高潔なる魂
そいつと昔からの腐れ縁であるという彼は語る。
「あいつは昔から主体性の無い奴だった」
そういう者は、誰もが生涯において1度は遭遇するほどに居る。
だが彼曰く、そいつはそれが輪を掛けて酷かったらしい。
「食事をするのも周りがそうするから自分もそうする、寝るのも周りがそうするからそうする、そんな当たり前の事すら、そんな風にイチイチ理由をつけてやるような奴だ。
驚くべきは、それが今も続いているって事だ。仕事を請け負って実行するのだって、別の奴が自分の立場だったらそうするからそうする。そういう風に思って考えて行動するんだよ」
だが、驚くべき事と恐ろしい事は同一ではないらしい。
「あいつの恐ろしいところは、それが実行できるって事だ。大衆における普通ならそうするっていう、所謂大多数派に支えられている最も浸透している正義と呼ばれる概念に沿った当たり前の行動ってのは、大抵が理想論だ。普通ならそうするって分かっていても、いざ実行するにしても思うようにいかないのが世の中ってもんだからな。
ところが、あいつは変に能力があるお陰で、その理想を現実のものにしちまう。
仮の話、御伽噺でよく出て来る魔王とかいう存在が現れたとしたら、普通ならそれを退治するべきだって誰もが考えるだろ? でも、それを実行できる奴はそうは居ない。セオリーに則れば魔王の元に辿り着くのも難しければ、魔王も恐ろしいまでに強いからだ。
でも、あいつはそれを実行する。周りがそうするだろうからって理由で自主的に魔王のところまで行って、あっさりと退治して、そんでもって当たり前の事をこなしただけだっていう感慨すら抱かずに平然と首を持って帰る。そういう奴なんだよ」
それのどこが恐ろしいのか、そう尋ねると彼は笑った。
同情するように、哀れむように。
「そうだよな、いくら口で言っても伝わるもんじゃねえ。実際に顔を合わせて悟らない限りな。
でもよ、考えてもみろよ。確固たる信念も持たず、かと言って人並みの人らしさってやつも持ってない、だけど力は物凄い存在って奴が内包する恐ろしさってやつをよ。
正義感も持たなければ、かと言って大衆が悪と断じるような思想も持ってない。そのくせ力だけは持っている。そんな立ち位置すらあやふやな奴が、自分の意思ではなく周囲の意見に流されるがままに動く事がどんなに恐ろしいかは想像できるだろ?
それはもはや、制御不可能の兵器と同じだ。それも超弩級のな」
確かにそう考えれば、恐ろしいように思える。
それは彼に言う通り制御不能の兵器か、そうでなくとも自然災害の類に分類されるような存在だ。理不尽で防ぎようがなく、諦めを持って受け入れるしかない災厄。
それがそいつという存在だと言いたいらしい。
「だけどな、それさえもあいつの本質ってやつと比べれば些少な問題でしかないんだよ。いま述べたのは確かに恐ろしい部分だが、それでも1番じゃない」
正直それだけでも十分に恐ろしいという事は伝わったのだが、彼曰くまだまだ他にも要素はあるらしかった。
「最初も言ったとおり、あいつは主体性が無い。それがあいつのスタイルであり、そして最も恐れるべき本質を形成させた大きな要素だ。
あいつにとっては、自分の周囲のものは全て無関心でいられるものだ。いや、無関心でしかいられないと言うべきかね。
自分以外の全てが、主体性の無い自分に対して行動指針を示してくれる存在以上でも以下でもなく、究極的には標識と同じにしか見えていない。自分自身の意見というものを持ち合わせず、喜怒哀楽といった感情も持ち合わせてはいるものの、それだって他者に対して同調する形でしか感じる事ができない。普通ならここで喜ぶんだろうなとか、普通ならここで怒るんだろうな、普通ならここで同情するんだろうなとか、普通ならここで泣くんだろうなとか、そういう理屈を意識の有無を問わずに辿って抱き表に出す。そうする事でしか自分を周囲に対して示せない。
周囲に居るのがどこの誰で、自分にとって客観的に見て関係のある者であっても、それを自身はどこまでいっても他者としか認識していない。むしろ、他者としてすら認識していない。ただの障害物ですらなく、ただある物として理解し、それを視界に収めて認識しながらも感慨も抱かずに動く。
