王都襲撃⑨
【俯瞰視点】の固有能力を持ち、それによって手に入れた極めて精度の高い情報を限られた顧客にのみ提供するシロが経営する店『ホワイトバー』の店内には、異様なまでに重苦しい空気が充満していた。
その空気の原因は、椅子に座りベタリとテーブルの上に突っ伏し、脱力の極地にある金髪のだらしない外見の男――大罪王の1柱であり【強欲】を司る魔族マモンである。
マモンはしばらく前にベルゼブブに呼び出されたは良いが、その後は帰還する事も無く、ましてや自分から動く事も無く、ずっと店内に居座った状態にあった。
1日の殆どを同じ位置、同じ体勢で過ごし、下手をすれば数日は微動だにしないままの事もある。
ハッキリ言えば邪魔で仕方がないのだが、生憎その事を直接言う事は、シロにもベスタにも不可能だった。
大罪王――それもベルゼブブと違い往来の力を失っているという訳でもなく、話を鵜呑みにすれば最強の力を持った魔族。
混迷期の折にはたった1柱で軍団を一瞬で全滅させ、国を滅ぼすという人智を超えた力の持ち主。
無論、過去の伝聞である以上は誇張も含まれているだろう。
しかし、火の無いところになんとやら。そういう逸話ができあがるだけの力を持っているという事は、確認するまでも無い事実なのだ。
そんな存在を相手に、邪魔だと正面から意見を言える者など早々居ないだろう。
居るとすればそれは、怒りに触れたとしても殺されないだけの実力を持っている者ぐらいだ。
「いらっしゃ――」
そこで扉に取り付けられてあるベルが鳴り、来客を知らせてシロが出迎えの言葉を口にし、途中で止める。
火傷した皮膚に覆われた眼が驚愕に染まり、ついでカウンターの下で素早くナイフを握り込み、いつでも構えられるようにする。
それは専属護衛であるベスタも同様であり、椅子に座したまま、いつでも扉を顕現できるように選択しておく。
「……む?」
そして非常に稀有な事に、外的要因が絡んでいるとはいえ、マモンが上体を持ち上げる。
「ほう……」
怠惰な雰囲気こそ健在だが、興味の色をマモンが眼に宿す。
身を起こしたマモンの顔のすぐ傍。そこには黒い不定形の靄が浮かび、突き出されていたナイフの切っ先を包み込み受け止めていた。
その眼がナイフを観察し、ついで直前に突き込まれる瞬間の映像を浮かべる。
「悪くない。喰らっていればオレと言えどもタダでは済まなかった一撃だ。人間にまだ、これほどの力を持った奴が居るとはな」
「おまえ……【絶体強者】!」
左手で順手にナイフを握り、右手はポケットに入れたまま自然体でナイフを突き込んだ体勢のまま立つのは、やや背の高い鍛え込まれた肉体に加え、鳶色の逆立った髪と鋭い眼の鷹のような相貌を持った男。
その圧倒的なまでの実力から、同業者からは【絶体強者】の通り名から呼ばれ恐れられ、かつては最強の座に君臨していた【死神エルンスト】と互角に戦い僅差で敗れた、現最強の傭兵リグネスト=クル・ギァーツだった。
「しかし、少しばかり頂けないな」
興味の色を徐々に薄くし、上体を少しずつテーブルへと傾けながら、ついでのような口調でマモンが述べる。
「店内に入って間髪入れずに攻撃とは、オレだったから良かったものの、もし受け止められずに喰らい死んだらどうするつもりだ。頼むから面倒事を進んで起こすような行動は、オレの近くでは謹んでくれ」
「何も問題ない」
視線も体の向きもマモンとは別の方向――シロの居るカウンターへと向けたまま、しかしナイフはそのままに既に上体を突っ伏したマモンに返答する。
「きちんと扉を開けて、ここに座っていたのがどんな姿の者で、どんな存在であるかをきちんと把握し、万が一でも人違いという事があり得るかどうかを頭の中で検証した上での行動だ」
「……なるほど。思考の加速……【超感覚】か」
褪せた興味の色を元に戻し、再びマモンが上体を持ち上げる。
「それはまだ持っていない能力だ」
少ない材料から導き出せる数多の選択肢の中から、的確に正答を導き出す。
