成れの果て
魔界に足を踏み入れてそこそこの日数が経ち、傷は粗方癒えた。
アスモデウスの手当てが適切なお陰か、経過した日数と傷の度合いにおれの治癒力を加味して考えても治るのが早いが、早い事に越した事は無い。
だが傷が治り体がまともに動くようになるにつれて、別の問題も浮上してくる。
「暇だ……」
そしてヒモだ。
アスモデウスに案内された別荘とやらは、魔界という荒廃した地の真っ只中に居るという事を忘れてしまいそうになるぐらい豪華で平穏な場所だった。
木造のちょっとした貴族の邸宅程度の大きさを誇るその別荘は、豪華といってもマモンの住む『財貨の宮殿』のように品の無さは感じず、絢爛さも併せ持った代物だ。
内装はどれも1級品の家具が揃えられており、多少の広さを感じるものの生活するにおいて一切の不自由を感じる事もない。加えて外の天候も晴れこそないものの荒れる事もなく、平穏そのものだ。
たまに実力差すら理解する知能も持たない魔獣が足を踏み入れては瞬殺される事を除いて、ビックリするぐらいに何も無い。
当たり前のように食事をして寝る毎日だった。
別段その生活に不満がある訳ではなければ、色々と便宜を図ってもらう事を申し訳なく思っている訳でもない。
ただ変化もなく、やる事のない日々というのは想像するよりも退屈で、普段はやろうともしない事であっても良いからやりたく感じて来るのだ。
だから最初に、まず掃除をやろうと思った。
訪れた初日は手入れの行き届いた綺麗な状態にあったが、傷を癒す間にそれなりに埃も積もっているだろうと意気込んだまでは良かった。
そう意気込んで宛がわれている個室から出た矢先に、三角巾に前掛けを身につけ、モップとはたきと水の入ったバケツと雑巾を装備したアスモデウスを見掛けた。
予想外すぎる姿に唖然としている間にも、アスモデウスは淡々と手馴れた手付きで、だが恐ろしいまでの手際で広い邸内を清掃していった。
おそらくだが、全部やり終えるのに1時間は掛かっていないだろう。にも関わらず塵1つ落ちていない状態にまで昇華させるその手際は、昔生家に勤めていた女中に見習わせてやりたいぐらいだった。
早速出足を挫かれたところで食事の準備ができたと言われて向かえば、そこに広がるのは品質も栄養のバランスも考えられた見事なフルコースだ。
当初こそ内臓が弱っているという理由から、量はともかく食材は限られた物しか使われないが故に質素な物だったが、それさえも下手な宿で提供される食事よりも美味く、飽きの来ない代物だった。
それが、日を追うごとに回復していく内臓に合わせて豊かな物となっていくのだ。しかも豊かになったからと言って栄養のバランスが損なわれる事はなく、むしろ健康食のお手本としたいぐらいに栄養の配分というものが考えられている。
おまけに味付けに関してもまるで不満がないお陰で、適当な口実で手伝う事もできない。
いや、仮に合ったとしても口で伝えるだけで終わる可能性は高いのだが。1度たまたま厨房を除いた事があったが、そこに広がっていたのは魔界原産の見た事も無い大量の食材を流れるように調理していくアスモデウスの姿だった。
見てすぐに理解した。あれは自分如きが介入できる次元ではないと。
それほどまでにアスモデウスの手際には澱みなく、完成された動きだった。
そこに食べられれば良い程度の戦場食ぐらいしか作れない腕しか持たないおれが割って入ったところで、返って邪魔をするだけだと理解した。
ならばせめて洗い物はと思い立ったところで「キミはジッとしていたまえ」という言葉を貰った。
ついでに「キミはデリカシーがない」という言葉も。冷静に考えてみればそうだ。
以上の理由から、おれのやる事がまるで存在しない。
何から何まで、アスモデウスがこなしているのが現状だ。
ハッキリ言わずとも分かる。いまのおれは完全にヒモだ。
その事に対して負い目はないが、軽く情けなくなって来るのはさすがに仕方が無いだろう。
とは言え、その事を自覚したところでやれる事が出て来る訳でもなく、もっぱら療養に支障の出ない範囲で鍛錬を積むだけに留まっている。それさえも、すぐに打ち止めになるのだが。