絵画であると思ってくれれば良い。いつ見ても完成しているようにしか見えない、でも永遠に完成する事のない絵としてな。
あいつは絵であり、同時に絵師でもある。自分が行動する度に絵画には加筆されていき、完成度が増していく。その加筆される事でしかあいつは活力を得られず、だが加筆するには指針が無くてはならない。そういう存在だ」
何だそれは。
本当にそんな人間が現実に居るのだろうか。
それがどれほど異常な事かは、想像するに余りある。
「あいつの事を絵画と形容したのはな、その本質を見ただけで強制的に理解させられるからだ。
例えば優れた芸術品を見ると、どんな有象無象であっても何かしらの感慨を抱くだろう? そしてその芸術品の完成度が高ければ高いほど、抱く感慨は共通している。
それと同じで、あいつの事を見ていると理解するまでの期間に差はあれど、その本質を無理やりかつ高圧的に、そしてどこまでも暴力的に理解させられる」
なるほど、だからそう呼ばれている訳か。
確かに想像するだけであっても、そもそもそんな存在を人間と呼ぶ事などできはしない。
「だからオレたちはあいつを化物ないし怪物と呼ぶのさ。根底にあるのは全部同じ、理解させられながらも理解しきれない恐怖を下敷きにしてな」
年齢に近い程の歳月を共にしている彼であっても、その全容を理解しきる事はできないらしい。
「ところがだ、オレの知る限りにおいて、ただ1度だけあいつが主体性を持って人間味のある表情を浮かべた事がある。
確かに言い得て妙だと思ったぜ、オレはな。あの怪物にそんな事を抱かせられるのは、それこそ神でもないと無理だからな。神と言っても【死神】なんだろうがな」
「……ルシファーは、死んだ筈じゃなかったのか?」
「まさか、それこそあり得ないだろう」
襲撃して来た怪物をアスモデウスが【高慢王】の成れの果てと形容した時に率直に抱いた感想を口にすると、むしろアスモデウスの方が予想外の事を聞いたと言わんばかりに驚いて否定する。
「キミ、何か勘違いしていないかい? 確かにキミの師はルシファーを倒しはしたが、殺してはいない。
第一考えてもみたまえ、キミの師がいくら人間離れしていても、ボクたち魔族じゃあるまいし、死体からどうやって搾取するというんだい?」
「それは……」
言われてみれば、確かにそうだ。
エルンストからはルシファーを倒したという事も聞いていたし、大罪王の【高慢】の席が空位であるというのも聞いていた。
しかし、殺したとは冷静に思い返してみれば1度も聞いていなかった。
「まあ、死に掛けだったのは事実だろうけどね。そして推測になるのだけれども、キミの師が死んだ事によって解放されたルシファーは、それでも往来の力は失った状態にあったのだと思う。でないと筋が合わないからね」
順序立てして説明しよう、とアスモデウスは言った。
「まず当然の事だけど、何もルシファーは最初からあんな姿だった訳じゃない」
「それは分かる」
他の大罪王が人と大差ない外見なのに、1柱だけあんな姿だというのは考え辛い。
「ボクが成れの果てと表現したのは、何者かがルシファーをあんな風に変えたからさ。先ほどの推測の通り、解放されて自由を得たルシファーは、それでもただ死を待つのみの状態に近かったのだろうね。そしてそこを拾われて、あんな姿に変えられて生き長らえているのさ」
「一体誰がそんな事を?」
「それは分からない。いや、厳密に言えば大体推測できるし、その推測も間違ってはいないのだろうけれども、生憎証拠がないんだよね。以前ボクが色々コソコソとしている者が出ると言ったのを憶えているかい?」
「そのコソコソとしている者というのが、ルシファーをあんな風にした奴だと?」
「半分くらい正解だね。厳密に言えばそいつ1体だけじゃないんだけれども、まあ今は関係ないから置いておこうか。
ともかく、生き長らえられたとは言えども、あれにルシファーの意思なんてものは皆無だ。何度か話しかけてみたけれども、会話が成立する以前の問題だったからね。仮に意思があったとしても、酷く薄弱な筈さ。
そして意思が無いが故に、本能のみで行動する。行動理念は単純で、不恰好な命を繋ぎ止める為に動く事だ。生き長らえていると言っても、死に掛けで機能の停止した体構造を取り除いて外部から別のものを取り付けただけだからね。放っておけば死ぬ。それを維持する為の力を得る為だけにあれは行動しているのさ」
