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自己暗示

 



 止まっていた世界が色を取り戻して動き始め、ようやくそれに伴って自分の体が震え始める。

 本当の恐怖に直面した時、人は震える事もできないという事を初めて知った。


「笑えよ」


 もう御伽噺に出て来る魔王の正体はこの人なんじゃないかって本気で思うぐらいの殺気を向けて首に剣を添えて来ていたエルンストが、凶悪極まりない人相でそんな事を言ってくる。

 正直言って、いまの状況で笑うには精神を崩壊させる以外に方法がない気がする。


「どうした、笑え。心から笑え。心の底から楽しそうに笑え。そしてそう見えるだけじゃなくて、実際に心の底から楽しめ。強くなりたいんだろう? なら笑えよガキ」

「そ、そん……」


 嵐は過ぎ去ったというのに、それが分かっているというのに震え縺れる舌を必死に動かす。


「そんな事を言われても、笑える訳が、ないだろ……」

「反論してんじゃねえ」


 右頬を殴られる。

 エルンストからすればそれほど強くしたつもりは無いにしろ、直前まで死の恐怖に晒されて碌な身動きもできない状態にあったおれは、当然だが受身も取れずに直撃して無様に地面を転がる。

 口の中に血の味が広がり、砕けた奥歯が口内を蹂躙する感覚が気持ち悪くて吐き出そうとするが、脳が揺れたのか起き上がることもままならない。


「笑え。痛がってないで笑え」


 また要求が飛んでくる。

 正直言って無茶振りだと言いたかったが、それでどうにかなる事もないのは分かっているので、言われたとおり無理やりにでも笑顔を作る。

 殴られた頬が腫れている為にかなり不恰好だったが、それでも辛うじて笑顔を浮かべられた筈だった。


「硬いんだよ」


 腹部に爪先が埋まり、思わず胃の中身を吐き出しそうになって慌てて堪える。吐けばさらに追撃を喰らう事ぐらい理解しているからだ。

 必死にせり上がってくるものを飲み込んで顔を上げると、つまらないものを見る眼でエルンストがこっちを見ていた。


「笑えよ。どんな時でも笑え。恐怖を感じている暇があったら笑え。命が危険に晒されている事を楽しめ。命を危険に晒す事を楽しめ。

 命を奪う事を楽しめ。相手を蹂躙する事を楽しめ。痛みを感じる事を楽しめ。腕をもがれる事を楽しめ。足を奪われる事を楽しめ。光を失う事を楽しめ。腹を捌かれる事を楽しめ。はらわたを引き摺り出される事を楽しめ。骨を砕かれる事を楽しめ。強者を捻じ伏せる事を楽しめ。敵を屈服させる事を楽しめ。闘争という行為に悦楽を見出せ。

 闘争は楽しいぞ、恐怖など感じている暇すら無くなる。楽しんで、笑って、そうしているうちに全部が終わる。恐怖を感じる事など無くなる」


 だが、勘違いするなと付け加える。


「恐怖を感じなくなる事はあっても、失う事はするな。あくまで恐怖を悦楽で塗り潰すだけに留めろ。そうでなきゃ、大事なところで引き際を見誤る」

「それ、違い、あるの?」

「あるさ。必要な時でないのに湧いて出て来るのは邪魔なだけで、その邪魔なものだけを排除するっていう事だ。本当にどうあがいても自分が勝てない相手に直面した時に、邪魔を排除した必要な恐怖というのは自然と湧き出て来る。それは決して抑えられるもんじゃねえ」