そうして習慣になりつつある、鍛錬に僅かな時間を費やした後の思案の度に疑問に思う事が1つ。
「大罪王って、一体なんだっけ?」
「魔界に君臨する実力者であり、統治者的側面も持ち合わせているね。もっともその側面は、魔界の原則が弱肉強食である事に起因しているのであって強制的なものではないのだけれどもね。だからボクは統治もしなければ、他の魔族を導いたりもしない。面倒だからね」
「……そういう事を言っているんじゃない」
顔を上げると、そこにはもはや見慣れさえしたアスモデウスの姿があった。
「おや、そうだったかい? まあそれは置いといて、そろそろ食事の時間だよ」
「…………」
アスモデウスの言葉に従って部屋を出て、階段を降りて居間に向かえば、そこには昨日よりもさらに豊かになった食事が並べられていた。
「さて、ちゃんと残さずに食べてくれたまえ。でなければ治るものも治らないからね」
食事の前に毎回のように口にしている言葉を今回も述べて、アスモデウスもまた席に着く。
この現状を当たり前のように受け入れている自分がいる事にいまさらながらに気付き、軽く怖くなってくる。
「……そう言えば、先ほどサタナキアとアモンがボクのところを訪ねて来たのだけれどもね。知っているかい、サタナキアとアモン?」
食事の途中で、アスモデウスがそう切り出して来る。
「……いや」
「そうかい、なら説明しておこうか。簡単に予想できるだろうが彼らはボクたちと同じ魔族で、同時にボクたち大罪王に最も近い力を持っていると言われていた悪魔なのさ。
彼らも昔はそれを真に受けて、自らそれぞれ【虚飾王】と【憂鬱王】とか名乗っていたねえ。結果図に乗りすぎてルシファーとマモンにそれぞれ叩き潰されたのだけれどもね」
「それで、その大罪王に近い力を持った魔族が2体も、一体何の用でここに?」
「マモンが消えたそうだ。キミは何か知らないかい?」
「……いや。そんなに騒ぐ事か?」
アスモデウスの所在を知る者が早々居ないように、マモンの行方が知れなくなる事だってあり得ない事じゃない。
だから別にそこまで騒ぐ事でもないだろう、そうおれは思ったが、すぐにその考えは撤回する。
「考えてもみたまえ。あの怠惰を極めて強欲をかなぐり捨てた奴が、自主的にどこかに行くなんて事があり得るかい?」
「確かに」
言われてみればその通りだ。
「マモンが居ないと、何か不都合でもあるのか?」
「あると言えばあるし、無いと言えば無いね。彼は現在の大罪王において1番の実力者であり、他の魔族や神族たちに対する抑止力の役割を果たしていたからね、言い換えればその抑止力が消失したという事になる。
だけども、神族たちがボクたちに対して大きくちょっかいを出して来る事はないだろうし、ボクたち魔族は端から奴が抑止力足り得ない事は理解しているからね。ぶっちゃけ居ても居なくても変わらないのさ」
「……確かに」
いくら想像しても、マモンが自分の命の危機に関わる事以外で自主的に動く絵が思い浮かばない。
「……なら、何故そのサタナキアとアモンとやらは、マモンの動向を気にする?」
「ああ、それなら簡単な事さ。怠惰を極めて愛想を尽かした配下というのが、他でもない彼らだからだよ。他にもいるのだけれども、特に力を持っていたのは彼らだったね」
「愛想を尽かしたのなら、気にする必要は無いだろう」
「ボクもそう思うのだけれどもね、彼らにとってはそうでもないらしいのだよ」
良く聞く忠義と現実の板挟みというやつだろうか。
まあ、どうでも良い事だろう。その当人たちにとっては重要な事かもしれないが、結局おれには関係のない話だ。
マモンが消え失せたという事に関しては、多少気になりはするが。
「そう言えば、今回の食事に何か不満はあるかい?」
「……いや、特に無いが」
と言うよりも、いままでのも含めて皆無だ。
味に関しても、量に関しても文句のつけようが無い。
「そうかい? 大分傷も癒えてきたし、そろそろ高タンパク質の食事に切り替えようかとも思ったのだけれどもね。最近色々と体を動かしているみたいじゃないか」
