エルンスト⑦
無敵のヒーロー。
絶対の勇者。
最強の戦士。
そんなものなんかは、存在してなくて。
そんな当然の事を、おれは理解していなかった。
「その傷、どうしたんだよ。何で、死に掛けなんだよ……」
「あぁ、よりにもよって、下手踏んじまってな……」
血、血、血。
赤くて鮮やかな血が、全身に刻まれた傷から留めなく溢れている。
その傷も、もう手遅れのもので。
エルンストがおれに授けてくれた知識が、否が応でもその事を自分に教えやがる。
「馬鹿、言うなよ。あんたが下手を踏むようなタマかよ……」
「テメェ、俺に変な幻想抱いてねえだろうな? 完璧な人間なんて、居やしねえんだよ」
最強は居るがなと、笑って言う。
おれは笑えないよ、エルンスト。
「おかしいだろ。だってあんた、楽な仕事だって言ってたろ。だからおれは別の仕事でも受けてろって、そう言ってたろ!」
雨、雨、雨。
冷たい水が、容赦なく体温を奪う。それが一層、エルンストが死に向かうのを早めていた。
そんな事を冷静に理解できる自分が嫌だった。
「楽だったっての、仕事はな。言ったろうが、下手を踏んだってよ」
「訳分かんねえよ! 下手を踏んだくらいで、何であんたが死ぬんだよ! あんたは最強になるんだろうが! こんなところで死ぬタマじゃねえだろうが!」
脳裏を過ぎる、ある可能性。
それを認めたくなくて、今までずっと隠していた本音まで口から零れる。
「あんたが死んだら、あんたを最強だと思って憧れて目標にして、追って追い越そうとしていたおれは、一体何だったってんだよ!」
「分かってる答えを聞くな。テメェは生意気なクソガキで、出来の悪くない俺の弟子で、そして無能者だ。教えた筈だぞ」
何だよ、それは。
それは酒の席の戯言の筈だろうがよ。
「んでもって、だからこそ俺は死ぬのかもな……」
咳き込んで、大量の血塊を吐き出した。
頼むから、もう喋らないでくれ。
その先を、おれに言わないでくれ。
「テメェの呼び寄せた災厄が、とうとう俺に牙を剥いたのかもな」
「エルンスト!」
それじゃあまるで、おれが殺したみたいじゃないか。
それじゃあまるで、おれのせいで死ぬみたいじゃないか。
「っざけてんじゃ、ねえぞ!」
「ッ!?」
怒声というよりも、咆哮。
弱りきった手負いの獣とは思えぬほどの、圧倒的覇気。それに思わず気圧される。
「俺はテメェに殺されるほど弱いのかよ! テメェのせいで死ぬほど弱いのかよ! 違うだろうが、なあ!? 俺は、最強なんだろうが、テメェの中じゃよ!」
「…………」
そう、最強だ。俺の中では最強なんだよ。
世界中の誰もが違うと言っても、間違いなくあんたが最強なんだよ。
「何で、おれは無能者なんだよ。何で、無能者になっちまったんだよ……」
そうすれば、あんたがこんなところで死ぬ筈がなかったのによ。
【願望成就】の能力が残ってりゃ、そうでなくとも水属性の魔法が使えりゃ、こんな怪我は治してみせるのに……。
「そりゃ決まってんだろ。俺と会う為だろうが! エルジン=ラル・アルフォリア!」
「ッ、何で……」
その名前を名乗った事は、1度もなかったのに。
その名前に行き着くような手掛かりになる物など、一切身に付けてなかったのに。
その名前の少年は、存在しない筈なのに。
「ああ? ちょっと考えれば、テメェが良い所の生まれだって事なんざ、すぐに分かるだろうが。年不相応の立ち振る舞いと知識を身に付けてたんだからよ……」
だからって、分かる筈がない。
存在すら抹消された奴の事まで、普通は辿り着けたりしない。
「どうだって良いだろ、そんな事。テメェはエルジン・シュキガルだ。文句あんのか?」
「……無いよ」