「具体的には?」
「殺して喰らって取り込むのさ、自分以外の命あるものをね。かつて【高慢】として君臨していたのが、いまや【暴食】に近い存在になっている。もっとも、彼女は生きる上に必要である為に喰らうんじゃなくてそれ自体が存在意義というとても意地汚い、比較対象にもならないものだけれどもね」
こんな状況でもベルに対する罵倒をしたりと、随分と仲の悪い事だった。
「そういう訳で、あれはキミを喰らおうといまこの時も追い掛けて来ている訳だね。おそらく1度捕捉された以上は、それこそ地平の果てまで追いかけて来る筈さ。例えどれ程の時が掛かろうともね。本能でしか動かないからこそ、諦めるという事を知らない。
いや、仮に知っていたとしても諦められないだろうね。おそらくあれはキミを喰らえば、かつての姿と力を取り戻せる事を本能的に理解している筈だろうからね」
「……どういう事だ?」
「昨日の話を覚えているかい?」
言われて、つい先日にアスモデウスと交わした会話の全てを思い返す。
そしてそのうち、該当するであろう可能性を持ったやり取りを1つだけ抜き出す。
「おれの本質とやらか?」
「より正確には、キミの【災厄の寵児】についてだけれどもね、それの答えがそうさ」
アスモデウスはおれの中身を覗き込むような視線を寄越しながら、指を2本立てて見せる。
「そもそも魂っていうのは、ボクたち悪魔にとっては大きく分けて質と量の2つの要素に分けられる。まあもっと大きさだとか格だとかに細かく内分できるのだけれども、前者は量に、後者は質にそれぞれ含まれると考えてくれたまえ。
そして契約を交わし、時に魂を対価として手に入れるボクたち悪魔側にとって魅力的な魂と言うのは、量よりも質の優れたものだ。
ところがその質の良い魂というのは早々見掛けるものじゃない。質の良し悪しは生まれた時点で多少の差はあれど、そこまで大きな差がある事は滅多にないからね。だけど質は量とは違って、後天的に高められる事のできる要素だ。よく人間の間で語られている御伽噺や神話に神々が試練を課すとかいうのがあるだろう? それと同じで、試練と言える人が生涯に1度遭遇するかしないかという程の生命の危機に瀕するような修羅場を潜り抜けていけば、質というのは必然的に高まっていくのさ。
他にも、よく神に仕えている人間が高潔であろうと精進する行為、あれも微々たるものであれど質を――より厳密には格を高める事のできる要素だね。だから聖人やら聖女やらと崇められる人の魂は魔族にとっては垂涎の的で、よく掠め取ろうとして返り討ちにあったりするというのは良く聞く話だ」
「つまり、その質を高めるのに【災厄の寵児】という特性は打ってつけだと言う訳か?」
「大体そんな感じだね。人が生涯に1度遭遇するかしないかという災禍に、立て続けに遭遇するのだからね。それは意図的にできる事じゃあない。
もっとも、大抵の【災厄の寵児】は最初の段階で自分の引き寄せる災禍によって命を落とすから全てがそうという訳でもないのだけれど、キミはそれには含まれない。
おそらくキミが思っている以上に、ボクたちにとって魂の質というのは重要な要素だよ。質の良い魂1つは、そうでない魂を幾億集めようともその足元にも及ばない。言っておくがこれは比喩なんかじゃなくて、紛れも無い事実さ。
そうやって魂を得られれば、ボクたちの力は増大する。いまのキミの魂は他の人間のと比べれば大分小さいけれども、質で言えば段違いだし、加えて文字通り格別だ。例え欠片でも手に入れれば相当な力が得られるし、丸々1つ手に入れれば、それこそあのルシファーの成れの果てが元の姿と力を取り戻せるぐらいにね」
「おれは、そこまで高潔な人間じゃない筈だがな」
よく魔族の連中が口にする世界の法則やらシステムとやらがどう言うものなのかは知らないが、少なくとも魂の格とやらに関しては、そんなに上等なものではない筈だ。
自分が聖人と崇められるような人間とは対極に位置するという事は良く知っているし、むしろ客観的に格付けするならば最底辺に位置しているだろう。