「…………」
確かに、体を鍛えるのにタンパク質は必要不可欠だろう。
いままでの食事にも含まれてはいるが、本格的に鍛えなおそうと思えば足りないのも事実だ。
だが、
「室内でできる運動だと、これでも十分だ」
「そうなのかい? 生憎、本来ボクは食事を摂る必要が無いから良く分からないのだが」
「そう言うなら、外に出して欲しいところだな」
そうすれば、もっとマシな鍛錬を積める。
室内だけに限れば現状維持が精一杯だ。
「それはできない相談だね」
しかし、おれの提案はあっさりと拒否される。
「勘違いして欲しくないが、別にキミに意地悪しようって訳じゃない。ボクとしてもキミにはできる限り快適に過ごして貰いたいからね。
だけど、外に出す事だけはできない。ここが平穏で天候も落ち着いているのは、ボクが張った結界があるからこそだ。だけど外に出れば結界の庇護は得られない。そんな危険地帯にキミを放り込むのは容認できない」
「……一体いつまでここに居ればいいんだろうな」
「もしかして不満かい?」
「多少はな」
暇なのはそうだし、何よりやるべき事も残っている。
ここに居て平穏を感受していたところで、そのやるべき事が片付く訳でもないのだ。
「それは申し訳ない。だけど、もうしばらく辛抱して欲しいな。具体的にはキミの溜まった災禍が発散されるまでね。
あっ、でもそれを待たずしても戻る方法もあったりするのだけれども――」
「乗り換えも契約もパスだ」
求めている力の質が違うという事を抜きにしても、何となくだが、呑んだら危険だとおれの勘が言っていた。
ことおれ自身の生存本能に関しては全面的に信用しているので、間違っても要求を呑んだりはしないだろう。それこそ、余程の事が無い限りは。
「そうかい、それは残念だね」
そう言うアスモデウスの表情は、まるで残念そうではなかった。
その後は特に会話も無く食事を終えて、おれは再び宛がわれている部屋に戻る。
「……何が目的だ?」
拉致された目的については理解した。そして現状を鑑みても、その理由が嘘だとも思えない。
だが、それと乗り換えを迫る理由は別物だ。
向こうから提案して来ている以上は、それをおれが呑む事によって何かしらの利益が発生する筈だ。だがその利益は何かと考えると、納得のいくものは思い付かない。
1番ありそうなのがベルに対する嫌がらせだが、それだって他と比べればあり得そうというだけで、到底理由足り得るとは思えない。
「マモンにしろレヴィアタンにしろ、何が理由でおれに執着する? 本当におれが【災厄の寵児】であるというだけが理由か?」
アスモデウスの説明は筋が通ってはいるが、だからと言って納得がいくかどうかと言えば答えは否だ。
「ヒントを上げよう。キミは本当に自分の本質を全て理解しているのかな?」
「うおわぁっ!?」
いつの間にか、傍にアスモデウスが居た。
扉が開かれた事に気付かなかった――いや、権能を使えば扉など使わずとも入る事は容易なのだろうが、明らかに権能の無駄遣いだろう。
「いやぁ、何やら悩んでいるようだったから、つい助言をしたくなってね。
まっ、それはさておき安心して良い。その気になればこの別荘内での言葉の1言1句まで逃さず把握することも可能だが、そんな事は誓ってしないとも。今回のも本当にたまたま気付いただけだから、他意は一切無い。プライベートは尊重するさ。
だからキミも安心して事に勤しんでくれて構わないとも。キミが何をしようともボクは気にしたりもしなければ、追求もしないからね」
「……失せろ」
「そうさせてもらおうかな」
今度は普通に扉から出て行く。
「……おれの本質、ね」
知っているか知らないかと言えば、知らないと答えるのが正解だろう。
おれの知り得ている事など、マモンから聞いた事だけだ。おそらくおれよりも、大罪王の連中の方がおれについては――おれの【災厄の寵児】という特性については詳しい筈だ。
「おれの知らない、おれの本質とやらが利益に繋がるのか?」
仮にそれが正解だったとして、ならその利益に繋がる本質とは何だ?