ある訳無いだろう。
「あんたはおれを拾ってくれた! おれを育ててくれた! おれに知識を授けてくれた! おれに戦い方を教えてくれた! おれに目標を与えてくれて、常に憧れであり続けてくれた! そのあんたが付けてくれた名前に、文句なんかある訳がないだろう!」
「なら、黙ってろよ……」
また、派手に吐血する。もう出血量から考えても、とっくに死んでいる。死んでない方がおかしい。
でも生きている。まだ踏み止まっている。まだエルンストは死んでいない。
「あぁ、クソッ。目が霞んできたな。それに寒いし、手足の感覚もねえ。おい、俺はちゃんと剣を握れてるかよ?」
「……ああ、握れてるよ」
剣身は半ばから折れていて、激戦を物語るように痛んでるけど。
それでもあんたは、剣を手放してないよ。
「そうか、安心したぜ。20年もずっと一緒に居たんだ、最後まで一緒に居たいもんな……」
おれだって一緒に居たい――そんな事は言えなかった。
それがどういう意味で、どんな反応が返ってくるかなんて、簡単に想像が付いた。
「……悪いな、約束果たせなくて。それに、目的、達成できなかったな……。何か、悔しいなぁ、クソォ……」
「何言ってんだよ。あんたは、約束を果たしてくれたよ。目的だって達成できてたろ……」
おれに生き方を教えてくれた。
おれに全てを教え込んで1人前に育ててくれた。
もうおれ1人でも生きていける。だから、大丈夫。
「だから、安心してくれよ……」
「できねえよ、んな顔見せられたらよ……」
分かってるよ、泣いている事ぐらい。
でも、笑えないんだ。笑おうとしても、上手くいかないんだ。
「……エルジン、耳を貸せ。1つだけ、教え忘れた事がある。もう声を出すのも億劫だわ」
フルネームで呼ばれる。そう言えば、きちんとそう呼ばれたのはこれで2回目だっけ。
顔を近づける。もう目の焦点すら合っていなかった。
「生きろ」
短くて、単純な言葉。だが不思議と、おれの体を揺さぶった。
「生きろ。どんなに醜くても、見っとも無くても、最後まであがき続けろ。2回目に会った時みたく腑抜けた顔は、2度とするな。どんな手を使ってでも、どれだけ罵られて謗られようが、生き延びろ」
「……ははっ、何だよそれ。あんたが実践できてねえじゃん」
「だからこそだ。だからこそ、テメェは生きろ。つっても、俺の分まで生きろって意味じゃねえ。むしろ勝手に俺の人生を背負うな。俺は許可しない。ただ単純に、エルジン・シュキガルとして、与えられた――いや、掴んだ生をできる限り全うし続けろ」
だんだん声は擦れていく。最後の方は、聞き取る事すら困難だった。
だが、全部を聞き取った。1言1句、胸の奥に刻み込んだ。
「なあ、エルジン。テメェと会うまでの俺の人生は、悪くなかった。んでもって、テメェと会ってからの人生は――」
消える。命の炎が消えると、風前の灯だと分かった。
今エルンストは、消える寸前で大きく燃え上がった状態だと、理解できた。
だからおれは笑う。涙なんか止めて、笑ってみせる。
「最高だった」
そして、鼓動は止まった。
エルンストは――エルンスト・シュキガルは、そして【死神エルンスト】は、死んだ。
死体は、初めて出会ったティステア近辺の丘の上に埋めた。その際に、愛用していた大剣も一緒だ。
壊されないよう頑丈な素材で墓石を作って、その上にエルンストが好んで呑んでいた酒を掛ける。
煙草を咥えて、火を付ける。肺が煙で満たされて、激しく咳き込む。
「煙い。こんな煙たいの、よくあんたは吸ってられたよな……」
咳は一向に止まらず、眼に染みて涙が滲む。
とても美味いとは言えない味だった。
だが、悪くは無かった。