 その言葉は簡単に理解できた。

 ほんの少し前まで、その恐怖を体験していたからだ。


「だから、塗り潰すだけに留めるんだよ。切り取ったものを保管して、さらにその上から悦楽という蓋をする。そうして両立させるのが理想だ。

 恐怖を感じた事が無い馬鹿は2流で、恐怖を闘争を楽しむ事で捨てられる奴が1流だ。だが、そのさらに上――超1流の域に達するには両立させられなければ辿り着けない」


 起き上がるのに手間取っているおれの腕を掴んで、立ち上がるのを手伝ってくれる。

 珍しい事もあるもんだと思った瞬間、足払いを掛けられて拳を鼻に叩き込まれて地面に倒される。


「笑え」


 鼻での呼吸が不可能となり、眼前に火花と星が瞬いたのを他人のように感じていると、上からそんな言葉が降って来る。

 痛みが遅れて来るなと理解した瞬間、その襲って来る痛みで顔が歪む前に無理やりに唇の端を釣り上げて見せる。


「そうだ、そうやって笑え。どんな無理やりな理屈でも、こじ付けでも良いから楽しむ笑みを浮かべろ。そうすれば勝手に気持ちなんてものは後から着いて来る」


 例え嘘でも良い。笑っているうちに真に変ずるだろうから。

 そうだ、いまのおれはどうだろうか。

 自分に笑えと言い聞かせる。

 笑え、笑え、笑え。


 理由なんていくらでもある。

 目標を達成する、それを目標に取り掛かる時の高揚感。それを感じ取って浸れば良い。

 目標であるエルンストという高峰を超える為の取っ掛かりとなる最初の1歩、それが間近に迫って来ている。笑えない筈が無いだろうが。


 ほら、こんなにも簡単だ。

 別に今回のでエルンストを超えられる訳じゃないのは分かっている。だが、それでもどこかで踏み出す必要があるのも理解していた。

 そのチャンスがこんなにも早く巡って来た。気分が高揚しない訳が無いだろう。


「……エルンストには、数え切れないほど負けて来た。何度も肉は切られたし、何度も骨は折られたし、何より何度も絶望を直視させられた。

 でも、それが逆に有難かった。自分もそうなれる、そんな希望に転じるし、なにより生きている限りそれらの経験は活力となり糧とるからだ。

 お前はどうだ、ルシファーの成れの果て。エルンストに敗北して、何かを学んで糧にしたか?」


 ガサガサと草木を掻き分け、時には薙ぎ倒して道を作り、アスモデウスが成れの果てと評し、かつてエルンストが屈服させて搾取した【高慢】の大罪を司った悪魔が姿を現す。


「ハハッ、凄いな、本当に再生してやがんの。つか、細部は変化してるな」


 硬質の皮膚が形成する甲殻は、全体的により直線的となり、凶悪さを増しているだけでなくより頑丈そうな印象を受ける。

 左の肩から生えていた自立行動する蔦は、先端がそれぞれ鋭利な刃となっている。植物のくせに先端だけが金属の光沢を持っている事に、激しい違和感を覚える。

 変化しているのはそれぐらいだが、その前の姿と比べて、より戦闘的な姿となっていた。


 対しておれはどうだ?