推測ではあるが、おれの特性に関係している事は間違いではないだろう。だがそれだけだ。
それ以上を考えるには材料がまるで足りていない。
そもそもおれは、戦闘以外に関する事を考えるのはあまり得意じゃない。
「考えても詮無き事だな。ひとまず保留で良いだろう」
どの道、要求を呑まなければ良いだけの話だからな。
「――ッ!?」
寝ていてもすぐに分かるぐらい派手な、しかし地震のように徐々に大きくなってくるようなものではない揺れに叩き起こされる。
「……今日がそうか」
首筋に不快感を感じる。
そしてそれは、現在進行形で始まっているらしかった。
「起きてるかい!?」
ベッドから降りると同時に、部屋の中にアスモデウスが飛び込んで来る。
「アスモデウス。今日がそうで、これがそうだ」
「だからボクの事はシュマと呼んでくれ――いや、今は置いておこう」
時と場合は弁えられるようだった。
「予想はしていたけれども、これがそうだったのか。ある意味では幸運だよ、これがキミと無関係だったら自分の不運さを呪いたくなるからね。
同時に、正直に言って舐めていたね。キミが引き寄せる災禍というものをね。
先に謝っておこう。すまない。ハッキリ言って、キミとの約束を守れる自信がこれっぽっちもない」
「どういう事だ?」
「説明は後だ。まずは外に出よう!」
腕を掴まれ、壁をブチ破って半ば強制的に外に出される。
着地しようとして勢いを殺し切れず、結局地面を1回転して起き上がらなければならなかった事実に舌打ちする。然程長い間療養していた訳ではなかったが、思ったよりも体が鈍っている。
と思ったところで、派手なガラスの割れる音と共に別荘が倒壊する。
それも自重で倒壊したのではなく、建物の内側からこちら側に向けて無数の何かが突き破って出て来た結果だ。
中から出て来た物には、非常に見覚えがあった。忘れもしない、魔界で目覚めた初日に森の中で散々おれを引き摺り回してくれたあの蔦だった。
ただし、数はあの時の何十倍、下手すれば何百倍もある。
「ああ、結界が! 張るのに300年掛けたのに!」
飛んで来る瓦礫の全てを弾き飛ばしながら、アスモデウスが悲鳴混じりに叫ぶ。
それと同時に、倒壊した建物を踏み締めながら、別荘を倒壊させた張本人が姿を現す。
「なっ、ん……」
辛うじて漏らせたのは、言葉にすらならないそんな声。
それは表情にまだあどけなさを残す、しかし虚ろな瞳の男の子供だった。
ただし、顔の右半分だけがだ。
残る左半分は硬質の鈍い光を放つ黒い皮膚を持った捕食者のそれで、並び途中で途切れている牙を剥き出しに粘ついた唾液を垂らしている。
体はシルエットこそ辛うじて人型に見えなくも無いが、右腕はおれの胴体よりも太くて長く、反対に左腕はおれの腕よりも細く短い。そしてその左の肩からは蔦の束が生え、自立行動をしていた。それが別荘を倒壊させた事は想像に難くない。
さらに眼を凝らして観察してみれば、腕はそれだけではなく、その下に人間のそれと同じくらいの大きさの腕がさらに2本、胸の前で組まれた状態であった。
その組まれた腕は無数の棘が生えており、また表面の色も周囲の皮膚とはまるで違う。まるで別のところから持って来たものを適当にくっつけたような、そんな不自然さが感じられる。
加えてその組まれた腕のすぐ下には、右上から左下に掛けて斜めに亀裂が走っており、その亀裂の間には顔にあるのとはまた違った乱杭歯が生えていた。
「化物、か……」
引き攣ったその言葉は、外見的要素から出て来たものではなかった。
探らずとも本能的に分かる、圧倒的彼我の実力差から出て来た言葉だった。
「すまない、体をボクに預けてくれ! 決して抵抗しようなんて思わないでくれたまえ!」
その化物がこちら側に向けて1歩踏み出した瞬間、アスモデウスがそう叫んでおれの体を抱え上げる。
直後に視界が暗転し、周囲の景色が変わる。
「……キミを抱えながらの、前準備なしの咄嗟の行為では、ここまでが限界か」
「……これは、おれが謝るところか?」
「まさか。むしろ、ボクが謝るべきところさ」
アスモデウスの言葉から推察するに――いや、推察しなくとも、アスモデウスの権能でここまで一瞬で移動したのだろう。
だが、おそらくは別荘のあった場所からそう離れた場所ではない。
アスモデウス1人ならばどこにでも好きなところに行けるのだろうが、おれという権能を持たない存在を抱えての権能の行使には制限が掛かるようだった。
抱え方が普通は男女の配役が逆の、あの抱え方である事にはこの際無視しよう。
その代わり、早く降ろして欲しい。
「さて、本来ならばキミが引き寄せた災禍を排除してキミの安全を確保した上で、じっくりと準備して人界まで一っ跳びといきたかったのだけれどもね、それも難しくなって来た。本当に申し訳なく思う。全てはボクの認識の甘さが招いた事だ」
「あれは、一体何なんだ?」
あの時に感じたのは、弱ったベルと対峙した時よりもさらに上の圧迫感だ。どちらかと言えば、アキリアと対峙した時のそれに近い。
言い換えれば、大罪王に近い力を持っているという事の証明でもある。
アスモデウスの口振りからあれが何かを知っていると推測した上で、おそらくはアスモデウスの言っていたサタナキアかアモンだろうと推測していた。
だがそれが間違いであると、アスモデウスの続く答えに否定される。
「あれは、かつてキミの師が屈服させた【高慢王】の成れの果てさ」