そもそも、その理屈で行けば自分の特性を自覚しながらも他人を巻き込む事を気にもしない人間が、到底高潔な筈も無い。
「それはキミたち人間の観点からの話だろう? あまり自分を卑下するものじゃない。
ボクたち魔族や神族、そして世界にとって損得抜きで誰かの為に自分の大部分を投げ打つ事も、誰かに憧れてひた向きにその背中を追い掛け続けるのも、そしてどんな事態に陥ってもどれほど醜かろうが諦めずに最後まで生きようと足掻き続ける事も、全てが尊くて高潔な事さ。
他人を殺してはいけませんというのは人間が作り出したルールであって、世界にとってはまるで関係ない、むしろ生きる上では当然の摂理さ。キミの魂は紛れもなく格と質を兼ね備えている。それは誇って良い事だ」
「……そうか」
誇って良いという事は、一応は褒められていると受け取るべきなのだろう。
ともすれば喜ぶべきなのだろうが、生憎魂が高潔だと言われても、おれ自身にそんな実感は欠片たりとも無い為、はいそうですかとしか答えようがない。
第一、おれの魂が高潔だろうが低劣だろうが卑劣だろうが、おれはおれだしやる事も目指す事も欠片たりとも変わらない。
そう考えて淡白に答えると、アスモデウスはフッと表情を緩める。
「……ボクとした事が、我ながら随分とらしくない事を口にしたね。どちらかと言えばボクは褒める側よりも褒められる側な気がするんだけど、そこら辺をキミはどう思うかな?」
「台無しだ」
別に感動もしてないが、思考に費やした時間を返せよ。
「つれないねえ、いまに始まった事ではないけれどもね。
さて、大体の概要を理解して貰って大分間も空いた事だし、そろそろもう1度跳ぼうか。そうすれば追い付かれるまでに大分時間を稼げる筈さ」
「迎撃はできないのか?」
もし本当にどこまでも追い掛けて来るのならば、どの道交戦は避けられないだろう。それが早いか、遅いかの違いでしかない。
ならばいっそ迎え撃った方が合理的だろうと考えての言葉だったが、アスモデウスには鼻で笑われる。
「無理さ。キミはいままで、ボクがあれをどうにかしようとはしなかったと本気で思っているのかい?
迎撃してどうにかなるようならば、そもそもボクはあれで頭を抱えたりしないよ。こうなる前にとっくにボク自身の手で撃滅している」
「つまり、あんたよりも強いと?」
最悪の予想が現実のものとなるかと一瞬思ったが、幸いな事にこれもアスモデウスは否定してくれる。
「いや、それは語弊があるね。いくら元大罪王の頂点に君臨していたとはいえ、成れの果てとなったいまのあれに大罪王として君臨できるほどの力は残ってはいないさ。
とは言え、それとあれが弱いという事は同じじゃない。キミも大体の力の差ぐらいは察しているんじゃないかな?
いくら大罪王に及ばない力しか持たないと言っても、それに近い力は持っている。そうだね、大体アモンやサタナキアと同等くらいかな」
「おれの知らない奴を比較に出されてもな」
だが要するに、最悪ではないにしろそれに近い予想が現実のものになったという事だ。
「頭が痛くなってくるな……」
実際に痛いのは首筋なのだが。いや、痛いというよりも熱いと言うほうが正確だが。
その熱が、まだ災禍が終わっていないという事を教えてくれている。つまりは、アスモデウスの話は本当の事であるという可能性が限りなく濃厚であるという事でもある。
「現実逃避は辞めた方が良いと思うよ。余計なお世話かもしれないけれどもね」
「したくもなる」
差し出された手を大人しく握り返す。
先ほどの時とは違い状況が切羽詰っていない為か、肌の重なっているところから流れ込んでくるアスモデウスの魔力が、おれの全身の隅々にまで浸透していくのが眼で見て分かった。
眼に頼らないおれの魔力探知能力ではその動きは捉えられないほどに穏やかで、それでいて僅かなズレも許さないかのように精緻にコントロールされたものだった。
その高度な技術と、それが齎す奇妙な感覚に眼を奪われていた為に、アスモデウスが驚愕に眼を見開いた事に気付くのに一瞬だけ遅れる。
「伏せ――!?」
アスモデウスが手を振り払い、動こうとするよりも早く行動に移れたのは上出来だ。
だがそれでも、遅かったらしい。
気がつけば土を食んでいて、それがおかしいという事に気付くかどうかも曖昧なままに視界が暗転していった。