「普通ならばお前のような魔族は、人間が討ち滅ぼすのが道理だろう。だから――」
「そこまでだ」
緊張と、そして恐怖を多分に孕んだ声音で、しかし勇気を持ってシロは述べる。
「ここはアタシの店で、ここではアタシがルールだ。この店の中では、一切の争い事は遠慮してもらう」
「…………」
スゥッと、音も無くリグネストの頭上に扉が出現する。
あとは思考1つで開き、頭上から扉の向こう側のものが降り注いで来るように。
「……なるほど、ルールに従うのはごく普通にして当たり前の事だな。確かカイン曰く、郷に入れば郷に従え、だったか。非礼を詫びよう」
リグネストはナイフを引き、腰の鞘に収める。
「依頼がある。是非とも売って欲しい情報がある」
「ザグバ――ガッ!?」
上空から高速で落下して来た何かと激突するという、予想などほぼ不可能な想定外の事態に眼を背けた――言い換えれば間を作り出してしまった事に気付いた時には遅く、ミズキアの胸には背後からナイフが突き立っていた。
「隙だらけだったな」
「お兄様!」
自分を呼ぶ声に、テオルードは素早くその場から退避する。
「【岩壁牢】!」
直後に、背後からナイフで刺され毒が全身に回り動きの止まったミズキアを包み込むように地面が隆起し、岩でできた直方体が完成する。
「【乱岩槍】!」
間髪入れずに再び地面が流動し、細長い円錐状の岩槍が四方八方からその直方体を貫く。
当然中に閉じ込められたミズキアが無事で済む筈も無く、直方体の中から貫いた岩を伝って赤い雫が流れ落ちてくる。
「大丈夫ですか、お兄様」
「後ろだ!」
背後から低空で滑空し突進して来る怪鳥を眼にしたテオルードが警告を飛ばすが、怪鳥は標的――テオルードの妹に体当たりする事も無く、彼女の付近で不自然に旋回しあさっての方向へと飛び去っていく。
「心配のし過ぎですわ」
「……そうだな。言われてみりゃ、全然嫌な予感はしなかったわ」
テオルードは周囲に存在する魔界原産の怪物たちに注意を払いながらも、視線を倒れたザグバの元へと向ける。
「しっかし、一体何が起きたんだ?」
「……彼は」
「いっ、てえ……な、クソが……」
フラフラと、そして濛々と全身から蒸気を上げながらザグバが立ち上がる。
立ちくらみを起こしたようにふらつき、数歩ほど歩くも、視線を自分に向かって落ちて来たものへと向ける。
「お前……【死神】か!」
自分に向かって降って来たものが、いまの【死神】――即ちエルジン・シュキガルであると認識したザグバの眼に、驚きが宿る。
そして続いて、それは困惑へ変貌する。
「何で死に掛けてんだ……?」
右腕が上腕の半ばから捻じ切ったような断面を晒して消失し、また背面部から肩に掛けて深い抉られたような傷が、また喉や首筋、胸部といった場所には穿たれたような円形の穴が開き、残る左手も裂けて原形を留めておらず、それらの傷口からは怪我の度合いに反して少ない量の血が流れていた。
そして何より、左の半身が肉や皮膚といった要素こそ留めているものの原形を留めておらず、それらを支えている筈の骨格がどういう状態にあるのかを容易に想像させていた。
そしてそれだけの怪我を負ったエルジンに、ザグバの困惑から来た問いに対して答える余裕は無い。
意識はおぼろげながら、周囲の状況を把握できる程度には残っている。しかし言葉を発する余力も無ければ、ましてや立ち上がる事もできない。
ただ落下して転がった体勢のまま、光の消え掛けた眼をして微動だにせずにいた。
「……まあ良い」
困惑の色も消し去り、拳を引いたところで舌打ちをして飛びずさる。
一瞬遅れて自由を得て、牢獄の中に閉じ込められて貫かれたミズキアを牢獄ごと呑み込んだダスクーリュの頭部が地面を穿つ。
「ミズキアめ、制御できなくなった以上は文句を言わせねえぞ!」
凶暴な笑みと共に地面を踏みしめ、蹴る。
残像が発生し、その場とダスクーリュのすぐ傍の2箇所に僅かな時だけザグバが存在するという光景を生み出し、握り締めた拳を直接ダスクーリュへと打ち込む。
「キュァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
胴体に拳を喰らったダスクーリュが奇声を上げ、えずく。
卵を吐き出すのと同じ要領で大口を開き、喉奥から吐き出したのは辛うじてミズキアと判別できる死体。
しかしその死体も、すぐに再生を始めて傷1つ無い健康体へと変じる。
「ああクソッ、最初ので2度、その後に食われて還元されかけて5度は死んだぞ!」
「自業自得だ」
自分の拳を受けながらも死ぬ事無く、苦痛で身を捩らせて苦しむだけのダスクーリュに対して好戦的な笑みを向ける。
しかしそれもすぐにしまい、視線は倒れたまま動かないエルジンへ。
「直接的恨みとするには言い掛かりにも近いが……」
「んあ、ありゃ【死神】のガキじゃねえか。何だって……いや、降って来たのか? だとしても何で?」
疑問を呈しながらも状況を正確に把握し、ザグバの意図を汲み取り、視線は周囲に展開するティステアの勢力に属する者たちに向けて牽制する。
それに唐突な事態の推移に追いつけないのもあって、新たに現れたテオルードの妹も含む3人は傍観する。
「戦いの楽しみに水を差されたのも事実だ。見る限りもって数分の命だが、俺が直接トドメを刺してやる」
「いや、それは遠慮願おうか」
自分の間合いまであと1歩というところで、滅多に見せない強張った表情を見せてザグバが飛び退く。
その反応に視線をミズキアが向けるよりも早く、ミズキアの左肩より下が消失する。
「はっ、あ……?」
片足だけとなって転倒して1度死んだミズキアが見たのは、赤い髪の中性的な容姿の人物だった。
「おい、ちょっとまて、あれまさか……!」
完全に置いてけぼりとなっている他の面々を無視して、ミズキアが復活し、何かに気付いたように恐れ戦いた表情を浮かべる。
「誰だ、あんたは……?」
「ボクは名前はシュマだ。キミは……ベルフェゴールの検体か。珍しい偶然もあったものだね」
強張らせた表情はそのままに、しかし凶暴な笑みへと少しずつ変えていく。
「敵か?」
「キミがそこの彼と敵対するのならば、ボクは敵となろう」
「そうかよ、なら敵だな!」
嬉しそうに咆哮し、跳躍して拳を振り被る。
そして自分の拳をシュマ――アスモデウスが正面から受け止めたのを見て、ますます嬉しそうなその笑みを深める。
「ハハッ、俺の拳を受け止めやがった! マジで最高だ!」
「まてザグバ、そいつは――」
言葉を最後まで言い切る事もできず、先ほどと同様に背中にナイフを突き立てたテオルードを睨む。
「テ、メェ……!」
「まるでどんな事態か分からないが、オレの勘があれは敵じゃないって言っている。なら話は簡単だ」
裏拳を放つが、テオルードはそれを躱そうともしない。
代わりにミズキア自身の拳が、テオルードに当たる事を避けるかのように逸れる。
「残念ですが、私はお兄様ほど話を簡単にはできないのですが」
「チッ、レグート!」
同じ手は喰らわないと【岩壁牢】を回避し、ゼインの手刀から逃れたミズキアが怪鳥を自分の下に呼び戻そうとする。
しかしその前に、怪鳥は主の下に馳せ参じようと跳ぶ途中で黒い不定形の靄に包まれる。
「【闇狭窄界】」
アスモデウスがザグバの拳を受け流して投げ飛ばしながら、指を怪鳥を包んだ靄へと向けて言う。
次の瞬間、まるで中で怪鳥が暴れていたかのように形を変えていた靄が動きを止め、中から血を瓦礫の上に零す。
さらに直後の、復活したダスクーリュの襲撃に対してアスモデウスは腕を振るい、どういう原理か地面に押し込み動きを封殺する。
「実に勿体無い。あの種はベルゼブブが乱獲したお陰で個体数が少なくなっていたのだけどね」
「闇魔法……まさか、魔族ですの!?」
行動に反した言葉を述べるアスモデウスに対して、テオルードの言葉が畏怖交じりに叫んだ言葉に、アスモデウス以外の者たちが驚愕の表情を浮かべる。
とりわけそれが強かったのがザグバで、次の瞬間には元の嬉しそうな笑みに戻る。