 武器も薬もなく、使えるのは右眼ぐらい。おまけに血が足りていない気がする。アスモデウスは少しと言っていたが、一抱えもある太い注射器一杯の量は断じて少しじゃない。

 だがそれでも体は十分に休まっており、精神的には最高だ。

 何より、勝算がある。いや、勝算が無いならそもそも戦いに挑んだりはしない。いまのおれの中には、きちんと悦楽と恐怖が両立している。


 禍を転じて福となすか、それともそれをそのままに災禍として受けるか、どちらに傾くかは人それぞれだろう。

 だがどちらも共通して、実際にその分水嶺に立ち会った時にどちらに分かれるかを決めるのは、運やその他の要素も絡めど最終的には腕っ節が物を言う。

 ならば、今回のこれを福としてやれば良い。その為の手段などいくらでもある。


 自分よりも強い相手と出会った時に、人間には数多の選択肢がある。

 例えば笑顔で近付き、手を差し出して握り合いながらも反対の手で相手の頬を殴り飛ばしてやれば良い。

 例えば挑発して追いかけっこを繰り広げ、落とし穴に落としてやれば良い。

 例えば土下座して、許しを請いながら腹の下に隠したナイフを突き込んでやれば良い。

 例えば何度やられても立ち上がり、ただひたすらに喉元を追い掛けて喰らい付いてやれば良い。

 それを野蛮だと罵倒するならば、好きなだけ罵倒するが良い。だがそれこそが人間で、人間の本質こそが野蛮なのだ。

 それに蓋をして眼を逸らしているから、他人は罵倒するのだ。鏡で醜い自分を無理やりに見せられるのが嫌だから、やめろと声高らかに拒絶するのだ。

 どちらにせよ、勝てば官軍という言葉の通り、勝者こそが全てを決定しシナリオを書き上げ改竄する権利を持つという真理は変わる事が無い。


 さて、ここまでの全ては、あくまで人間が相手の時の話だ。


 決して折れる事の無い不屈の闘志?

 絶対に砕ける事の無い強靭なる精神?

 何者も寄せ付けない鋼の肉体?

 誰もが眼を剥き驚嘆する奇策?

 整然と統率された地を覆い尽くす程の軍団?

 そんなもの、等しく意味が無い。道理を外れた圧倒的なまでの暴を前に、人智を超えた超次元の個を相手に、そんなものなど紙屑同然でしかない。

 そして何よりも恐ろしいのは、その圧倒的な暴を備えた個という存在は、当たり前のように唐突に、そして誰も予想だにしない方向から降って湧いては蹂躙していくという事だ。

 天の災害のようなものだと思ってみれば良い。それに抗うことなど誰にもできず、ただ諦めて受け入れるより他は無い。それ以外の選択肢を、誰も持つ事ができないのだ。

 ただ1つ、同じように道理を外れた者以外には。


 目には目を、歯には歯を。

 道理を外れた者に対しては、同じように道理を外れなければ太刀打ちなどできはしないのだ。


「どうだ、ルシファー。お前の目から見て、おれは道理を外れられているのか? いまのおれとお前は、果たして同類足り得ているのか?」


 服を破く。アスモデウスから借り受けたものだが、どっちにしろ戦闘に入れば無傷では済まないだろう。精々が遅いか早いかの問題でしかない。

 そうして細長く破いたそれを、閉じた左目を覆うように巻きつけて固く結ぶ。間違っても、左目が光を捉える事が無いように。


「優に20以上はあるな。やっぱりなりが人間と違うからか? それとも、外付けで色々と追加されているからか? どっちにしろ、経路も仲介地点も存在する事に変わりは無いがな」


 拳を構える。中指の関節を突き出した、一本拳に。

 狙うのは【無拳】。エルンストが考案した、人間ないし人型の敵を想定した、無能者による無能者の為の、無能者だけの技。

 人でなければ魔力が循環する経路も、その経路が大量に重なる仲介地点の数や位置も、そして緊急時に開設される臨時経路も、それら全てが違う。

 違うからこそ、人間以外を相手に【無拳】は通用しない。エルンストですら、それを成す事はできなかった。


「だからどうした」


 できなかったのならば、おれがやれば良い。

 エルンストが持たず、おれが持っている絶対的アドバンテージとして右眼がある。

 おれなど比較対象にもならない、言葉で言い表す事すら恐れ多い程の精度を持ったエルンストの魔力探知能力であっても、魔力を視覚で捉える事はできない。

 その右眼を駆使して、攻撃を見切って懐に入り、正しい手順を模索すれば良い。

 そして成功すれば、その点においてはエルンストを上回れた事になる。俄然やる気が湧いて来る。


 おれは人間だ。種族そのものからしてまで道理を外れる事はできない。

 だが腐っても人間だ。その差を人間は、どんな手を使ってでも埋められる筈だ。

 ならおれも埋めてやろう。埋めて【無拳】を決めてやる。

 ベルにも効いたんだ、こいつに効かない筈がない。人間よりも魔力の浸透率が圧倒的に高い魔族に対する【無拳】の効果は、人間の比じゃない。決めれば大罪王であっても屈服させられる。

 そうして徹底的に破壊して殺して、再生するまでの間で時間は圧倒的に稼げるだろう。

 アスモデウスが準備を終えるまで生き残れば、おれの勝ちだ。


「掛かって来いよ、化物」











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