃を放つ直前で、息絶えていた。
「ハ、ハハ――ハッ、ハッ、ハッ、ハァ……」
思い出したように急激に息が上がり始め、脈拍数がうるさいくらいに上昇する。
死の淵に立っていて、落ち掛けていたのを寸前で回避して、掴み取った生を貪るように、刻むように体が反応する。
「訳、分かんねえな……」
外傷がある訳でもなければ、疾患を抱えていたようにも見えない。
にも関わらず死んでいる理由は不明だが、1つ確実に言える事は、危ういところでおれは命を拾ったという事だった。
仮にザグバのこの死が不可避のものであったのだとしても、ほんの一瞬――半瞬でも息を引き取るのが遅ければ拳は打ち出され、その直後に死んだとしても慣性まま拳は進みおれを打ち抜いていた筈だった。
「ああ、クソ、これは降って湧いて来た幸運と言えんのか? いや、元を正せばこの状況に至るまでの過程が不幸そのものなんだがな」
背を岩に預けてへたり込む。
良い加減負傷した足で体重を支えるのがきつくなって来ていた。
「……負け、だな」
客観的な視点に立たずとも、それぐらいは分かる。
別に勝敗に興味はない。おれにとってこの戦いなど意味がないものであったし、故に負けたという事実を認識しようが、仮に勝ちであったとしても何とも思わない。
ただ楽しそうな、満足そうな顔のまま死んでいる事に少しばかり腹が立ちはするが。
「一昨日来やがれクソッたれ」
負けという結果に不満は無ければ、勝ち逃げする事にも不満もない。
だからこそ、2度とやりたくない。
紛い物のおれにはそれで良い。
作中でちょくちょく出て来る一昨日来やがれは、傭兵たちの間で使われているスラングのようなものという認識でどうぞ。
因みに実力差で言えば間違いなくザグバ>エルジンでした。