「そうか、魔族か。どうりで強い訳だ」
「納得しているところを悪いが、いまのボクはキミに構ってはいられないんだ」
「つれない事を言わないでくれよ!」
ザグバが畳み掛けようとした瞬間、アスモデウスの姿が陽炎のように揺らぎ消える。
「なッ……!」
そして次に現れたのは、倒れたエルジンの傍だった。
「キミの言う通り、いまの彼は相当に危ない状態なのでね。まあボクが触れている場合はその限りではないが……どっちにしろ状態は変わらない。だからお暇させて貰うよ」
「待てよ!」
ザグバが追撃を掛けようとするが、その前にアスモデウスはエルジンを抱き上げて消える。
結果ザグバの拳は空を切り、明後日の方角に破壊を撒き散らす。
それに興味を示す事も無く、逃げたアスモデウスが居た場所を実に残念そうに見ていたザグバが、反転して蹴りを放つ。
「危ねえ! 意識の隙に入り込んだ筈だが、どうして分かった?」
「理由はねえよ。ただ、お前ならそうするだろうと思ってやっただけだ」
蹴りによる衝撃波もやはり不自然に逸れ、その光景を冷静にザグバは観察する。
「種の主は……そっちのお前の妹か」
「オーリャ!」
ミズキアもザグバと同じ結論に至ったか、オーリャと呼ばれた少女へと一斉に掛かる。
すぐさまテオルードも後を追うが、先に動き出したザグバの方が早い。
「おっと!」
しかし間にゼインが割って入り、最悪の事態は回避される。
「そっちの攻撃は通るのかよ!」
拾ったナイフの刺突が逸らされたのにも関わらず、カウンターの手刀は逸れる事無く割腹した事に苛立ちを露にしながらも、後退して喉を掻っ切る。
「礼を言いますわ」
「先ほど命を救ってくれた借りを返したまでだ」
「あら、何の事ですの?」
ゼインの言葉に、表情を変える事無く答える。
「……それならそれで良い」
「ええ、オーヴィレヌとウフクススですもの。共闘ならともかく、貸し借りのやり取りなどあり得ませんわ」
「……ザグバ。一端早い者勝ちは止めにしようぜ」
ザグバにミズキアが提案を投げ掛ける。
「まず種の大元を絶たない限り、埒が開かねえぞこれ」
「一理あるな」
基本的にはどちらも自分の都合を優先するタイプだったが、必要な事が何なのかは正確に見極められる判断力を持っていた。
「もっとも、厄介な防壁を突破する必要がありそうだが」
「やるっきゃねえだろ」
互いに了承の意を示すように頷き合う。
一方の相手側も2人の狙いを理解しており、少女を背後に進み出る。
「残業代は支払われそうにないな」
「本当、最悪だな。面倒なこと極まりねえ上に手当てが付かないなんてよ。こんな事をする為に当主になったんじゃねえぞって話」
予期せぬ事態が降り掛かりはしたものの、仕切りなおしとばかりに向かい合う。
しかし両者が動き出す前に、再び邪魔が入る事になる。
「ガハッ!?」
ミズキアが眼を極限まで見開き、背後から自分の胸を貫いて来た真っ白な腕を見下ろす。
「がぁ、あああああああああああああああああああああッ!!」
倒れる事もできず、しかし許された範囲で身を屈めて苦鳴の叫びを発する。
傷は明らかに致命傷で、即死してもおかしくないもの。
にも関わらずミズキアの意識は途切れる事無く、加えてそれまで何度となく死んでも見せた事の無い、異常とも言える反応を見せていた。
「なッ、いつの間に……!」
ザグバもまた、それを驚愕の面持ちで見る。
直前までどころか、ミズキアが声を漏らすまで、そこに誰かが居るという事に気付く事もできなかった事に対して。
「楽しそうな事をやってんじゃねぇかヨ」
実に機嫌の良さそうな、しかし奇妙なイントネーションの言葉でミズキアを背後から貫いたまま、ザグバ以上に凶暴な笑みを浮かべて言う。
「オレも混ぜろヨ」
ベルゼブブ参戦。
エルジンとは擦れ違いになりましたが、もし鉢合わせていたら一緒に居たアスモデウスとも鉢合わせる事になってトンでも事になっていた為、周りの人たち的には幸運だったり。